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ブラック企業の総合職からヤクザへ転職したら天職だった  作者:


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ブラック企業の生存者

朝比奈組の本部、組長室。

 壁一面の書棚には高価な初版本が並び、室内にはバッハの旋律が微かに流れている。暴力の気配などどこにもない、洗練された空間だった。

 組長の朝比奈龍平は、眼鏡の奥の穏やかな瞳で詩集をめくりながら、傍らに置かれたタブレットを指差した。

「……権田君。私はね、組織の『近代化』という試みは、大いに評価しているんだよ」

 朝比奈の声は、春の陽だまりのように温かかった。

 だが、その前で直立不動になっている朝比奈組若頭・権田剛志の背中には、滝のような冷や汗が流れている。

 かつて死にかけた自分を拾ってくれた恩人であり、心底敬愛する親父。その親父が、いつもなら呼び捨てにするはずの自分を「君」と呼んだ。権田の喉が、引きつった音を立てて鳴る。

 室内の空気は澄んでいるはずなのに、肺に重い鉛を流し込まれているかのような圧迫感に、権田は呼吸を忘れていた。

「ただね。君が代表を務める『権田興業』の名で、一般の求人サイトにここまで生々しい募集要項を載せるのは、少々……独創的が過ぎるんじゃないかな」

 朝比奈が指先で画面をスライドさせる。そこに映し出されていたのは、権田の舎弟である兵頭大河が作成した求人内容だった。

【職種:ライフ・ソリューション特交渉・総合職】

・不払い債権および不動産トラブルに関する「直接対面」での解決。

・他社との「エリア獲得競争」における、現場での実力行使。

・上司からの指示に「即・決・断」で動ける、軍隊並みの機動力。

【待遇】上げた成果はそのまま「現金」で還元!

「……権田君。警察の諸君が『僕も現場での実力行使をしてみたい』と面接に来たら、どう説明するつもりだい?」

「も、申し訳ございません! すぐに削除させますッ!!」

「……うん。権田君に免じて今回は許すがね。次は、ないよ」

 朝比奈が口角を上げ、柔らかく目を細める。権田は、その一瞬で自分の心臓がせり上がるような錯覚を覚えた。

     *

 這々の体で権田興業の事務所――築四十年の雑居ビルに戻るなり、権田はデスクを蹴り上げた。

「兵頭! あのバカな求人を今すぐ消せ! 親父に殺されるところだったぞ!」

「えっ! 権田さん、ダメでしたか? 俺なりに、若頭が目指すクリーンでパワフルな組織を今風のビジネス用語で表現した、俺史上最高の募集だったんすけど……!」

 金髪の若手、兵頭大河は、自分の成果を否定されたことに本気で困惑した顔をした。権田を崇拝するあまり空回りする彼は、威勢こそいいが、その声には落ち着きのない上ずった響きがある。

「いいから消せ! 実力行使なんて書く奴があるか! 警察への招待状だろうが!」

「あ、でも若頭! 消そうとしたら、1件エントリー入ってますよ! ……あー、でも、なんかパッとしないカタギのサラリーマンっすね」

「……は? こんな裏の求人丸出しの募集に、なんでそんな奴が応募してくるんだよ」

「黒瀬純、二十八歳。前職は不動産会社。……若頭、無視してあとで虚偽求人だなんて騒がれたらリスクっす。会って丁寧に断るのがリスクマネジメントっすよ!」

 兵頭の屁理屈に、権田は毒気を抜かれた。

「……チッ。呼べ。ビビらせて、穏便に辞退させれば済む話だ」

     *

 数時間後。事務所のドアをノックし、現れたのは――。

「初めまして! 黒瀬純と申します! 本日は貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます!」

 そこに立っていたのは、驚くほど明るく、眩しいほどの笑顔を浮かべた男だった。

 身につけているスーツ自体は、標準的な既製品だろう。しかし、一分の隙もない着こなしと、天を突くように真っ直ぐな背筋が、その布地に不思議な気品を与えていた。

 決して高級品ではないはずの服が、まるで一流の仕立て屋が誂えた礼服であるかのように錯覚させる。その隙のない立ち居振る舞いは、過酷な現場で磨き上げられた究極の作法そのものだった。

 事務所の隅では、兵頭がパイプ椅子に座り、これ見よがしにバタフライナイフを広げていた。

 研ぎ石で刃を研ぎ、油を含んだ布で丁寧に磨き上げる。カタギを震え上がらせ、辞退に追い込むための、兵頭なりの最大限の威嚇だった。

 権田はその様子を一瞥し、また馬鹿なことをして、と心の中で深く溜息をついた。だが、ここで兵頭を叱りつければ余計に話がこじれる。権田は呆れた感情を押し殺し、何事もなかったかのように面接を続行することにした。

