真実の愛なら、これくらい平気ですよね?
「フリーダ。君は善い人だ。だからこそ、僕は嘘をつけない」
結婚式の打ち合わせのお茶会を少し抜け出して、クラウス様はわたくしを伯爵家のお庭へ連れてきてくださいました。
「僕は……ほかの人に、真実の愛を見つけてしまったんだ」
わたくしは両手で口を押さえました。
「まあ……!」
「すまない。君を傷つけるつもりはなかった。ただ、心に嘘はつけなくて」
「クラウス様、それは、本物の真実の愛ですわね?」
「え? あ、ああ。本物だ。ロザリンデという、ミュラー男爵家の令嬢で——」
「わたくし、本物を見るのは初めてです!」
涙が出てきました。嬉しくて。
十二のときに母から『薔薇の誓い』全七巻をもらって以来、わたくしはずっと真実の愛というものに憧れてきました。けれど、本の外で実物に出会ったことは一度もありません。社交界の結婚は家と家のお話で、わたくしとクラウス様の婚約もそうでした。我がベルクマン子爵家は、父が商会を大きくして爵位をいただいた家です。三年前、その商会が伯爵家のお困りごとを少しお手伝いすることになり、それと一緒に決まったものです。
本の中でしか知らなかった真実の愛を、今、目の前で見ているのです。
「フリーダ、泣かないでくれ。君が悪いなどとは言わない。ただ、これから少しずつ、自然に距離を置いて——」
「いけませんわ!」
わたくしはクラウス様の袖をつかみました。
「真実の愛を、こんな庭の隅でこっそり打ち明けるなんて。皆様にもお知らせしなくては!」
「待っ、フリーダ、待ちなさい」
クラウス様のお声が少し裏返っていました。きっと照れていらっしゃるのね。
わたくしは袖をつかんだまま、サロンまでまっすぐ歩きました。サロンでは両家の親が四人そろって、結婚式の日取りのお話をしているところでした。
「皆様! クラウス様が、真実の愛を見つけられました! お相手は、ミュラー男爵家のロザリンデ様です!」
最初に立ち上がったのは、母でした。
「まあ、まあ! 真実の愛ですって! フリーダちゃん、本物なの?」
「本物ですわ、お母様! この耳で聞きました!」
わたくしたちは手を取り合って泣きました。母に『薔薇の誓い』を勧められた日から、五年越しの夢がかなったのです。
伯爵様のティーカップが口元の手前で止まっていました。
「クラウス、お前は何を……」
伯爵様のお顔が真っ白になりました。ご子息の勇気に胸を打たれていらっしゃるのね。伯爵夫人は扇を半分開いたまま、ぴくりとも動かれません。
父は黙ってお茶を一口飲みました。父はいつもそうです。
伯爵様がようやくお声を出されました。
「い、いや、これは、その。若い者の、一時の気の迷いで——」
「伯爵様」
わたくしは涙をぬぐって、伯爵様に向き直りました。
「『薔薇の誓い』第一巻で、ローザの父君はこうおっしゃいます。『真実の愛の前では、家柄など朝露にすぎない』と。まさか伯爵様が、お相手が男爵家だからといって反対なさるはずがありませんわよね?」
伯爵様は何かおっしゃりかけて、お口を閉じられました。家柄ではない別の何かを、おっしゃりたかったのかもしれません。でも、何もおっしゃいませんでした。
「父上」
クラウス様が一歩前へお出になりました。さっきまで裏返っていたお声が、すっかり元に戻っています。
「フリーダの言うとおりです。僕は、真実の愛を貫きます」
まあ、なんて素敵。わたくしと母はもう一度泣きました。
帰りの馬車の前で、ベルクマン商会の番頭のヘンリクが待っていました。わたくしの幼馴染で、今日は父の書類鞄を持つ係です。
「お嬢様。打ち合わせのお茶会が、婚約解消の発表会になったそうですね」
「まあ、もう聞いたの? ええ、素敵だったわ。伯爵様なんて、感動してお言葉が続かなかったのよ」
「……そうですか」
ヘンリクは伯爵家のお屋敷を一度だけ振り返りました。
婚約解消の書面は翌日、伯爵家の書斎で交わすことになりました。
