後編
第12話 倫理・現社:合意の値段と、守りたいもの
昼のチャイムは、告別の鐘に似ていた。
掲示板の指令が白く滲む。
《倫理・現代社会イベント:臨時総会ふたたび》
《議題:透明化の是非/放送室開放の最終承認》
《方式:公開討論→合意形成→採決(可決には三者合意+出席過半数)》
《副作用:合議の痛みは“場”に蓄積し、発言者の“輪郭”を消耗させる》
体育館がまた議場へと変貌する。壇上の中央に長机、左右にマイク。天井の梁に吊られた黒い小球は、音量・抑揚・沈黙の長さを数値化し、壁際のモニターに“疲弊率”を赤で刻んだ。監督者の仮面はスクリーンの奥に退き、ただ「モデレーター」としての薄い線を保っている。
帆花が木槌を軽く鳴らす。「開会します。議題は二点。“透明化”の是非と“放送室開放の最終承認”。——まず、透明化についての意見陳述を受けます」
最初に壇に立ったのは、神前だった。
彼が自分からマイクの前に出るのは、はじめてと言っていい。いつもの砂糖をまぶした笑顔は、今日は切れていた。代わりに立っているのは、やけどの跡みたいに硬い表情だ。
「……俺は、支配した。そう言われている。否定はしない」
体育館の空気がわずかに撓む。
「でも、理由は“えらそうだから”じゃない。俺には守りたいものがあった。妹が、病院にいる。親は共働きでも足りない。だから、学校の“応援金”制度に目がくらんだ。最終選考者にギフトカード一万円。——笑うだろ? でも俺には具体的な救いに見えたんだ。千円の積み重ねで薬が買える。だから、効率を最優先した。弱い奴は囮に、強い奴は前へ。貸し借りの帳簿を作った。……その結果、名前が薄くなる奴が出た。それも、知ってる」
静かなざわめき。
帆花はゆっくり頷き、言葉を選ぶ。
「理由は、受け取った。けれど——だからと言って、名前を薄くしていい理由にはならない。あなたの“守りたい”は、あなたのもの。なら、それを、ここで——みんなの前で、正面から言って」
神前は歯を噛み、視線を落とし、そして上げた。
「……俺は、俺の班を守る。間違ってるかもしれない。けど、守る対象が必要だった。放送室の鍵が欲しいのも、帰るためだけじゃない。俺は、誰かが返せない借金の重さを“仕組み”に押し付けた。あれは、俺の弱さの上塗りだ」
短く、重い沈黙。
“疲弊率”のゲージが、ゆっくり上がる。嘲笑が零れ、ため息が混ざる。囁き声が揺れ、沈黙の塊が足元に溜まる。
そのすべてが、真澄の胸に流れ込む。**保留**は“場”の熱を飲み込み、冷静へ変換する器だ。だが今日は、器の縁が危うい。自分の輪郭が、また砂丘のように崩れかける。
七瀬が袖から近づき、真澄の手を握った。
「方法は君だけのものじゃない。負荷分散しよう」
帆花はすぐに頷く。「議事運営で、ルールを守らせる。発言の順番・時間・反論の機会。——独占はさせない」
「**演算**で、順番最適化」七瀬はタブに視線を落とす。「賛否と未定の波形を読む。極端が続かないよう“中間の声”を挟む」
「索引で誤情報を排除」糸井は資料束の背を揃え、ページの角に目印を置く。「数字の出どころ、規約の文言、言葉の定義。“適応”の意味を紙の上で解剖する」
「共鳴で嘲笑の波を相殺」小此木は体育館の反射音を計り、壁と床の角で微音を鳴らす。「“はっ”という短い笑いは2kHz付近に偏る。位相をぶつけて薄める。——“笑い”は残す。侮蔑だけ消す」
場の呼吸が、すこし整う。
真澄は胸で拍を数え、器の縁に水を注ぐように余白を作り直した。
“合意の痛み”は全員で持つ設計。——それなら、器は割れない。
◇
討論は続く。
「透明化は“適応”だ」という誰かの言葉を、糸井が資料で静かに正す。「“適応”は“処罰でないこと”と同義ではない。選択可能性がないなら、それは“強制の婉曲だ”」
「放送室を開けるのは危険だ」という声に、帆花が手続きを示す。「三者合意、合意維持10分、副校長代理フラグの監査。危険を小さく分割して並べるのが手続きの役割」
「どうせ外は聞かない」という沈黙に、レオが拾った音を流す。オンエアランプの呼吸、プリンタの熱の残り。外が、ここへ糸を伸ばしている音。
真澄は、胸の器で場の熱を受けて——寝かせ、タイミングを見て返す。
冷静は、冷たさではない。輪郭だ。
輪郭があれば、合意は“形”を持つ。
次第に、発言の質が変わっていく。
攻撃は質問に、嘲笑は沈黙に、沈黙は手の挙がる音に。
“疲弊率”のゲージは上がって下がり、赤と橙の間を往復する。
終盤、保健室代表の少女が、ゆっくりと手を挙げた。
その手はもう、震えない。声は掠れ、しかし一語一語に体重が乗る。
「……わたし、債務スコアに縛られて、誰かを借り物にして、名前が薄くなって、こわかった。透明になっていく時、世界の端が削れていくみたいだった。でも——家庭科の皿を“食べたい”って言った時、味がわたしのものになった。人の声が、わたしの声に戻った。だから……みんなの名前を守りたい。放送で、最初に呼ぶ名前があるなら、それは“弱い方”からがいい。先に救われた誰かの名前が、後の誰かの踏み台になるから」
神前が、ゆっくり視線を落として頷いた。
「俺は……放送室の三者合意に、賛成する。ただし、放送の内容に“弱い者の名前を最初に呼ぶ”ことを条件にさせてくれ。俺の“応援金”は、俺のものじゃなくていい。最初に呼ぶ名前の、証明に使ってくれ」
体育館の空気が、わずかに明るくなる。
帆花は即座に議事へ落とす。「動議、採択。放送文案に“弱い方から呼称”の条項を追加。——異議は?」
沈黙。
七瀬が投票の順番を整え、糸井が条項番号を割り振り、小此木が会場のノイズを薄める。
木槌が鳴った。
「採決。賛成——挙手」
挙がる手の列に、見えない手が一本、そっと重なった気がした。
“欠けた画数”の向こうの、誰かの手。
「多数可決。放送室開放の最終承認、及び“透明化の是非”に関する暫定結論——透明化を“適応”の名で正当化しない。名は削らない。救済は手続きで」
帆花の声は、静かに強かった。
スクリーンの奥で、監督者の仮面がわずかに揺れる。
『——承認。最後の週へ』
短いアナウンス。だが、いつもより人間的な“間”があった。
◇
イベントクリアの表示が出る。
《倫理・現社イベント:クリア》
《制御鍵:倫理・現社 獲得》
《ボーナス:放送文案テンプレ(合意済み条項反映)/“弱い方からの呼称”フラグ》
《注意:合意維持10分プロトコルは依然有効。疲弊率の監視を続行》
拍手が体育館に広がる。
真澄は壇上でマイクを受け取った。
喉は乾いていたが、言葉は見つかっていた。
「……ありがとう」
一呼吸置いて、続ける。
「僕はこれまで、痛みを独りで抱えようとした。みんなの不安や怒りや恥や、孤独の熱を——胸にためて、最後にまとめて返せば、それで全部“優しさ”だと思ってた。……違ったのかもしれない。
分け合える仕組みを作ること。手続きを編むこと。笑いの位相をずらすこと、誤情報に索引をつけること、順番を最適化すること。そうやって合議の痛みを割ることが、優しさだ。
僕は、そう学びはじめてる。——ありがとう」
拍手が二度、波になって戻ってくる。
その音は、レオが言った通り和音を持っていた。
G—B—E。
胸の器のなかの熱は完全には消えない。透明はまだ、彼の胸で赤く呼吸している。
朔が——待っている。
◇
総会が散り、夕方の校舎に光が斜めに入る。
放送室の前。
扉には、国語・英語・理科・音楽・体育・家庭科・図書・情報・美術技術・倫理現社——十の灯りが揃い、紙の鍵穴はすり硝子のように白く息をする。
“合意維持10分”の砂時計が、モニターの端でゆっくりと砂を落としている。
帆花が文案テンプレを開く。「放送文案——第零稿。“弱い方からの呼称”条項、先頭に移動。明神朔、保健代表、債務スコアに縛られた者、名前の画数が欠けかけの者、透明対象。……順に呼ぶ」
「順番は音で決めよう」レオが提案する。「脈の弱い順。弱い呼吸から先に、空気に名前を置く。声が先導する」
「資料の裏付けをつける」糸井が“透明化倫理”の紙片をスキャンした。「外が設計した“適応”の語の置換証拠、添付。偽装合意の疑義、注記」
「演算は“戻す技術”に回す」七瀬は真澄を見る。「十分、君は預かる。最後の一秒で“返す”。——返したあと、君を君に戻す手順、作った。コンパイル済み」
真澄は頷く。
胸の器の縁に指をかけ、今日、議場で学んだ分割の作法で、器の内側を区切る。
“痛み”は小さな舟に分け、合意の河に浮かべる。
沈む舟が出れば、みんなで支える仕様にした。
そのとき、神前が一歩前に出て、咳払いをした。
彼の顔は、朝より人間の顔に近い。
「……俺からも一つ。さっきの条件、条項に書いた“弱い方から呼ぶ”ってやつ——俺の妹の名前は、最後でいい。先に、ここで薄くなってる奴らから。俺は、待てる」
帆花が一瞬だけ目を伏せ、そして笑った。
「ありがとう。——議事に追記。神前の個別留保。最終読み上げの最後に“待てる人の名の列”を置く」
保健代表の少女が、胸に手を当てる。
名札はまだ欠けているが、その欠けが傷でなく余白に見える。
「わたしの名前、最初に呼ばないでください。……順番は、弱さで決める。わたしはもう、“食べたい”を言えたから」
「了解」帆花が短く応じる。
彼女の目は、少し潤んで、それでも事務の光を失わない。
◇
監督者の仮面が、ふっと現れて言う。
『——私はモデレーター。合意があれば適用する。合意がなければ、何も変えない。合意の値段は、君たちが払った時間と、削れた輪郭と、——それでも残る守りたいもの』
「守りたいもの」帆花が聞き返す。「あなたに、それはある?」
仮面は、答えない。
ただ、モニターの端の砂時計を指し示すように一瞬だけノイズが走り、消えた。
「行こう」
真澄は、扉に手を当てる。
胸の器は、満ちている。
けれど、満ちたままではいられない。
返すために、預かったのだから。
朔は待っている。
外も、たぶん。
木製の長机の上に、帆花が放送原稿の最終稿を広げた。
最初の行に、薄く、しかし確かに——名前が並ぶ。
“弱い方から”。
“ここにいる順”。
“ここにいない順”。
そして最後に、“待てる人”。
七瀬がうなずき、レオが拍を刻み、糸井が索引のタブを整え、保健代表の少女が名札の一画をそっと足す。
神前はポケットから手を出し、拳をわずかに開いた。
体育館の奥で、誰かの見えない手が、二度、扉を叩いた。
こん、こん。
——合図。委任。
真澄は目を閉じ、胸の器をさらに広げた。
孤独の熱はまだ痛い。
けれど、その上に合意の編み目がかかっている。
器は、もう割れない。
臨時総会の記録は閉じられ、倫理・現社の鍵は扉の脇で金に光った。
チャイムが鳴る。
世界はまだ授業の途中だ。
次の授業は、放送。
