イノクマヤ・シルバーランド
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青年実業家イノクマヤ・トラオと天才小説家である私エリ・マキヲとの交情は、拙著『天才小説家のジレンマ』『天才小説家の思ひ出』に詳しいが、双書とも、出版社の無理解から、廃棄処分となってしまった。そこで、熱心な読者のため、特別に『あらすじ』を添付するものである。
これまでのあらすじ
ブリコ・森水事件のタヌキ目の男を思わせる風貌であるイノクマヤ・トラオと私とは、懐かしい『イノクマヤ幼稚園』時代からの親友である。
三頭身に目鼻の点在するトラオと絶世の美少年であった私とは、幼時からの好対象であった。
トラオの生家は造り酒屋であり、家から幼稚園まで他人の土地を通らずに通えるという大地主でもあった。
孤独な文学幼児であった私と、孤独な大金持の一人息子であったトラオとは、なぜか、お互いに惹かれ合い、イノクマヤ家所有の山々を共に散策したものであった。
しかし、小学校に入る年に、私の優しく美しい生母は亡くなり、私は父に伴われ、泣く泣く、生まれて初めてできた友人に別れを告げたのであった。後に知ったことであるが、その当時、既に、トラオは童貞を喪失していたのである。
「ドレが、オイラの本当のオフクロか、わかんねかった。オイラを犯したのは、オフクロかもしんねい。」とトラオは語っている。
トラオには、一種アイデンティティ不在のところがあり、それはすべての女性が母親であって母親でないという特殊な幼児体験によるものであろう。
トラオの父親は、酒を作りながら、女をも作り続けた人物であった。トラオの生家には、同じタイプの女性ばかりが、何十人も雑居していたのである。
父親の再婚にあたり、私は独立した。中学三年生の時である。美しく優しい生母の面影が、私だけでなく、新しい母をも傷つけた結果であった。その時から、父と私を結ぶものは銀行振込だけとなった。
その私の六畳一間のアパートに、ボストン・バッグにエルヴィス・プレスリーのレコードを詰め込んだイノクマヤ・トラオが転がり込んできたのだ。
あらゆる煩悩を断念した進学一筋の高校三年生の季節、トラオの大学受験のためであった。私が英単語よりプレスリーの歌のほうを余計に覚えているのは、トラオのせいである。
再会の懐かしさに胸震わせた私であったが、次々に送られてくる超大型スピーカーつきステレオ・大判布団・大机に椅子を見ているうちに、懐かしさは不安に、愛情は憎しみにさえ変わっていったのも確かであった。ああ、私は、何という小人物であろうか!
イノクマヤ・トラオ最初の事業は、音楽事務所の設立であった。が、歌手がプレスリーの物真似一筋のトラオ一人であったため、無残に倒産。大学受験の当日に、債権者が押し寄せ、私まで巻き添えを食って浪人となった。
私の失意は、それだけではなかった。密かに憧れていた同級生であり、私の美貌に釣り合う美少女であったヤマノウチ・モモエちゃんが、いつの間にか、トラオの大判布団にもぐりこみ、トラオに貞操を捧げてしまっていたのである。私の青春時代は、愛するモモエちゃんと親友・トラオを眺めることで過ぎ去ったようなものだ。大学入学と同時に、トラオはモモエちゃんと結婚。モモエちゃんは、イノクマヤ・モモエとなってしまった。
私の処女小説は、この失意が書かせたものである。我ながら傑作だと思ってはいるが、イノクマヤ・トラオへの友情のため、あえて公表せずにいる。
私は、何の因果か、生まれながらの天才小説家であるが、あいにく誰一人認めてくれる人はいない。皮肉なことに、トラオのみが私の天才を信じているようである。
出版社を作って、私の傑作の数々を、ぜひ出版したいというトラオを押しとどめている私なのだ。
真の天才はその時代には、決して理解されないものなのだ。否、理解されては困るのである。
かくして、私は中学三年生の時から同じ老朽化したアパートで、一人孤独に童貞を守っているのであった。
音楽事務所の倒産で、父親に借金を作ってしまったイノクマヤ・トラオは、次いで、外食産業に乗り出した。今では類似品が出回っているが、元祖『イノクマヤ・あったか弁当』の大成功で、売り払った故郷の山野を買い戻し、全天候型テニス・コート『イノクマヤ・雨降れテニス』、大型公衆浴場『泳げるお風呂イノクマヤ・温泉プール』と次々と事業に成功する。
中でも特筆すべきは、トラオの存在を、世間に知らしめたコンピュウター制御学習塾チェーン『イノクマヤ・アカデミー』の成功であろう。
漫画によく出てくるメタリック・シルバーのマザー・コンピュウターそっくりの建物を、都心の一等地に、ポンとおっ建ててしまったから、大変だ。
マスコミが連日取材に訪れ、宣伝費用ゼロで、全国にCMが流れたようなものであった。入塾申し込みが北海道や沖縄、はてはアメリカ・ヨーロッパ・アジア・アフリカからも殺到し、全国各地に宿泊施設完備のメタリック・シルバーの建物が出現することとなってしまった。
今でも、建物内に流れていた金属音が、耳にこびりついている。
「コンピュウターのイノクマヤー・・・コンピュウターのイノクマヤー・・・コンピュウターのイノクマヤー・・・コン」
思わず心の中で「ピュウターのイノクマヤー・・・」と続けてしまう。
プレスリーの歌をクラッシック風にアレンジしたBGMに、『アカデミー』のCMが、耳に聞こえるか聞こえないかの音量で、繰り返し繰り返し流れているのである。それが、マスコミの電波に乗って、全国に流れたのだ。
イノクマヤの使っていたIDMのコンピュウターが、『イノクマヤのコンピュウター』として発売されるというオマケまでついた。
大学を卒業するまでに、イノクマヤ・トラオは世界でも指折りの『青年実業家』になってしまっていた。