こちらは父とわたくし、それに鞄持ちのヘンリク。あちらは伯爵様とクラウス様です。伯爵様は昨日より、さらにお顔の色が悪くなっていらっしゃいました。一晩じゅう、ご子息の門出を祝っていらしたのかもしれません。
「フリーダ。昨日はありがとう。君の理解には、本当に救われた」
クラウス様は、今日もお声がよく通っていました。
「僕はずっと考えていたんだ。三年間、僕は義務として君の隣に立ってきた。ただ、それは愛ではなかった。ロザリンデに出会って、初めて知ったんだ。胸が焼けるような想いというものを」
「まあ……!」
「彼女は、僕の家柄も財産も見ていない。僕という人間だけを見てくれている。そんな人に出会えたことを、僕は天に感謝しているんだ」
「なんて素敵なの」
わたくしは胸の前で両手を組みました。第三巻で、伯爵がローザに打ち明ける場面とそっくりです。あの場面では、伯爵はこのあとローザの前に膝をつきます。クラウス様は膝をおつきになりませんでした。書斎の床は硬いですものね。
伯爵様が小さく咳払いをなさいました。
「クラウス。その、話を先へ」
「ああ、そうでした。それで、書面のことだが。解消の理由は『性格の不一致』ということにしてはどうだろう。どちらが悪いという話ではないのだから。それと、両家の友好は、これまでどおりということで。羊毛の取引も、毎年のご厚意も、家と家とのことだから——」
「では三点だけ確認いたしますわ」
わたくしは鞄から書面を出しました。昨夜のうちに清書しておいたものです。
「一つ、解消は円満に。どちらにも非はございません。解消の日付は本日。写しは三通作り、一通は公証人に預けます。二つ、慰謝料はなし。本来でしたら、婚約中に別の方を想われたほうがお支払いになるものですけれど、真実の愛ですもの。いただけません。三つ、双方、今後一切の金銭的関係を持たない」
ひと息に読み上げると、ヘンリクが小さく「お嬢様、速いです」とつぶやきました。商会の帳場に立つと、つい口が早くなってしまうのです。
クラウス様が瞬きをなさいました。
「三つめは……?」
「真実の愛に、お金の話なんて似合いませんもの!」
わたくしは胸に手を当てました。
「『薔薇の誓い』第二巻で、ローザは言います。『愛する二人に、他人の財布はいらない』。わたくし、あの場面で三日泣きましたの。お二人の門出に、我が家のお金が混ざるなんて。そんなこと、わたくしには耐えられません」
「フリーダ……君という人は……」
クラウス様は目を潤ませていらっしゃいました。そしてペンを取ると、すらすらと署名なさいました。二つめの「慰謝料はなし」のところを、指で一度なぞってから。
「ま、待て、クラウス。三つめは、その、羊毛の……」
「まあ、伯爵様」
わたくしは伯爵様を見ました。
「まさか、ご子息の真実の愛に、羊毛を混ぜろとおっしゃるの?」
「いや、混ぜるというのではなく。取引は商会と領地のことであって、婚約とは、別の」
「まあ! では伯爵様は、三年前のあの取引が、婚約とは関係のないものだったとおっしゃるのね。わたくし、てっきり婚約と一緒に決まったものだと思っておりましたわ。父もそう申しておりましたし」
父は何も言わず、お茶を飲んでいました。
「でしたら、なおさらですわ。婚約が終わるのですもの。婚約と一緒に決まったものも、一緒に終わらせて差し上げなくては。お二人が、我が家に気兼ねなさらないように」
わたくしはペンを取りました。
「それとも、伯爵様。三つめがお困りになる理由が、何かございますの? でしたら、書面に書き添えますわ。どなたが、なぜお困りになるのか」
伯爵様は黙ってしまわれました。それから助けを求めるように、父の方をご覧になりました。
「子爵。あなたからも、何か」
父は書面を手に取りました。読むのに十秒もかかりませんでした。
「フリーダがそう言うなら、そうしなさい」