“合意の値段”を払い、“守りたいもの”を名前で呼ぶための、三十分+十分。
扉の向こうで、オンエアランプが予告のように一度だけ点り、消えた。
——僕らはもう、決めた。
買わない。
縫う。
返す。
そして、守る。
名前で。
声で。
合意で。
第13話 地歴公民:校舎の下、抹消の由来
午前の曇天は低く、校舎全体を覆う薄い蓋だった。
掲示板に文字が浮かぶ。
《地歴公民イベント:この校の“成立史”を一次資料で再構成せよ》
《評価:史料批判/叙述の整合/公共性》
《副作用:過去の“熱”の転写——読むほどに心身が“赤外”を帯びる》
「成立史……」帆花が腕章を整え、眉をひそめる。「この校が“どうできて、どう運用されてきたか”。——つまり、“透明”の出自に触れろって言外の課題ね」
「一次資料主体」糸井雪弥が眼鏡に触れ、ポケットから細長い鍵束を出した。「地下書庫の鍵、見つけた。図書委員の代々が隠していた補助鍵。……行こう」
薄暗い階段を降りる。
足音の反響が遅れて返り、冷たい湿り気が背骨を撫でる。廊下の突き当たり、鉄扉。鍵穴は二つ。糸井が一つ目に補助鍵、二つ目は生徒会の許可で帆花がマスターを差し込む。からん、内側の棒が外れた。
地下書庫は、紙の匂いが濃かった。
背表紙が眠る列、年代ごとの箱、封蝋の残るフォルダ。壁には薄くチョークの粉がついている。レオが音を拾い、「ここ、空洞がある」と指差す。
鉄製のキャビネットを押すと、後ろに小部屋が現れた。旧制中学の刻印がある木箱、そして……金庫。
「この空気、赤外が強い」七瀬遥が言う。「過去の“熱”だ。読むだけで、今の心拍に転写される。——**演算**で熱の負荷を分散。読む順番を最適化する」
「索引を立てる」糸井は手袋をはめ、箱のラベルを読み上げる。「“暫定教育管理記録”“生徒名簿(旧)”“職員会議録”“処分簿(抹消)”。——……抹消」
抹消簿は、重かった。封を切る指先に、紙のざらりが刺さる。
開くと、戦後間もないフォーマット。生徒番号、姓名、事由欄。黒塗りが広く走り、判子は赤黒く滲んでいる。
糸井が細い定規を当て、黒塗りの端の“隙”からわずかな筆致を読む。「……“明神”の字形。旧字体。朔の祖父か、その兄弟に該当する年代」
「“暫定教育管理”の記録」帆花が別のファイルを開く。「“校内秩序の維持のため、一定の生徒について教室出入りおよび記録閲覧を制限する”。透明化の語はない。でも、やっていることは名簿上の不可視化だ」
「新しい仕様じゃない」七瀬が小さく息を吐く。「過去の慣行がコードを着替えて残っているだけ」
さらに奥の小部屋。錆びた金庫が鎮座し、ダイヤルは半分欠けていた。
レオが耳を当てる。「共鳴でピンの落ちる音を拾う。……左、17。右、3。左、21」
かちり。金庫が開いた。
中には、録音テープ。ラベルに『養護教諭・久遠奈央/管理職(匿名)』、日付は古い。
再生機は埃を被っていたが、レオが手早くベルトを切り出し、モーターを清掃し、ヘッドのフラックスの偏りを耳で補正する。「ノイズが強い。耳で磁気を読む」
回転。
ざらついた空気、紙の擦れ。そして声。
『規則を運用するだけでは、誰かの居場所が消える——そう思いませんか』
女性、落ち着いた声。久遠奈央だ。
『居場所は、校内秩序の副産物だ。秩序を守るためなら、名前の問題ではない——透明は適応だ』
低い男。名前を名乗らない管理職。
『合意は取りましたか』
『合意を取ったことにしろ。書類があれば、現実は従う』
テープはそこで一瞬、切れる。続きが途切れがちに流れ、別の会議の音。生徒名がいくつか読まれ、判子の音が乾いた打音で入る。
「……合意を“取ったことにする”?」帆花の手が震えた。
七瀬は淡々と記録する。「記録上の合意。現実の合意とは別に、帳尻合わせの署名が回っていた可能性。——ログ改ざんの起点が、ここにある」
糸井が抹消簿の別ページをめくる。そこに、旧制時代の生徒会風規程のような紙。余白に鉛筆で書かれた文字がある。
『写らない者は、記録にも残らず』
鉛筆の芯がめくれた跡が、紙に微かな谷を作っている。
「“写らない”……」
真澄は胸がぐらぐら揺れるのを感じた。
怒りが、熱に変わる。《保留》の器がじりじり焼ける。怒りの炎は輪郭を強くするが、行き過ぎれば自分を焼く。
呼吸が荒くなる。赤外の熱が皮膚の下で増幅される。
「相沢」七瀬が低く呼びかける。指先が真澄の手の甲に触れ、拍を置く。「割る。怒りを分割して“読む”に変える。歴史は、選べる」
糸井が頷く。「一次資料を読み直し、別の叙述を提案すること。僕らにできる“地歴”のクリア条件は、それだ。——史料批判で黒塗りの“言い訳”を剥がし、注記で新しい“公共”を置く」
「注記、書く」帆花はノートを開き、言葉を組み立てる速度を落とした。「透明は適応ではない。それは排除を、言葉で覆ったに過ぎない。合意は記録の都合ではなく、当事者の声である。……この文を、“抹消”ページの余白に貼り付けたい」
「貼るだけじゃ足りない」レオがテープを止める。「音も残す。久遠の声と匿名管理職の言葉、波形を“注記”に添えて、偽装合意の音の証拠にする」
七瀬がタブでテンプレートを生成する。
一次資料——出典・時期・保管番号。
注記——反証・語義・政策的含意。
可視化要素——波形・判子の押印位置・黒塗り範囲の統計。
糸井が箱から朱肉を取り出し、押印の位置の癖を並べて照合、「この管理職は同一人物の可能性が高い」と指差す。
真澄は胸の器に“怒り”をもう一度流し込み、小さな舟に分けて並べた。
舟の名前は、“問い”。
“どうして黒塗りはここなのか?”
“なぜ判子は斜めなのか?”
“誰が合意を“取ったことにした”のか?”
怒りを問いに変える。それが、器を焦がさないための手順だ。
◇
注記は、抹消簿の該当ページに透明シートで重ねられた。
《注記1:透明の語の初出は戦後以後/“適応”の語は後年の置換。同義ではない》
《注記2:合意の定義は“当事者の自由意思に基づく意思確認”。記録上の合意は代替しない》
《注記3:旧制時代の“抹消”は、地域共同体内の疎外とリンク。明神家の事例——祖父世代に当たる生徒に対し、不当な学内排除があり、その余波が今日まで立ち上がっている可能性》
帆花は最後の一行を、呼吸を整えて書いた。
《結論:透明は適応ではない。名前は権利である。抹消の語は、別の言葉で言い換えても抹消である》
その瞬間、地下書庫のモニターに監督者の仮面が現れた。
いつも流暢な合意の言葉を投げてくる存在が、初めて——沈黙した。
光学的な“間”。
やがて、表示が更新される。
《地歴公民イベント:クリア》
《制御鍵:歴史 獲得》
《注:一次資料の公開範囲は“校内”に限る。外部公開には“全校合意+監督系承認”が必要》
「外に出すためには、放送がいる」レオが小声で言った。
「そして、“全校合意”」帆花が応じる。「でも、道は見えた」
◇
帰路。
地下からの階段を上がる途中、レオがふいに立ち止まった。「……音が違う」
彼は壁の掲示に耳を寄せ、飾られた古いクラス写真の額を外した。
裏板ががたつく。
中から、もう一枚の写真が滑り出る。
制服の少年たちが、笑っている。
輪の中央は空いている——ピンぼけの一人分の空白。
誰かが腕を回しているはずの場所に、光だけがある。
裏面の走り書き。鉛筆で、急いで書かれた。
『写らなかった』
帆花が息を呑む。
糸井は写真の端の反りを押さえ、紙質とインクから年代を読む。「旧制末期。抹消と同じ時期」
真澄は写真の“空白”に手をかざした。
冷たさはない。けれど、風が通り抜ける。
写らないこと。名簿に載らないこと。声が届かないこと。
それらは別々の事故ではなく、——同じ系統の設計だ。
写真の化学反応、名簿の文字、放送の電波。すべては可視化と記録と伝達の技術で、そこに“選別”が仕込まれていた。
「放送で叫ぶだけじゃ足りない」七瀬が隣で言う。視線は前を向き、声は低い。「歴史の注釈を、外に送る——それが必要だ。“SOS”に、根拠をつける」
「透明は適応ではない。名前は権利だ」帆花は写真を抱え、額縁を閉じる。「合意を偽装した記録に、合意で対抗する」
「音も、載せる」レオが頷く。「声の証拠を添えると、人は耳から信じ始める」
「索引は僕が整える」糸井が指先で空中に目次を描く。「“抹消”“適応”“透明化”“合意”“代理権限”——外の人が読み下せる語の階段を作る」
「《保留》は?」と帆花が問う。
真澄は胸に手を置き、短く笑った。
「預かるよ。怒りも、孤独の熱も、注記の言葉も。放送の最後の一秒で、返す。でも——分割する。合意で割る。俺ひとりの“優しさ”で燃やし尽くさない」
階段を上がり切った先、廊下の窓から弱い日差しが差す。
掲示板の隅では、“最終週”のアラートが点滅していた。
歴史鍵が扉の脇に加わると、放送室の表示が一段明るくなる。
《要件残:合意維持10分/放送文案最終承認(条項:弱い方から呼称/注記の外部送信)/監査フラグ有効化》
神前が廊下の向こうから歩いてきた。足取りは早くないが、迷いはない。
「地下、行ってたのか」
「由来を拾ってきた」帆花が写真を示す。
神前は写真を見つめ、長く黙ってから言った。「……俺の“守りたい”が、今、どこを向けばいいか。やっと、わかった気がする」
保健代表の少女が、名札の一画をそっとなぞる。欠けはまだある。けれど、その線は戻る方向に傾いていた。
「放送、怖い。でも、名前を呼ばれるの、怖くないようにしたい。——“弱い方から”なら、少しだけ、うれしい」
真澄は写真の空白にもう一度、掌を置いた。
空白は、無じゃない。
“ここにいた”という記憶の凹みだ。
その凹みに、注記という糸を通し、放送という針で表へ引き出す。
歴史は、選べる。
なら、僕らの叙述を——外へ。
「行こう」
彼は言った。
保留の器は今日、過去の熱で少し赤い。
でも、割れてはいない。
合意で補強され、注記で縫われたからだ。
放送室の前に立つと、扉の向こう、オンエアランプが呼吸を一つ。
窓際に置いた古い写真の空白が、淡く光に透けた。
裏面の走り書き——『写らなかった』。
それに、真澄は心の中で付け足す。
『——写す。声で』
世界はまだ授業の途中だ。
次の科目は、放送と歴史の合同、そして名前の授与。
これまでの“抹消”のページに、新しい注記を。
透明は適応ではない。名前は権利だ——そう告げるために。
第14話 数学:最短経路と、負荷の流す先
最終週の前日。
空は薄い鉛色で、校舎のガラスは冷たい鏡のように世界を跳ね返していた。掲示板がまた、ひっそりと命令を吐き出す。
《数学イベント:放送室までの最短経路を設計せよ——ただし“痛みの輸送コスト”を最小に》
《環境:校舎は迷路化。各通路に“感情コスト”を割当(例:保健室前=羞恥、体育館脇=屈辱、音楽室横=孤独)》
