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ブラック企業の総合職からヤクザへ転職したら天職だった  作者:


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7/8

カウンター越しの攻防

喫茶店「琥珀」の店内は、これまでにない活気に包まれていた。


かつては近所の高齢者が新聞を広げる静かな場所だったが、今は違う。カウンターにはいつもの常連客が陣取り、テーブル席にはスマートフォンのカメラを構えた若い女性客たちの姿が目立っている。


「マスター、こっちおかわり!」


カウンターの常連客が空のカップを掲げた。


「はい、ただいま」


黒瀬は淀みのない動きでサイフォンを火にかけ、瞬く間に香り高い一杯を抽出する。


「兵頭先輩、提供をお願いします」


「……ちっ。なんで俺までこんなところでエプロンなんてしてなきゃいけねえんだ。俺は皿洗いに来たんじゃねえぞ」


兵頭は不機嫌そうに皿を置くと、しぶしぶといった足取りでコーヒーを運び始めた。


「そう言わず。これも立派な業務の一環ですよ、兵頭先輩」


黒瀬は一切の無駄がない動きで次々と注文をさばいていく。その姿は、数日前までカメラを構えていた男とは思えないほど店に馴染んでいた。



数時間前、権田興業の事務所でのことだ。


兵頭はソファで口を開けてぼんやりと天井を眺め、黒瀬はデスクで恐ろしい速度のタイピングを続けていた。そこに、権田のスマートフォンが鳴った。


「……おう、ママか。こんな時間に珍しいな」


権田の表情がわずかに和らぐ。相手はスナック「紫苑」のママだ。


「……なんだって? 琥珀の親父さんが? ……ああ、分かった。すぐに行かせる」


電話を切った権田が、困惑した顔で黒瀬を振り返った。


「黒瀬、琥珀の店主がぎっくり腰で動けなくなったらしい。ママから直々に電話があってな、お前に手伝いに入ってほしいって名指しで依頼が来たぞ。前の撮影の時の手際を見て、お前なら何でもこなせると思ったらしいな」


最近、その喫茶店は客足が増えており、店主が不在では店が回らないのだという。権田が「喫茶店の手伝いくらい、お前なら余裕か?」と尋ねると、黒瀬は手を止めずに即答した。


「当然です。リサーチのために何度か通っていたため、あのお店のメニュー構成と味のバランスは全て把握しています。今こそ、前職での経験が活かせますね」


「……経験?」


「はい。私の前職では、競合他社のヒット商品を分析し、分子レベルで配合を特定して、より安価な代替原料で完全に味と香りを再現するデッドコピー業務も担当していました。数ミリグラムの誤差でやり直しを命じられる環境でしたので、一度食べた料理の再現など造作もありません」


「お前のいた会社、マジで何なんだよ……」


権田は深い溜息をつくと、ソファで寝そべっていた兵頭の背中を軽く叩いた。


「おい大河、お前も行け。どうせここで寝てるだけだろ。黒瀬の足手まといにならない程度に働いてこい」


「えぇ、俺もっすか……」



「見て見て、このトーストの厚み! 写真で見た通りだよね」 「コーヒーの湯気の感じもエモい……」


現在の「琥珀」の賑わいは、明らかにこれまでのそれとは質が異なっていた。若い女性客たちは、運ばれてきた厚切りトーストやコーヒーを、熱心に撮影している。


琥珀の店内に、レッスンを終えたばかりの明里と、出勤前のママが店に姿を現した。


「わあ、本当にすごい。流行ってるわね」


明里が感心したように店内を見渡すと、ママも「本当だわ、随分と活気があるじゃない」と頷いた。


黒瀬がいつもの笑顔で二人を迎える。


「お疲れ様です、明里さん。ママもいらっしゃいませ」


兵頭が手を休めて、明里の体を上から下まで真剣な目つきで眺めた。


「おう、明里。なんかお前、少し痩せたんじゃねえか? 特に……このへんのボリュームがよ」


兵頭は自分の胸のあたりで厚みを測るようなジェスチャーをした。茶化している様子はなく、純粋な身体的変化に違和感を感じ、それを素直に指摘しているような物言いだった。


「……最低。兵頭さん、デリカシーって言葉を辞書で引いてきたほうがいいですよ」


明里は心底嫌そうな顔をして言い放つ。そこに、黒瀬が穏やかな微笑みとともに、琥珀色に輝く飲み物を差し出した。


「明里さん、今日もお綺麗ですね。少しお疲れのようですので、疲労回復に効果のあるクエン酸をたっぷり配合した、自家製ハチミツレモンスカッシュを用意しました」


「えっ……。あ、ありがとうございます……」


明里は一瞬で毒気を抜かれ、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。その様子をカウンター越しに見ていたママが、深い溜息をつく。


