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ブラック企業の総合職からヤクザへ転職したら天職だった  作者:


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覇道との対峙

朝比奈組の本部事務所は、歴史を感じさせる重厚な造りながら、隅々まで磨き上げられた静謐な空気に包まれていた。


その最奥、組長室。 大きな革張りのソファに、朝比奈組組長、朝比奈龍平がどっかと腰を下ろしている。


「黒瀬くん、君の活躍は権田から聞いているよ。いい仕事をしているそうだね」


朝比奈は穏やかな、包み込むような声で黒瀬をねぎらった。


「ありがとうございます。微力ながら、権田興業の力になれるよう尽力しております」


黒瀬は一点の曇りもない、澄み切ったビジネススマイルで答えた。


「いい返事だ」


朝比奈は満足げに頷き、静かにお茶を啜った。


一瞬の静寂。 しかし、茶碗を卓に置いた瞬間、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚に陥った。 空気が重く、鋭く変質する。


「だが、一つ聞かせてもらいたい。黒瀬くん、お前ほどの男が、なぜわざわざこの世界に、そして権田のところに来てくれたんだい?」


朝比奈の瞳の奥に、研ぎ澄まされた刃のような光が宿った。


彼の体から、肺を押し潰すような凄まじい「覇気」が放たれる。 傍らに控えていた兵頭は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、権田もまた呼吸を忘れ、全身を硬直させた。


権田の脳裏を、遠い日の情景が掠める。



中学を出てすぐ、自分は普通の仕事に就いた。 だが、そこで待っていたのは理不尽な労働と、報われない対価だった。


社会の構造そのものに絶望し、耐えきれず退職した自分が最後に行き着いたのは、当時朝比奈が若頭を務めていた組織の敵対勢力の末端だった。


駒のように使われ、泥を啜るような日々。 女手一つで自分を育ててくれた母は、スナック『紫苑』の先代ママとして必死に働いていたが、無理が祟って病に倒れ、生活は完全に行き詰まっていた。


そんな折、所属していた組織の幹部が冷たく笑いながら、一振りの短刀を差し出してきた。


「朝比奈を殺せ。あいつは若頭だ。成功すれば、母親の治療費と一生贅沢させてやれるだけの大金をやる。数年務めてくるだけの、いい商売だろ?」


権田は錆びた短刀を握り、当時若頭だった朝比奈の前で待ち伏せた。 だが、目の前に現れた朝比奈が放つの圧倒的な存在感に、指一本動かせなくなった。


殺意は霧散し、ただ巨大な壁を前にした子供のように、その場に膝をついて泣きじゃくることしかできなかった。


そんな自分を、朝比奈は静かに見つめ、優しくこう言った。


「そんなに震えていては、何も守れないよ。……もういい。その重すぎる荷物を、俺に預けてみないか?」


朝比奈は権田を自身の懐へと引き入れると、その夜のうちに、権田を捨て駒にしようとした組織をたった一人で跡形もなく潰してしまった。 その後、朝比奈は自らの組を旗揚げし、今の朝比奈組を築き上げたのだ。



権田はその覇気に当てられながら、隣に立つ黒瀬を見た。 だが、黒瀬の微笑みは、微塵も揺らいでいなかった。


「朝比奈組長。お答えいたします」


黒瀬は、心地よい音楽でも聴いているかのような穏やかな声で続けた。


「私は前職を退職後、自身のスキルを最適に運用できる環境を求め、転職活動を行っておりました。その過程で、求人票で偶然目に留まったのが権田興業です。私はまず、企業の経営実態について徹底的なリサーチを開始しました」


「……リサーチ、かね?」


「はい。商店街の様々なお店に足を運び、聞き込みを行いました。その過程で、ここが組織に関わりのある企業であることを把握したのですが、同時に地域から深く感謝されている実態も知りました。そこで、より深く事業の実態を把握するため、変装してスナック『紫苑』にも潜入したのです」