父はそれだけ言って署名しました。最後に伯爵様がとても長い時間をかけて署名なさいました。ペンの先が少し震えていたのは、きっと感極まっていらしたのね。
帰りの馬車で、ヘンリクが言いました。
「お嬢様。今、伯爵家の取引を全部切りましたね」
「切っていないわ。お二人の門出から、余計なものを外して差し上げただけよ」
「羊毛は、相場より高く買い取っていました。上乗せぶんが年に金貨四百枚です。それと、毎年の援助金が千枚。合わせて千四百枚です」
ヘンリクは数字の話になると、急に早口になります。
「まあ。ヘンリクはよく覚えているわね」
「番頭ですので」
ヘンリクはそれきり、窓の外を見ていました。
三日後、わたくしはミュラー男爵家をお訪ねしました。
ロザリンデ様は、わたくしの顔を見るなり、目に涙を浮かべて立ち上がられました。
「フリーダ様。わたし、なんとお詫びを申し上げたらいいか」
「お詫びなんて! わたくし、応援団長になりに参りましたの」
「……応援団長?」
「ええ。お二人の真実の愛を、全力で応援する係です。結婚式の段取りでも、新居のことでも、何でもお申しつけくださいませ」
ロザリンデ様はしばらくわたくしの顔をご覧になっていました。それから、ほっとしたように微笑まれました。
「わたし、身分なんてどうでもいいんです。クラウス様がいてくだされば」
「まあ……!」
わたくしはまた泣きました。本物の真実の愛を、一週間で二人ぶんも見られるなんて。
「お二人は、どこでお知り合いになったんですの?」
「春の夜会で。わたし、ハンカチを落としてしまって。拾ってくださったのが、クラウス様でした」
「第三巻と同じですわ!」
わたくしは思わず身を乗り出しました。
「第三巻で、ローザも舞踏会でハンカチを落とすんです。拾ったのが伯爵で。ロザリンデ様、『薔薇の誓い』はお読みになって?」
「え? ええ、まあ……少しだけ」
「では、ハンカチは偶然でしたのね。なんて素敵。本物の真実の愛は、物語のとおりに始まるのね」
ロザリンデ様はなぜか少しだけ目を逸らされました。恥ずかしがっていらっしゃるのね。
「ええ。……偶然、でしたわ」
侍女が下がると、ロザリンデ様は少し声を落とされました。
「それで、フリーダ様。伯爵家のご領地の年収って、どのくらいかしら」
「年収?」
「ほら、わたしも嫁ぐ身ですもの。ドレスは何着くらい作っていいのかとか、夜会は月に何度くらいとか。伯爵家ですもの、きっと……」
ロザリンデ様はそこで言葉を切って微笑まれました。
「まあ! さすがロザリンデ様。新生活の計画は、何より大事ですもの」
わたくしは手を打ちました。それから手帳を出しました。
「では、ご希望をお聞かせくださいませ。全部書き留めますわ」
「全部?」
「全部です。応援団長ですもの」
ロザリンデ様は少し考えてから、指を折り始められました。
「ドレスは、そうね、ひと月に二着。夜会は月に二度は開きたいわ。伯爵夫人になったら、王宮の夜会にも出なくてはいけないでしょう? それから、夏の別邸。宝石は、婚約の記念にひとつと、結婚の記念にひとつ。あと、馬車は白いのがいいわ」
わたくしは全部書き留めました。ロザリンデ様は、わたくしの手帳をのぞきこんで、満足そうに頷かれました。
「フリーダ様って、いい方ね」
「まあ、嬉しい。こちらをもとにして、お作りしますわ。お二人の新生活の家計簿!」
「……家計簿?」
「ええ。わたくし、商会の娘ですから。数字の表を作るのは得意ですの」
家計簿のお披露目はその次の週、伯爵家で行いました。クラウス様とロザリンデ様に、帳面を抱えたヘンリクと二人でご説明しました。
「では、ご説明いたしますわ。伯爵家の一年の収入は、ご領地の地代と羊毛で、金貨千八百枚。そして支出が、こちらです。お屋敷の維持、使用人十二人のお給金、馬車三台、社交シーズンの夜会。それから、利息。合わせて三千百枚です」
