明里の苦悩
権田興業の事務所に、朝から権田の怒号が響き渡った。
「――いつまで寝てやがる、この大馬鹿野郎が!」
「う、ううぉ……。すんません、若頭。……頭が、割れる……」
事務所の革ソファで芋虫のように丸まっているのは兵頭だ。昨夜、黒瀬に無理やり飲ませようとして自爆した結果、無残な二日酔いを晒していた。
「今日は佐藤出版の進捗確認に行く日だろうが! 黒瀬を見ろ、あんなに飲んで一分の乱れもねぇぞ!」
権田が指し示した先には、完璧にプレスされたスーツに身を包み、一点の曇りもない笑顔でデスクワークをこなす黒瀬がいた。
「おはようございます、権田代表! 私の代謝能力は、連日の深夜残業と早朝会議の波状攻撃に耐えうるよう、前職で完全に再構築されております。ご心配なく!」
「……化け物かよ。おい黒瀬、兵頭は使い物にならん。代わりにお前が一人で佐藤のところへ行ってきてくれ」
「承知いたしました! 進捗管理ドキュメントは既に携行しております。行ってまいります!」
黒瀬は軽やかな足取りで事務所を出ようとする。
「……おう、黒瀬。……頼んだぞ、相棒」
ソファから辛うじて片手を上げた兵頭に、黒瀬は「しっかりお休みください、先輩!」と爽やかに返し、事務所を後にした。
*
佐藤出版へと続く道を歩いていると、前方に一際姿勢の良い女性の背中が見えた。昨夜、スナック『紫苑』で助けた明里だ。
「明里さん、おはようございます。昨夜はお怪我などありませんでしたか?」
「えっ? あ、昨日の! 黒瀬さん……でしたよね。昨日は本当にありがとうございました!」
明里はパッと顔を輝かせた。行き先が近いということもあり、二人の並んで歩くことになった。
「明里さんは、これからお仕事ですか?」
「はい。近くのダンススタジオで練習なんです。……あ、私、実はその……」
「地下アイドル、をされているのですね」
黒瀬の即答に、明里は「えっ!?」と足を止めて絶句した。
「な、なんで分かったんですか? まだ一言も言ってないのに」
「観察すれば明白です。まず、徹底して日差しを避ける歩様と、首筋の肌のきめ細やかさ。そして広背筋から僧帽筋にかけての無駄のない筋肉の付き方は、日常的なダンスレッスンによるものでしょう。何より、対面した際の視線の配り方……。それは見る者を無意識に惹きつけるよう、計算し尽くされた軌道を描いています。自己を『商品』として提示し続ける、プロのしぐさですよ」
「……なんか、レントゲンにでも撮られてるみたい。すごすぎます」
明里は呆然としながらも、自分をそこまで見てくれていることに不思議な高揚感を覚えた。
「地元でご当地アイドルをしてたんですけど、他のメンバーが大学進学や就職、それに彼氏ができたことなんかを理由に次々と辞めちゃって。結局、私一人になっちゃったから、思い切って上京して今のグループに入ったんです。事務所の社長が『あそこは常連さんばかりの安全な店だから』って紫苑を紹介してくれて……。でも、東京のアイドル界は思っていたよりずっと生々しくて」
明里は吐き出すように語り始めた。
「同じ事務所でも、お金稼ぎのためにパパ活をしたり、ファンに貢がせたり、果ては肉体関係を持って稼いでる子もいるんです。夢を追いかけてるはずなのに、みんな目が濁っていっちゃって。幸い、私のグループのメンバーはみんないい人で真面目に頑張ってるんですけど、真面目なだけじゃ全然売れなくて」
黒瀬は歩きながら、その話に静かに耳を傾けていた。
「……やはり、どの業界にも底知れない深淵があるものですね。華やかな表舞台を維持するための代償が、個人の尊厳や倫理を摩耗させる構造になっている。私のいた前職のブラックな環境もそうでしたが、夢という美名の下で行われる搾取は、よりタチが悪い」
黒瀬はそう言って、どこか遠くを見るようにしみじみと思い深げな表情を浮かべた。
「……どうしたら、もっと売れるかな? 黒瀬さんみたいに仕事ができる人から見て、私に足りないものってありますか?」
黒瀬は足を止め、少しの間、何かを思い出すように視線を落とした。普段の彼なら即答するはずの問いに、数秒の沈黙が流れる。
「アイドルというジャンルには疎いのですが……」
黒瀬は再び顔を上げると、優しく微笑んだ。
「ビジネスの観点から申し上げれば、現在の明里さんの戦略は『競合他社との差別化』が不十分です。ファンを単なる『消費者』ではなく、共に事業を拡大する『ステークホルダー』と定義し直すべきです。未完成な部分をあえて可視化し、ファンにその解決策を『議決』させる仕組みを作る。顧客のエンゲージメントを最大化させる動線設計が必要です」