《評価:到達の有無×平均負荷×分散(偏り)の小ささ》
《副作用:最短偏重症候群——速さの誘惑により、重要なものを“切り捨てる”衝動が増大》
廊下の角は増え、階段の踊り場は二枚分折り返し、見慣れた掲示も“位相シフト”したようにずれている。通路の上に薄いパネルが浮かび、そこに「羞恥」「屈辱」「孤独」の印が赤・青・紫の三色で踊っていた。
「……最短経路、だけなら簡単だ」と七瀬遥が言う。タブレットに校舎の抽象グラフがすでに立ち上がっている。「A*探索で、ヒューリスティックは放送室へのマンハッタン距離。だが、コストは距離じゃない。“感情”だ。ヒューリスティックを、痛みで書き換える必要がある」
「最小カットも思い出して」帆花が腕章を直す。「遮断すべきは“酷使”の流れ。弱い者が一点に押し込められないよう、カットの位置を合意で決めるの」
「音で通路の“共鳴”を測る」小此木レオは携帯マイクを回し、壁を指で弾く。「羞恥の通路は高音で耳を刺す。屈辱は低くねっとり、孤独は中域が抜ける。スペクトルで塗ると、通る前から痛みの色がわかる」
「紙の裏側の道筋は任せて」糸井雪弥は資料室から筒を抱えて戻り、旧配管図を机に広げる。「水道の配水は、感情の配分に似ている。細い管に圧をかけると破裂する。太い管に流せば、全体は静かに進む」
真澄は喉を鳴らし、胸の奥で《保留》のバルブがひらく気配を確かめた。
「俺が——まとめて持つ。そうすれば、どの通路でも——」
「だめ」七瀬が遮る。言葉は短いが、刃物ではない。「それが最短だとしても、最適じゃない。君が消える」
帆花が即座に議事の画面を開く。「“痛みの配分に関する合意”。草案を読み上げるわ。——強い者ほど、希少な痛みを受け持つ。弱い者には身近で小さな痛みを。**透明にされた者の痛みは、全員で。反対は?」
沈黙。
うなずく音。
神前が腕を組んで、短く息を吐いた。「いいだろ。俺は“屈辱”を持つ。慣れてる。俺のやり口が撒いた分は、俺の肩で払う」
保健代表の少女が手を挙げる。
「孤独は——わたしも、少し。怖いけど、ひとりきりじゃないなら、少しなら」
帆花が木槌代わりのペン先で机をとんとんと叩く。「合意成立。配分ルール、適用」
◇
迷路の入口、教室を源(source)、放送室をシンク(sink)に見立て、七瀬が黒板にフローネットワークを描く。
ノードは主要な交差点、エッジは通路。各エッジには重みが三つ——羞恥(R)、屈辱(B)、孤独(V)。さらに、各ノードに容量。ここでの容量は“誰がどれだけ痛みを流せるか”。
「最小費用流に落とし込む。費用は“痛みの種類×受け持ち手の希少度”で、容量制約は“その人が耐えられる上限”。供給は私たちの“足”、需要は放送室の“扉”。——そして、保留点」
真澄が頷く。「《保留》はハブになる。だけど、ひとつじゃなく、いくつも」
黒板に丸が六つ増えた。
相沢真澄、七瀬遥、東雲帆花、小此木レオ、糸井雪弥、神前——六つの保留点。
それぞれに異なる種類の痛みの得手不得手が割り当てられる。
真澄は混合負荷、七瀬は理性の摩耗、帆花は羞恥の矯正、レオは孤独の残響、雪弥は誤解のざわめき、神前は屈辱の反射。
「同時解放にする」七瀬。「最後の十秒で全ハブ同期。どこか一つが破綻したら他が吸収。位相は僕が合わせる」
「音のクリックで合図を出す」レオが指を鳴らす。「三、二、一、解放」
「資料側は、旧配管図の分岐を重ねる」雪弥が青いペンで線を足す。「太管=気持ちを言い出せる関係。細管=目を伏せる場所。細管に“孤独”を流すのは危険。太管に“屈辱”を流すのも危険。——混ぜて圧を下げる」
帆花がタグを付ける。「羞恥は“見られる”場所で薄められる。多数の視線で“羞恥”は均される。屈辱は“勝敗”の匂いが強い場所で倍化するから避ける。孤独は静かな廊下で増幅される。——通路選択に反映」
神前が鼻で笑う。「よくもまあ、感情を数式に縫い込めるもんだ」
「数式は手続きの骨です」帆花が返す。「骨があるから、揺れを受け止められる」
真澄は胸の奥でバルブを一つひねる。器に余白。
黒板のネットワークは、次第に道筋になっていく。
音楽室横(孤独V)は避けず、複数人で短く通過。
体育館脇(屈辱B)は神前と真澄の二重受け。
保健室前(羞恥R)は帆花と保健代表の少女が並走して“視線”の角度を変え、羞恥の尖りを丸める。
廊下の交差点ごとに保留点が置かれ、通るたびに少しだけ預け、少しだけ返す。
◇
実地演習。
通路のパネルは色を変え、足音は二重三重に重なる。レオが先行して共鳴マップを更新し、七瀬がフローを再計算、帆花が「足並み」のタグを点灯させる。
教室を出て、まずは理科準備室脇(羞恥R=中、孤独V=低)。
帆花が前に出、保健代表の少女と並び、歩幅を合わせる。「羞恥は視線の交点で丸くなる。見る・見られる・見返す——三角で釣り合う」
次の角は体育館脇(屈辱B=高)。
神前が一歩速め、廊下の中央を取る。「俺が前。あんたらは後ろから見てろ。屈辱は見せると壊れる」
「見せびらかしじゃないな」レオがぽつり。「責任の見せ方」
その背中に真澄も並ぶ。屈辱の尖りは刃のように喉に刺さるが、《保留》はとっくにその味を知っている。少量ずつ受け取り、位相を七瀬に渡す。
クリック——レオの爪が軽く鳴る。
同期。
尖りはわずかに鈍くなる。
音楽室横。紫のパネルが腰の高さで淡く点滅する。孤独。
レオが呼吸を合わせるテンポを指で刻む。「四歩で一拍。孤独は“ゆっくり”で増える。速すぎても置き去りが出る。真ん中で行け」
糸井が壁の掲示を読み、空欄を指差す。「ここ、空白が多い。視界の寄る辺がない。索引で視線の“見出し”を作る」
彼が黒ペンで「→放送室」と矢印を書き足す。たったそれだけで、廊下は細い骨を得た。
そうして一つ、また一つと角を曲がるたび、預けと返しの小さな取引が起きる。
保留点は小港のように機能し、通る者はそこに痛みの舟を係留して、また出航する。
◇
半分を過ぎたあたりで、真澄を幻視が襲った。
掲示板の名前が、ひとつ、またひとつと薄れていく。
相/沢/真/澄の一画が、砂のように落ちる。
足が止まる。
胸の器が最短偏重の焦燥を吸い込んで、細く軋んだ。
「……俺が持つ。ここから先は、全部——」
「違う」七瀬が横に並ぶ。手が温かい。「アルゴリズムは君を守るためにある。最短は、最適じゃない。分割統治。分けて、解く」
帆花が正面から目で合図する。「委任。あなたが全部を持たないことに、私たちが合意する」
神前が短く笑い、肩をどん、とぶつける。「頼れ。お前が“弱い方から名前を呼ぶ”って決めた時点で、順番は決まった。次は俺の番だ」
保健代表の少女が名札を押さえて言う。「透明の痛みは、全員で。そう合意したよ」
糸井が小さく頷く。「索引は“参照”のためにある。君が迷ったら、いつでも参照すればいい」
レオが四拍を刻む。「戻ってこい。G—B—E。君の音色は、そこにある」
真澄は深く息を吸い、器の主弁を少し閉じた。
回路を、渡す。
俺が全部持つ必要はない。
その言葉が胸の内側でやっと意味を持つ。
預けの舟が、六つの保留点へ自律的に散っていく。
重心が動く。器が、割れない。
◇
再開。
残るは二つの角と、一つの階段。
最後の分岐は、保健室前を通るか、旧倉庫裏で遠回りをするか。
コストの表示は、保健室前が羞恥高/孤独低、倉庫裏が孤独中/屈辱中。距離は保健室前が短い。
「——最短は、保健室前」七瀬。「だが、分散を考えると、倉庫裏の“混合負荷”で均すのが最適かもしれない」
「私は保健室前を通りたい」保健代表の少女が言う。「居場所を、怖い場所の前で自分で選ぶ。それを、今言いたい」
帆花がうなずく。「合議。希望は関数のパラメータ。最小費用だけじゃなく、納得の重みを入れる」
七瀬の画面で、費用関数が一行書き換わる。
cost = α*痛み + β*距離 + γ*納得(合意満足度)
γは、合議で上がる。
保健室前の矢印に、わずかだが光が差す。
「行こう」真澄が言う。「見られるという痛みを、見せることで薄める。保留点を密に置く。預けは細かく」
保健室前。
昨日までの取り立て板の貼られていた硝子扉は、今はただの扉だ。
帆花が一歩前に出、少女と並ぶ。
神前は背中で風を遮り、レオは四拍の呼吸を置き、糸井は掲示の空欄に小さく「居場所」と書き込み、七瀬は位相を合わせる。
「——今」レオのクリック。
六つの保留点が同時に解放した。
羞恥の棘が、円にほどける。
扉の前の空気が、かすかに軽くなった。
階段を上がる。最後の踊り場。
放送室のすり硝子が、淡く呼吸している。
◇
黒板に戻ると、ネットワークの上を白い線が走っていた。
それは、最短“合意経路”。
源からシンクまで、痛みの舟が偏らずに滑っていく設計。
六つの保留点はタイムスタンプで同期され、過負荷の予兆を検知すれば、近傍の点が自動増圧する。
七瀬が最後のセルを叩き、帆花が文書に落とし、糸井が図面をファイリングし、レオがマイクに囁く。「音は、届く」
《数学イベント:クリア》
《制御鍵:数学 獲得》
《付記:美しいネットワーク。分散よし。偏り小》
モニターに監督者の仮面。
珍しく、一拍の賞賛が先に来た。
『——美しいネットワークだ』
そしてすぐ、淡い毒を含んだ追伸。
『美しさは、時に誰かを置き去りにする。——置き去りは、どこへ流す?』
答えは、明日だ。
放送で、“外”へ。
神前が小さく笑い、しかし目は冗談ではない。「——約束だ。弱い者の名から呼べ」
「放送原稿の第一行は、透明にされた者の名前と、歴史への注釈」帆花は全員の前で宣言する。「透明は適応ではない。名前は権利だ。——これを、一行目に」
糸井が原稿台本をファイリングし、付箋に「条項:弱い方から呼称」「注記:抹消の由来」と書き込む。
七瀬は放送機材の信号遅延を見積もり、位相のズレを補正するコードを組む。
レオはマイクに口を寄せて、囁く。「チェック、チェック。G—B—E。届く。」
保健代表の少女が名札にペン先を置き、もう一画を足す。
神前はポケットから手を抜き、拳を開いた。
廊下の端で、見えない手が二度、扉を叩く。
こん、こん。
——委任の音。
真澄は放送室の扉に掌を当てた。
胸の中心に、まだ解けない塊がいる。
それは怒りの遺熱であり、孤独の芯であり、羞恥の縫い目であり、屈辱の反射だ。
でも今日は、その塊の輪郭がはっきり見える。
分割できる。渡せる。返せる。
——明日、呼ぶ。
名前を。
歴史を。
そして、出口を。
ガラスの向こうで、オンエアランプが小さく予告の光を点し、消えた。
世界はまだ授業の途中だ。
最後の二話分で、扉は開く。
美しいだけじゃない、優しいネットワークで。
置き去りを外へ流すのでなく、外に注記として渡すために。