客間が静かになりました。
「……この、『支出』の欄の、この数字は」
ロザリンデ様が一点を指されました。
「利息ですわ。伯爵家は、ほかの方からも少しお借りになっていますの」
「……そうなのか」
クラウス様が小さな声でおっしゃいました。ご存じなかったのかしら。きっと、お家のことはお父上に全部お任せしていらしたのね。
「これまでは、どうやって」
ロザリンデ様がお訊きになりました。
「これまでは、私どもベルクマン商会からの援助金が千枚、羊毛の上乗せが四百枚ございました」
ヘンリクが帳面を見ながら答えました。
「でも、もう要りませんものね! 次に、ロザリンデ様のご希望です。先日うかがったものを全部お値段にしますと、一年で千四百六十枚になりますわ」
「千四百、六十」
ロザリンデ様がゆっくり繰り返されました。
「ちょうど、これまで我が家からお出ししていた分と同じくらいですわね。不思議な偶然」
「偶然ではないと思います」
ヘンリクが帳面から顔を上げずに言いました。
「一年の赤字が千三百枚。そこにご希望の千四百六十枚を足すと、一年で二千七百六十枚が足りません。今の借入の利率ですと、三年で——」
「ヘンリク、そこまででいいわ。お二人が驚いてしまわれるから。そこで、節約案を作ってまいりました。使用人を十二人から四人に。馬車は一台に。夜会は年に二回。ドレスは、今あるものを仕立て直して」
「夜会が、二回」
ロザリンデ様のお声がなぜか低くなっていました。
「ちょっと待って。ドレスを、仕立て直すって」
「ええ。わたくしのお古でよろしければ、三着お譲りできますわ。……あら、いけない。書面がございますから、お譲りもできないのでした。ごめんなさい」
「別邸は」
「ございません」
「宝石は」
「ございません」
「白い馬車は」
「馬車は、今ある黒いのを一台だけ残します。白く塗り直すと四十枚かかりますので」
「……これで、足りるの」
「それでも少し足りませんけれど、大丈夫ですわ」
わたくしは胸に手を当てました。
「『薔薇の誓い』第四巻です。『真実の愛は、パンが一つでも分け合える』。屋根裏部屋で、ローザと伯爵は一つのパンを半分こにするんです。わたくし、あそこがいちばん好きな場面ですの。真実の愛なら、これくらい平気ですよね?」
ロザリンデ様はクラウス様の方をご覧になりました。クラウス様は表をご覧になっていました。
「……クラウス様」
「……ああ」
「……そうなの?」
「……そうだね」
お二人とも言葉少なでした。きっと胸がいっぱいなのね。
帰り道、ヘンリクが言いました。
「お嬢様。あの利息の数字、どこで調べたんですか」
「調べていないわ。三年も婚約していたら、自然に分かるものよ」
「……そうですか」
それからの一週間はとても忙しくなりました。
まずは聖マルティン教会の予約。一番早く空いている日が三週間後でしたので、そこに決めました。
次に招待状を二百通。宛名はもちろん、わたくしの手書きです。三年間の婚約で、伯爵家がおつきあいなさっている方々のお名前は、全部覚えていましたもの。お世話役の欄にはわたくしの名前を書きました。
お返事は四日で百八十通届きました。ご出席が百七十二通。その中には公爵夫人のお名前もありました。
「お嬢様。公爵夫人まで来るんですか」
「ええ。伯爵夫人のお茶会の常連でいらっしゃるの。お呼びしないと、伯爵夫人がお困りになるでしょう」
「来てしまったら、もう中止はできませんね」
「中止なんてしないわ。どうしてそんなことを言うの、ヘンリク」
「……いえ」
最後に、王都日報に原稿を送りました。
翌朝の一面の下半分に、記事が載りました。
『真実の愛、ここに。ヴェルナー伯爵令息とミュラー男爵令嬢、二週間後に挙式。元婚約者ベルクマン子爵令嬢「心から祝福いたします」』
「お嬢様」
店の奥で新聞を広げていたヘンリクが、顔を上げました。
「新聞社に、何を送ったんですか」
