夫が忙しいので、猫を飼うことにしました。
「はあ…、かわいいわ」
最近ではようやく触らせてくれるようになった飼い猫のミスティーを撫でながら、私はほっと息をつくのだった。
ミスティーを家に迎えて、数ヶ月。
「奥様、猫をお飼いになるのはいかがですか?」と提案してくれたのは、夫が信用を置いている執事長だった。
夫の仕事が忙しくてすれ違いの日々が続いているから、私を慰めてくれたのだと思う。
「猫ねぇ…」
「お嫌いでしたか?」
「いいえ、そうではないのだけれど…。あんまり動物から好かれたことがなくて」
「旦那様は全力で逃げられるので、奥様は大丈夫だと思いますよ」
執事長は顔色ひとつ変えずにそう言ったけれど、夫に対して結構なことを言うものだから笑ってしまった。
何が大丈夫なのだろと思うと、余計に可笑しかった。
「ふふふ、あの人は見た目が怖いだけよ」
「仕事がお忙しいからと奥様を放っておく朴念仁ではなく、猫がよろしいのではないかと」
我が家の使用人は、旦那様に仕えているはずなのに割と辛辣だ。
嫁いできた私には甘いから、みんな気を遣ってくれているのだと思う。
旦那様に対しても愛と信頼があってのことだとわかっているけれど、夫を悪く言われるのはちょっとだけムッとしてしまう。
「何日も帰ってこられない日も続いているし、この前も出張に行ったばかりなのだから、あの人のせいではないわ」
そうは言いながらも、たしかにもう何日も顔を見ていないなと思った。
婚約時代と違って、同じ家に住んでいて、たまには顔も見られる。
あの人の大変さも痛いほどわかっているから、婚約していた時と違って、手紙を書いたり、会いたいと言ってしまうことに躊躇う自分もいる。
私が眠っている間に帰ってきて出かけるなんてことも、よくある。
それでも、帰ってこられる日は一緒に食事ができるし、寝顔も見られる。
今はそれでいいのではと言い聞かせている自分は、たしかにいる。
「一度、見に行くのはいいかもしれないわね」
私のその一言で、優秀な執事はあっという間に手配してくれたのだった。
結局、ミスティーを一目見て、気に入ってしまった。
真っ白なふわふわの毛に、アンバランスとも言える大きな瞳。
気まぐれに近づいてくるけど、すぐにそっぽを向いてしまう態度。
その小さな体のどこにそんな跳躍力があるのかと思うほどの自由さ。
この子がいい、と思って、お家にお迎えした。
それからというもの、ミスティーに構う時間が自然と増えて、自分の女主人としての仕事以外にやることが増えて、暇を持て余すことが減った。
時間があれば、屋敷の中を歩き回って、ミスティーはどこにいるのかと探すのが楽しい。
警戒して近づいてきてもらえない時も、猫ってそういうものよねと安堵できる。
他の使用人に懐いているのを見て、コツを聞いたりして、前よりももっと余所から来た嫁という空気も減った気がした。
ミスティーのおかげで、ようやくこの家の一員になってきている自分を認められた気がしたのが、意外な変化だった。
「ミスティー、おやつはいかが?」
料理長が作って手渡してくれたおやつを餌に、ミスティーを呼び寄せると、足元までやってきてくれた。
「はあぁ、本当にかわいいわね、あなた。…子どもができたら、こういうふうに慈しめるのかしらね」
私の手からはぐはぐとおやつを食べていくミスティーに、胸がきゅーっとする。
夫に感じる愛しさとは、また別のものだ。
いつかは跡取りを産まねばならないが、果たして自分は親になれるのかと思っていたが、今はその気持ちも少し薄れてきた気がする。
落ち込んだ時には、ミスティーを追いかけて構ってもらえればいいと、心の置き所を一つ見つけたからかもしれない。
子ども、できるのかしらね…。
正直、今1番の悩みと言ってもいい。
だって、夫とほとんど会えていないのだから、必然的に子どもは生まれないわけで。
私は跡取りを産むためにここにいるのに、癒しのために猫を飼って、それだけ。
何もしていない。
あの人は、私が必要なのかしら。
会えない時間がこんなに不安を渦巻くとは、正直思っていなかった。
婚約時代の方が、もっと素直に喜べたし、素直に甘えられたのに。
家族になったら、あの人の近くに行けると思っていたけれど、同じ家にいても離れている時間の方が長い。
寂しいとも違う。
これなら、婚約時代の方がよかったと思ってしまう自分が嫌になる。
あの人は求められている仕事を頑張っているだけなのに。
