二人のプロ
佐藤出版の事務所内は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
入稿締め切りまで残り一時間。佐藤社長が、校閲済みのゲラを握りしめたまま、震える声で絶叫している。
「黒瀬さん……! 助けてくれ、このままじゃうちは終わりだ。地域の皆さんに合わせる顔がない!」
彼の手にあるのは、地域密着型フリーペーパー『月刊・わが街』の次号ゲラだ。今回の特集は、商店街の魅力を伝える『歩けば出会える、街の宝物』。本来は商店街の各店舗をモデルが訪れ、看板商品を紹介する構成だった。
「さっき、この記事の最終確認のために和菓子屋の主人のところへ行ってきたんだ。そしたら『こんな女、撮影に来ていない。カメラマンが一人で来て、五分くらい写真を撮って帰っていっただけだ』と怒鳴られて……。慌てて他の店にも確認したら、どこも同じだった。カメラマンは女の子なんて連れていなかったんだよ!」
佐藤社長は頭を抱え、デスクに突っ伏した。
「カメラマンに事情を聞こうとしたが、電話も繋がらない。完全に逃げられた。どうしてこんな写真が撮れているんだ……!」
黒瀬は無言で、机の上に広げられた校正紙をじっと見つめた。そこには、老舗の暖簾の前で和菓子を手に微笑む、完璧な美貌の女性が写っている。
「……なるほど。佐藤社長、落ち着いてください。この写真は合成、あるいはAIによる生成データですね」
「AI……生成!? 合成だって?」
「ええ。私はここの和菓子屋をよく利用しますが、この写真に写っている商品は、実物の焼き色の付き方や細部の造形が明らかに違います。本物にはありえない装飾が描き込まれていますので、間違いないでしょう」
黒瀬は眼鏡のブリッジを押し上げ、鋭い視線を画像に向けた。
「一般の方には判別しにくいでしょうが、光の差し込む角度に対して影の向きが不自然にズレていますし、何よりこの表情……。これほど整った笑顔でありながら、瞳の奥に焦点が合っていない。生物としての意志が感じられません」
黒瀬は事務所の時計を確認した。
「全十ページの撮り直し、レタッチ、そして入稿。残り時間は五十五分ですか。……佐藤社長、撮影機材を。ここから商店街へ走り、現場で全カットを撮影して戻る。往復の移動とセッティングを極限まで削れば、二十分で撮影を終えることは可能です。そうすれば、私のレタッチ速度で入稿に間に合わせることはできます。……しかし」
黒瀬がわずかに眉を寄せ、顎を強く引いた。その表情には、いつもの余裕とは違う、焦燥にも似た鋭さが混じっている。黒瀬の額に、微かな汗が浮かぶ。
「……計算上、全カットを十分で撮り終えれば、私のレタッチ速度で入稿に間に合わせることは可能です。ですが、肝心のモデルがいません。AIが担当していたのは、驚きや喜びといった繊細な感情です。今から商店街で代役を探して、この数分という極限状態の中で、私の求める表情を一発で引き出すのはあまりに難しい。演技の心を通わせている時間はない……!」
どれほどブラック企業で実務能力を磨き上げても、生きた人間の豊かな感情表現だけは、彼の計算だけでは生み出せない。黒瀬が初めて見せた人間らしい困惑に、事務所の空気が凍りついたその時だった。
「……あの。私じゃ、だめですか?」
開いたままのドアから、明里の声が響いた。そこには、不安そうに、けれど真っ直ぐに黒瀬を見つめる明里が立っていた。
「まだ地下だし、全然売れてないですけど……。でも、表情を、その、一秒で変える練習なら……何万回もやってきました。表情の管理なら多少自信があります! 私を使ってください。絶対に、やり抜きますから!」
明里の指先は、緊張で微かに震えている。けれど、昨夜助けてくれた黒瀬が窮地に立たされているのを見て、居ても立ってもいられなかった。自分の積み重ねてきた努力が少しでも彼の役に立つならと、震えを隠すように拳を握りしめていた。
「……明里さん。あなたがいれば、これ以上の解決策はありません。ぜひ、お力をお貸しください」
黒瀬はいつもの冷徹な表情を和らげ、彼女の覚悟を受け止めるように、優しく微笑みかけた。
「走りますよ、明里さん!」
黒瀬の声が飛ぶと同時に、二人は事務所を飛び出した。
商店街へ駆け込み、一軒目の和菓子屋の前に到着する。黒瀬は息を乱すことなくカメラを構え、鋭い指示を飛ばした。
「明里さん、和菓子の包みを開けた瞬間の、子供のような無邪気な喜びを。目線は三〇度右下、まつ毛の動きで期待感を表現してください。三、二、一……!」
「はいっ!」