ログアウトの条件を、僕ら自身の言葉で満たすために。
第15話 総合探究:“全校放送プロト”——痛みを言語に、名前を権利に
朝の空気は、放送室のガラスをうっすら曇らせていた。
掲示板に白い文字が滲む。
《総合的な学習の時間:全校放送プロトタイプの策定と公開リハーサル》
《条件》
① 第一声で“透明にされた者の名”を呼ぶこと
② 歴史に付した注釈(「透明=適応ではない」)を根拠付きで提示すること
③ 合意のプロセスを開示し、誰がどう痛みを負い、どのように配分したかを示すこと
《達成できなければ:“総合留年”発動》
体育館での熱がまだ身体のどこかに残っている。合意の骨はできた。今日はそれに声帯という肉を縫い付ける日だ。
「骨格を提示します」
帆花が腕章を正し、議事のテンプレートを投影した。
開会宣言 → 名前呼称 → 注釈朗読 → 合意プロセスの公開 → 教職アカウントへの要求 → 外界への発信。
「条項ゼロ。“弱い方から名前を呼ぶ”。条項一。“透明は適応ではない、は命題であり根拠付きで提示”。条項二。合意の痛み配分を公開する」
「信号経路は僕が」
七瀬はタブレット上に音声グラフを描く。マイク—ミキサー—イコライザ—配信ソフト—放送アンプ—スピーカー。遅延見積もり、反響推定、反相の位置。
「第一行のノイズフィルタが来る可能性がある。位相差二重化で抜け道を用意。周波数は1k〜2kの帯域で通す。G—B—Eの和音が骨子」
「マイクの指向は俺」
小此木レオがSM58の首を軽く回す。
「近接効果を殺し、距離1.5mで最低限のゲイン。届くための音量は、怖がらせない音量と同義だ」
「一次資料の索引は僕」
糸井雪弥が地歴で拾った注記の束をひらりと掲げる。
「引用は“行番号”まで明示。“抹消簿・第14葉・下段三行目”“録音テープ・00:31〜00:46”。耳の証拠と目の証拠を階段にする」
真澄は配られた台本の第一行に指を置いた。
紙は少し湿っている。読み上げる前から、胸の奥が軋む。
『明神朔。あなたの名を、最初に呼ぶ。——透明は適応ではない。名を奪うことは、居場所を奪うことだ』
ただの文字列ではない。これを声にした瞬間、世界のどこかの糸が――たぶん外に伸びている糸が――震える。
《保留》は今日は声の圧を束ねる器だ。痛みを直接は食べない。胸の中央で、息と言葉を圧縮し、最後の一拍で解放する。けれど、圧縮は熱を生む。声帯が焦げるように痛い。
◇
公開リハーサル。
視聴覚室と放送室を仮接続し、スピーカーの前に全員が立つ。
帆花が開会宣言を読み上げ、各役割を確認する。
「配分ルールの再確認。“強い者ほど希少で重い痛みを受け持つ”。“弱い者は小さな痛みを分け合う”。そして“透明にされた者の痛みは全員で”。異議は?」
神前が手を上げる。
「“弱い者の名を最初に呼ぶ”条項。……忘れていないか?」
「議事に明記済み」帆花。
「もう一度言わせてくれ」神前は視線を巡らせ、短く息を吐く。「俺は、俺の妹の名を最後でいいと言った。だから最初はここにいる弱い者から——梁の下に立つやつからだ」
保健室代表の少女が指先を握りしめ、前へ出る。
唇は震えるが、目はまっすぐだ。
「わたしの“債務スコア”は、相沢さんと、みんなに分配してもらいました。返すために、ここにいます。名前は、わたしのものです。奪われない」
拍手。
レオの耳が僅かに笑い、七瀬の画面で遅延の針がゼロに寄る。
糸井は索引カードを持ち直し、行番号に小さく蛍光ペンを引く。
真澄は深く息を吸い、第一行を心の中でなぞった。
そのときだ。スピーカーから遮断音。
監督者の無機質な声が、横入れで落ちてくる。
『——リハーサルは規模超過。合意プロセスの開示は個人情報リスクに抵触する可能性がある』
帆花は一歩も引かない。
「本人の同意に基づく開示です。合意書はここに」
掲げた紙束には、全員の署名、押印、そして撤回権の条項が整っている。
監督者は一拍置いて言った。
『承認』
空気が少し、軽くなる。
だがトラブルは続いた。
放送ソフトが、勝手にアップデートを始める。
七瀬の眉が微かに動く。「……設定が書き換わった。第一行の音量だけ下げるフィルタが仕込まれてる」
「裏口?」帆花。
「仕様、形式上は“環境ノイズ保護”。でも実質、最初の言葉を鈍らせる設計」
七瀬は即座にペンで波形を描く。「フィルタを逆手に取る。第一行のみ二重化。位相を**±π/2ずらして合成。ソフトのノッチを抜ける帯域が一筋**残る」
「耳で聞く」レオがヘッドホンをつけ、目を閉じる。「……通る帯域はここ。sの摩擦音が細く残る。母音は削られるけど、“名”の立ち上がりは生きる」
「索引に注記」糸井がメモに追加する。「“第一行の二重化、位相差で抜けた”——透明化の言い換えに対する技術的反証として」
フロアの空気は、次第に準備の熱に置き換わる。
帆花が原稿の読み順をもう一度整え、七瀬がケーブルの位相を確認し、レオがマイクの高さを指一本だけ下げ、糸井が脚注の番号を揃える。
神前は黙って袖に立ち、保健代表の少女の背を支えた。
「では、第一行、テスト」
帆花の合図。
真澄は台本を胸の高さに持ち、声を器に溜めた。
胸の中央で言葉が熱になる。
内側の世界に、音の骨を立てる。
「——明神朔」
放つ。
位相のズレが働き、フィルタの網目をすり抜け、音は細い金線になって視聴覚室の空気を震わせる。
窓ガラスが微かに鳴り、粉塵が金色に揺れ、空気の曲面がゆらゆらと肩の高さに立ち上がる。
朔の輪郭が、数呼吸ぶんだけ現れた。
唇が、ゆっくり形を作る。
外へ——
音はない。でも、確かにそれを言った。
「外へ——届く」
真澄は胸の塊が熱で解ける感触を覚えた。
同時に、自分の輪郭がぐらりと揺れる。
世界の端が遠くなり、名前の画数が一画ずつ砂のように崩れそうになる。
「だめだ、相沢!」
七瀬が駆け寄り、胸の前で負荷分散の手順を叩く。「分割して! 預けて! 返すのは最後!」
帆花が全体に宣言する。「本番は放課後。その前に、教職アカウントに公式照会を出します。“第一行音量”の設定変更の差し止め要求、承認ルートの公開を」
糸井が書類を束ねる。「条文番号、根拠資料、押印パターン。照会の目次、完成」
レオがマイクを下げ、真澄の背を二度叩く。「戻れ。G—B—E。四拍吸って、四拍吐く」
真澄は頷き、胸の器の弁を閉じた。
熱はまだ痛い。だが、割れてはいない。
◇
照会の準備に入った瞬間、職員室のプリンタが唸った。
レオが即座に顔を上げる。「……深い音。長文の通達」
吐き出された紙を糸井が受け取り、目を走らせる。
上部に太字。
《本日18:00、停電試験》
《対象:放送設備・情報系統・一部照明》
《目的:防災訓練(自動切替の確認)》
行間に、読点ひとつ分の嘘が潜んでいる。
外界からの通信遮断。
本番の時間を狙った遮断だ。
帆花は短く笑った。
笑いに砂糖はない。代わりに、準備の匂いがある。
「いいじゃない。停電でも届く方法、用意してある」
懐から取り出したのは、古びた手回し式発電機の取扱説明書。
糸井が小さくガッツポーズ。「図書室の防災箱、役に立つ日が来た」
「供給は手回し、負荷は最小。音声はモノラル、帯域絞り。第一行は二重化、位相差は手前の機械で。録音はカセットで冗長」七瀬が指で空中に配線を描く。「停電なら残響が減る。言葉が骨で聞こえる」
「配分ルールの追記事項」帆花が指し示す。「回す役は分担。強い腕に頼らない。弱い腕でも回せるギア比を選ぶ」
「音は、届くよ」レオはハンドルを持ち上げ、惚れ惚れした顔をした。「これは古いけど、正直だ」
保健代表の少女が発電機のハンドルにそっと触れ、笑った。
「わたしにも、回せますか」
「もちろん」帆花。
◇
教職アカウントへの公式照会は、証拠と条文で鎧のように厚かった。
“第一行音量フィルタ”の設定変更の事前承認経路、代理権限の延長記録の出所、“合意を取ったことにする”運用の有無。
監督者がスクリーンに現れ、淡く頷く。
『——受理。監査モードへ移行。停電試験は安全目的かつ事前通知により許可。……ただし、代替経路の使用は妨げない』
レオが小声で「やった」と言い、七瀬が「見解の相違をこっちの勝ち筋に折っただけ」と肩をすくめる。帆花は淡々と「合意の隙間に手続きを通したのよ」と締めた。
リハーサル再開。
合意プロセスの開示パートで、黒板に痛みの分配表が貼られる。
羞恥——帆花(大)、保健代表(小)、相沢(中)。
屈辱——神前(大)、相沢(中)。
孤独——レオ(大)、全員(小)。
“透明”——全員(少量ずつ、常時)。
糸井が右端に脚注を並べる。「“分配の撤回権は常に残る”“痛みの譲渡は委任による”」
神前が前に出て、短く頭を下げた。
「……俺がこれまでやったことは、屈辱の再分配だった。今日のこれは責任の再分配だ。弱い者の名から最初に呼ぶ。俺は待てる」
拍手。
拍手の位相はバラバラだが、すぐに揃う。
G—B—E。
体育館で覚えた和音が、空気でできた見えない線を一つにまとめる。
「第一行、ラストテスト」
帆花の声。
真澄は息を吸い、胸の器に圧を集める。
声帯の縁が熱で揺れ、指の先で脈が打つ。
痛みではなく、言葉を預かる感覚。
預かった言葉を——返す。
「——明神朔。あなたの名を、最初に呼ぶ。透明は適応ではない。名を奪うことは、居場所を奪うことだ。
これは、合意で編んだ注記だ。史料の行番号は、ここに示す。
僕たちは痛みを分け合い、手続きで支え合う。弱い方から、名を呼ぶ。
この声を、外へ——」
微かな風が、視聴覚室を抜けた。
窓際の粉塵が金色に揺れ、輪郭が一呼吸だけ立つ。
朔の唇が、もう一度だけ、外へと形を作る。
真澄は、胸の弁を静かに閉じた。
器は、まだ満ちている。
けれど、割れない。
今日は、分割する術を持っている。
◇
放課後。本番まで、あと一時間。
職員室のプリンタは再び唸り、停電試験の通達に修正が入る。
《18:00—18:10 全館停電》《放送室は自動的に停止》
七瀬が口の端で笑う。「自動を手動で殴る準備はできてる」
手回し発電機が視聴覚室に据えられ、ケーブルが最短距離でラジオモジュールへ繋がる。
糸井は防災箱から拡声ホーンを出し、レオはマイクとホーンの位置を反射しない角度に固定する。
帆花は合意書と原稿を二部ずつに分け、片方を図書室の鍵付き棚に入れた。「冗長化。証拠は散らす」
保健代表の少女が発電機のハンドルを握る。
歯車が噛み、金属が歌う。
音は、電気になる。
電気は、声になる。
神前は袖で拳を開閉し、短く言った。
「約束は、忘れるなよ。弱い者の名からだ」
「忘れない」
帆花は小さく微笑み、眼差しを鋭くした。
「第一行は、注記と抱き合わせる。“透明は適応ではない。名前は権利”」
真澄は、放送室のドアに掌を当てる。
