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クラス全員、校舎ごと異世界ログイン(ログアウト不可)  作者: 妙原奇天


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前編

『クラス全員、校舎ごと異世界ログイン(ログアウト不可)』

—学校という“日常”を守りながら、閉じた世界のルールを解体する群像サスペンス×学園バトル—


第1話 ベルが鳴ったら、世界が切り替わる


 ——チャイムが鳴った瞬間、世界が切り替わった。


 四限目の終わり。退屈な現代文の授業、教師の声は半分BGM。

 だが、その瞬間、蛍光灯の白がふっと揺らぎ、天井が琥珀色に染まった。

 窓の外では、アスファルトの道路が石畳に変わり、電柱が消え、遠くのビル群が見知らぬ塔と尖塔の街並みに置き換わる。

 教室の空気が一瞬ひやりと変わり、誰かが息を呑んだ。


「……え?」


 最初に声を出したのは、前列の椎名だった。

 机の上のタブレットが、淡い光を放ちながら勝手に立ち上がる。

 黒板の数式が溶けて、知らない文字列に変わっていく。

 教室全体が、ゲームのタイトル画面めいた映像に包まれていた。


 そして、頭の中に何かが“入ってきた”。


 ——ステータスウィンドウを開きますか?


 全員の視界の端に、半透明のタブが浮かび上がる。

 慌てて机から立ち上がる生徒たちの間を、電子音が走るように広がった。


「え、なにこれ、なんのイベント? ドッキリ?」

「おい、誰かスマホで撮って!」

「だ、だめだ! 圏外!?」


 スマートフォンの表示はすべて「No Signal」。

 教室の扉を開けると、外の廊下は確かに学校だが、窓から見える景色はもう日本ではなかった。

 誰も見たことのない異世界の街並みが広がっている。


 そして、スピーカーから声がした。


『——ようこそ、二年A組の諸君。監督者モデレータからの通達だ』


 黒板の上の校内スピーカーから、金属を擦るような声。

 男女の区別もつかない、低く機械的な調子だった。


『現在、貴君らは“システム・エデュケーション”の対象となった。校舎はそのままに、外界は再構成された。

 ログアウト条件は——“放送室からの全校アナウンス”。』


 ざわつきが一気に爆発する。


「は!?」「どういう意味!?」「放送室?」「先生は!?」


 しかし教師たちの姿はどこにもなかった。

 担任の机にはノートと赤ペンがそのまま残り、まるで一瞬で消えたように。


『ただし放送室の扉には“制御鍵”が必要だ。鍵は校内各所に散らばる“教科イベント”のクリアで入手できる。

 また、全員に個別スキルを付与した。詳細は各自のステータスを確認せよ。』


 その声が途切れると同時に、視界のタブが自動で開く。


【相沢真澄】


職業:学生(クラス2-A)

