金丹
自分にこの願望が生まれたのは一体いつのことだったのか。
炉で薬を焼成しながら、葛洪は記憶を探った。しかし、それを知ることはできなかった。記憶に残る限り昔から、この願望は常に自分の内にあった。
葛洪の脳裏に今までの人生の記憶が去来した。
父の死と、家が貧しくなったこと。
紙が少ししか買えないので、同じ紙に何度も書写して勉強したこと。
師について神仙道術を学んだこと。
戦乱があり、自ら軍を率いて意外な程の軍功を上げたこと。
都に行って道術の書物を探したこと。
友人が暗殺されたこと。
結婚したこと。
子供が生まれたこと。
国が滅んだこと。
北方民族が中国に侵入してきたこと。
役人になり、土地を与えられたこと。
書物を著したこと。
知事に任命されたが赴任できなかったこと…
その全期間を通じて、この願望は消えることなく、常に自分の内にあった。
すなわち、不老不死の神仙になり、世を逃れて、仙界に遊ぶことである。
そして今、50代も半ばを越えて、ようやくこの山中で、思う存分、夢を追えるようになったのだ。
葛洪の学んだところでは、仙人になるためには、「金丹」という薬を作り出して服用しなければならない。
しかし、この金丹を完成させるのは容易なことではなく、無事に作り上げて神仙になれるのはごくわずかな素質ある人だけである。
だが俺はきっと神仙になってやる。世の中には、神仙など作り話だと言う者もあるが、それは道術の何たるかを知らない者なのだ。
ところで、この金丹の材料には、水銀やヒ素が含まれている。人体に有害な物質だが、当時は知られていなかった。
潔斎して祈願をし、材料を集めて薬を焼成していると、数日して気分が悪くなってきた。何かの前兆なのか、期待と不安で心が乱れそうになる。葛洪はこらえて平静を保っていた。
10日ほどして、葛洪が薬を焼成していると、白髪で耳が大きく、生え際の後退した老人がどこからともなくやってきた。
老人は言った。
「何をしているのですか」
葛洪は言った。
「金丹を作っているのです」
「すると、あなたは道士ですか」
「そうです」
「あなたは本気で、金丹を作って飲めば神仙になれると思っているのですか。あなたには妻子があり、官にも就いておられるのに、そんな怪しい術にかぶれるのは大きな迷いではないですか」
「そう言うところを見るとあなたは道家の徒ではないようだが、私は道家で、神仙は学んでなれるものだと知っているのです。大体、あなたには関係ないことでしょう」
「もしそれが間違いであったらどうしますか。あなたが迷うだけではなく、後世の人まで迷わせることになるのではないですか。それに、道家が神仙のことを言うものだとなぜ言えるのですか。
生命に執着すればかえって生命を失うと、李耳(老子)も言っているのに」
「あなたには、老子の真意がわかっていないのだ」
「今ならまだ間に合います。やめるなら今です」
そう言うと老人は去っていった。葛洪はなぜか、その後しばらく頭が茫然としていた。今思うと、何か妙な老人だった。気の迷いのために幻覚を見たのか、山に住む鬼が俺に戯れを言ったのかもしれない。
葛洪は薬を作り続けた。
やがて劇的な変化が起こってきた。髪が抜け始め、歯も抜けてきた。理由のない不安や恐怖を感じるようになり、手が震えて止まらない。口内炎がたくさん出来て間接が痛み、肌が変色し始めた。
服用もしないうちから効果があらわれてくるのか。
実際に効果があるのはいいが、不死に近づいているというより、まるで死に近づいているみたいだ。そう、まるで、毒を盛られたみたいな…
葛洪の心に不安が広がった。いや、きっとこれは、尸解仙になるための前段階なんだ。
日が経つにつれ、不安と恐怖がますます強くなってきた。息が苦しい。異常な疲労を感じ、体が鉛のように重い。記憶をたどるのが困難になり、時々、自分が誰で、なぜここにいるのかさえ忘れてしまうことがあった。まるで自分の存在が、少しずつ溶けだして行くような……
葛洪は恐怖した。それでも薬を作り続けた。これは試練だ。この試練を越えなければ神仙にはなれないんだ。これを越えた果てには、きっと神仙の世界が…
いつからなのか。自分にこの願望が生まれてきたのは。なぜこんな困難や危険を冒してまで神仙に憧れるようになったのか。
乱世である。多くの苦労も経てきた。世を逃れたいと思っても不思議はない。だがそれだけだろうか。もっと深い理由があるのではないか。
これは俺の生まれつきの性質なのか。生来の願望なのか。もしそうであるなら、神仙になる素質もまた、あっていいはずだ。願望だけがあって、素質がないなんて、そんなことがあっていいのか……
金丹を飲むと、視界が鮮明になったように感じた。小屋の外に出てみると、木々の緑は鮮やかで露に濡れて光り、遠くまではっきり見渡せる。もう間接の痛みも感じない。心が軽い。体も軽い。まるで、神仙になったみたいだ!!
「みたい」だって?いや、本当に神仙になったんだ。俺は神仙になったんだ!
小屋を振り返ってみると、戸口の所で誰かが倒れていた。髪が抜け落ちて歯が無く、うつろな目をして青黒い肌をしたやせ細った老人だった。誰だろう?こんなところで何をしているんだろう?まあ多分、飢え死にした村人だろう。最近は戦争ばかりだからな。ところで、俺は誰だったっけ?忘れてしまった。空を見ると、竜が飛んでいた。竜の背には、黄色い服を着た男が乗っていた。きっと黄帝だ。黄帝様、黄帝様、俺を連れていってくれ!!
手を伸ばして竜のひげを掴むと、そのまま空に浮き上がった。しかし竜のひげは抜け落ちてしまい、空中に落ちた。下を見ると、真っ暗な闇だった。上を見ると、やはり闇だった。いつの間にか、周囲は全て闇で、その中に浮かんでいた。そして、自分の姿さえ見えなくなった…
葛洪の葬儀の際、その亡骸はまるで生きているようで、亡骸を入れた棺はまるで服しか入っていないように軽かったという。
人々は、葛洪は仙人になったのだと噂し合った。
完