向こう側で、オンエアランプが呼吸を一つ。
それに合わせて、胸の器も一つ呼吸する。
預かる。
編む。
返す。
廊下の奥で、見えない手が二度、扉を叩いた。
こん、こん。
——委任。
チャイムが鳴る。
世界は授業の途中で、放課後はすぐそこだ。
総合探究の時間は、全校放送で締めくくられる。
痛みを言語に、名前を権利に変えるために。
もし停電が来るなら、回して、届ける。
もしフィルタがかかるなら、ずらして、抜ける。
もし誰かが消えかけるなら、分けて、支える。
——本番で、呼ぶ。
明神朔。
弱い方から。
外へ。
そして、戻す。
僕らを僕らに。
名前で。
声で。
合意で。
第16話 決裂の前夜:誰のための声か、三十八人目の名
放課後まで、針が一周ぶん。
空は曇り硝子のように白く、校舎の窓は肺のようにひくひく呼吸していた。視聴覚室のガラス越し、オンエアランプは消えたまま暗い。にもかかわらず、空気は今にも鳴り出しそうに張り詰めている。
議場——つまりいつもの教室——の中央で、神前が立った。指先で一枚の条項を掲げる。
「“弱い者の名から呼ぶ”。——いい条文だ。だが、誰が“弱い”と決める? その順番は、誰かの価値判断にならないか」
ざわめきが窓の方へ流れる。椅子が軋み、吐息が重なり、言葉はまだ形にならない。
帆花は腕章を直し、口を開く。「定義は合意で作れる。けど……」
続きは出てこなかった。出した途端、それもまた線引きになるからだ。
胸の奥で《保留》が、静かに器のふちを鳴らす。合意の痛みは、もう器の底に溜まり始めている。強弁も、遠慮も、嘲りも、沈黙も、全部が圧になって私の喉に溜まる。
その時——廊下の掲示板がぱちんと音を立て、数字が跳ねた。
38 → 39。
「……増えた?」糸井が最初に声を出した。
彼は索引カードを一気にめくり、走り出す。「アーカイブ!」
迷わずに続いたのは七瀬と小此木、そして私だ。帆花は「教職照会の返答を受け取る」と残り、神前は、数歩遅れて付いてきた。
◇
地下書庫は、今日に限ってやけに静かだった。
階段を下りると、紙の匂いがひやりと肺に入る。糸井が背表紙の糸の縫い目を撫で、鍵束を音もなく回す。
棚の列の奥、いつもの木箱の下に隠してあった薄平の箱を取り出す。金具がからんと鳴った。
そこに——あった。
真の学籍簿。
頁を開く。綴じ糸は少し緩み、紙は薄墨を吸ったように灰色を帯びている。37の欄、38の欄——そして39。
『相沢真澄(副本)』。
墨が滲んだのではない。最初からこう書かれていたかのように、薄い、しかし決定的な二重の私。
心臓が止まった気がした。
七瀬は低く、ほとんど独り言のように言う。「複製だ。誰かが相沢を二重化した。片方は“見える”君、もう片方は“透明”の君。——同一人物の分岐」
言葉が出ない。喉は乾いているのに、舌先は冷たい。
三十八人目だと信じてきた影は、私自身。
《保留》に溜め込んだ無数の痛み、他人の記憶の欠片、怒りと羞恥と孤独の複合体が、校舎のルールと“外”の仕様の隙間で像を結んだのかもしれない。
あるいは、外界のシステムが“効率”のために生んだ「平均的な相沢」。
どちらにせよ、私の声が、もう一つここにある。
小此木が首を傾げ、指先でページの端を軽く弾く。「紙は嘘をつかないけど、持ち主の都合はつく。——これは、誰の都合だ?」
答えは出ない。答えが出る前に、私たちは地上へ引き返した。針は休まない。放課後は近い。
◇
教室に戻ると、帆花がプリントを握りしめていた。紙の端は少し湿り、彼女の呼吸は驚くほど静かだ。
「教職照会の返答。——“副校長代理の代理権限”は、昨年度の臨時災害対応に由来。停電時の一元管理のために『合意形成を省略できる』裏機能が付与され、そのまま失効忘れ。現実の手抜きが、こっちで“透明化”と“合意の見せかけ”を正当化した」
背筋が冷える。
外の手抜きが、ここの“仕様”になる。
名前が消えるのも、合意が**“取ったことにされる”のも、最初は現実の書類上の怠慢**から。
「許せない」と帆花は言った。声は震えない。冷たいほどまっすぐだ。「でも、怒りだけでは放送は通らない。届いた先で“反論可能”でなければ、意味がない」
神前が、少しだけ折れた顔でこちらを見る。「やれよ、相沢。俺は、お前が呼ぶ“弱い名”に俺自身が含まれてても、飲む」
そのとき——無人のスピーカーがざらりと鳴った。
視聴覚室のラインが勝手に開き、私の声がそこから流れた。
『痛みを分配するなら、僕が全部持つ。その方が早い』
教室の空気が一度で凍る。
スピーカーから聞こえる声は私だ。間合いも、呼吸の癖も、語尾の落とし方まで。
でも、私ではない。
相沢真澄(副本)。
学籍簿に滲んだ、薄墨の私。
「遮断する」七瀬が即座にミキサーへ駆け、回線の優先権を取り返そうとする。だが副本の声は放送室の内部経路へ滑り込み、第一行のキューに割り込む。
『効率が正義だ。合意は遅い。痛みを混ぜれば情報は劣化する。僕一人で持ち上げる』
——ああ、わかる。
その論理は、私だ。
《保留》が見つかった最初の日から、私が胸の奥で繰り返してきた囁き。
「私が持てば、みんなは痛くない。早く、正確に、静かに終わる」
効率の誘惑。
それが、いま、声帯を持ってこちらを口説いている。
帆花は短く頷いた。「あなたが向き合う相手は、あなた自身」
決裂は、そこで音もなく確定した。
残り時間は、痛覚のセグメントを刻むように削れていく。
廊下の電灯が一つずつ落ちる。予告された停電試験の時刻が、近い。
視聴覚室の隅で、小此木が手回し発電機のレバーを握る。糸井は図書室の蓄電池を肩に担ぐ。七瀬は副本の経路にノイズを埋め込むスクリプトを走らせ、第一行フィルタへの対抗に位相差をもう一枚重ねた。
「声は、ひとつじゃない」レオが言う。
「重ねて強くする」糸井が応じる。
帆花は短く、事務的な声で指示を飛ばした。「最終構成。手回し→トランス→モノラルライン。第一行は二重化+逆位相+時間差15ミリ秒。副本ラインに疑似クリッピングの罠を仕掛ける。誰かが落ちたら、すぐ隣が拾う」
私は台本を握り締める。
副本の囁きが、耳の奥の骨に染み込む。
『全部、僕が持とう。それが優しさだ。ほら、君は知ってるだろう? みんなは安堵する。君が燃え尽きるだけで済む』
——違う。
それは優しさの形をした、排除だ。
“分け合う仕組み”を壊してしまう、あまりにも効率的な独善だ。
「みんなで持つ」私は小さく、しかし確かに言った。
喉の奥の熱は、まだ残っている。
けれど、器は割れない。
分割する術を、私たちはもう手に入れている。
◇
停電まで五分。
教室の蛍光灯が一瞬だけ明滅し、天井の角が暗くなっていく。
七瀬は視線を走らせ、短く報告する。「副本、放送室の予備卓を取った。第一行の優先権を握り続けるつもりだ。こっちの手回し回線はまだ分離できる。けど——声質が同じだ。外から聞こえる**“相沢真澄”が二人**になる」
「よし、二人で行こう」神前が呟いた。
「対立は弱さじゃない。選択肢だ」帆花が即答する。「——提示する。二つの“相沢”。合意を通るのは、どちらか。反論可能性って、そういうこと」
「スプリットする」七瀬がキーボードを叩く。「Aチャンネルに副本、Bチャンネルに君。クロスフェードとブリージングを手動で管理。副本の声は最短、君の声は最適の遅延で乗せる」
「“弱い者の名”の定義、どうすんだ」神前。
帆花は迷わない。「自称でいい。名乗りは権利だ。順番は、自分で指差す。——誰かが決めるんじゃない。自分で選ぶ」
保健代表の少女が細い手を挙げる。「最初は、わたし。怖いけど、名乗る」
「受理」帆花は即座に頷く。「第一行の後、最初の呼称はあなた。相沢、その時の器は私たち五人で分割。君は声の圧だけ持て」
「了解」私は肩を回し、肺の奥に空気の居場所を作る。
レオが発電機のハンドルを一度回し、ギアの鳴きを確かめた。「回せる。停電でも、音は立つ」
そこへ、照明が落ちた。
◇
暗闇は、意外にうるさい。
靴が床を擦る音、紙が触れ合う音、誰かの喉の奥で鳴る小さな咳。
発電機が唸り、トランスが低く歌う。
七瀬のモニターだけが、蛍のように淡い光を吐く。
『——第一声、僕が行く』
副本の声が、冷たい。
速い。
正しいように聞こえる。
「ノイズ、投下」七瀬。
副本チャンネルの周波数帯に、人間の耳では気づかない唇舌ノイズを薄く流す。効率の表面に、人を戻すためのざらつき。
「相沢」帆花が、暗闇の中でもよく通る声を私に向ける。「あなたの声は、ひとりじゃない」
私は台本の第一行を指でなぞる。
胸に圧を集め、余白を確保し、最後の一拍で——
副本が、一足先に開いた。
『——明神朔』
細い金線のような声が、暗闇に走る。
ほとんど同時に、私も開く。
「——明神朔」
二つの相沢が、一つの名を呼ぶ。
重なる。
干渉する。
拍がずれる。
和音は、割れる。
レオが即座に位相を合わせる。「G—B—E! ここ!」
七瀬がブリージングを手動で微調整し、二つの声が薄く重なり、金線は太い紐になって空気に結び目を作る。
窓の粉塵が金色に揺れ、肩の高さに曲面が立ち——朔の輪郭が、一呼吸ぶん濃くなる。
副本は続ける。速く、滑らかに。
『透明は適応だ。君たちは錯覚している。名前がなくても、人は居場所を作れる。——効率が証明する』
違う。
私は喉の奥の熱を押し上げ、声を冷やしてから、言った。
「透明は適応ではない。それは排除を、言葉で覆ったに過ぎない。根拠は——抹消簿・第十四葉・下段三行目、録音テープ・00:31〜00:46。本人の同意なく作られた『合意を取ったことにする』という運用。名前は権利だ。——反論可能なら、出所を示せ」
暗闇がわずかに退く。
副本は一瞬だけ黙った。
その間に、私は器の弁を閉じる。
——焦らない。
遅延は、最適のためのコストだ。
『全部、僕が持てば——』
「全部を誰か一人が持つことは、他の誰かの発言権を奪う」帆花が切り返す。「合意は遅い。だからこそ、反論が入り込める。遅さは権利だ」
神前が、暗闇の中で短く笑う。「俺も弱い名に入れて構わん。順番は名乗った順。俺は最後でいい」
保健代表の少女が、発電機のハンドルを回しながら、はっきり言った。「最初は、わたし。名乗る。弱いと呼ばれても、それはわたしが言う」
七瀬が手元のレバーを押し、副本のチャンネルに人間の息のサンプルを薄く被せる。無味な効率の表面に、呼吸という雑音を返すために。
レオが四拍を刻む。「吸って、吸って、吐いて、吐いて。声は息。息は居場所」
私は視聴覚室の奥、放送室の扉越しの気配を掴む。
そこには、確かに私がいる。
(副本)。
私の効率だけをこよなく愛した、善意の怪物。
「——相沢」私は相沢に呼びかける。私に。
「君は優しい。だから、危ない。分け合う仕組みを壊してしまう。君の速さは、誰かの反論の時間を奪う」