「……潜入だと?」


権田と兵頭が、同時に驚愕の声を上げた。 黒瀬は平然と頷き、言葉を継ぐ。


「ええ。前職では、競合他社の動向や内部事情を探るため、別人に成り代わって現場に潜り込む『変装潜入』も業務の一つでした。その技術を使い、カウンターの端で、権田代表や兵頭さんの会話をリサーチさせていただき、その人間性を確認したのです。歓迎会でお邪魔した際、現在のママには気づかれていましたけどね」


「おいおい……マジかよ。全然気づかなかったぞ」


兵頭が青ざめた顔で呟く。 黒瀬は少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべた。


「結果として、権田興業は構成員を大切にする健全な組織だという結論に至りました。搾取と裏切りが常態化している一般企業よりも、この組の方が遥かに誠実な信頼関係が築けると判断したのです。私にとって、権田興業こそが理想の職場なのです」


一瞬の沈黙。 その後、朝比奈の豪快で、それでいて温かい笑い声が響き渡った。


「くかかかか! ヤクザを理想の職場として選ぶとは。黒瀬くん、お前はやはり面白い男だ」


朝比奈は覇気を解き、上機嫌に黒瀬の肩を叩いた。 だが、その瞳に一瞬だけ真剣な色が混じる。


「いいだろう、認めよう。……だが黒瀬くん。権田を裏切るような真似だけは、絶対にしないでくれ。もしそんなことがあれば、私は容赦しないよ」


「心得ております。私にとって、権田代表は人生を賭けてお仕えするに値する主ですから」



その後、権田と兵頭は先に退室を促され、部屋には朝比奈と黒瀬の二人だけが残された。


「朝比奈組長。一つお聞きしてもよろしいですか。なぜ今まで、権田代表のところに新しい人間を入れるのを許可されなかったのですか?」


朝比奈は静かに、その真意を黒瀬に語った。


「………………」


その言葉を聞いた黒瀬は、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、納得したように頷いた。


「……やっぱり、そうでしたか。承知いたしました。その件については、私も尽力させていただきます」


「頼んだよ、黒瀬くん」


二人は固い握手を交わし、黒瀬は部屋を後にした。


本部を出て、夜の街へと歩き出した一行。 ようやく緊張から解放された兵頭が、おどけた調子で口を開いた。


「いやぁ、焦りましたよ。組長のあの覇気、ワンピースの白ひげの覇王色みたいじゃないっすか?」


それを聞いた権田が、噴き出すように笑った。


「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。組長を漫画のキャラと一緒にするな。……ったく」


権田は笑いながら兵頭の頭を軽く小突いた。 その様子を後ろから眺めていた黒瀬が、ふふっとおどけた様子で、しかし確信に満ちた声で口を開く。


「……白ひげは作中で息子に裏切られたりもしますが、朝比奈組長にはそんな心配は全く無用でしょうね」


黒瀬の断言するような言葉に、権田は少し意外そうな顔をして振り返った。 街灯の光に照らされた黒瀬は、ただいつものように、穏やかで楽しそうに微笑んでいる。


これまで、その圧倒的な有能さと冷徹なまでのロジックに、どこか「得体の知れない化け物」を見ているような感覚が拭えなかった。 だが、今の黒瀬の言葉には、自分たちと同じ場所で、同じ空気を感じている者だけが持つ温度があった。


(……ああ、そうか)


権田は、ふっと自分でも気づさないうちに口元を緩めていた。 理屈じゃない。この男は、自分たちの過去も、不器用な生き方もすべて承知の上で、自らの意志でこの場所を「理想」と呼び、隣に立つことを選んでくれたのだ。


「ああ、当たり前だ。……行こうぜ、黒瀬」


権田のその声には、部下への労いではなく、背中を預ける相棒への確かな信頼が籠もっていた。 夜の商店街を歩く三人の影が、等間隔に並んで伸びていく。 黒瀬純という存在は、権田にとって、本当の意味で欠かせない「仲間」になった。

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