「あーあ……。明里ちゃん、この手の男に惚れると苦労するわよ。無自覚に相手を落としちゃう、天然の人たらしなんだから」


ママの忠告に、明里は「惚れてるなんて、そんな……」と小声で赤面しながらも、バッグからスマートフォンを取り出した。


「あの、黒瀬さん! これ見てください。フリーペーパーが、ネットですごいことになってるんです」


画面には、SNSの投稿がいくつも並んでいた。


#この子の彼女感すごすぎて語彙力消える #商店街の奇跡なモデルさん見つけた #可愛すぎるモデルさん降臨w 配布場所に行ってみるわ


「配布場所にはわざわざ取りに来る人もいるみたいで、異例の増刷も決まったんです。その影響で商店街の売上も少しずつ増えているって、和菓子屋さんも喜んでました」


明里は興奮気味に語る。爆発的なブームというほどではないが、確実に、そして地道に商店街の空気が活気づき始めていた。


「狙い通りですね。明里さんをあえて恋人目線で撮影したことで、写真を見た人がその場にいるような追体験を演出しました。それが商店街への親近感に繋がったのでしょう」


黒瀬は満足げに、サイフォンから立ち上る湯気を見つめた。



店内の賑わいが続く中、ドアがゆっくりと開き、一人の若い男が入ってきた。どこか油断ならない目つきをしたその男は、首から一眼レフカメラを下げている。


男は店内の客を一瞥し、明里の顔を見つけると、吸い寄せられるように歩み寄った。


「……やっと見つけた」


男は明里の前に立ち、名刺を取り出して差し出した。


「私はフリーの記者をしている、門脇と申します。君、Melty Prismの桜庭明里さんだよね?」


「……えっ、はい。そうですけど……」


所属グループまで正確に言い当てられた明里は、戸惑いながらも頷いた。門脇は手元にあるフリーペーパーをひらつかせ、不躾に問いかけた。


「桜庭さん。君が載ってるこのフリーペーパー、ネット上で話題になってるらしいけど、なんでまた、こんなフリーペーパーのモデルなんて引き受けたの?」


「こんな、って……。あのフリーペーパーは、佐藤社長や商店街の皆さんが本当に一生懸命作っているものなんです。失礼な言い方はやめてください」


明里は不満そうに眉をひそめ、門脇を毅然とした目で見返した。門脇は少し意外そうな顔をしたかと思うと、すぐに鼻を鳴らした。


「ふうん、失礼した。でも、あの写真、そんなに撮影時間もなかったはずなのにすごいよね。よくあんなクオリティで撮れたもんだ」


その言葉に、明里は「そうなんです!」と身を乗り出した。


「カメラマンの黒瀬さんが本当にすごくて。あの日、本当に限られた時間しかなかったんです。それなのに黒瀬さんは一瞬で最高のアングルを見つけてくれて……。あの写真、実は1時間以内で全部撮り終えたものなんですよ」


黒瀬の技術を熱心に称賛する明里の話を聞き、門脇は「なるほどね……面白い話だ」と、どこか満足げな笑みを浮かべて手帳を閉じた。


「協力ありがとう。また何かあれば連絡させてもらうよ」


門脇はそう言い残すと、足早に店を後にした。


カウンターの奥でそのやり取りを黙って聞いていた黒瀬が、ふと手を止めた。眼鏡の奥の瞳が、冷徹な分析者のそれに変わる。


(……なぜだ?)


黒瀬は、去っていった男の背中を思い返した。


(あの日、撮影時間が1時間以内という極めて限られた条件だったことを知っているのは、依頼主である佐藤社長と、現場にいた私、あるいは権田代表たちだけのはず。なぜ初対面の記者が、その事実をさも当然のように口にしたんだ……?)


ざわめく店内で、黒瀬だけがその違和感の正体を探っていた。

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