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それ犯罪じゃん、と気づいたのでカップを投げました

連載にしました、よろしくお願いします!

「ケイン様を安らかな眠りに導くために、この特製睡眠薬を……」


 夕闇に染まる教室。私は震える手で、琥珀色の紅茶に怪しい液体を滴らせようとしていた。

 我ながら、目がバキバキにキマっている自覚はある。

 だってこれが、彼を救う唯一の手段だから!


 ——なんて、思っていたのは0.5秒前までだ。


「……待って。私、何してんの? 犯罪じゃん」


 脳内に、前世の記憶という名の濁流が流れ込んできた。

 ここは乙女ゲーム「聖女の祈り」の世界。私は攻略対象のケイン様をストーキングの末に薬物混入しようとして、北の果ての修道院にブチ込まれる悪役令嬢こと「刺繡の魔女」リネット。


(……やばい。このままだと私の人生、詰む!!)

「……何をしてるんだ、君は」


 背後から、低くて甘い——今の私には死神の鎌の音にしか聞こえない声が響いた。

 ケイン・アッシュフォード。この学園の王子様であり、私の元ターゲットだ。


「あ、ケイン様! お疲れ様です! お茶、淹れ直そうと思って!」

「混ぜたよね。今、何かを、その中に入れたよね」


 彼の目が、完全に「不審者を見る目」になっている。

 本来のシナリオなら、ここで「愛ゆえの善意ですわ!」と絶叫して取り押さえられる場面。


(……やるか。やるしかないわね)


 私は無言でケイン様の紅茶カップをひっ掴むと、窓の外に向かって全力投球した。


「……えっ?」


 ガシャーン! と景気のいい音が響く。


「ケイン様! 毒虫です! 毒虫がダイブしたのを見逃せませんでした! お詫びに、その、これ差し上げますから許してくださいさようなら!!」


 私はポケットに入っていた碧い糸で家紋と忘れな草をびっしり隙間なく縫い上げた、怨念……じゃなくて執着のハンカチを彼の顔面に叩きつけ、スカートの裾を捲り上げて猛ダッシュで逃走した。




「……よし。この立体刺繍、前世の知識をフル活用すれば『本物より本物らしい花』が作れるわ!」


 私は執着を捨てた。

 かつては「彼の瞳と同じ碧い糸」で、一針ごとに怨念……もとい、愛を込めて重すぎる家紋を縫っていたが、今は違う。

 私が作り出したのは、見る者を圧倒し、今にも香りが漂ってきそうな「魔法の刺繍」。

 それが学園の令嬢たちの目に留まるのに、時間はかからなかった。


「リネット様、そのポーチの薔薇……まるで生きているみたいですわ!」

「リネット様、私にも一つ、この小鳥を縫っていただけないかしら?」

「ええ、喜んで。……ただし、お値段は少しお高くてよ」


 私は「愛」の代わりに「現金」と「人脈」を稼ぎ始めた。

 「刺繍の魔女」という二つ名は、恐怖の象徴から、予約一年待ちのカリスマ職人の称号へと上書きされたのだ。

 だが、商売が繁盛すればするほど、過去の自分の「営業妨害」が牙を剥く。


「……リネット嬢。今日は自ら転んで、足首を痛めたりはしないのか?」


 わざわざ現れたケイン様が、皮肉げに眉を上げる。

 そう。前世を思い出す前の私は、彼に構ってほしくて「不自然すぎる当たり屋」を繰り返していたのだ。


「ああ、以前のあれですか? どうかしてましたわ。あんな下手な演技で時間を無駄にするなんて、今の私なら自分に往復ビンタしてます。足首を痛めて座り込む暇があったら、一針でも多く縫ったほうが稼げますもの」

「……では、大切な刺繍道具を自ら床に叩きつけて泣き真似をするのは?」

「やめてください、商売道具を粗末にするなんて職人の風上にも置けません。当時の私を呼び出して、説教したいくらいですわ」


 私は、作業の手を一切止めずに淡々と返す。

 かつては自分のドレスの袖をわざと切り裂き「誰かに悪戯されて……怖いんですぅ」と震えながら縋りついたこともあった。


「あの時、君は僕に泣きついていたが」

「アッシュフォード様。その話、営業妨害なのでやめていただけます? 衣服の破損は布地の劣化か、管理不足が原因です。怖いのは、その程度のことであの方の貴重な時間を奪おうとした私の『脳内お花畑』っぷりですよ。……ふふ、笑えますわね」


 ケイン様を直視もせず、冷たく笑い飛ばす。

 かつての「粘着質な視線」が消え、代わりに宿ったのは「納期と利益」を見据えるプロの眼差しだと自負している。


「……君は、本当に変わったな。あんなに熱心に、僕を求めていたのに」


 ケイン様の瞳には、以前のような「気味の悪いものを見る色」は微塵もなかった。

 代わりに宿っているのは、どこか寂しげで、どうしようもなく落ち着かない、縋るような色だ。


「ええ、仕事の楽しさに目覚めました。あ、セシル様への贈り物なら、特急料金で承りますよ?」


 商売用の「営業スマイル(0円)」を向ける私に、ケイン様はさらに眉を下げた。


「……婚約の話は、白紙になったんだ。セシルには他に好きな人がいたらしくてね。……それより、リネット。君が昔くれたあのハンカチ、実はまだ持っているんだ。あの時は驚いてしまったけれど……今なら、君がどれほどの情熱を持ってそれを縫ったのか、わかる気がする」

「……は?」


 私は手に持った銀針を落としそうになった。


(嘘でしょ。あの『呪いの重装備(物理防御+怨念)ハンカチ』をまだ持ってるの!? 怖っ! 捨てなさいよ、今すぐ衛生管理局に突き出しなさいよ!)


