基準値の相違
朝比奈組の本部、組長室。
壁一面の書棚には高価な初版本が並び、室内にはバッハの旋律が微かに流れている。暴力の気配など微塵もない、洗練された空間。
組長の朝比奈龍平は、眼鏡の奥の穏やかな瞳で詩集をめくりながら、傍らに直立する権田へ、慈しむような視線を向けた。
「……ほう。件のサラリーマンを、本当に雇ったのかい、権田」
その声は、実の息子に語りかけるような温かさに満ちていた。
「はい。面白い男です。即戦力として期待しております」
権田が答えると、朝比奈はふっと口角を上げ、手招きをした。権田が歩み寄ると、朝比奈はその肩を優しく包むように手を置いた。
「権田。お前は昔から、一度惚れ込んだ相手には甘いところがある。……私はね、組の存続なんてどうでもいいんだ。だが、お前が心血を注いでいる『権田興業』を、どこの馬の骨とも分からん男に壊されるのだけは、耐えられんのだよ」
朝比奈にとって、組織の安泰よりも、権田の情熱の結晶である会社こそが優先事項だった。それほどまでに、朝比奈は権田を実の息子のように可愛がっていた。
「その黒瀬という男……少々、裏社会の情報に詳しすぎやしないかな。監視は怠るな。変な行動がないか、その男の正体を注視しろ。いいね、権田」
「……はっ。承知いたしました」
権田は深く頭を下げ、親父の温かな気遣いを感じながら、組長室を後にした。
*
事務所の外、快晴の空の下を兵頭と黒瀬は歩いていた。
「いいか黒瀬。今日は大事な仕事だ。ここから俺が権田さんに認められた、記念すべき最初のシマだからな」
「左様でございますか、兵頭様。同行させていただける光栄、一生の思い出にさせていただきます!」
「……おい、黒瀬。その『様』ってのはやめろ。組織の人間なんだからよ」
「失礼いたしました。では、業界の先達として……『兵頭先輩』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
黒瀬は、憧れの上司を見つめるような純粋な瞳で問いかけた。
「……せ、先輩、か。まぁ、それなら普通だな。構わねぇよ」
兵頭は素っ気なく答えたが、内心では猛烈な喜びが込み上げていた。初めて出来た後輩。兵頭はバレないように僅かに胸を張り、意気揚々と歩き出した。
辿り着いたのは、市街地の隅にある小さな書籍会社『佐藤出版』。
「佐藤社長! 権田興業の兵頭だ、入るぞ!」
兵頭がドアを勢いよく開ける。奥から、中年の佐藤社長が、今にも倒れそうなほど青ざめた顔で立ち上がった。
「ひ、兵頭さん……! お願いです、今月だけは、今月だけは勘弁してください! 今、ここで五十万を支払ってしまったら、うちはもう終わりなんです。お願いします、お願いします……!」
佐藤はデスクに縋り付き、涙ながらに繰り返した。なぜ払えないのか、理由すら言えないほどの極限状態にあることは明らかだった。
「あぁん!? 待て待てって、半年も同じこと言ってんだろうが!」
兵頭がデスクを叩き、佐藤の胸ぐらを掴もうと腕を伸ばした――その時。
黒瀬の指先が、兵頭の手首を軽やかに制した。
「――兵頭先輩。少々よろしいでしょうか」
兵頭は目を見開いた。
全力で突き出したはずの腕が、まるで鋼鉄の柱に固定されたかのように、空中で完全に静止している。
(……なんだ、この力……!?)