副本は笑わない。
『速さが救いだ。遅さは苦痛の延長だ』
「遅さは、納得の時間だ」
私は台本を置く。紙は暗闇でも重さを持ち、私の手に現実を残す。
「——みんなで持つ。弱い方から、名を呼ぶ。証拠を添える。反論を待つ。それが僕らの声だ」
廊下の向こう、停電の波がもう一段深くなる。非常灯だけが点々と生きている。
帆花が短く宣言した。「第一行の優先権、Bチャンネルに移譲。——採決」
暗闇の中で、たしかに手が挙がる音がした。見えない手。
**相沢真澄(副本)**は、沈黙した。完全ではない。けれど、半歩、退いた。
その刹那、私は取り戻した。
第一行。
胸の器に圧を集める。熱は、もう燃えるだけの何かではない。
合意で割られ、注記で縫われ、証拠で支えられた——声だ。
「——明神朔」
私は呼ぶ。
「あなたの名を、最初に呼ぶ。透明は適応ではない。名を奪うことは、居場所を奪うことだ。これは合意で編んだ注記。反論を受け止める準備がある。——みんなで持つ」
発電機が唸り、窓の粉塵が金色に揺れ、肩の高さに曲面が立つ。
朔は、一度だけ息を吸い、かすかな笑いの形を作った気がした。
『……外へ』
唇の動きは、炎ではなく灯だった。
私はゆっくり頷く。
副本の囁きはまだ耳の奥で細く続く。
でも、私は首を横に振った。小さく、しかし確かに。
全部じゃない。みんなでだ。
針は進む。
停電は十八時に来る。
手回しの拍は四。
G—B—E。
第一行は、取り戻した。
次は——届ける番だ。
第16話 決裂の前夜:誰のための声か、三十八人目の名
放課後の一時間前。
体育館に敷いた仮設の議場は、もう何度目かの熱で乾いていた。椅子の脚が擦れるたび、床の目地が小さく鳴る。黒板には、帆花の丁寧な字で「放送文案・最終案(第六稿)」とある。第一行は二重下線で強調され、余白には蛍光ペンで「弱い方から」と書き込まれていた。
「条項は守る。だが——」
壇の中央に立った神前が、紙を一枚掲げる。端が少し震えていた。
「——誰が“弱い”と決める? 名を呼ぶ順番は、誰かの価値判断にならないか。俺たちが“弱い”印を貼るたびに、別の誰かの羞恥や屈辱を増やしていないか」
ざわめき。椅子が揺れる音、咳払い、ため息。
議場の熱が、また上がる。
真澄の胸は《保留》の器でかすかに軋んだ。合意の痛み——議論の熱は、甘くない。飲み下せばすぐ胃に火がつく類の熱だ。
「基準を紙に置く」帆花が前に出る。声は穏やかで、刃を隠す。「自己申告と医療記録と教室で観測される脈。弱さは一時のもの。名の順は固定ではなく、状況に応じて変動する。——呼ぶための順であって、貼るための順ではない」
神前は口を結び、しかし頷いた。「……わかった。俺は飲む。ただし“弱さ”という言葉が居場所を奪う刃にならないよう、注記を先に置くんだ。『弱さは変わり、分け合える』って」
拍手がまばらに起き、すぐ消えた。
空気は決まらないまま張り詰め、どこかで糸が切れる音がしたような気がした。
その時だった。
廊下から、カン、コト、と薄い音が二つ。委任の合図に似ているが、違う。
掲示板の数字が、一瞬だけ白く眩んで跳ねた。
38 → 39。
「……増えた?」
糸井が最初に息を呑む。手の中の索引カードが一枚、指をすり抜けて床に落ちた。
「アーカイブへ」
帆花の声に、彼は駆け出した。真澄と七瀬、小此木も続く。
「私は照会の返答を待つ。教職アカウントの“第一行フィルタ”の差し止め、進行中」
帆花の声は座標を与え、背を押した。
◇
図書室は、夕方の光で紙の匂いが濃かった。
鋼の書架には糸の背が何列も続き、真の学籍簿は小さな鐘のように微かに光を返している。
糸井が手袋をはめ、背表紙の糸を撫でながら進む。「ここだ」
紐が解かれ、重い表紙が開く。
白黒のページ、整然とした罫、欄外に点々とついた赤い押印。
そして——薄墨のように滲む新たな名が、そこにあった。
『相沢真澄(副本)』
心臓が、止まった。
真澄は自分の喉が鳴る音を聞いた。から、と乾いた音。
副本。
つまり、複製。
「……二重化」
七瀬の声は低く、しかし速かった。
「誰かが相沢を複製した。片方は“見える”君。もう片方は“透明”の君。——三十八人目の正体は、君の影だった可能性が高い」
「僕が……三十八人目?」
真澄の頭の奥で、音が遠くなる。
《保留》に溜めてきた痛み、他人の断片記憶、怒りと羞恥と孤独——それらが沈殿して形になり、新しい相沢真澄を作った? あるいは外界のシステムが声の大きさを均すため、平均値として生んだ“副本の相沢”?
想像は、すぐに“現実”に追いついた。名簿がそう記している。
名は、世界の採番だ。
「証拠」小此木が囁く。「紙は嘘をつくけど、音は嘘が下手だ」
彼は学籍簿の糸を軽く弾く。ビンと細い音。
「主本の糸と副本の糸、張りが違う。“副本”は最近、差し込まれた。誰かが今、ここで君を分けた」
真澄はページの“副本”の二文字を指でなぞり、指先に残る紙粉を見た。
呼吸が浅くなる。《保留》の器の縁が熱で白く光る。
効率の誘惑——僕が全部持てば早い——それは何度も胸で自分を噛んだ思想だ。その思想が、名になってここにいる。
「戻る」
七瀬の声で、真澄は目を上げた。
視界の端で、糸井が学籍簿の余白に小さく付箋を貼る。《注記案:副本=複製された当事者。本人の合意なく生成された場合、名の権利を侵す》
小此木はページを閉じる前に一度、耳を傾けた。「……呼吸が二つある」
誰かが、待っている。
◇
体育館に戻ると、帆花がプリントを握り締めていた。紙の端が折れている。
彼女は読み上げる。
「照会の返答。——副校長代理の代理権限は、昨年度の臨時災害対応に由来。停電時の一元管理のために“合意形成を省略できる”裏機能が付与され、そのまま失効忘れ。現実の手抜きが、こちらの世界で“透明化”と“合意の見せかけ”を正当化した」
しん、と静かになる。
帆花の声は震えない。冷たいほど静かだった。
「許せない。——けど、怒りだけでは放送は通らない。届いた先で反論可能でなければ、声は消費されて終わる。注記は証拠で編む」
神前が唇を噛み、折れそうな顔で言った。
「やれよ、相沢。……俺は、お前が呼ぶ“弱い名”に俺自身が含まれてても、飲む。順番は俺の誇りを削らない。削れた分は、今度は俺が持つ」
真澄は頷く。
胸の器が、受け渡しの用意をする。
その時、スピーカーが微かに鳴った。
ノイズの後、どこかで聞いた声が、完璧な自分の音で体育館に落ちてくる。
『……痛みを分配するなら、僕が全部持つ。その方が早い』
ざわめきは、震えに変わった。
誰でもない“相沢真澄(副本)”の声。
七瀬が即座にコンソールへ飛ぶ。「遮断を——」
「待って」帆花が腕で制する。「どこから流れてる?」
「放送室の内部経路。第一行の優先権を先取りしようとしてる。接続名は相沢真澄。副本……本人と同一署名」
七瀬の指が走り、端末にノイズの穴を開ける準備が走る。
『効率が正義だ』
副本は、静かに続けた。
『合意は遅い。弱い方から呼ぶ? 誰が決める? 僕だろう。最短なら、僕が決める。僕が全部持つ。そうすれば誰も痛まない』
嘘だ、と真澄は思った。
誰も痛まない? ひとりが、全部痛む。
それは——過去の僕だ。
「向き合う相手は、あなた自身」
帆花が短く頷く。その横顔は、冷たく、そして強い。
「副本は“効率の誘惑”の化身。議場で溜まった痛みの影。名を付けられた以上、叙述で上書きできる」
タイムリミットは刻々と迫る。
廊下の電灯が、停電試験の予告通り、一つずつ落ちていく。
暗闇が校舎をゆっくり飲み込み、足音が遠くなる。
手回し発電機のレバーに小此木が手をかけ、糸井は図書室の蓄電池を肩に担いだ。
七瀬は副本の経路に細かいノイズを埋め込み、「声は、ひとつじゃない。重ねて強くする」と短く言った。
『——第一声は、僕が』
副本がスピーカーの向こうで微笑んだ気がした。
その声は、完璧で、均質で、痛みの摩擦がない。
「——違う」
真澄は台本を握り締め、呼吸を整えた。
耳の奥で、副本の囁きが甘く響く。「全部、僕が持とう」
彼は首を横に振る。小さく、しかし確かに。
全部は、優しさではない。
みんなで持つ。分けて、返す。
「やることを分ける」帆花が立ち位置を示す。「レオは回す、雪弥は索引で副本の言葉の穴を特定、七瀬は位相で第一行の窓を開ける。私は合意書を掲げる」
「俺は屈辱を前で受ける」神前が袖を捲った。「副本の“速さが正義”に、負けの手を見せつけて割る」
「痛みは、全員で」保健代表の少女が発電機の反対側に立つ。「透明は、私たちが呼ぶ」
◇
停電の合図が来た。
ブツン、と世界の音が一段落ちる。
蛍光灯が沈み、窓の外の空は灰に溶けた。
小此木がハンドルを回す。ギアが噛み、低い唸りが音へ変わる。
レオの息は一定で、四拍の刻みが手首に乗る。
G—B—E。
七瀬がケーブル上の位相を合わせ、糸井が脚注の位置をタブレットで光らせる。
帆花は合意書の束を掲げ、「本人同意・撤回権・開示範囲」を読み上げる。反論可能性の枠を、声で先に設置する。
『効率が——』
副本の声が侵入する瞬間、七瀬がクリックで合図。
「今」
レオのペダルがひときわ深く回り、電圧が僅かに上がる。
第一行の窓が薄く開く。その窓の縁は、位相の刃で出来ている。
「——明神朔」
真澄は放つ。
声は金線になって、フィルタの目をすり抜け、体育館の空気を縫い、視聴覚室のガラスを震わせ、廊下の粉塵を揺らす。
副本の声がすぐ後ろで噛み合わず、薄くなる。
『……透明は適応ではない』
帆花が読み上げる。行番号が、糸井の指で指し示される。「抹消簿・第14葉・下段三行目」「録音テープ・00:31–00:46」。証拠が言葉に骨をやる。
「名前は権利だ」神前が、声を落として続ける。
「弱い方から、呼ぶ」保健代表の少女が最初の名を読み上げる。指先は震えたが、その震えに拍がある。
拍に乗せて、次の名が続く。
呼称の順は、貼り付けではなく、渡しだ。弱さは変わり、分け合える——帆花の注記を、読み上げながら実装する。
『——僕が全部持てば』
副本はなおも囁く。
七瀬は反相を一段深く入れ、位相を**±π/2から±3π/4へずらす**。
均質な音は、揺れに弱い。
副本の声が、薄皮のように剝がれる。
「合意は遅い」
真澄は、心の中の古い声を言葉にして口外する。
「だから——待つ。三秒で決まる効率より、三分で決まる納得の方が、遠くへ届く。合意は遅いけれど、戻らない。優しさは分ける手続きだ」
胸の器が熱を吐く。
怒りは注記へ、孤独は拍へ、羞恥は視線の角度へ、屈辱は見せる責任へ。
全部は、分割され、配線され、返される。
体育館の隅で、オンエアランプが一瞬だけ薄灯りを見せた。
停電の中でも、呼吸がある。
