歓迎会
ネオンが揺れる夜の街。
朝比奈組が古くから贔屓にしているスナック『紫苑』は、昭和の香りを残した落ち着いた店構えだった。
「あら、権田さん。いらっしゃい。……あら、今日は一人増えたのね」
艶やかな着物を纏ったママが、権田の隣にそっと座る。
二人の間に流れる空気は、単なる客と店主のそれではない。長年の積み重ねを感じさせる、湿り気を帯びた情愛がそこにはあった。
「ああ。……紹介しよう。今日からうちで働くことになった黒瀬だ。……それとママ、あの子は?」
権田の視線の先には、カウンターの端で不慣れな手つきでグラスを拭く少女がいた。
「今日から入った明里ちゃんよ。現役の大学生なんだけど、どこに出しても恥ずかしくないくらい可愛いでしょう?」
明里が小さく会釈する。その容姿は、薄暗いスナックの中でそこだけスポットライトが当たっているかのように輝いて見えた。
「黒瀬純と申します! 本日はこのような素晴らしい席を設けていただき、感謝の念に堪えません!」
黒瀬はスツールに座りながらも、完璧な角度で頭を下げた。
*
宴が始まって一時間。
「おら黒瀬ぇ! もっと飲め! 俺の注いだ酒が飲めねぇのか!」
すでに泥酔した兵頭が、呂律の回らない声で黒瀬にジョッキを突き出す。
「ありがとうございます、兵頭先輩! お言葉に甘えて、頂戴いたします!」
黒瀬は笑顔一つ崩さず、差し出された酒を次々と胃に流し込んでいく。ビール、焼酎、ウイスキー。店員の女の子たちが驚愕の表情で見守る中、黒瀬の顔色には一点の赤みすら差していなかった。
「……黒瀬。お前、相当強いんだな」
権田が感心したように呟くと、黒瀬は「いえいえ」と謙遜して手を振った。
「前職では『エンドレス・接待・サバイバル』という研修がございまして。夜は取引先の幹部の方々を全員泥酔させて契約を取り交わし、昼間はそのまま会社で通常業務をこなす。このサイクルを三日間不眠不休で繰り返すのです。美味しいお酒をこうして座って味わえる今は、まさに天国にいるような心地です!」
「……三日間、昼は仕事で夜は飲み続けだと?」
兵頭が引きつった顔で問いかける。
「他にも何かあったのか? その……研修ってのは」
「はい!『視覚情報分析フラッシュ研修』というものもございました。フラッシュ暗算の要領で、数百件の取引先の外観や内部の写真を次々と見せられ、その瞬間に経営状態を推察するのです。中には絶対に当てられないような意地悪な写真もあり、外すと苛烈なペナルティが課されるのですが……」
黒瀬が淡々と語るその内容を聞き、兵頭の脳裏に先日の光景が蘇った。一瞥しただけで全てを見抜いた異常な観察眼。それは、外せば「地獄」が待っている極限の状況下で叩き込まれた技能だったのだ。
「……それ、研修じゃねぇ。ただの『いじめ』じゃねぇか」
権田が小声で、絞り出すように呟いた。
だが、黒瀬はそれを「自分を育ててくれた慈悲」であるかのように、一点の疑いもなく感謝の言葉を述けている。
*
「ところで権田代表。なぜ権田興業は、お二人だけで運営されてきたのでしょうか?」
黒瀬がふと、真剣な顔で問いかけた。組織の規模拡大と節税対策について、淀みなく持論を展開していく。
「……朝比奈社長が、許さなかったんだよ」
黒瀬が店内に他の客がいることを考慮し、朝比奈を「社長」と呼んだことに合わせ、権田も自然に言葉を紡いだ。
「ああ。現場の元気な連中を入れようとしたこともあったんだが、社長は『入れるならきちんとした人間を入れろ。会社の名前だけで商売ができる時代は終わったんだ』と一蹴されてな。……そこで、この兵頭が暴走したんだ」
「兵頭先輩が?」
「朝比奈社長の言葉を文字通りに受け取ってな。あろうことか、一般の求人サイトに勝手に申し込んじまったんだよ。……その結果、お前が来た」
「なるほど! 兵頭先輩の、なんと柔軟なリクルーティング能力……。業務内容からすると身内を入れた方が安心そうなものですが、朝比奈社長には、一般人には計り知れないお考えがあるのかもしれませんね」
黒瀬は感激していたが、内心では朝比奈という男の深謀遠慮に、わずかな興味を抱いていた。
*
その時だった。
カラン、とドアベルが鳴り、騒がしい一団が入ってきた。
初めてこの店を訪れた様子の男たちは、入るなり店内を見回して鼻で笑った。
「なんだこの店、化石か何かか? 空気がカビ臭いな」
「まあまあ。こういう掃き溜めみたいな店にこそ、掘り出しもんがいるんだよ。……ほら、あそこの姉ちゃんとか」