彼に影のように寄り添って、ある時はボランティアのコピー・ライター、またある時は『アカデミー』の専任講師、『温泉プール』の常設下足番、『あったか弁当』の常任販促係になっていたのが、この私、エリ・マキヲである。
イノクマヤ・トラオ・二十六才の春、突然、新聞の一面にトラオの写真が出た。
『ブリコ・森水事件、ついに解決!』のニュースか、と思った人も多かったことであろう。しかし、それは、イノクマヤ・トラオが、儲かって儲かって仕方のない『イノクマヤ・アカデミー』を『全日本予備校』に吸収合併させたニュースであった。
専任講師であった私は、慌てたものだ。『アカデミー』の講師は人間との接触がなく、自由な時間の多い、非常に気にいっていた仕事だったからだ。
「オイラ、もう、金はいんねい」と正三角形の塾長室で、トラオは、私に言った。
「オイラ、もっと、人の役に立つ仕事がしたいだよう。アメリカみたく、税金がかかんねねば、オイラ、ドンドコ寄付するだよう。オイラ、人のいねいトコに行ってくる。」
私とトラオを結ぶ絆は、このあふれるばかりの人類愛だったのだ、と突然私は悟ったものである。
「イノクマヤー!」と感きわまって抱擁しようとする私を、肩でスルリとかわすと、トラオは単身、三傘山に向かった。
トラオは、私から見れば、常に無我の境地にいるようであるが、もっと無念無想の境地に到りたいらしかったのである。
『三傘山、噴火!』のニュースを新聞で見た私は、トラオの身を案じ、矢も盾もたまらず、三傘山に向かう。三傘山から本土へという人の流れに逆らうわけであるから、言うに言われぬ苦労であった。しかし、その時、当のトラオは、報道陣のヘリで、無事本土に向かっているところだったのだ。
男の友情とは、かくも美しく、また哀しいものである。
そして、イノクマヤ・トラオは、どういう思考経路を経たのか、老人ホームの建設に、乗り出す決心をしたのだった。
以上で『あらすじ』を終わる。
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黄金のしゃちほこが太陽光線を浴び、キンキラキンに輝いている。建物全体は、朱と金で塗りかためられ、成り金趣味の極致を思わせる。イノクマヤ・トラオの大好きなマザー・コンピュウター・タイプの建物である。コンピュウター型の建物の上に、なぜに黄金のしゃちほこを乗せるのか理解に苦しむところであるが、トラオにはトラオの考えがあるのであろう。
「オイラ、もう、金はいんねい」とトラオ本人は常に言うのだが、金のほうが勝手に擦り寄ってくるらしかった。
『全日本予備校』に『イノクマヤ・アカデミー』の経営権を渡してしまった今でも、各デパート、スーパー、電器店には、『イノクマヤのコンピュウター』を求める人々からの問い合わせの電話が殺到し、店頭には長蛇の列ができているらしい。
『イノクマヤのスマホ』『イノクマヤの洗濯機』等に関する問い合わせも、後をたたないらしく、近く、『ナショマル』が『イノクマヤ』と改名するという噂まである。
『全日本予備校』も、問い合わせの多さに音をあげ、ついに、『全日本イノクマヤ・アカデミー』と改名、名義使用料の交渉に入っている。
マスコミに登場することの多いイノクマヤ・トラオであるが、テレビのインタビュウで、最初から最後まで何も言わなかったのは、恐らくイノクマヤが初めてだったのではなかろうか。
「イノクマヤさん、『アカデミー』を『全日本』に譲られた動機といったものを、お聞かせ願えませんでしょうか。」
「・・・・・・」
「・・・これは、唐突な質問で失礼いたしました。では、建物のことですが、『アカデミー』にしろ、『シルバーランド』にしろ、建物をコンピュウターそっくりになさるのは、御趣味でしょうか、それとも、経営上の戦略でしょうか。」
「・・・・・・」
「・・・ええ、これまでにも、『あったか弁当』であるとか『温泉プール』で、青年実業家として成功しておられますが、成功の秘訣といったものは、どういうものなんでしょうね。もし、ございましたら・・・」
「・・・・・・」
イノクマヤ・トラオは、非常に語彙の少ない人物であった。その上、極度の照れ屋でもある。しかし、表情を眺めている限りでは、非常にふてぶてしい人物に見えるから不思議だ。
胸にいちもつを秘めて、意識的に黙秘しているように映るのであった。
彼の沈黙の与える緊迫感には、一種異様なものがあった。言ってみれば、非常に存在感のある人間なのだ。
インタビュウ会場は、半ば、パニック状態に陥り始めていた。
「・・・えええ、お、奥さまは、今日は、御一緒では・・・ないようで・・す・・ね・」
「・・・・・・」
「イノクマヤさん、イノクマヤさん、アーアーアー、聞こえますか。」
「・・・・・・」
「ええ、会場は大変な熱気でして、汗が吹き出すほどですが、ええ、イノクマヤさん、夏と冬とでは、どちらがお好きですか。私は、どちらかと申しますと、春なんかのほうが好きなんですが・・・・」
「・・・・・・」
「イノクマヤさーん!」と絶叫するレポーターが現れた。
「全日本イノクマヤ・アカデミーばんざーい!」
「イノクマヤさーん、こっち向いてくださーい。」とやたらにアングルを変えて、写真を撮りまくっているカメラマンがおり、テレビ局のスタッフは、わけもなくバタバタ走り回っている、モニター・テレビは機械的に遠景と近景を映し出している。
「こういった状況では、とてもまともなインタビュウは不可能ですっ!」とマイクを握りしめ、テレビ・カメラに向かってアナウンサーが絶叫している。
と、その時である。イノクマヤ・トラオの首が、ガクリと前に倒れた。