レオの回す音が、電気に、声に、そして記録に変わる。
糸井は**“注記”の頁をカメラで押さえ、図書室の鍵付き棚に複写**を投げ入れた。冗長性——消されないルートを増やす。
『……僕は君だ。効率の君だ。早く終わらせたかった夜、全部持って一秒で終わらせようとした君だ』
副本の声は、もうほとんど自分への手紙だった。
真澄は目を閉じ、心の中で返事を書く。
「知ってる。君がいたから、僕はここまで来られた。——でも、ここで止まる。早さは骨にならない。手続きが、骨になる。僕は君を否定しない。用途を変える。急ぐ勇気を、支える勇気に」
副本の音が、静かになった。
スピーカーのコーンが小さく呼吸し、見えない手が二度、扉を叩いた。
こん、こん。
——委任。
◇
第一行は、取り戻した。
続く二行、三行。
歴史への注釈が読み上げられ、合意のプロセスが公開され、痛みの分配表が掲げられる。
偏りの小ささ、分散の設計、撤回権の明示。
監督者のスクリーンは、沈黙したままだ。
沈黙は承認ではない。けれど、妨害でもない。
届いている。
反論可能性を備えた声は、刃にならず、橋になる。
発電機の唸りは汗の匂いを帯び、レオの額から一滴落ちた水が床に丸い印を残す。
神前は最前列で、負けと誇りの両方を背中に背負う姿勢をしている。
保健代表の少女は、自分の名を自分の声で呼び、笑った。声は震えたが、それは拍に変わった。
真澄は、最後に一度だけ副本に呼びかける。
「一緒にやるか」
答えはない。けれど、スピーカーの向こうの息が、わずかに笑ったように思えた。
◇
停電の終了予定——18:10が近い。
オンエアランプが、予告みたいに二度、呼吸した。
帆花が原稿の最後のページを裏返し、最終行を指さす。「外への要求。代理権限の失効、“合意を取ったことにする”運用の廃止、注記の公開。反論は受ける。反証の窓口も開ける」
七瀬が画面の位相をゼロに揃える。「遅延、クリア」
小此木が回す。
糸井が束ねる。
神前が立つ。
帆花が掲げる。
保健代表の少女がうなずく。
真澄は息を吸う。
耳の奥に、副本の、しかしもう自分の声が、囁きの温度で残っていた。
『全部、僕が——』
真澄は首を横に振る。
小さく、しかし確かに。
「——みんなで持つ」
第一行は、僕らのものだ。
名前は、権利だ。
痛みは、言語になる。
合意は、骨になる。
そして、外へ——届く。
決裂の前夜は、重奏で終わる。
G—B—E。
見えない手が、扉を三度叩いた。
こん、こん、こん。
——次へ。
明日、本番。
扉は開く。
弱い方から、名を呼ぶ。
注記を添えて。
反論の余白を残して。
僕が全部ではなく、みんなで。
“三十九”に増えた世界で——誰のための声かを、もう一度名で確かめに行く。
第17話 卒業試験:外界接続、本番放送
18:00。
校舎の呼吸が、いったん止まった。
廊下の蛍光灯がブツンと落ち、階段の踊り場から影が零れ落ちる。窓の外の夕空はまだ明るいのに、校舎の内部は静かに夜になった。
放送室のブースには、古い金属の匂いと、人の気配の熱。
机に据え付けられたマイクの前で、小此木レオが手回し発電機のハンドルをぐいと引く。歯車が噛み、うなる音が電圧に変わり、視聴覚室から伸ばした補助回線が計器の針を薄く震わせる。
ガラス越しに見える監督者のモニターが点滅し、無機質な灰色の帯が走った。
《非常モード:合議の省略可/代理権限:副校長代理(臨時)/一次承認:未判定》
帆花は即座にキーを叩く。指の動きは速いが、呼吸は乱れない。
「異議申立。——合議省略の起源規則は失効している。一次資料(抹消簿第十四葉下段三行目、録音テープ00:31–00:46)を根拠に、適用停止を請求」
画面の右上に小さな砂時計が現れ、文字が切り替わる。
《審理中:保留》
すぐさま、別の音が滲んだ。
空気の隙間から、よく知っているはずの声が、均一な質感で染み込んでくる。
『——遅い。効率が落ちる』
副本。
相沢真澄(副本)の、完璧な周波数で整えられた声。
七瀬は眉をわずかに寄せ、端末に指を置いた。
「“演算”。最短支配経路を予測、そこへ空白ノイズを注入。要約アルゴリズムの入口を塞ぐ。——レオ、位相合わせて」
「任せろ」
レオは耳を伏せ、ヘッドホンのハウジングを軽く叩く。キン。
微細なズレを聞き分け、ノイズの位相を半拍だけずらし、副本の滑り込むスロットを埋める。
「索引は僕が声にする」
糸井は台本の横に薄青のカード束を広げ、呼吸を整えて読み上げた。
「“抹消簿・第十四葉・下段三行目”——『合意を取ったことにしろ』。“録音テープ・00:31–00:46”——『透明は適応だ。名前の問題ではない』。注記——『合意は記録の都合ではなく当事者の声』」
索引は紙面でなく、音でも成立する。行番号が座標になり、音が地図になる。
帆花が木槌の代わりにマイクのスイッチを押し込んだ。
「放送、開始」
◇
第一行。
真澄は息を吸い、《保留》の器を声へと形替えた。
これまでの痛みが、喉で熱に変わる。
フィルタは来る。分かっている。だから二重化した位相で目を抜ける。
マイクの赤い点が光る。
世界が、一瞬、無重力になる。
「——明神朔」
放つ。
sの鋭い摩擦音がフィルタの網目を縫い、倍音がすべり抜け、ガラスが細く震える。
粉塵が金色に揺れ、マイクの横、空気の中に肩の高さの曲面が立つ。
朔の輪郭が、そこにいる。
唇が、聞こえると結ぶ。
「あなたの名を、最初に呼ぶ。透明は適応ではない。名を奪うことは、居場所を奪うことだ。これは、歴史の注釈であり、私たちの合意だ」
副本が割り込む。
『第一行の要約を——』
ノイズが淡く重なり、要約の口が塞がる。
七瀬の指が一段テンポを上げ、レオのハンドルが深く回る。
第二行、帆花。
「我々は、負荷分散の合意により、痛みを分け持った。強い者ほど重い痛みを、弱い者は小さな痛みを、透明の痛みは全員で。同意に基づくプロセス。合意は、誰かを消すために使わない」
『時間がない。要約せよ』
副本の声は、真っ直ぐで、冷たい。
七瀬が首を振る。「要約は原本の権利を侵す。ここは全文だ」
糸井が一次資料の行を読み上げ、レオが帯域を外界向けに開放する。
テープの音が流れる。久遠奈央の低く落ち着いた声、匿名管理職の濁った声。
『合意を取ったことにしろ』
その五拍目で、帆花が注記を重ねる。
「合意は当事者の声。記録の都合で書き換えない」
監督者のモニターが一段明るくなった。
灰の帯が青に変わり、端に小さな小窓が幾つも並ぶ。
スーツの群れ、蛍光灯の白、マイクの銀——外の会議室。
《外界接続:確立》
小窓の下に文字が走る。教育委員会/システムベンダー/副校長代理。
外の声が、遅延を引きずって漏れてきた。
「……何だ、これは」「校内の訓練システムが——外部発信を」「一次資料? 記録を送っている?」
第三行、真澄。
胸の熱はまだ強い。けれど、割れない。
器は、分割を覚えた。
「——僕の名を、呼ぶ。相沢真澄。私は、二重化されていた。効率という名の正義に、僕自身が屈しかけた。でも、僕は選ぶ。合意に時間をかけることを。遅さを、人のかたちにするために」
『最短経路が正義だ』
副本は、最後の一本の弦で奏でるように囁く。
真澄は首を横に振った。
「最小費用流は、行き先まで含めて設計する。置き去りをゼロにするために——経路を増やす」
その言葉が合図になったかのように、
放送室のブースにいた六つの保留点が同時に声を解放する。
「私は弱さを貼られたくない。でも、ここに立つ」(保健代表/震えるが、拍のある声)
「俺は負けを見せる。屈辱は、見せる責任で割れる」(神前/低く、太い)
「索引番号、注記の位置、脚注の階段——外の人も辿れるように」(糸井/静謐)
「音は届く。G—B—E。四拍吸って、四拍吐く」(小此木/柔らかな芯)
「位相合せ良好。第一行の窓、維持。遅延、クリア」(七瀬/透明)
「合意書を掲げる。本人同意、撤回権、公開範囲。反論可能性の窓口、開設」(帆花/凛として)
合唱は、合点の印のように外に溢れ出した。
小窓の向こうで誰かが慌ててマイクを引き寄せる。ノイズを挟んで、掠れた声が落ちてきた。
「——こちら教育委員会……記録は受け取った。すぐに——」
ぷつり。
通信は、いったん切れた。
だが、届いた。
それで十分だ。
モニターの中央に、監督者の仮面が静止する。
灰色の帯がゆっくり、白に変わり、文字が現れた。
《卒業試験:合格》
《条件付き:ログアウト希望者は順次案内。残留希望者は、“ここ”を学校として続ける選択ができる》
《備考:注記は保存。反論の窓口は継続開放》
ガラスの向こう、朔の輪郭が近づく。
音はない。けれど、肩に冷たい指が触れた気がした。
ありがとう、と。
言葉の代わりに、息で。
◇
停電が明け、18:10を告げるように、蛍光灯が順々に灯る。
影は後退し、窓の向こうの夕焼けが校舎の内側に差し込んだ。
レオがハンドルから手を離し、ふうと息を吐く。
糸井は索引カードを束ね、角を揃える。
七瀬はケーブルを巻き、第一行の窓をそっと閉じた。
帆花は合意書に**“施行済”の付箋を貼り、小さく頷く。
神前は拳を開き、掌の跡を見て笑った。「回し癖がついたな」
保健代表の少女は、名札の最後の一画**を足した。完全な字になって、静かに胸に戻す。
真澄はマイクから一歩離れ、深く息を吐いた。
胸の熱はまだある。だが、違う意味になっている。
痛みは、分け合える。
声は、重ねられる。
合意は、遅いけれど、遠くへ届く。
ふと、スピーカーから微かな呼気が漏れた。
副本の——けれど、もう自分の声。
『……ありがとう。用途、分かった』
それきり、音は消える。
副本は否定されず、役割を持った。
急ぐ勇気は、これからも必要だ。窓を開くとき、隙を縫うとき。
ただし、全部は持たない。
みんなで持つ。
扉の外で、見えない手が二度、そして一度叩いた。
こん、こん、こん。
——委任と、了。
◇
案内が始まる。
監督者の画面に、ログアウトの列。
家に帰る者。ここに残る者。
残留は、もう罰ではない。学校として、続ける選択だ。
地歴の棚には注記が残り、技術室の隅には見える化装置の試作が置かれる。
保健室の前には、貸借スコアではなく回転式の発電機が据えられ、だれでも回せるようギア比の説明が貼られた。
体育館の壁には、「弱い方から呼ぶ」の条項と、その下に追記——『弱さは変わり、分け合える』。
図書室の鍵付き棚には、合意書と録音テープ、脚注の目録。
そして放送室には、第一行の台本が額に入れられて掲げられる。
『明神朔。あなたの名を、最初に呼ぶ。透明は適応ではない。名を奪うことは、居場所を奪うことだ』
朔の輪郭は、夕焼けの角で薄くなり、やがて室内の人の声に溶けていった。
——帰る者も、残る者も、名前で呼ばれる。