「……黒瀬さん。あなたの経歴を拝見するに、この小さな不動産コンサル会社は少々物足りないのではないですか?」

 まずは丁重に場違いであることを告げる。だが、黒瀬の返答は権田の予想を遥かに超えていた。

「いいえ! 募集要項を拝見し、独自に御社のバックボーンも研究させていただきました。その結果、これほどまでに誠実で透明性の高い職場は他にないと思い、志願させていただきました!」

 黒瀬は、一点の曇りもない瞳で、熱っぽく語った。

「バックボーン……だと?」

 権田の目が鋭くなる。黒瀬は明るい笑顔を崩さぬまま、さらりと続けた。

「はい。御社が朝比奈組の系列であり、実質的なフロント企業であることも把握しております。ですが同時に、朝比奈組が極道界においても、地域への貢献と人情を何より重んじる稀有な組織であることも存じております!」

 黒瀬は、心から感銘を受けたような表情で声を弾ませる。

「弱きを助け、筋の通らない搾取を許さない。その徹底された『任侠の理念』に裏打ちされた経営体制こそ、私が探し求めていた理想の環境です。そんな高潔な組織で働けるチャンスを、単なるレッテルのせいで逃すなど、営業マンとしてあり得ません!」

(……待て。コイツ、俺の正体を全部知った上で、本気でここを『ホワイト』だと思って座ってやがるのか)

 権田の背中を、嫌な汗が伝う。目の前の男は、あまりにも真っ直ぐに、そして穏やかに笑いかけてくる。

「……面白ぇな、あんちゃん。お前、自分が何を言ってるか分かってんだろうな。ここはカタギが履歴書を汚しに来る場所じゃねぇぞ。……黒瀬。質問を変えよう」

 声のトーンを落とし、腹の底から響かせる。

「お前ほどのスペックがあれば、一流企業でいくらでも椅子があるだろう。なぜあえて、こんな職場を選んだ?」

「はい! 綺麗事ばかり並べて中身が不透明な企業よりも、御社のようになすべきことを明確に開示されている現場こそ、真にフェアな職場だと確信したからです!」

 黒瀬は、心からの喜びが溢れ出したような笑顔で答えた。

「前職の不動産会社では、GPSで二十四時間、行動を管理されていました。社内チャットには深夜だろうと即レスが義務付けられ、一秒でも遅れれば翌月の給与査定から理不尽な罰金が引かれるんです。それに比べれば、御社の即レス・即動という条件は、非常にプロフェッショナルでフェアな環境だと感じます!」

 部屋の隅でナイフを研いでいた兵頭の手が、止まった。

「……深夜に即レス、遅れたら罰金……?」

「さらに感動したのが、現場の皆様の意識の高さです。あちらの兵頭様……!」

 黒瀬が、弾けるような笑顔で兵頭を指差した。

「えっ、俺!?」

「素晴らしいです! 常に道具の手入れを怠らず、いつ何時でも完璧な仕事ができるよう備えていらっしゃる。前職の上司は、手入れもしていない灰皿をいきなり投げつけてくるような方でした。それに比べれば、兵頭様のように静かに牙を研ぎ、プロとしての準備を欠かさない方の下で働けるのは、私にとって最高の幸せです!」

 黒瀬の瞳が、本物の感謝と感動で潤む。

「これほど安全配慮義務とプロ意識が徹底された温かい職場を、私は他に知りません!!」

 兵頭は、自分の指先を震える手で隠すように、慌ててナイフを畳んだ。暴力の世界に身を置く自分が、目の前の男が語る日常の毒気に当てられ、呼吸を乱している。

 権田は、椅子の背もたれに深く身を預けた。

 この男は、本気で言っている。

 皮肉でも、命乞いでもない。

 

 世間が「ヤクザ」と呼んで避けるこの場所を、この男は、前の職場よりずっと筋の通った「希望の場所」だとして、心から救いを求めてやってきたのだ。

「……はっはっは! 面白い。黒瀬、採用だ。総合職として、君の経験を、我が社の現場で試させてもらおう。うちの仕事は、前の会社よりずっと筋が通っていて、フェアだぞ」

「ありがとうございます!! 精一杯、御社の利益に貢献させていただきます!!」

「兵頭、お前が教育係だ。しっかり教えてやれよ」

「えっ!? あ、はい……」

 黒瀬は、たじろぐ兵頭に向かって、一点の曇りもない笑顔で深く頭を下げた。

「兵頭様! これからご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます! 私、どんな理不尽にも慣れておりますので、どうか遠慮なくお申し付けください!」

「お、おう……よろしくな、黒瀬」

 兵頭は思わず一歩後ずさった。

 

 自分たち極道よりも遥かに深い闇を、笑顔で「当たり前」として語るこの男。その純粋すぎる瞳に、兵頭は言いようのない恐ろしさを感じ始めていた。

 こうして、朝比奈組のフロント企業『権田興業』に、底知れぬ男が誕生した。

 本気で地獄を生き抜いてきた男にとって、極道の世界は、優しさに満ちた最高のホワイト企業だったのである。

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