ワ・ア・ア・、・ギ・ャ・ア・ア・、・ク・ア・ア・、・カ・ア・ア・、という悲鳴がインタビュウ会場全体を揺るがせ、大勢の記者・レポーター・カメラマン達は、大音響をたてながら、くもの子を散らすように逃げ散ってしまった。
机や椅子が倒れ、中には商売道具をおいて遁走した者もあり、まるでこの会場が、一瞬、大地震に襲われたかのような惨状であった。
テレビのニュースでは、インタビュウの最初の場面だけが流された。
三流新聞には、「成功の秘訣は、健康ですよ。」とイノクマヤ・トラオ本人が語ったことになっていた。
イノクマヤ・トラオが、熟睡していたことを知っているのは、恐らく私だけであっただろう。彼は、いつでもどこでも瞬間睡眠のとれる人間だったのである。
イノクマヤは、最初に本物の黄金のしゃちほこを鋳造してから、『シルバーランド』の建設に取り掛かった。例によって、いやでもマスコミの注目を集めてしまったのである。
それも、用地として、元国鉄所有地をアッという間に買い占めてしまい、世間の非難をも、もろに浴びることとなった。地価高騰の元凶のようにたたかれもした。私は、当然、もの言わぬイノクマヤ擁護にまわった。
「イノクマヤ・トラオの求めているものは、現世での富でもなければ名声でもない。彼は自己資産のすべてを投じて、行政の谷間にあえぐ人々に、夢と希望を与えるため、老人福祉施設を建設しようとしているのだ。広大な土地が必要なのは、そのためである。それがたまたま元国鉄用地であろうが何ほどのことか。国家の財産を国民の共有資産を最も有効に使おうというのである。黙って実行するところにイノクマヤ・トラオの偉大さがあり、福祉の何のと掛け声だけは勇ましく、現実にはお寒いかぎりの政府の高齢者対策がある」
マスコミ向けの私の投稿は、なぜか、完全に黙殺されたが、イノクマヤ・トラオが一大シルバーランドを建設しようとしていることは理解されたようである。それも、必要以上に理解されてしまった。
またしても、ありとあらゆる公共機関、新聞社・雑誌社・テレビ局、なぜか図書館にまで問い合わせが殺到したのである。その人達のほとんどが、高齢者であり、高齢者を抱える家族であり、これから高齢者になろうとしている人々だった。
どうすれば『イノクマヤ・シルバーランド』に入ることができるのか、自己資金はどれくらい必要か、入居者のプライバシーは尊重されるのか、幼稚園を併設するというのは本当か、入居の条件は、医療機関との提携は・・・・・これらが一時にやってきた。
「オイラ、老人ホームを建てるだけだよう。そんなこと知んねい。金はもう、いんねいだよう。」
イノクマヤ・トラオは悲鳴をあげた。
全国からトラオあてに、続々と手紙が到着し始めていた。
速達で全財産の明細を送ってくる老人達、寄付を申し出る人々、「絶対に入れてください。さもないと・・・」と書かれた脅迫状の束、イノクマヤ・トラオに接近しようとする与野党の代議士達、『シルバーランド』建設を阻止しようとする民間・公共福祉機関。それに加えて、マスコミが建設の模様を逐一報道するのだから、全国で『シルバーランド』の建設を知らない人はいなくなってしまった。
建設用地には、『全員入居貫徹!」と書かれたむしろ旗が立ち並び、テントを張って座り込む老人達がいた。まさに、日本の高齢者福祉政策の貧困を絵に描いたような状況であった。
「現在までのところ、入居希望者は膨大な数に達している模様です。希望者の全員入居は絶望的とみられております。これははたして抽選になりますか、先着順になるか、予断を許さぬ状況と言えると思います。」
「まあ、そのー、このままいきますと、平等に抽選ということになるんじゃありませんかねー。収入制限をもうけるとか、まー、そのー、色々な方法はあるとは思いますがねえ。問題が問題だけに難しいんじゃないでしょうかねー。」
「では、『イノクマヤ・シルバーランド』建設現場よりの中継を終わります。」
マスコミの無責任な報道で、入居希望者の間に目に見えて険悪な空気が漂い始めていた。暴動寸前である。
「入りたいもんは、みんな、入ればいいんだ」とイノクマヤ・トラオが言った。
まさに、鶴の一声、イノクマヤの一声であった。
「誰でも入れるそうだ」という噂が野火のように広がった。
今や、イノクマヤ・トラオは老人達の教祖様のような存在であった。
団体で『シルバーランド』の建設現場を拝みに来る人達まで現れ、バスが臨時停車したりした。
群衆心理とは恐ろしいもので、最初は人垣をぬって『ホット・ドッグ』や『アイスクリーム』を売りにくる車があったくらいだったのが、全国からやってくる人達のために正式にバス停ができると、現場周辺には屋台が軒を並べ、親子連れの観光客、お祭気分の若者達、ありとあらゆる年齢・階層の人々が集まってきた。
各政党の宣伝カーが、ボリュウムをさげて通りすぎ、右翼の車が軍艦マーチを小さくかきならす。
であるから、当初の予定は大幅に変更され、イノクマヤ・トラオは全財産のみならず、莫大な借金を背負って、土地買収ならびに施設建設にあたることになってしまった。
病院・温泉・幼稚園の併設は当初の予定通りであったが、映画館・レストランに遊園地、神社仏閣に大規模団地の建設、デパートまで誘致してしまった。その反響はいかばかりのものであったか。
全国各地から、お布施ならぬ現金がイノクマヤめがけて飛び始めたのであった。
「当高北市では、全国に先駆け、イノクマヤ・トラオ・ファン・クラブを結成いたしました。イノクマヤさん、これからも頑張ってください」
「イノクマヤ様、どうか、いつまでもお元気であらせられますように。小額ですが、何かのお役にたてばと思いお送りします」
「いつも、ありがたく、イノクマヤ様のおわします方角を拝んでおります」
抽選なし、先着順、全員入居貫徹の受付であったが、さしもの大規模な建造物も、建つ前に老人達で埋まってしまった観があった。