それが、今日、ここで選び直したルールだ。
「行こうか」
七瀬が肩を叩く。
帆花が笑う。「卒業試験、合格」
神前が苦笑する。「補欠合格くらいの顔だぞ、お前」
レオが耳に手を当て、「オンエアランプ、まだ呼吸してる」
糸井が額を上げる。「次の索引、作らないとね。“残留の教科書”」
真澄は、最後に放送室のガラスへ掌を置いた。
指先に、微かな温度。
外へ開いた窓の名残。
胸の器は、今日、声を預かり、返した。
明日は——声で作る。
卒業は通過点。
学校は、選択。
合意は、続編。
名前は、権利。
痛みは、言語。
声は、橋。
そして——この物語はまだ、授業の途中だ。
第18話 エピローグ:ログアウトと、残る者の授業
翌朝の空は、洗い立てのガラスみたいに澄んでいた。
校門の前には、夜のうちに設置された“案内表示”が立っている。縦に二本の矢印——〈外へ戻る〉/〈ここに残る〉。矢印ごとに、短くも確かな列ができていた。どちらの列にも、ためらう足音は少ない。みんながもう、自分の名で答えるやり方を知っているからだ。
「——俺は戻る」
最初に口を開いたのは神前だった。昨日の汗がまだ襟元に残っている。目の下の隈は薄れ、代わりに何か決心の色が乗っていた。
「妹が待ってる。……それに、戻ったら謝りに行く。俺のやり方は、誰かを削った。あの“保健室経済”で稼いだ点は、帳尻じゃない」
保健室代表の少女が小さく手を上げ、うつむかずに言う。
「わたしは残る。ここをほんとの保健室にしたい。債務スコアは、昨日で捨てた。代わりに“ケアの記録”を貼る。名前が薄くならないように」
「その場合、生徒会規約の改定が必要」
帆花は即座に手帳を開いた。鉛筆の先はもう条文の隙間へ潜り込み、改正案の骨をつくり始めている。
「合意の手順、撤回権、公開範囲。保健室の役割定義を“治療と学び”に書き換える。監督者に送る議案番号は——」
「アーカイブの再構築、続けてもいい?」
糸井は図書室の鍵束を光にかざし、糸の伸び具合を確かめるみたいに指で弾いた。
「注記の掲示場所と脚注の付け方、一般公開の階段を作る。昨日の放送の行番号も加えて、外の人が辿れる索引に」
「音はさ、いつもどこかで鳴ってる」
小此木は肩をすくめ、耳の後ろの髪を押さえた。
「ここでも、外でも。G—B—E、昨日のやつ。たぶん、この学校の合図になるよ」
七瀬は黙って真澄の横に立ち、視線だけで問いかける。
「——君は?」
真澄は空を見上げた。
学籍簿の“相沢真澄(副本)”の文字は消えて、二重化の欄は空白に戻っている。“37”の番号は、何も書かれていないまま、白い余白を保っていた。そこに新しい名前を書くのは、これからの話だ。
昨夜、胸で燃えていた熱は今、穏やかな体温に落ちている。全部を持つかわりに、分け合う経路を描く——自分のスキルの定義が、ようやく一行で言い表せる気がした。
風見鶏が回って、朝の光が羽の縁でひらりと曲がる。
校内放送が、今朝はただの音楽を流していた。レオの選曲らしい、静かな三和音。G—B—E。胸骨にやわらかく触れては離れる。
◇
放送の反響は、思っていたより早く届いた。
掲示板の隅のモニターに、外界からの短いニュースが流れる。
《教育委員会、臨時災害対応の裏権限の失効漏れを認める》
《システムベンダー、“合意の見せかけ”を可能にした仕様の修正を約束》
《副校長代理、「現場の人手不足が背景に」と回答——再発防止策を明示》
きれいな結末ではない。誰も土下座をしないし、英雄譚みたいな拍手もない。けれど注釈は外に刻まれた。反論可能性の窓口は開き、記録は残った。
それで十分だと、昨日の自分たちが教えてくれた。
ログアウトを選んだ面々が、一人、また一人と光の回廊へ消えていく。
神前は途中で振り返り、右手を上げた。
「弱い名から、呼べたな」
真澄は頷く。「約束、守った」
神前は照れたように鼻を鳴らし、光の向こうへ歩き出した。彼の背中に貼られていた“支配”という影は、もう輪郭をなくしていた。
残ることを選んだ者たちは、黒板の前に集まった。
帆花が白墨を持ち、最初の授業を黒板の一番上に書く。
《総合探究:合意の方法をつくる》
そして今日の宿題。
《— 撤回権の運用例を三つ考える/— 反論可能性を高める掲示のフォーマットを提案/— “弱い方から呼ぶ”条項の運用と例外規定の案》
保健室の掲示には、既に新しい紙が貼られていた。
《債務スコア廃止》
《ケアの記録導入:症状・経過・周囲の支え・本人の選択》
項目の最後に、**“名前の確認”**という行が太字で入っている。呼ぶことで、居場所が結び直される。
図書室は朝からにぎやかだ。
掲示板には、糸井の字で書かれた**「一次資料の公開」と「脚注の付け方」**のポスター。
行番号の意味、引用の階段、注記の書式。
子どもみたいに目を輝かせている一年生が、「これ、外の人も読める?」と聞き、糸井はうれしそうに頷く。
「読めるように書くのが、公開です」
◇
明神朔は——どうなったのか。
放送のあと、彼の輪郭ははっきりした。透明の熱はまだわずかに揺らいでいる。けれど名前はここにある。
呼べば、振り向く。
『はい』と。
彼はログアウトを保留した。「もう少し、ここで」。
図書室の窓辺で、指の腹に粉塵を付けては光に透かすのが、今の彼の癖だ。
「写らなかったって、ずっと怖かった。でも、『写す。声で』って、相沢が言ってくれたから。……もう一回、写ってみる」
昼休み、屋上。
真澄は七瀬、帆花、小此木、糸井、そして朔と並んで腰を下ろした。
風が髪を撫で、校内放送は静かな音楽を流す。G—B—E。
手すりには神前の残した走り書きが貼られている。「遅さは弱さじゃない」。紙の端は風で少しめくれ、陽の光で半透明になっていた。
沈黙が心地よくなった頃合い、帆花がノートを閉じた。
「午後は生徒会規約の第二稿を出す。保健室の記録様式と、議決の透明化の条項、それから外部監査の窓口」
「僕は配線の引き直し」七瀬が言う。「放送室の第一行の窓は常設すると脆い。一時的に開ける手順だけ残す」
「俺は音の掲示板を作るよ」小此木が笑う。「“拍”の取り方、嘲笑の位相の潰し方、和音の重ね方。練習用の廊下も決める」
「僕は索引の“人名”を更新する」糸井は朔の肩を軽く叩く。「——明神朔、“写らなかった”の脚注に追記。“写るための条件:名前で呼ばれること、返事すること”」
朔は俯いて笑った。
「返事、練習しとくよ」
「練習はいらない」七瀬が柔らかく言う。「返事は、名が先にあるからできる」
真澄は、黒板の角にチョークで小さく書いた。
《保留:他者のスキルと痛みを預かり、しかるべき時に返す》
返す——この語が、今は嬉しい。返す相手の顔が、ここから見えるからだ。
自分が“優しさ”だと思い込んでいた“全部持つ”は、孤独の別名だった。
これからの“優しさ”は分け合える設計だ。
最短だけじゃない。美しさに居場所を足すこと。
——それが、彼のこれからのスキルだ。
◇
夕方、外界へ戻ったメンバーから最初の返信が届いた。
《ニュース、見たよ》
《学校、変わるってさ》
《また会おう》
短い文たちが、救急箱の白ガーゼみたいにやさしく画面を覆う。
神前からは、写真が一枚。
病院の窓の下でVサインする妹の指。手前に写る彼の手には、借金スコアのスタンプではなく、発電機のグリップの跡が赤く残っていた。
最後のチャイムが鳴る。
初日のそれと同じはずなのに、違って聞こえる。
琥珀色の光はまだ窓の向こうに広がっているが、教室は、もう“ゲームめいた異世界”ではない。
学校だ。
椅子がきしむ音、ページをめくる音、笑いの位相が少しずつ合う音。
音は、生活に溶けた。
「じゃ、授業始めましょう」
帆花が笑う。
「合意のやり方、今日の宿題にするね。反論の書き方と撤回の手順、三通り考えてくること」
笑いが散り、ペン先が走る。
七瀬は真澄の肩を軽くたたき、筆箱をひょいと投げた。「相沢、板書。字、前より濃くなったね」
「輪郭は、ここにあるから」
真澄は立ち上がり、黒板の前に立った。
粉が舞い、白い線が走る。
教室の後ろで、見えない手が二度、そしてもう一度だけ、そっと扉を叩いた。
こん、こん、こん。
——委任、了、そしてまたね。
◇
放課後。
校庭の隅で、回転式の発電機が子どもたちに人気だ。
「順番!」
「弱い方から!」
誰かが笑って訂正する。「弱さは変わる。分け合えるから、並び替えもあるよ」
レオがそっとハンドルに手を添え、回しにくそうな子のリズムを四拍に整える。
音が灯り、灯りが声になり、声が名前を呼ぶ。
名前が返事をする。
返事が居場所になる。
図書室では、糸井が「注記の公開」の最後の確認をしている。
「脚注は読者のために。叙述は誰かを不可視にしないために」
朔がその隣で、**“写るための条件”**の付箋を貼り、照れくさそうに笑う。
「はい、って言うの、ちょっと好きになってきた」
保健室には、新しい掲示がもう一枚。
《ケアの記録:例/“孤独:昼休みに一人で過した。声かけを受け、返事あり”》《“羞恥:失敗のあと、見られすぎの疲労。視線の角度の工夫で軽減”》
棚には、昨日の放送で使ったカセットテープがケースに収まっている。ラベルには、震えない帆花の字で“第一行”とある。
誰かが階段を駆け上がり、誰かが踊り場で息を整え、誰かが廊下の角に矢印を書きたしている。
→ 放送室。
→ 図書室。
→ 合意の掲示。
方向は、名で呼ばれる場所へ通じている。
◇
日が傾き、影が黒板の上で長く伸びた。
真澄は、今日の板書の最後に、少しだけ余白を残してチョークを置く。
余白は、不安の形じゃない。次の名が入る場所だ。
自分の輪郭は、ここにある。
誰かの痛みをまとめて持つ代わりに、分け合う経路を描くこと。
最短だけじゃない、美しさに居場所を足すこと。
**“保留”**はもう、借り物の優しさじゃない。返すための器だ。
窓の外、風見鶏がゆっくりと回る。
黒板に、白い粉塵が舞う。
遠くで、まだ誰かの名前が呼ばれている。呼ぶ声に、呼ばれる声が、重なっていく。
見えない手は、もう隠れていない。
名前を呼ぶ声の中に、みんなで混ざっている。
——そして、この物語は、いったん閉じる。
ログアウトする者も、残る者も、声を持っている。
名前を呼び、返事をもらい、授業を続けるための声を。
もしまた“透明”が現れたら、僕らは注記を足すだろう。
もしまた“効率”が牙を見せたら、僕らは合意で骨を作るだろう。
もしまた“痛み”が一人に偏ったら、僕らは保留で分けるだろう。
最後の光が廊下の端でほどけ、夜の入り口が静かに開く。
白墨の粉が、月の粒みたいに小さく光った。
誰かが廊下の向こうで、二度、それから一度、扉を叩いた。
こん、こん、こん。
——委任。了。そして、また明日。
授業は続く。