「あの、あれは若気の至りと言いますか、重度の厨二病というか、とにかく『病んでた時期』の黒歴史ですので。今すぐ暖炉に投げ込んで灰にして、その灰をさらに川に流してください。お願いします」

「いやだ。……今の君は、前よりもずっと、その……『光』の中にいるように見える。眩しくて、目が離せないんだ」


 ケイン様が私の指先をそっと取ろうとする。かつて、私が死ぬほど憧れたシチュエーション。

 だが、今の私の脳内にあるのは「納期」の二文字だけだ。

 私は反射的に、バチンッ! とその貴い手を叩き落とした。


「ダメです! 職人の指先を気安く触らないでください! 突き指や骨折でもしたら納期が遅れるでしょう!? 違約金、払ってくれるんですか!?」

「……。……君、本当に、本当に変わったね」




「……ふう。……ようやく、静かになったわね」


 学園の喧騒を離れ、私は女子寮にある自室の鍵を二重にかけた。

 机の上に、あの「執着の結晶」こと、漆黒の香り袋を置く。ケイン様の前では虚勢を張っていたけれど、改めて見るとこの刺繍、一針ごとに「逃がさない」という呪詛が込められているようで、自分で縫ったくせに鳥肌が立つ。


「……しかし私ったら、前世の記憶が戻る直前まで、本当にとんでもないことしようとしてたわね」


 私は裁縫箱から精密なピンセットと解剖用の小刀を取り出した。

 最近、納期に追われて(というかケイン様のストーキングに忙しかったころの睡眠負債もあって)ひどい不眠症だ。いっそこれ、私が使えば安眠できるんじゃないかしら。

 そんな軽い気持ちで、香り袋の端を慎重に切り裂いた。


 ――その瞬間。


 鼻腔を突いたのは、甘美で、脳の芯を直接痺れさせるような、暴力的なまでに完成された「香り」だった。


「……っ、あ」


 思考が、真っ白に染まる。

 ハンカチで鼻を覆うという当然の動作さえ忘れ、私はその香りを、もっと深く吸い込もうと――。


(……だめ。使っちゃ、だめ……。……だって、これは……)


 膝のカクン、と力が抜ける感覚で、辛うじて正気に戻った。

 私は這うようにして窓辺へ向かい、震える手で鍵を開け、冷たい夜気を部屋に招き入れた。


「はぁ、はぁ、……っ、危なかった……!」


 冷や汗が全身から噴き出している。一瞬、本当に一瞬吸っただけで、前世の記憶という強固なプロテクトさえ容易く突破されかけた。

 私は濡れたハンカチで鼻と口を厳重に覆い、トレイにぶちまけられた中身をピンセットで検分する。安眠効果のある禁じられたハーブ「月光草」の乾燥葉。そこまではいい。問題は、その葉の表面に付着している、微細な銀色の粉末だ。


「……強力な睡眠薬。いえ、それだけじゃない。魔力伝導率を極限まで高めた『精神の弛緩剤』……。こんなもの、その辺の裏市場で手に入る代物じゃないわよ」


 もしケイン様に使っていたら、彼はただ眠るだけでなく、私の「言葉」に抗えない操り人形になっていたはずだ。


「……誰に貰った? いつから、私はこれを持っていたの?」


 私は椅子に深く腰掛け、リネットとしての記憶の深淵へとダイブした。

 暗く、湿った、日陰者たちの社交場。


(……おかしいわ。こんな重要なこと、どうして今まで忘れていたの?)


 記憶の彼方。談話室の片隅で、私にこれを手渡した指先があった。

 白く、細く、どこか死人のように冷たかった指。


 その令嬢が通り過ぎるたび、周囲の人間はうっとりと目を細め、彼女の望むままに道を開けていた。

 百戦錬磨の令息さえ彼女との会話では、気づけば彼女の誘導する話題に従ってしまっていた。まるで、彼女が放つ目に見えない「香りの鎖」に繋がれているかのように。


「……香りで、人を操る令嬢。……あの派閥の主」


 霧がかかっていた記憶が、一本の線に繋がっていく。

 ゲーム「聖女の祈り」において、聖女セシルによって真っ先に討たれるべき、最初の『中ボス』。

 その名を完全に思い出した瞬間、私の指先からピンセットが滑り落ち、カランと虚ろな音を立てた。


「――ミレイユ・ローラン。 『香りの魔女』」


 彼女はセシルに敗北し、その才能を「邪悪」と断じられて廃人に追い込まれる運命だ。

 けれど、プロの職人である今の私にはわかる。

 この香り袋の、狂気的なまでに精密な配合。これを作れる人間は、世界に二人といない。


(……もったいない。もったいなすぎるわ!)


 私の脳内に、新しいビジネスモデルが火花を散らして立ち上がる。

 彼女の調合技術があれば、私の刺繍に「精神を安定させる香り」を定着させ、王族専用の「至高の癒やし具」として、今の十倍の価格で売り出せる。


「あんな国宝級の調香師を、シナリオ通りに退場させてたまるもんですか……!」


 私の瞳に、かつての粘着質な愛の炎とは異なる、ギラギラとした「業務提携先ターゲットを見定めた獣」の光が宿った。


「決めたわ。次の『回収』対象は、あなたよ。ミレイユ様」


 月明かりに照らされた私の口角が、不敵に吊り上がった。


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