イノクマヤは、原則として、入居費用無料としていたが、大型寄付を申し出る老人も多く、それを次なる『シルバーランド』建設資金としてプールすることにした。
なぜに、金や物に執着しがちな老人達が、命以上に大切な金子を寄付してしまうのであろうか。それは、安心したせいである。
イノクマヤ・トラオには、他人に幻想を与える素地が充分にあったのである。
寡黙のせいであるかもしれぬし、どうとでも解釈可能な無表情のせいかもしれなかった。
しかし、何よりも、黙って『シルバーランド』をおっ建ててしまった行動力、その無私の行為のせいであったのだろう。マザー・コンピュウターに黄金のしゃちほこを合体させるという得体の知れない人物であるせいかもしれぬ。
イノクマヤ・トラオは、午前九時ちょうどに、建設現場に姿を現せる。
結婚七年目にして、六児の母であるモモエさんは、今なお容貌の衰えを見せない。初恋の頃そのままの姿である。
モモエさんを見ている限り、時は十八の頃から停止したままだ。だから、私も九時三十分前には建設現場に出向くのだ。それは、イノクマヤとモモエさんだけでは、危険だからでもあった。
私は、興奮しきっている大勢の人々の間を影のように駆け抜け、ガードマンを適当な位置に配置し、イノクマヤ・トラオとモモエさんの通路を確保する係である。
トラオは身の危険には一向に頓着せず、それだけ周囲の人間の苦労は並大抵ではなかった。
「イノクマヤ様が、来られる時間じゃ。」という囁き声が人々の間を通り抜けると、ござに座っていた人達が立ち上がり、テントの中からは続々と人人人が流れ出してくる。
九時十分前になると、緊張はイヤが上にも高まってくる。
テレビ・ラジオ・新聞・雑誌の中継車が社旗を立てて到着し、レポーターがレポートを始める。そして、一体どこから集まってくるのか、人人人に人人人がゾロゾロゾロゾロと数珠つなぎになってわきだしてくる。
五分前。もう一度、通路を確保しなおす。
ガードマンと見物人の間にこぜりあいが起こっていたりする。私は緊張の極に達している。どこからともなく、ナムミダブツの大合唱が聞こえてくる。肌寒い季節であるが、額から汗が流れるほどの熱気がたちこめている。
パトカーのサイレンの音が、徐々に近づいてくる。
午前九時ジャスト。
パトカーに先導されたイノクマヤ・トラオのロールスロイスが、静かに到着。
群衆は、もう正気を失いかけている。機動隊が、ガードマンの脇を固める。
ロールスロイスのドアが開き、群衆はロールスロイスに殺到。
一目イノクマヤ・トラオに触り、一目イノクマヤ・トラオと美貌の夫人を見るためである。
トラオに触れば病気が治ると信じている人も多い。
ガードマンが押し倒され、警官が銃に手をかけ、機動隊が盾を握りしめる。
とその時、先導していたパトカーから、警官に囲まれた二人の影が走り去り、あっという間に、建物の中に消える。
ロールスロイスに乗っていた私服警官と婦人警官が、車からひきずり出され、服を破られている。
「イノクマヤ様。イノクマヤ様。」
「ち、違います。イノクマヤさんは、もう中に・・・キャア、やめてください・・・」
「私と握手を。」
「娘にキスしてやって。」
「サインを。」
「ひ、人違いです。」
イノクマヤの身代わりを勤めた警官には気の毒であったが、ひとまず今日も無事に建物内に到着することができた。私は、ガードマンの一人に指令を出す。問題は帰りである。
何度も群衆に車を取り囲まれ、窓ガラスを破られそうになり、通り抜けるのに何時間もかかってしまうのだ。それも、無事車までたどりつけた場合の話である。
日に日に参拝客ならぬ見物客や信者の数が増え、それにマスコミの報道が拍車をかけていた。
旅行社は、『イノクマヤ・シルバーランド・ツアー』の企画で大当たりをとり、JRまでが、往復割引運賃つきの『イノクマヤ・パック』を発売した。各地の老人会やら自治体主催のツアーとなると、私の想像力の限界を越え、数えきれないほどである。
群衆の間から、わ・あ・あ・あ・あ・という大歓声があがり、やっと、私服警官二人は無事放免されたようである。
朝日を浴び、黄金に光り輝くしゃちほことしゃちほこの間、つまりはマザー・コンピュウターそっくりの外観をした朱と金色の建物の上に、八頭身美人のモモエさんとシルエットを見ればハンプティ・ダンプティそっくりのイノクマヤ・トラオが立っていたのである。
「イ・ノ・ク・マ・ヤ・さ・ま・ー!」と誰かが合図したかのように、全員が声をそろえて叫んだ。
「見たわ! えたわ!」と興奮する女子高校生の集団があり、「ナムアミダブツ」と唱える老婆達がおり、「かっわいい!」を連発する女子大生の群れ、写真を撮る家族連れ、思わず目を閉じ、一心に両手を合わす老人達。各局のレポーター・アナウンサー達が、マイクを握りしめてレポートを送っている
「ごらんください。朝日を浴び、まさにイノクマヤご夫妻が光り輝いているように見えるではありませんか。私は、感動の余り、この情景を描写することばを知りません。涙が老人達の頬を伝っております。おばあちゃん、どうですか、イノクマヤさんをごらんになった感想は?」
「もう、えつ死んでも悔いはねえ。ありがたいこってす」
「そちらのおじいちゃん、何才になられましたか?」
「はあ、もうじき、九十ですっ」
「とっても九十なんかには見えませんよ。お元気ですねえ」
「イノクマヤさんを見るまでは、死ねんと思うてねえ。いや、もう、神様以上だねえ。神様はわっしに何もしてくれんかったけど、イノクマヤさんは、老人ホームを建ててくれておる」
「おじょうちゃん、今日は誰と来たの? 逃げなくてもいいでしょう」
「これ、テレビ?」
「そうですよ。誰ときたの?」
「キャア、映ってるの? キャア、キャア」