嫌味な笑いを浮かべた一団は、注文を取りに来た明里の顔を見るなり、下卑た視線を這わせた。一際態度の大きい男が、明里の細い腕を乱暴に掴み上げる。
「おい姉ちゃん。こんな寂れた店には勿体ないツラだな。……時給いくらだ? 俺が倍出してやるから、今夜はアフターに付き合えよ。その短いスカートの中も、しっかり『査定』してやるからな。ははは!」
男たちの下品な笑い声が響き、明里が屈辱と恐怖で身を竦ませる。
その瞬間、さっきまで机に突っ伏して酔い潰れていたはずの兵頭が、音もなく立ち上がった。その瞳からは濁った酔いが完全に消え失せ、鋭利な刃物のような殺気が立ち昇っている。
「……おい。やらせておくのか、若頭」
兵頭は平然とした声で、しかし確実に相手の喉笛を掻っ切る準備を済ませていた。だが、権田はそれを手で制した。
「待て、大河。……朝比奈社長は、関係のない一般人に迷惑をかけるのを何より嫌う。ここで騒ぎを起こせば、社長の顔に泥を塗ることになる」
極道の凄みを見せつつも冷静さを失わない権田。兵頭が歯噛みしたその時、黒瀬が静かに立ち上がった。
「失礼いたします」
黒瀬はいつもの笑顔で、男の背後に立った。
「お客様、お楽しみのところ恐縮ですが。……失礼。貴方様のその仕立ての良いスーツ。左袖のボタンが一つだけ特注の貝ボタンに替わっていますね。そしてその腕時計。東和銀行で勤続二十年以上の管理職のみに贈呈される、グランドセイコーの限定モデルとお見受けしますが……」
男の動きが、ぴたりと止まった。
「あぁ!? なんだお前、サラリーマン風情が……」
「東和銀行の融資管理部、それなりの役職の方ではございませんか? ……ところで、例の『不動産融資における書類偽造の隠蔽』ですが、今も滞りなく進んでいらっしゃいますか?」
黒瀬が発したその言葉に、男の表情が凍りついた。自分たちはこの場では一言も仕事の話、ましてや不祥事の話などしていない。
「……っ!? なぜ、それを……貴様、何者だ!」
黒瀬の声は、周囲には聞こえないほどの低いトーンに変わった。
黒瀬は男の耳元に口を寄せ、静かに、しかし明確に囁いた。
「前職で少々ご縁がありましてね。――専務直轄の裏口座、三番口。あれの隠蔽指示書が今、どこの倉庫のどのファイルに隠されているか……私がここで、金融庁の通報窓口宛てに確認の電話を入れましょうか?」
その瞬間、男の顔から血の気が完全に失せた。
組織の最深部に眠る、ごく一部の人間しか知り得ないはずの極秘情報。それを目の前の「正体不明の男」が、笑顔で、正確に指摘したのだ。
「……っ!? あ、あぁ……」
「お引き取りを。……ああ、それから。こちらの女性には、誠心誠意の謝罪を。よろしいですね?」
黒瀬の瞳から光が消え、底知れぬ「虚」が男を射抜く。
男はガタガタと震えながら明里に深々と頭を下げると、仲間を引き連れて逃げるように店を飛び出していった。
「……あ、あの。ありがとうございました」
「いえ。……お怪我はありませんか?」
明里が頬を染めて黒瀬を見上げる。
「……黒瀬。お前、今のは……」
黒瀬は振り返ると、いつもの爽やかな笑顔に戻っていた。
「申し訳ございません、権田代表! 少々……飲みすぎたのかもしれません。前職での特殊クレーマー対応を思い出してしまい、つい言葉が過ぎました!」
黒瀬は照れたように頭をかいた。
だが、権田は見ていた。客を追い出した瞬間の黒瀬の目が、一切笑っていなかったことを。
権田の背中を、正体不明の悪寒が駆け抜ける。
この男は今、こともなげにメガバンクの最深部の機密を口にした。ヤクザがどれだけ金を積み、脅しをかけても届かないような「致命的な情報」を、まるでお天気の話でもするかのように、当たり前のように握っている。
(……こいつ、一体どこまで『知って』やがるんだ?)
もし黒瀬がその気になれば、銀行だけでなく、自分たち朝比奈組の「闇」すらも、既にその透徹した観察眼で暴き出しているのではないか。
黒瀬の謙虚な態度が、今は逆に底知れない不気味さを助長させていた。
権田は、朝比奈組長の「監視しろ」という言葉の真意を、ようやく理解し始めていた。この男はただの有能なサラリーマンではない。自分たちの常識を情報という力で根底から塗り替えてしまう、極めて危険な「爆弾」だ。
笑顔を絶やさない黒瀬の横顔を、権田は強い警戒心を込めた目で見つめ直した。