私はミスティーに慰めてもらっているだけ。
「…ミスティーは、私と一緒にいてくれてありがとうね」
そう言って、食べ終わったミスティーの耳の付け根を撫でた時だった。
「カレン」
低くて掠れた、大好きな声が聞こえて、慌てて振り返った。
そこには、制服を着たままの旦那様が立っていた。
「旦那様…。あれ、どうかされたのですか?」
まだ昼間だというのに家にいるのは、珍しい。
何かあったのかと思って立ちあがろうとしたけれど、それより早く旦那様がこちらにやってきた。
「あっ」
旦那様が勢いよく近づいてきたからか、ミスティーは逃げるように庭へと出ていってしまった。
その先を目で追ったけれど、さすがは猫、すぐに見えなくなった。
今おやつを食べて満足だろうし、日向ぼっこでもしに行ったのだろう。
それは微笑ましくて、口元を緩めながら、もう一度旦那様の方を向くとすぐ目の前まで来ていた。
その顔は、少し余裕がないように見えた。
「何かあったのですか?忘れ物ですか?」
「いや」
「また出張が決まりましたか?」
「いや…、今日はもう帰ってきたんだ」
言いにくそうにしている旦那様に、私は首を傾げた。
「こんな昼間にですか…?あっ、家の仕事が溜まっていますものね」
「そうじゃなくて、その…」
「…?」
「カレンに会いに帰ってきた」
一瞬何を言われているのかわからなくて、言葉が出てこなかった。
それなのに、普段はどちらかというと寡黙な旦那様は、話を続けた。
「ここのところ家に帰れなすぎると上司に文句を言って、半日だけど休みを取ってきた」
「よ、よろしかったのですか、そんなこと…」
「最近、君が猫に夢中だと報告を受けている」
「はぁ…」
話が変わったのかと思うほど、急にミスティーの話になって、気が抜けた声が出てしまった。
猫に夢中…、それはまあそうですね。
お家に連れて帰ってきたのは私ですし、かわいいですし、癒されるし。
動物ってこんなに可愛かったのかと思って、いい発見だったなと思っているし。
「…帰れていない間に、カレンに忘れられたら困る」
旦那様は気まずそうにそう言って、躊躇いがちに私の指先を握った。
触れてもらうのは、いつぶりだろうか。
旦那様の顔を見上げると、眉間に皺を寄せていた。
「俺がいない間に、猫の方が良くなって、愛想を尽かされるかもしれないと思って…!」
「へ…?」
「もう猫の方がよくなってしまったか…!?やっぱりもう遅かったか?」
「え、なんの話ですか」
「俺に呆れたから、猫を飼い始めたのだろう!?」
誰がどういう報告をしたらそうなるのだろうか。
それとも、意気地なしに手紙の一つも書いて自分で報告しなかったつけだろうか。
青ざめた顔をしている旦那様を見て、家のみんながあることないこと言っていそうだなぁと思ってしまった。
遠くにいる執事長の姿が見えて、ウィンクされた。
これは何か誤解されているかもしれない。
「猫を、ミスティーを家に迎えたのは、たしかにあなたと会えなかったからですが…」
「すまなかった、カレン!俺は、君に甘えてばかりで…!」
「でも、ミスティーに決めた理由も、あなたなんです」
「ん…?」
「あなたと同じ緑色の瞳が綺麗で、ミスティーといればあなたといられる気がしたので、それで…」
そこまで言うと、旦那様が私を抱き締めた。
久しぶりに旦那様の匂いがして、泣きそうになった。
「それは、俺といてくれ…」
「…会いたかったです」
「俺もだ。本当にごめん」
どれだけそうしていたかわからないけれど、私たちは互いの存在を確かめるように抱き締め合っていた。
「これからはなるべく時間を作る」
「無理はなさらないでくださいね」
「無理ぐらいする」
「私、あなたが仕事をしている姿も好きなんです」
「…あんまり俺を甘やかさないでくれ」
掠れた声が耳元でしたかと思うと、次の瞬間には抱き上げられていた。
「え、あの」
「今日は半日しか休みがないからな、1分1秒が惜しい」
そう言って、明らかに夫の足が寝室に向かっていた。
「まだ、昼間…」
「だめだ、今日はカレンと2人きりがいい」
そんなことを言われてしまっては、何も言い返せない。
じわじわと体温が上がっていくような、嬉しさが込み上げた。
執事長の言う通り、そういえばミスティーは本当に逃げてしまったなと思いながら、彼の首に腕を回すのだった。
了
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