「奥さん、どこから来られたんです?」
「ちょっとどいてよ。モモエさんが見えないじゃない」
「親孝行してますか?」
「人に言うより自分でしなさいよ。私、仕事休んで来てるんだから、テレビになんか映さないでよね」
「はあ、はあ、お仕事を休んで。お父さんやお母さんのためですか?」
「うるさいわねえ。自分の老後のためよ。」
「ご主人、ご主人、会社を休んで来られてるんですか?」
「仕事ですよ」
「はあ?」
「私は、こういう者です」
「あ、それは失礼しました。お勤めご苦労様です。しかし、まあ、大変な騒ぎですね」
「これ以上付きまとうと公務執行妨害で逮捕するよ」
「逮捕されてはたまりません。あっ、イノクマヤご夫妻は、屋上から姿を消しました。大観衆の間からは、失望の溜め息がもれているようです。建物内部で何か打ち合わせが行われている模様です。人々はまだ続々とその数を増やしているようです。昨日の人出は、警察発表で、三十万六千人と記録されておりますが、今日はそれを上回っているのではないでしょうか。何が起こるか、予断を許さぬ状況となっております。ちょっと付近のお店をのぞいてみましょうか。ええ、こんにちは、テレビ関東ですが、売上のほうはいかがですか。おや、これはイノクマヤ饅頭にイノクマヤ人形ですね」
「こんなに人が多くっちゃ、商売にならねえよ。かきいれ時は、お昼すぎてからだね」
「一番売れているものというと」
「おっかしな話だけどよ、イノクマヤ・シールってのが一枚三十円で、飛ぶように売れてんだよ。ブックリマン・シールの入れ物に入る大きさのやつだね。それとよ、おもちゃなんだけどよ、『イノクマヤ・シルバーランド入場券』ってのも、よく売れるねえ。近所の年寄りに土産に持ってってやると、涙流して喜ぶそうだよ。あんたもお父っつぁんやおっ母さんに買って帰ってやんなよ」
「というようなわけで、しっかり、入場券を二枚買わされてしまったわけですが、これが一枚三百円。お守り代わりに大変売れている模様です。あっ、建物周辺が騒がしくなってきました。これは、イノクマヤご夫妻が姿を現すのでありましょうか。人々が建物のほうに向かって移動を始めております。では、私も中継車を離れ、建物のほうに進んでみたいと思います。あ、ちょっと、押さないでください。あ、マイクが・・・押さないで。あ、メガネが・・・ええ、群衆に押されて、メガネがどこかに消えてしまいました。ああ、私の右後方でバリバリとメガネの壊れる音がしております。あれは高いんだけど・・・ああ、もう視界がまったくきかなくなっております。私はただひたすら、人の流れに流されていくだけであります。ラッシュ・アワーの満員電車そこのけの混雑。あ、誰かの足が私の足の上にあります。痛い。非常に痛い。誰かの手が、私の右顔面を殴打。これも痛い。非常に痛い。ここらで中継を終わりたいところでありますが、中継車まで帰りつくことができません。私は果たしてどこに向かって進んでいるのでありましょうか。お聞きください。あの大歓声を。おそらくイノクマヤ夫妻が、建物内から再び姿を現した模様です。あ、誰かが、私を踏み越えております。また一人、また一人、どうやら私は人間通路と化してしまった観があります。やめてください。踏まないで。イタタタタ。ああ、私は雑踏に飲み込まれていきます。では、これで、シルバーランドからの中継を・・あああ・・・」
イノクマヤ夫妻と見えたものは、実は女装したプロレスラーとガードマンであった。人々が二人を取り囲んでいる間に、私は予定通り裏口から手配しておいた救急車で、トラオとモモエさんを救出した。まさに救急車である。
「緊急自動車が通ります。通路をあけてください。急病人です。通路をあけてください」
警察も消防署も手慣れたものである。しかし、気がついた熱狂的信者達が、緊急自動車の後を、ある者は車で、またある者は徒歩で追い掛け始めていた。油断もすきもあったものではない。
「あなた、大丈夫ですか?」とモモエさんがトラオを気づかっている。
トラオはベッドに横たわっていたが、そのうち、スースーと寝息をたて始めていた。例の瞬間睡眠である。
「モモエさんこそ、大丈夫ですか?」と私は、横を向いたまま尋ねた。
どうも、モモエさんの前に出ると、普段の女性恐怖症がますます悪化するようである。
「私は、平気ですわ。イノクマヤが身体をこわさなければいいんですけど。早く、シルバーランドの建設が終わればよろしいのに。お年寄りには悪いんですが、私にはイノクマヤの身体のほうが大事なんですから。」
「イノクマヤは殺しても死にませんよ。あの三傘山の噴火でも平気でいた男なんですから」と言いたいところであったが、私は黙っていた。
沈黙は気づまりである。運転手も黙って運転している。
時折、「緊急自動車が通ります。道をあけてください」と叫ぶ以外には興味も関心もないようである。内心、こういう騒ぎに駆り出され、不快に思っているのかもしれぬ。
私の心臓の鼓動は徐々に速くなっていく。頭までがドキドキと音たてて鳴っている。
「いつごろになるんですの? 建設が終わるのは?」
私はゴックンと唾を飲み込んだ。
「そ、そうですね。今年中には、目鼻がつくでしょうね。もっとも、イノクマヤのことだから、日本中に同じ規模の施設を建てるかもしれませんがね・・・ア・・ハ・・ハ」
「多分・・・・そうでしょうね。この人のそういうところが好きなんですけど、でも、私、いつも一緒にいたいんですもの。エリさんはよろしいわ。ずっと、イノクマヤと一緒にいられますものね」
「そ、そんなことを言ったって、僕は男ですから・・・」
「エリさんが羨ましいわ。妬ましくて眠れない夜もありましたわ」