スキル:《保留デファー

効果:他者のスキル効果を一時的に保留し、指定のタイミングで一括発動。

代償:保留中、対象が感じる“感情の痛み”を肩代わりする。

ステータス燃料:感情エネルギー


「……は?」

 真澄は呆然と、浮かぶタブを見つめた。


 まわりでは、クラスメイトたちが次々にスキルを叫び始めている。


「おれ、《衝撃波》だ! うおっ!」

「私、《加速》って出た! 走ると速くなるのかな?」

「《透明化》とかヤバい! ガチの異世界じゃん!」


 空気がざらつくように騒がしくなる中、真澄は自分のスキル名をもう一度読んだ。


 ——保留。

 意味がわからない。攻撃でも防御でもない。

 試しに意識を向けると、身体の奥に重い痛みが走った。

 心臓の鼓動が、ひとつ跳ねるたびに胸の奥が焦げつくようだった。


「……なんだこれ。痛っ……!」


「真澄?」

 隣の席から声をかけたのは東雲帆花だった。

 生徒会書記。長い黒髪を後ろで束ねた、冷静沈着なタイプの女子だ。

 その目にも、同じようにタブが光っていた。


「私のスキル、《同期シンクロ》……誰かと感情を共有できるって書いてあるけど、ちょっと怖いわね」

「帆花、それ……俺のと、似てるな」

「あなたのは?」

「《保留》……だってさ。意味わかんないけど、なんか痛い」


 彼女はわずかに眉を寄せたが、すぐに冷静に戻った。


「とりあえず、動かないよりマシね。七瀬を探しましょう。彼、理科準備室にいるはず。」


 七瀬遥。不登校ぎみだが理科の天才。

 異常事態において、頼りになるのはあいつだと帆花は判断した。


 廊下に出ると、他のクラスの生徒たちも混乱の渦中だった。

 叫び声、泣き声、廊下に散乱したプリント。

 ガラスを割って外に出ようとする者もいるが、そこには透明な壁のような膜が張られ、弾かれる。


「まるで……ゲームのフィールドみたいね」

 帆花が呟く。


「これ、誰かの悪趣味な実験とかじゃないよな」

「かもしれない。でも、私たちは“プレイヤー”ってわけね」


 彼らが理科室へ向かう途中、廊下のモニターが一斉に点灯した。

 琥珀の画面に、仮面をつけた“監督者”が映し出される。


『——第一教科イベントを開始する。“国語”だ』


 教室全体に電子チャイムが鳴り響く。


『制限時間三〇分以内に古文の穴埋め問題を解け。班ごとの平均正答率が一定に達しなければ、“心的ダメージ”が班全員に波及する。』


「心的……ダメージ?」

「精神攻撃ってこと? バカな……!」


 再びチャイムが鳴ると、教室の前方に黒い光の球が浮かび上がり、そこから古文の問題がホログラムのように映し出された。

 “あはれ——いと——なり”

 “この世をば——と——思ふ——”


「くそっ、文法とかもう忘れた!」

「誰か! 得意なやつ!」


「真澄、あなた国語得意でしょ!」

 帆花が叫ぶ。

「いや、俺より七瀬の方が——」


 そのとき、背後から声がした。


「もう、始まってるんだね」


 理科室の扉から現れたのは七瀬遥だった。

 眠たげな目に、無造作な前髪。手にはタブレットを抱えている。


「スキルは《記憶強化》。短時間なら情報を完全に覚えられる。けど代償がある。“使用後に強制的な忘却”だってさ。笑えるだろ」


「笑えねぇよ……!」

「まぁでも、使うしかない。帆花、班組もう。真澄も来い」


 即席チームが結成される。残り時間、二十八分。


 問題は全員の視界に浮かび、班ごとのスコアがリアルタイムで変動する。

 正解を出すたびに教室の照明がわずかに明るくなり、間違えると心臓を締めつけるような圧迫感が全員に走る。


「はぁ……っ、やば……心臓が……!」

「これが“心的ダメージ”か……っ!」


 班の一人が泣き出し、誰かが逃げ出そうとする。

 その瞬間、スコアが一気に下がり、教室全体が暗転した。


『逃避行動を確認——全員に負荷レベル上昇』


「待て! まだ終わってねぇ!」

 真澄は叫び、帆花と七瀬を見た。


「俺、《保留》を使う。お前らのスキル、いったん預かる!」

「預かる? どうやって——」

「わかんねぇ。でも、多分できる!」


 真澄が手を伸ばすと、二人のスキルアイコンが光り、糸のような光線が彼の胸に流れ込む。

 瞬間、激痛。

 心が焼けるような苦痛と、不安と、焦燥。

 他人の感情が流れ込む。

 七瀬の恐怖、帆花の冷たい緊張。

 それらが全部、自分の中で暴れている。


「ぐっ……ぅ……!」


「真澄! やめて!」

「だいじょ……ぶ……! タイミング……来たら……!」


 残り時間、二分。


 視界が揺れる。

 鼓動のたびに血管が裂けそうだ。

 それでも、真澄は机に手をついて叫んだ。


「今だ——“保留解除”!」


 全身から光が爆ぜた。

 七瀬の《記憶強化》が全員に拡散し、帆花の《同期》がクラス全体を繋げる。

 全員の知識と感情が一瞬で共有され、解答が雪崩のように埋まっていく。


『正答率——92%。合格ライン到達。』


 光の球が弾け、教室の天井に金の文字が浮かぶ。


《国語イベントクリア。制御鍵:国語を獲得》


 同時に、真澄の体が崩れた。

 激痛が収束し、呼吸が止まりそうになる。

 帆花が抱きとめる。


「真澄っ! ねぇ、しっかりして!」

「……大丈夫……保留、解除、成功……」


 薄れる意識の中で、彼は確信する。

 このスキルの代償は、確かに痛い。

 でも——それを引き受けることが、きっと自分の役目だと。


 夕方、チャイムが鳴る。

 授業が終わったことを告げる、いつもの音。

 だが、それは現実の“終わり”の合図でもあった。


 廊下の掲示板に、新しい文字列が浮かぶ。

 “学籍番号:37”