明里は、今までどの大人からも聞いたことがない言葉の重みに、強く引き込まれた。
「それから、もう一点。これはここだけの、私からの個人的なアドバイスです」
黒瀬はふっと表情を和らげ、周囲に聞こえないよう、明里の耳元に唇を寄せた。
「あ、はい……っ」
明里は顔を赤らめ、鼓動が速まるのを感じた。
「胸のパッド、少し入れすぎですね。本来の形に対して僅かに不自然さが生じています。……明里さんの真の魅力は、その整った顔立ちはもちろん、繊細な鎖骨のラインから繋がる、健康的なデコルテの骨格美にある。そのスタイルであれば、虚飾で隠す必要はありません。自然体のあなたの方が、遥かに魅力的ですよ」
「…………っ!!」
明里は反射的に両手で胸を隠し、顔を耳まで真っ赤にした。そして、潤んだ瞳で拗ねたように黒瀬をじろりと睨みつける。
「な、なんで気づくんですか! 私、これでも結構気にしてるのに……もうっ!」
ぷりぷりと肩を怒らせていた明里だったが、黒瀬のあまりに真面目な顔での称賛に、耐えきれずふっと笑みをこぼした。
「……ふふ、あはは! 黒瀬さんって、そんな冗談も言えるんですね。びっくりしちゃった」
恥ずかしさを笑いで誤魔化すように、しかし嬉しそうに微笑む明里の姿は、年相応の可愛らしさに満ちていた。
「失礼いたしました。客観的な事実を述べたまでです」
黒瀬が紳士的に、しかしどこか悪戯っぽく微笑んだその時だった。
「黒瀬さん! 黒瀬さん、ちょうど良かった! 助けてくれ!」
前方にある古びた雑居ビルから、佐藤出版の佐藤社長が、なりふり構わず叫びながら飛び出してきた。その顔は悲壮感に満ち、助けを求めるように黒瀬の元へ駆け寄ってくる。
「……業務時間のようですね。失礼、明里さん。またいずれ」
黒瀬は一瞬でビジネスモードの顔に戻ると、佐藤社長に促されるままビルの中へと吸い込まれていった。
「あ、ちょっと待って……!」
明里は言い返そうとして手を伸ばしたが、あまりに切迫した様子の佐藤社長と、その背後に見え隠れする慌ただしい空気に足が止まる。
何らかの大きなトラブルが起きていることは明白だった。
「大丈夫かな、あの人……」
明里は不安そうにビルを見つめたまま、しばらくその場から動くことができなかった。黒瀬が消えていった暗いエントランスの奥が、どうしても気になって仕方がなかった。
*
昼下がりの権田興業。
ドアベルが鳴り、スナック『紫苑』のママが姿を現した。
「あら、剛志。一人?」
「ああ、兵頭は二日酔いで死んでる。黒瀬は外回りだ」
ママは「昨日はありがとう」と、お礼の品をデスクに置いた。客がいない事務所。二人の間には、長年連れ添ったような落ち着いた大人の空気が流れる。
「ねえ、剛志。私たち、もういい歳だし……。そろそろ、ちゃんとした形にしてもいいんじゃない?」
ママが真剣な瞳で問いかける。権田はタバコに火をつけ、静かに煙を吐き出した。
「……ヤクザと結婚してもいいことなんて一つもねぇよ。お前までこっち側の汚れを引き受ける必要はない」
「私、あなたのことをヤクザだと思ったことなんて、一度もないわよ」
ママはふふっと微笑み、権田の手に自分の手を重ねた。一瞬、優しい沈黙が流れた後、ママが思い出したように切り出した。
「そういえば、新しく入った黒瀬さん、いい人ね」
「……黒瀬がどうした」
「今日の営業前に店に来てくれたのよ。『昨日の輩がまた来たら、このデータをばらまいてください』って、USBメモリを置いていってくれたわ。中にはあの銀行員たちの不祥事の証拠がびっしり入ってるんですって。アフターフォローまで完璧で驚いちゃった」
権田は絶句した。
黒瀬は今朝、事務所に一番乗りして何食わぬ顔でデスクワークをしていたはずだ。その前に店へ寄り、昨夜のトラブルの「根回し」を済ませていたというのか。
「あの子、きっとこの会社を変えるわよ。もしかしたら……朝比奈組ごとね。大切にしてあげて」
ママは全てを見透かしたような柔らかな微笑みを残し、店へと帰っていった。
一人残された事務所で、権田は深いため息をついた。
朝比奈組長からは「爆弾かもしれん」と警戒を促され、最も信頼する女からは「組織を変える存在だ」と告げられた。
(爆弾か、それとも救世主か……)
どちらにせよ、自分たちの常識が通用しない相手であることは間違いいない。権田は、黒瀬が去ったドアの先を見つめながら、拭いきれない不安と、それを上回るほどの奇妙な期待感に、頭を悩ませていた。