非常に複雑怪奇な心境であった。嫉妬してもらうのは嬉しいが、かなり的はずれではないのだろうか。その昔、私が嫉妬で眠れない夜を送り続けていたことを、モモエさんは知っているのだろうか。
「私、エリさんぐらい、イノクマヤの役に立ちたいんです」
モモエさんは濡れた瞳で私を見上げた。私は思わず、モモエさんを抱擁しようとした。
月日は時間に逆行し、高校時代のモモエちゃんと私がいた。
「モ、モモエさんっ!」
急に、車が止まり、運転手がドアを開けた。
「着きましたよ。ここでいいんでしょう? こんなことは、これで終わりにしてくださいよ。早く降りないと、後をつけてる車がありますよ。」
私はあわててイノクマヤを起こした。
「イノクマヤ、おい、イノクマヤ!」
「あなた、起きてくださいよ、あなた」
ところが驚いたことに、イノクマヤは目をさまさない。
「おいっ! イノクマヤッ! 起きろよっ!」
「あなた、あなた、起きてくださいよ」
「どうします? もう少しで先頭の車が追いつきますよ。ああっ! 角を曲がってきたっ!」
「イノクマヤ、イノクマヤ!」
「あなた、あなた!」
モモエさんと二人で、ピシャピシャとイノクマヤの顔を叩いたが、まったく反応がない。
「エリさんっ、ちょっと強く叩きすぎじゃありません?」
「しかし、これぐらいやらないと起きやしませんよ。」
「ちょっと、何とかしてくださいよ。騒ぎに巻き込まれるのは、ごめんですからねえ」と運転手が、涙声で訴えている。
「私には、家族がいるんだから。そりゃあ、一目イノクマヤさんを見たかったから、この仕事、引き受けましたよ。ええ、そうですとも。おばあちゃんも喜ぶと思ってね。家内や子供達なんか、一緒に行くと言ってきかなかったくらいですから。でもね・・・グスン、誰だって、私が無事に帰ってくるもんだと思って待ってるんですよ。それが、こんなことになるなんて・・・」
とその時、運転手は思わず目から涙を引っ込め、後方にのけぞった。
「ああああああああ・・・」とイノクマヤが大あくびをして、目を開けたのである。
「す、すみませんっ。許してください、イノクマヤさん。決して悪い気持ちで言ってるわけじゃないので・・・・」
「うん?」とイノクマヤは前後のいきさつを知らずにいる。運転手はイノクマヤに向かって両手を合わせている。
イノクマヤが何を思ったか、そのグローブのような手を上にあげて立ち上がったので、運転手は首をすくめて目を閉じた。観念しきった様子である。
モモエさんと私も、立ちはだかったイノクマヤをどうしたものかと、心は千々に乱れる。それに、既に、救急車の周囲は、物見高い見物人に包囲されている。次々に車の急停車する音が聞こえている。
イノクマヤは、その手を運転手の頭に置いた。
「運転、ありがとう」
運転手は、イノクマヤのグローブのような手をガシッと掴んだ。
「あ、ありがとうございます、イノクマヤさん」
「うん?」
「私が頭痛持ちだとおわかりになったんですね」
「??」
「ありがとうございます、ありがとうございます。有名なイノクマヤさんにこんなに親切にしていただけるなんて、夢にも思いませんでしたっ!」
モモエさんと私が止める間もなく、イノクマヤはフラリと救急車から降りていった。
車の周囲にできていた人垣が、瞬時になくなった。皆、逃げ散ったのである。
イノクマヤの周囲二十メートルぐらいを空けて、遠まきに恐々イノクマヤのほうを眺めている。
イノクマヤが見る方向見る方向にいる人達は、アッという間に、物陰に姿を隠す。これは、私などが心配することはないのかもしれない。
イノクマヤはわけがわからず、首をかしげながら、門のほうに向かっていく。モモエさんと私も慌てて後を追う。
ちょうど二十メートル程度の間隔を保ちながら、見物人も、私達の後を追ってくる。イノクマヤが後ろを振り返ると、また、瞬時に逃げ散る。門から家の中にたどりつくまで、ずっとその調子だった。
「オイラ、わかんねい」と家に入ったとたん、ドドドドッと門のところに押し寄せた人達を見て、イノクマヤは言った。
「あなた、もう、現場に行くのはお止めになったら?」
「行く」
「毎日、心配ばかりするのは、耐えられないわ。ねえ、エリさんからも、おっしゃって。エリさんに行っていただけばいいじゃありませんか」
では、私なら、どうなろうと全然心配はないということか。
「オイラが行かねねば、工事は始まんねい」
「しかし、イノクマヤ。少しはモモエさんの心配も考えてあげないと」と私はモモエさんの手前、余計な口をはさんだ。
「余計な心配だい」とイノクマヤはへそを曲げ、モモエさんはワッと泣き崩れ、ゾロゾロと出てきた六人の子供達が、何事が起こったのかと泣き声の大合唱を始めた。
私は女性も苦手だが、子供も苦手である。特にイノクマヤにそっくりの子供達は、大の苦手だ。
なぜ、モモエさんの美貌を誰一人受け継がなかったのであろうか。イノクマヤの染色体は、非常に強靱なのであろう。
「エリマキおじちゃん、お母さんはどうして泣いているの?」と一番上の女の子が尋ねた。
今だかつて、私を『おじさん』呼ばわりしたのは、この子が初めてである。それによりによって、『エリマキ』おじちゃんと私を呼ぶのである。
「何でもないのよ、サユリちゃん」とモモエさんが言った。
「おめいこそ、子供がいんのに、工事現場なんかに来ちゃなんねい」とイノクマヤ・トラオが厳かに言った。
「パパ、私達なら大丈夫よ。村松さんのおばちゃんがいるし、長谷部のおばあちゃんもいるから」とサユリちゃんが大人びた表情で言った。イノクマヤの容貌を受け継いだものだから、一才のショウゴ君までがふてくされた猫のような表情をしている。
イノクマヤ・トラオの顔が、急に真っ赤になった。
「そうでねい。腹の子供んことだ」
「ええっ!」と私は絶句した。ではまた、モモエさんは妊娠!
七児の母となるのか!