「……37? うちのクラス、36人じゃ……」

「誰?」

「知らない番号……」


 そしてスピーカーが再び鳴った。


『放課後(21:00)までに、二科目以上の鍵を集められなければ——一名が“留年”する。』


 “留年”という言葉が、冷たい金属の音のように響いた。

 だがその意味を知る者は、まだ誰もいなかった。


 夜のチャイムが鳴るまで、あと六時間。

 世界は、すでに授業のつづきを始めていた。



第2話 保健室は安息ではない


 放課後前のHR。

 世界はまだ切り替わったまま、日直の号令だけが旧来の儀式のように机列を縛っていた。

 だが「起立、礼」の声の余韻を破ったのは、別のアナウンスだ。


『告知:保健室にて“治癒ヒール”系スキルの受付を開始。負傷・疲労・心的負荷の軽減が可能。ただし有償——“労働ポイント”にて決済』


 ざわめきが波紋のように広がる。

 さっきの国語イベントで、膝をついた者、目眩で座り込んだ者、心臓の鼓動だけが大きくなった者。助けは甘美に聞こえる。


「労働ポイントって、なんだよ」

 後ろの列で誰かが吐き捨てる。

 教室後方の扉の向こう、廊下の掲示板には“労ポ交換表”が生まれていた。

 掃除三〇分=1、備品運搬一往復=2、パトロール=3。

 そして一番下に赤字——“治癒1回:5”。


 帆花が低く呟く。「最初にルールを握るやつは、いつだって市場を作るわ」


 保健室。

 扉を開けた瞬間、白い安息の匂いではなく、秩序の匂いがした。

 中央のベッドには純白のシーツ、窓は半分だけ開き、外の石畳の風がかすかにカーテンを揺らす。

 その中央、消毒薬のトレイをテーブル代わりにして座る男子——神前かみさき

 人懐っこい笑顔。だが目の奥は、既に“店主”だ。


「いらっしゃい。二年Aの救世主さまご一行?」

 皮肉を含んだ声。取り巻きが左右に立つ。

 腕章に手書きで“医療班”。


 七瀬が前に出る。「治癒の実効は? 身体ダメージと心的ダメージ、どちらに効く?」


「どっちも。こっちの“天使エンジェル”が優秀でね」

 神前が顎で示すと、髪を結んだ女子が会釈した。

 彼女のタブには《回帰リグレッション》の文字。

 ベッド脇の男子が試す。掌をかざし、光がふっと灯る。

 痛みを抱えた生徒の表情が柔らかくなる——見た目には、そう見える。


「ただし」

 神前は片手を上げた。「“副作用”は消えない。安全地帯でも、スキルの代償は課題として残る」


 女子が、笑って見せた。笑うタイミングに一拍遅れがあった。

 帆花の目が細くなる。

 彼女のタブに、淡く注釈が浮かぶ——《回帰》:使用者に“記憶の空白”が累積。短期記憶から欠落し、固有名詞から消え始める。


「ポイントは後払いでもいい。明日の“保健イベント”で報酬が出るらしいからね。そこから天引き。うちのファイナンスは甘いよ」


 甘い声色。手のひらは砂糖、爪先は刃。

 真澄は一歩だけ踏み込んだ。「独占する気か?」


「独占? いやいや、“管理”。野良でやられても困るだろ。暴発して死ぬのは誰だ? 君かい? 俺か? ……もしくは、何人かの、ね」


 取り巻きが笑い声を上げる。乾いた金属音。

 保健室の空気が、消毒と利権で満たされる。


 そのときだった。

 奥のベッドのカーテンがふっと揺れ、中から男子が半身を起こした。

 髪は寝癖のまま、顔は青い。

 彼は手を伸ばし、空を掴むように言った。


「な……名前……名前が……出てこない……」


 神前の笑顔が一瞬だけ硬くなる。

 取り巻きの一人がうろたえ、振り返る。「こいつ、さっき三回使った。……俺の、友達……えっと、えっと……」


 言葉が滞る。

 友の名を、呼べない。

 彼の目が、自分の名札を確かめる。

 名札には“田所”。しかし口は動かない。

 記憶が床に零れ落ちていく音が、確かに聞こえた。


「副作用は、“ある”。それでも、やるなら、うちで管理する」

 神前の声は滑らかだった。

「さあ用が済んだら——」


「まだ済んでない」

 帆花が前に出る。

「保健室は“安全地帯”。だから、ここで“市場”を作るのは筋が悪い」


「筋なんて、誰が配った?」

 神前は笑い、右手で空を鳴らすように振った。

 それに呼応するように、アナウンスが鳴る。


『告知:次の教科イベントは“英語”。場所は体育館』


 微かな振動が床を伝う。

 神前は肩を竦めた。「ほら。行かないとポイントが稼げないよ?」


 帆花は視線だけで合図した。

 真澄、七瀬、小此木レオ、糸井雪弥——四人が頷く。

 レオは耳を軽く叩いた。

「《共鳴レゾナンス》、音の位相を拾える。まあ、使い方次第だけど」

 雪弥が眼鏡を押し上げる。「図書委員。《索引インデックス》で“必要なページ”を引き寄せられる。紙に限らない」


 五人は保健室を後にした。

 神前の視線が、背中に針のように残る。


 廊下に出た瞬間、七瀬が低く言った。

「覚えておけ。治癒は“借りる”だけじゃない。“奪う”可能性が高い」


「奪う?」

「回復に必要なリソースが、どこかから調達されるなら、どこかで欠落が起きる。さっきの“空白”——あれは使用者から自分自身へ。だが、将来的に“他人からの転用”が開示されても驚かない」


