多忙の極み
権田興業の事務所は、10年ぶりに回ってきた「秋祭り実行委員会本部」という大役に、かつてない喧騒に包まれていた。かつては組長である朝比奈龍平が直接指揮を執っていた重要行事だが、今回は権田興業がその役目を正式に引き継ぐことになったのだ。だが、元締めとしての重責は、どんな不義理な折衝よりも権田の胃をキリキリと痛めつけていた。
机の上に山積みになっているのは、商店街の各店主たちが思い思いに書き殴った出店計画書の成れの果てだ。裏紙に鉛筆で引かれた歪な線や、コーヒーのシミがついた判読不能なメモを前に、権田は本気で頭を抱えていた。
「おい、大河……。お前、ちょっとこれを見てみろ。こんなデタラメな紙切れの束で、今までどうやって祭りを無事に終わらせてきたんだ?」
「まあ、なんとかなるもんっすよ。去年はみんなでテントの足を蹴っ飛ばしながら、何とか場所を収めてましたからね。今年もその気合でいけば大丈夫っすよ!」
兵藤がのんきに応えると、権田の額に青筋が浮かんだ。
「そのレベルの話じゃねえだろ! この図面を見ろ。焼きそばの屋台の真上に、金魚すくいのテントが完全に重なって描いてある。いいか、もしこの世に二階建てのテントが存在するってんなら、今すぐどこからか探して持ってこい!」
*
そこへ、町内会長の代々木忠男が杖を突きながら現れた。
「権田さん……うちの店なんだが、どうしても『東向き』じゃなきゃ困るんじゃよ。風水的に東を向いていないと、運気が逃げてしまうからの」
「代々木会長、勘弁してくださいよ……。その場所で東に向けたら、参道の入り口が完全に塞がっちまう。客が一人も中に入れなくなるんですよ」
権田が必死に食い下がるが、代々木は懐かしむように目を細めて続けた。
「困ったもんじゃのう。10年前に朝比奈さんがこの祭りを仕切ってくれた時は、わしらの要望を全部さらっと解決してくれたんじゃ。やはり朝比奈さんは凄かったのう。あの時も今みたいに、この事務所に人が大勢集まって活気があって、本当に凄かったんじゃよ」
代々木は満足げに頷いて去っていった。だが、その言葉に含まれた「親父」の名が、権田の胸を締め付ける。
(……10年前の親父か)
事務所がこれほど賑わうのは、確かに親父が陣頭指揮を執っていたあの時以来だ。あの圧倒的な存在感、そしてすべての理不尽を飲み込んで正解に変えてしまう底知れなさ。一生かかってもあの高みには届かない……そんな畏敬の念が、権田の肩に重くのしかかった。さらに手元の資料では、特定の時間帯に人員が集中しすぎるというシフトの破綻も深刻な問題となっていた。
*
そこへ、制服姿の橋本誠巡査がひょっこりと顔を出した。橋本は権田興業を監視する立場にありながらも、朝比奈組の穏健な気質を理解しており、偵察がてらこうして茶化しに来るのが日課になっていた。
「おいおい、商店街の連中がひっきりなしに出入りしてるじゃねえか。何か悪いことでも企んで、まとめてカタにはめてる最中か?」
橋本がニヤけながら冗談を飛ばすと、ソファにいた兵藤が即座に笑いながら言い返した。
「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ、橋本さん。見ての通り、善良な市民のためにヤクザの若頭が胃に穴を開けながら頭を悩ませてる最中っすよ」
「ははっ、そりゃ全くだ。……で、どうなんだ権田さん。進んでるのか?」
「橋本巡査、見てくれよこの図面。古文書を解読する方がまだマシだぞ」
権田が机を叩いたその時、それまで軽快な音を立ててキーボードを叩いていた黒瀬が、明るい声で椅子を回転させた。
「お待たせしました。少々てこずり、数分いただきましたがすべて整理できました!」
黒瀬はいつもの眩しい笑顔でタブレットを差し出した。そこには完璧に再構築された会場図と、緻密なスケジュールが並んでいた。
「まずテントの位置を見直し、すべて配置し直しました。代々木会長の東向きの件は、好立地を確保しつつ、参道にかからぬように向きの展開を実施してあります。さらにボランティアのモチベーションを維持するため、屋台の無料券などを予算に組み込み、不足していた中高生のボランティアも必要数を確保、シフト組も個人の負担を最小限に抑えるよう最適化しました。また、警察に提出する道路使用許可申請書と、保健所に提出する臨時出店届も準備済みです」
黒瀬は誇らしげに胸を張り、言葉を継いだ。
「前職で行った『世界平和サミット実行委員・極限調整研修』の経験が役に立ちました。実弾入りの拳銃を突きつけられながら、各国の相反する利害関係を調整し、イベントを完遂させる訓練を受けておりましたので、この程度の調整は非常にエキサイティングで楽しかったです!」
黒瀬の語るあまりに物騒な「前職」の思い出に、橋本は目を丸くして権田を振り返った。
「……おい権田。こいつ、前はどっか大手のヤクザにいたのか? その研修、どう考えてもカタギのそれじゃねえぞ」
「……いや、本人は不動産屋だと言い張ってるが、俺も最近は自信がなくなってきた」
橋本は感心したように黒瀬のタブレットを覗き込んだ。
「まいったな。朝比奈さんの時の、住民を上手く丸め込みながら強引に実施していたやり方もすげーと思ったが、黒瀬の論理的かつ合理的なやり方もすげーな。これなら俺たち警察の警備計画も相当楽になりそうだぜ」
*
橋本は帰りがけ、ふと足を止めて振り返った。表情から冗談の色が消え、警察官としての鋭い目つきに変わる。
「……ああ、そうだ。権田さん、一つ忠告だ。最近、商店街付近で見慣れない男がうろついているらしい。何を聞き回っているのかは分からんが、どうも鼻につく動きをしてるようでな。何かのトラブルの火種もしれん。気をつけろよ」
橋本が去ると、権田は黒瀬が作成した完璧な資料を眺め、ようやく安堵の息をついた。
「……フン、最初からこうしておけば、俺の胃痛も半分で済んだんだ。おい大河! ぼさっとしてるな。今すぐこの図面通りに資材を手配しろ。――橋本の言ってた不審な野郎も、見つけ次第報告しろ。そんな奴に祭りをつぶされてたまるか」
黒瀬は眼鏡のブリッジを押し上げ、去っていった橋本の背中を見送った。 脳裏には、喫茶店「琥珀」に現れたあの男の顔が浮かんでいた。
(……あの男か、それとも)
黒瀬の瞳の奥で、冷ややかな確信と、それとは別の可能性を孕んだ思索が交錯していた。