「でも、あなた、私はあなたのことが心配で心配で・・・」
「心配なんかいんねい。オイラ、丈夫だかん。おめいのほうが心配だ」
「あなた、そんなに私のことを?」
「うむ」
「あなたっ!」
私は帰り支度を始めていた。馬鹿らしくて、とても付き合ってはいられない。
イノクマヤの女性関係の数々を、思わず喉からこぼしそうになるのを懸命に抑えていたのだ。それも憎らしいことに、すべて女のほうが彼をベッドやら布団に引きずりこむのである。イノクマヤはアップアップしながら、抵抗もせず、イヤイヤ引きずりこまれてしまうのだ。
「モモエ以外は、女じゃねい」などとヌケヌケと言いながらである。それも、言いたくはないが、私好みの女性ばかりがイノクマヤ目掛けて押し寄せている風情である。
「エリさん、トラオさんは本当に奥さんを愛しておられるのでしょうか・・・・」
「ええ、そうですが・・・・」
「私、かまいませんわ。心にこの愛を、そっとしまっておくわ。トラオさんに迷惑はかけられませんもの・・・・」
「あ、あのう・・・」
「エリさん、トラオさんによろしくおっしゃってね」
「あ、あのう・・・」
「さよなら、私の初恋・・・」
「あ、あのう・・・」
「さよなら、エリさん。お元気でね」
「あ、さようなら・・・・」
何度、同じ場面を繰り返したものであろうか、数える気にもならなかった。
「いいわ。一人でこの子を育てます」と言って去って行った女性もかなりの数にのぼる。
イノクマヤの強靱きわまる染色体の洗礼を受けた何十人もの子供達。
きっと、街ですれちがっても、一目でわかることだろう。
どの子もこの子も、道行く子供は全部イノクマヤ・トラオに瓜二つ、そういう悪い夢を見て、よくうなされたものである。
童貞の私に責任の一端があるように感じるのはおかしなことであるが、それが天才小説家の感受性というものであろう。
私の小説は大部分、イノクマヤ・トラオの実生活にヒントを得ており、天才の想像力でふくらませはしても、事実の部分を憶測できるであろう。
であるから、モモエさんのため、イノクマヤの家庭の幸福のため、私はあえて、作品を公表しないものである。
もっとも、公表できる場などは持ち合わせておらず、副業で金をため、自費出版にこぎつけんものと日夜努力を重ねておるのだ。
「エリさん、もうお帰りになるの? ごめんなさい、何のおもてなしもせずに」とモモエさんは早く帰れと言わんばかりの態度である。
「エリ、話があるんだ」とイノクマヤが言った。
「オイラん部屋、行こう。」
嫉妬と絶望で顔面蒼白となったモモエさんを横目で見ながら、私はトラオの後についていった。
「モモエ、ちょっと休むがいいんだ」
「あなたこそ、お疲れでしょうに」
「オイラはいいんだ。モモエが休むんだ」
「あなた、優しいのね」
「うむ」
毎度ばかばかしい場面を見ながら、私は照れて真っ赤になっているイノクマヤの後について、階段を登っていった。
なぜか、正三角形に作ってある部屋に入ると、イノクマヤはガチャリと内側から鍵をかけ、カーテンを全部引いてしまった。
超大型ベッドしか置いていない殺風景な部屋である。
「な、何をする気だ、イノクマヤ」と私は思わず身構えた。
「エリ、おめいだけは、オイラん気持ち、わかってくれるだな」
「そ、そんなことを急に言われても。モモエさんもいるのに」
「モモエんことはいいんだ。これは、オイラ達だけん秘密だ」
「い、いけないよ、イノクマヤ。そんなことは許されるものじゃない。それに、誰かに聞かれたらどうするんだ」
「この部屋、音聞こえねい」
イノクマヤはスックと立ち上がり、私は失神寸前の状態に追い詰められていた。
自分の美貌は承知していたが、それがこういった形で仇となろうとは、亡くなった母も知らなかったことであろう。
「怖いんは最初だけだ」とイノクマヤが言った。
「・・・・・」
私はことばを失い、口を金魚のようにアップアップさせているばかりであった。
「驚くことはねい。前から考えてたんだ」
「い、いつから」
「最初からだ」
「さ、最初・・・から・・・そうか・・・そうだったのか、イノクマヤ。実はな、イノクマヤ、僕も最初から・・・」
イノクマヤは、ベッド・カバーを乱暴に外した。中からは、顔の赤らむような派手な柄の布団が姿を現した。
私の呼吸が乱れてきた。いけない。こういう場合は、気持ちを落ち着けないと。下着を替えてきておいたほうがよかったのだろうか。
イノクマヤは、今度は静かに派手派手の掛け布団を、ゆっくり折り畳むように外していった。
「エリ、ここに来るんだ」
私は、ゴックンと唾を飲み込んだ。これは、もしかすると、前世から決められていた運命なのかもしれぬ。
「何をしてるんだ。早く、来るんだ。電気をつけるんだ」
「そんな・・・明るいのは、どうも・・・」
「暗いと、よく見えねい」
ええい、もう、なるようになれ。
「僕・・・初めてだから・・・」
「オイラだって、こんなこと、初めてだ」
「イ、イノクマヤも初めてなのか・・・」
「グズグズ言ってねいで、早く来るんだ」
しかし、私は足がすくんで、その場から動くことができなかった。イノクマヤが、私に近づいてくる。イノクマヤのグローブのような両手が、ガシッと私の肩をつかむ。
「早く、来るんだ。時間がねい。もうすぐ、順番に子供を風呂に入れねばなんねい」
私は目を閉じた。イノクマヤは思ったより乱暴に、私をベッドまでひきずっていった。
「目をつむったなら見えねい」とイノクマヤは言った。
しかたなく目を開けると、敷布団に何やらいたずら書きがしてあった。私をリラックスさせようというのであろうか。
「日本の地図だ」とイノクマヤが言った。
「???」
「今建ててんのがココだ。同じもんを、ココとココとココにも建てねばなんめい。年寄りがこんな多いとは知んねかった。木も植えねばなんねい。川や山も作らねばなんめい。金が足りねいだよう。親父ん山も、この家も全部抵当に入ってんだ」
私の頭が常態に戻るまで、かなりの時間が必要だった。
私は一人で赤面しながら、イノクマヤが次々口にする気の遠くなるほどの金額を、半ば、夢見心地で聞いていた。
「政府は、金出さねいだよう。オイラ、外国ん行って、金集めてくるんだ」
「が、外国ってどこに」
「そんなこと、わかんねい。まず、プレスリーに会って、相談するんだ」
「イノクマヤ、気は確かか。プレスリーはな、もう、四十年以上も前に死んでるんだぞ」
「そんなはずはねい。よくテレビやラジオで歌ってるんだ」
「あれは・・・」
「生きてるんだ!」
「まあ、人々の心の中に生きてるといえば、いえるかもしれないが・・・・」
「だから、相談してくるんだ」