「お祝いの原稿よ。それと、広告料」
「広告料」
「一面の下半分ですもの。お祝いですから、うちが持ったの」
「書面では、ヴェルナー家とは一切の金銭的関係を持たないことになっていますが」
「ええ。だから新聞社にお支払いしたの。伯爵家には一銭もお渡ししていないわ」
ヘンリクは新聞をゆっくりたたみました。
「お嬢様。それは応援ではなく、包囲です」
「まあ、ヘンリク。包囲だなんて。お祝いよ。『薔薇の誓い』第五巻にもあるでしょう。『本当に愛し合う二人は、隠れたりしない』。お二人の愛を、王都中の方に見ていただかなくては」
その日の午後、伯爵家には訪問の名刺が山のように届いたそうです。伯爵家にお金を貸している方々の名刺も、その中にあったとか。
伯爵夫人は名刺を一枚ずつ眺めながら、こうおっしゃったそうです。
「まあ、王都中の方々が、うちの話をしていらっしゃるのね……」
少し嬉しそうなお顔だったと聞きました。
挙式の十日前、クラウス様から、内々にお話ししたいというお手紙が届きました。わたくしは午後に商会でお待ちしていますとお返事しました。
クラウス様がいらしたのは、午後の、いちばん混む時間でした。
「フリーダ……少し、話せないか」
「まあ、クラウス様。どうぞ、何でも」
「いや、ここでは、その」
クラウス様はお客様の方をちらりとご覧になって、声を落とされました。
「フリーダ。人は誰しも、立ち止まって考える権利があると思うんだ。僕は、自分の心をもう一度、見つめ直してみたくなった」
「まあ、なんて誠実な方。わたくし、存じておりますわ。第五巻の伯爵も、結婚式の前にひとりで湖へ行って、愛を確かめて帰ってくるんです。やっぱりローザしかいないって」
「いや、僕の場合は、確かめた結果として」
クラウス様はそこで一度言葉を切られました。
「実は、結婚のことを、少し考え直したく——」
わたくしは手に持っていた帳面を落としました。
「まさか」
声が震えました。目の前がにじみました。
「まさか……真実の愛では、なかったのですか?」
お客様が全員こちらを向きました。
「『薔薇の誓い』第六巻で、ローザは言いますわ。『真実の愛を疑うことは、愛そのものへの侮辱ですわ』と。クラウス様が、まさか、そんな」
「ち、違う」
「では、何ですの」
「……いや」
クラウス様は、お客様の方を見て、わたくしの方を見て、もう一度お客様の方をご覧になりました。
「……真実の、愛だよ」
「まあ……!」
わたくしはクラウス様の両手を握りました。お客様の中から、ぱらぱらと拍手が起こりました。クラウス様はとても静かにお帰りになりました。きっと胸がいっぱいなのね。
その日の夕方にはロザリンデ様がいらっしゃいました。やはりお手紙をいただいて、夕方にとお返事していたのです。
「フリーダ様。実は、わたし……伯爵家にふさわしい娘ではないと思うんです。持参金も少ないですし、教養も足りませんし。クラウス様には、もっとふさわしい方が——」
「持参金なんて!」
わたくしはロザリンデ様の手を両手で包みました。
「少ないなんて、むしろ真実の愛の証ではありませんか。教養なら、わたくしが『薔薇の誓い』を全巻お貸しします。……あら、お貸しするのは、金銭的関係にはなりませんわよね?」
「そういうことでは、なくて」
ロザリンデ様はハンカチを握りしめられました。
「わたし、本当は、クラウス様のことを」
「まさか」
わたくしの目に、もう一度涙が浮かびました。
「まさか……真実の愛では、なかったのですか?」
夕方のお店も、お客様でいっぱいでした。
ロザリンデ様は唇を噛んで、しばらく黙っていらっしゃいました。
「……愛して、おります」
こらえきれないほどの想いを抱えていらっしゃるのね。
お二人がお帰りになったあと、ヘンリクが帳場から顔を出しました。
「お嬢様。お二人とも、いちばん混む時間にお呼びになりましたね」