明里は深く息を吐くと、一瞬で顔つきを変えた。さっきまでの緊張した少女の顔は消え、そこには世界で一番美味しいものに出会ったような、輝くばかりの笑顔があった。
「いいですね、そのまま。次は口に運ぶ直前の慈しむような表情。顎を二ミリ引いて、唇をわずかに緩めて……。はい!」
黒瀬の指示は、解剖学的な精度で筋肉の動きを規定していく。明里はそれに必死で食らいつき、要望される感情を次々と顔に浮かべていった。
「な、なんだこの二人は……」
同行した佐藤社長は、言葉を失ってその光景を見つめていた。和菓子屋の店主も、暖簾の陰から驚愕の表情を隠せない。
「前のカメラマンとは月とスッポンだ。あいつは五分で適当に撮って帰りやがったが、この男は一分一秒を惜しんでるくせに、ミリ単位のこだわりを捨ててねえ。……それに佐藤さん、この娘もすごすぎる。指示に完璧に答えて、表情を切り替える速度が尋常じゃねえ。……皮肉なもんだが、本物の人間の方が、あのAIよりも精密で完璧に見えるぜ」
「ああ……。まるで二人とも、最高の仕事をするために作られた機械のようだ」
黒瀬のシャッター音はマシンガンのように正確に響き、明里の表情はそれに応えるたびに鮮やかに塗り替えられていった。 驚き、喜び、慈しみ。言葉を重ねる必要すらない、プロ同士の呼応。全カットの撮影終了まで、宣言通りわずか十五分足らずだった。
「入稿まで残り三十五分。……ここからは私の真骨頂です」
事務所に飛び戻った黒瀬は、ノートパソコンを開き、ペンタブレットを視認できないほどの速度で走らせ始めた。
「……私のいた会社では、一ページのデザインに三分以上かけるのは給料泥棒と呼ばれましてね。脳内のレンダリングエンジンを最大出力で回します」
黒瀬の指先から、魔法のようにページが組み上がっていく。不自然なAIの虚構は、明里の生きた真実味によって、瞬く間に塗り替えられてしまった。
「――完了。全データ送信しました。……デッドラインまで残り八分。完勝ですね」
黒瀬は涼しい顔で、冷めたコーヒーを一口啜った。
「……信じられん。血の通った本物の雑誌だ……!」
佐藤社長が震える声で叫んだ。モニターに映し出されたのは、商店街の温かさに触れて笑顔を見せる、一人の女性の真実の物語だった。
「えへへ……。黒瀬さんの仕事、なんだか魔法みたいでした。あ、そうだ。今度、私のLIVE見に来てくださいね! 絶対ですよ!」
明里は最後にいたずらっぽく笑い、「お疲れ様でした!」と満足げな笑顔を残してビルを駆け下りていった。
*
夕刻。権田興業の事務所。
戻ってきた黒瀬が淡々とデスクワークを再開していると、ソファに深く腰掛けた権田が、タバコの煙をくゆらせながら口を開いた。
「黒瀬、さっき佐藤出版の社長からお礼の電話が来てたぞ。お前のことを神様か何かだと思ってやがるな、あの親父。お前を正式に雇いたいとまで言い出しやがったぞ」
「左様ですか。無事に入稿が完了したようで何よりです」
黒瀬はタイピングの手を止め、ふっと表情を和らげて微笑んだ。
「そう言っていたいただけるのは光栄ですね。喜んでもらえてよかったです」
その柔らかな笑みは、つい先ほどまで極限の入稿作業をこなしてきた男のものとは思えないほど、穏やかなものだった。
そんな時、デスクの上に置かれた権田のスマートフォンが、重々しいバイブ音を響かせた。画面に表示された名を見た瞬間、事務所の空気が一変した。権田は姿勢を正し、緊張した面持ちで通話ボタンを押す。
「……はい、権田です。……はい。……はい、承知いたしました。失礼いたします」
短いやり取りの後、電話を切った権田は、しばらくの間、無言でスマートフォンを握りしめていた。その視線が、静かに作業を続ける黒瀬の方へと向けられる。
「黒瀬。明日、本家の朝比奈組長のところへ行ってこい」
「朝比奈組長から、ですか」
「ああ。理由は言われなかったが、呼び出しだ。組長が、お前に直接会いたいと言っている」
権田の言葉に、事務所内を支配する緊張感が一段と強まった。朝比奈組の頂点に君臨する男からの直接の召喚。
「承知いたしました。朝比奈組長にお会いできるのは光栄です。準備をしておきます」
黒瀬は動じることなく、いつものように冷静な手つきで手帳に予定を書き込んだ。
その背中を見つめる権田の胸には、拭いきれない不安が渦巻いていた。佐藤出版で見せた異常なまでの有能さが、ついに本家の組長の目にも留まってしまった。
(あいつ、一体何をされるつもりだ……。もし朝比奈さんが何か仕掛けてきたら、俺はどう動けばいい……)
冷や汗が掌に滲むのを、権田はタバコを握りしめて誤魔化した。