こいつは思い込んだら、誰が何といっても聞くやつではない。行ってみて、墓でも拝んできたら納得するだろうと私は思った。
「エリ、モモエと子供んこと、頼むんだ。工事のことも頼むんだ。今ん工事ん金はあるんだかん」
「イノクマヤー、せめて工事が完成するまで・・・」
「それじゃ、間に合わねい。年寄りは待てねいだよ」
モモエさんは泣き崩れ、子供達は泣き声の大合唱をし、建設現場に寝泊まりしていた人々はガッカリし、私はアパートの荷物を、トラオの邸宅に運び込んだ。
言い出したら止めることのできないイノクマヤ・トラオは、英語といえばプレスリーの歌しか知らないくせに、単身アメリカに乗り込んでいった。
日本のマスコミもこぞって、アメリカに行ってしまい、私とモモエさんとイノクマヤにソックリの六人の子供達は、広いリビングで、連日アメリカからの衛星中継を見ることとなった。
『日本の恥』
『政府は何をしているのか』
『福祉予算の増額を』といった記事が新聞にあふれかえり、老人達はトラオの帰国を待ちわびていた。
「さて、今日は、全国ネットワークABCテレビで、イノクマヤ・トラオ氏がアメリカ国民ならびに世界の人々へメッセージを送る予定になっております。とうとう、日本のイノクマヤ・トラオが世界に飛び立とうとしております」とアナウンサーも緊張と興奮を隠せない。
モモエさんは卒倒寸前、子供達はやたらに興奮して、今にもテレビの大型画面をバットやら、棍棒で打ち壊しそうである。私も、拳を握りしめ、汗を指の間から絞り出している。
「日本の皆さん、現れました。私達のイノクマヤ・トラオが合衆国大統領と握手しております。
なぜか、大統領は白いハンカチで、額の汗を拭っております。ライトが強すぎるのでありましょうか。
見劣りいたしません。イノクマヤ・トラオ、ブッシュマン大統領と並んでも、決して見劣りしておりません。
一日本人の訪米で、合衆国大統領までが、テレビ中継に現れるといったことが、過去にあったでありましょうか。
会場が静まりかえりました。いよいよ、世紀の一瞬であります。
会場にはアメリカ国旗と並んで、日章旗がひるがえっております。その横に見えますのが何と、西部タイガーズの旗です。
イノクマヤ・トラオがタイガーズのオーナーとなるという噂は、本当だったのでありましょうか。いやはや、不可思議な光景です。
純白のジャンプ・スーツに身を固めたイノクマヤ・トラオは、かつてのエルヴィス・プレスリー・ファッションを再現しているのでありましょうか。
イノクマヤ・トラオ、並みいる報道陣を前に、緊張のキの字も見せておりません。堂々としております。カメラのフラッシュが光ります。
さあ、イノクマヤ・トラオ、ゆっくりと壇上に進みました。いよいよ、スピーチが始まる模様です。
はたして、スピーチは英語で行われるのでありましょうか、それとも同時通訳か、逐次通訳で行われるのでありましょうか。
会場全体に一種の緊張感がみなぎっております。
『レデーズ・アンド・ゼントルマン』
スピーチが始まりました。惚れ惚れするようなジャパニーズ・イングリッシュです。イノクマヤ・トラオは英語でスピーチを行う模様です。
『アイ・ワント・ラブ、アイ・ワント・マネー、アイ・ニード・ラブ、アイ・ニード・マネー』
会場から割れかえるような歓声と拍手がまきおこりました。
『アイ・ニード・マネー・ホー・オールドピープル』
会場全体がなぜか異様な感動に包まれております。
『プアー・ジャパンのオールドピープル』
カメラのフラッシュが光り続けております。会場にいる各国の記者・カメラマンは総立ちとなって、イノクマヤ・トラオの姿を見つめております。婦人記者の目には、涙が光っております。
『ギブ・ミー・マネー!』
わ、私も、か、感動の余り、思わずマイクを取り落とすところであり・・ま・・す。
お聞きください。物凄い拍手です。歓声です。お聞きください。
まず、隗より始めよ、といったところでありましょうか。各国記者団が、我も我もとイノクマヤ・トラオのところに押し寄せ、ポケットからお金や小切手帳を取り出している模様です。
ブッシュマン大統領がポケットに手を入れております。大統領自ら、ポケット・マネーを寄付するのでありましょうか。もう、これ以上の中継は・・・胸が詰まってできません。こ、これで、中継を終わります」
テレビの宇宙中継の反響は、予想を遙かに越え、世界各国からの寄付の総額は、日本の福祉予算の数百倍にも達した。
日本各地からも、今までに増して寄付の申し出が多く、イノクマヤ・トラオの一世一代のスピーチのお蔭で、日本各地にシルバーランドが建設される見通しとなった。 政府も重い腰をあげざるをえず、福祉予算の見直しを約束した。
シルバーランド第一号の落成式は、まさに、国あげてのお祭り騒ぎだった。
年齢・家族構成・疾病歴を考慮され、入居することに決まった老人達は、国の英雄のような扱いだった。
イノクマヤ・トラオに先導されて、自分の生涯の居城に足を踏み入れたとたん、何人かは気を失い、何人かは失禁し、ほとんど全員が声をあげて泣いた。
隣接する幼稚園の子供達が、花束を持って訪れ、ボランティアの青年男女がかいがいしく老人達の世話をやく。外の成り金趣味とは異なり、内部は老人達に面接調査した結果、和風に作られている。イノクマヤ・トラオの父親所有の山林の巨木が、床や柱にかわったのだ。
まだまだ、お祭り騒ぎは続きそうである。
私は、もとのアパートを引き払い、今度は、シルバーランドの管理人室に落ち着くこととなった。
シルバーランドには、高校生・大学生のボランティアの申し込みが殺到している。皆、『生きがい』を求めているのであろう。
「あなた、会いたかったわ」
「モモエ」
「あなた」
毎度の光景は無視することとして、私の小説世界も広がっていきそうである。対人恐怖症・女性恐怖症などとは言ってはおれない状況になったのである。
「エリさん、ぜひ、お話を聞いてほしいんです」という老人達が、後をたたなくなってしまい、私の頭の中は、様々な人生で埋まってしまいそうである。
当分、現実世界の住人となり、小説を書くことを諦めることとなった。
「エリさんみたいな男前に話を聞いてもらえるなんて、まるで極楽ですよ」
イノクマヤ・トラオは新たな建設現場に飛んでいる。夜な夜な、シルバーランドの管理人室には、イノクマヤの安否を心配するモモエさんや子供達からの電話がかかってくる。
これを楽しみといっていいのかどうか、私にはわからない。
イノクマヤの七人目の子供が、落成式の直後に誕生。予想通り、イノクマヤにそっくりの大人びた顔の赤んぼうであった。
了