「その時間は、帳場を離れられないの。ヘンリクも知っているでしょう」
「……知っています」
挙式の日、聖マルティン教会は人でいっぱいでした。招待状を送ったお客様のほかに、新聞を読んだ方々がたくさん見物にいらしたのです。皆様、「真実の愛の二人」をひと目見たいとおっしゃっていました。
祭壇のお花は、野の花でした。わたくしからお贈りしたかったのですけれど、書面がございますので。
最前列で、母とわたくしは並んでハンカチを握りしめていました。父は黙って座っていました。式のあいだに一度だけ、懐中時計を見ました。
通路の反対側にはヴェルナー伯爵夫妻がいらっしゃいました。伯爵様はまっすぐ前を見ていらっしゃいました。伯爵夫人は見物の方々に何度も会釈をなさっていました。
式が始まる前、ミュラー男爵が伯爵ご夫妻にご挨拶にいらっしゃいました。そのとき、後ろの席の方々がささやき合うのが聞こえました。
「伯爵家、羊毛の取引が切れたそうだ」
「使用人も、半分以上暇を出したとか」
男爵はゆっくりと後ろを振り返られました。それから前を向いて、祭壇の野の花をご覧になりました。
「……伯爵家の、ご領地の」
そこまでおっしゃったところで、オルガンが鳴りました。男爵は急いで入口へ戻っていかれました。
ロザリンデ様が男爵の腕を取って入場していらっしゃいました。ドレスは去年の夜会で拝見したドレスを、仕立て直したものでした。とてもお似合いでした。
「汝クラウス・ヴェルナーは、この者を妻とし、富めるときも、貧しきときも——」
司祭様が「貧しきとき」とおっしゃったところで、伯爵様のお肩が小さく揺れました。
「……誓います」
「汝ロザリンデ・ミュラーは——」
「……誓います」
お二人の声はとても小さくて、とても短いものでした。真実の愛の誓いは、きっと言葉の長さではないのね。
教会じゅうが拍手に包まれました。母とわたくしは抱き合って泣きました。
通路を戻っていらっしゃるとき、ロザリンデ様が一瞬だけ、最前列のわたくしをご覧になりました。わたくしは精いっぱいの笑顔で手を振りました。届いたかしら。
式のあと、教会の階段の下で、伯爵様が父の前にいらっしゃいました。
「子爵……」
伯爵様はそこから先をなかなかおっしゃいませんでした。父は、伯爵様が何かおっしゃるのを、少しのあいだ待っていました。
「おめでとうございます」
父はそれだけ言って、頭を下げました。伯爵様は何もおっしゃらずに頭を下げ返されました。
帰りの馬車は、ヘンリクと二人でした。窓から夕日が差しこんでいました。
「素敵な式だったわね」
「そうですね」
「本物の真実の愛を、最初から最後まで見届けられたのよ。こんな幸せなことってないわ」
「お嬢様は、最初から最後まで、ずいぶんお忙しそうでしたね」
「応援団長ですもの」
ヘンリクは膝の上の帳面を開いて、何か書きつけました。それから閉じて、わたくしの方を見ました。
「今月の支出、締めておきました。教会の予約金、招待状の印刷代、新聞の広告料、お嬢様の涙をふいたハンカチの替えが四枚。伯爵家に入った金は、銅貨一枚もありません」
「書面どおりね」
「書面どおりです。お嬢様がお払いになったのは、教会と招待状と新聞だけでしたね。どれも、あとから取り消せないものばかりです」
「まあ、そうだったの」
「お嬢様。わざとですよね」
「何のことかしら」
ヘンリクはしばらく黙っていました。それから、別のことを言いました。
「次のご婚約は、もう少し穏やかな方になさいませ」
「そうね。たとえば、帳簿をつけるのが上手な人とか」
ヘンリクは帳面を、膝の上で持ち直しました。
「……お嬢様。あの本、最終巻まで読みました」
「まあ。どうだった?」
「ローザは最後、伯爵と別れて、帳簿係と結婚しますね」
「ええ。わたくし、あの結末がいちばん好きなの」
ヘンリクは、何も言いませんでした。
耳が少し赤かったのは、きっと夕日のせいね。