黒瀬の指先は、羽毛のように軽く触れているように見える。だが、そこから伝わる圧力は尋常ではなかった。兵頭がどれだけ力を込めても、その腕は一ミリたりとも動かせない。
黒瀬は微笑を絶やさぬまま、兵頭の腕を吸い付くような動きで静かに下ろさせた。その圧倒的な身体能力の差に、兵頭の背中を冷たい汗が伝う。
「申し訳ございません。ですが、こちらから伺いたいことがございます」
黒瀬は怯える佐藤に向き直った。その瞳は、瞬時に室内の情報を掬い上げていく。
「佐藤社長。奥にある印刷機、三日以内にオーバーホールを済ませましたね? さらにこの用紙……45kg厚の高級更紙。この規模の会社には不釣り合いな高速輪転機用ペーパー。そしてこのインクの芳香……速乾性の特殊染料。……佐藤社長、栄光進学ゼミナールの教材リニューアル、それも『超特急案件』ですね?」
佐藤社長は、言葉を失って固まった。一言も発していない仕事の内容を、この男はなぜ知っているのか。
「ですが、シアンのインクの在庫が残り三缶しかありません。それではあと数時間で印刷が止まってしまう。……佐藤社長、あなたはこの案件のために、今日我々に支払うべき五十万円を、明日のインク代の決済に回そうとして……結局、どちらも選べずに立ち尽くしていた。違いますか?」
「……えっ。あ、あぁ……」
「社長、この案件の価値は『納期』にあります。もし一日でも遅れれば特急単価は消失し、通常価格にまで叩かれる。そうなれば、この仕事は赤字に転じ、あなたは二度と立ち上がれなくなる」
黒瀬の冷静沈着な、しかしあまりにも的確な指摘に、社長はその場に泣き崩れた。
「……そうです、その通りです。言っても無駄だと思っていた。どうせ聞き入れてもらえず、取り立てされて、材料も買えずに案件を断るしかないと……。でも、まさかそこまで見てくれているなんて……!」
黒瀬は、無言で兵頭を振り返った。その眼差しは、後輩として先輩の采配を待つ純粋なものだった。
「あ、あー……。佐藤。一ヶ月、待ってやる。その代わり、きっちりこの仕事を完遂させろ。……話を聞いてもらえたのは、初めてか。……しっかり稼げよ」
佐藤社長は、信じられないという顔で何度も床に額を擦り付けた。
*
権田興業の事務所に戻るなり、権田はデスクを叩いて兵頭を怒鳴りつけた。
「……何だと? 手ぶらで帰ってきたのか、兵頭!」
「い、いや、若頭。これには深い理由がありまして……」
兵頭がたどたどしく状況を説明している最中、黒瀬がスッと一枚の書面を権田の前に差し出した。
「こちらが一ヶ月後の完済を見込んだシミュレーション表です。ご確認ください、権田代表」
あまりの早さと正確さに、権田と兵頭は言葉を失った。
「……おい、いつの間にこれを作ったんだ!?」
「兵頭先輩が状況を説明されている時間が少々ありましたので。補足資料があれば理解が深まると思い、僭越ながら作らせていただきました」
黒瀬は爽やかな笑顔を浮かべている。資料には、インクの不足量、納期遅延による単価下落のリスク、そして一ヶ月後の想定利益が完璧な精度で記載されていた。
「感動いたしました! 前職では『ゴルフ場臨機応変研修』というものがございまして。社長が放つゴルフボールを常に避けながら、一秒の遅れも許されない制限時間の中、その場でノートパソコンを開いて資料や企画書を完成させねばならなかったのです。ミスがあれば一日中続けさせられる地獄でしたが、机のあるここは楽園です!」
黒瀬は、救いを見つけた聖者のような目で語り続ける。
「それから、兵頭先輩を制止した際、私の握力不足で不快な思いをさせてしまったかもしれません。前職では若手はシュレッダーを禁じられ、電話帳を素手で引きちぎる『手動シュレッダー業務』が義務でして……」
黒瀬は申し訳なさそうに、自分の大きな掌を見つめた。
「あの業務のおかげで、多少は握力に自信があったのですが……。先輩は私が止めやすいよう、あえて『弱い力』で掴みかかってくださったのですね。次からは本気の先輩をしっかり止められるよう、鍛え直さなければなりません!」
兵頭は、自分の手首をさすりながら戦慄した。
全力の腕を、電話帳を引きちぎる指先で封殺しておきながら、この男は何を言っているんだ。
「……ははっ。ははははは!」
あっけにとられていた権田が、たまりかねたように吹き出した。
あまりの有能さと、その根源にあるブラック企業の狂気が、常識を遥かに超えていたからだ。
「……面白い。一ヶ月待とうじゃないか。兵頭、お前の判断は正しい。佐藤社長にはきちっと稼いでもらおう。それが結局、一番確実な回収方法だ」
権田は、黒瀬が作った資料を満足げに眺めた。
「兵頭、これはお前の大切な仕事だぞ。佐藤社長が稼げるように監視しろ。場合によっては追加融資も検討して構わん。佐藤社長に稼がせて、うちにも金が入る。これこそが本当の『Win-Win』だ。いいな」
「はっ! 承知しました、若頭!」
兵頭は背筋を伸ばして答えたが、冷や汗を流していた。
事務所の窓の外を眺めながら、権田は朝比奈に言われた言葉を思い出していた。
――監視は怠るな。その男の正体を注視しろ。
権田は、その言葉の本当の意味をしみじみと噛み締めていた。
朝比奈が危惧していたのは、この男の悪意ではない。
ブラック企業という地獄で超人として再構築されてしまった、この男の「基準値」そのものなのだ。
この男が笑顔で持ち込む「ホワイトな常識」が、自分たちの世界の法を、根底から塗り替えてしまう。
その光景に、権田は期待と、得体の知れない恐ろしさを同時に感じていた。