 帆花は短く息を呑み、足を速めた。


     ◇


 体育館。

 扉を開けると、反響がもう待っていた。

 板張りの床、吊り下がるバスケットゴール、ステージ、緞帳。

 天井の梁の隙間——黒い小球が並ぶ。音響センサーか、罠か。


『英語イベント開始。課題は——〈教科書本文を即興劇で“英語のみ”で演じきれ〉』

『評価軸:流暢度・抑揚・発声・間。失敗条件:反響過多・理解度不足・集中崩壊』


 ステージ上のスクリーンに、教科書の本文が流れる。“A Day in the Life of—”。

 クラスごとの班が、舞台袖に集まる。

 客席には採点用の光が点々と灯り、体育館全体が巨大な試験機になっていた。


 レオが囁く。「天井の黒い点、あれ、多分“しきい値”。音量が超えると、反射音が増幅される」

 七瀬が続ける。「逆に、棒読みだと“理解度”を下げるアルゴリズムがある。つまり、うるさくても静かでもダメ。笑い声は“集中崩壊”のトリガーになる」

 雪弥がタブを撫でる。「索引、索引……“役割の最適配分”“比喩の取り回し”……」


 帆花が全員を見渡す。「方針は?」


 真澄は喉の奥を鳴らし、言った。

「俺が《保留》で、みんなの補助スキルを束ねる。タイミングは——クライマックスの“キメ台詞”。そこに全部を重ねる」

「負荷は?」

「……背負う。俺が、背負う」


 七瀬が小さく笑う。「了解。じゃあ、俺の《記憶強化》は台詞の暗唱に全振り。終幕で忘れても、今は速度がいる」

 帆花が頷く。「私は《同期》で呼吸と抑揚を揃える。舞台の“拍”を共有するわ」

 レオが両耳を軽く叩く。「《共鳴》で体育館の“響きの谷”と“峰”を探す。声が吸われる地点、跳ねる地点、全部マークする」

 雪弥がタブを指で弾いた。「《索引》で“英語教科書”の“口語例”と“発音記号”を引き出す。微妙な間合いを回収する」


 準備は、整った。


 最初の班が舞台に上がる。

 声がやや大きい。天井の黒点が一つ、赤く灯る。

 反響が増幅し、背後から自分の声が刃物のように刺さる。

 彼らは怯み、笑い声がこぼれた。瞬間、中央のライトが青から黄へ——“集中崩壊”。


 次の班。

 今度は小声すぎる。理解度が落ち、スクリーンに薄い×が増える。

 体育館は、学習する獣のように生徒を削る。


「行こう」

 帆花の声で、真澄たちはステージ袖へ。

 ライトの熱が肌に刺さる。客席の生徒たちのざわめきが波打つ。


 幕が上がる。

 真澄は足を一歩踏み出し、英語で口火を切る。


 ──Good afternoon, everyone. We are going to show you… our daily battle.


 七瀬が続ける。抑揚は一定、間は短く。記憶強化が滑らかさを作る。

 雪弥が差し込む。教科書の定型表現を“会話に見えるよう”に並べ替える。

 帆花がラインを引く。同期が全員の呼吸を一列に並べ、会話が合唱のようにひとつの帯になる。

 レオが手を開いた。

「今、ここ」

 彼が指した床の白線から一歩ずれると、反響が変わる。音の谷。

 レオの“耳”が示す最適位置に立つだけで、声の跳ね返りが柔らぐ。


 真澄は、胸の奥で《保留》を起動する。

 皆の補助スキルの光が、一本の縄のように彼の胸に巻きつく。

 痛み。熱。羞恥。恐怖。

 舞台の上で浴びるそれは、不思議と甘く、えぐい。

 見られることの怖さと、光を浴びる快楽が、同じ色をしている。


 英語で交わされる日常の一幕は、やがて“旗”を求め始める。

 クライマックス。

 帆花の台詞がその旗になる。


 ——Because even if the world changes, we can still choose our voice.


 英語の文に、彼女自身の決意が乗る。

 真澄はその瞬間を待っていた。


「《保留解除》——今だ」


 胸の縄が切れる。

 七瀬の記憶強化が客席へも“理解度の同期”として広がり、雪弥の索引が“聞くべき語”を耳元にふわりと置く。

 レオの共鳴が体育館の罠に“逆位相”をぶつけ、反響が消える。

 帆花の同期は、観客の心拍までも一拍だけそろえる。

 体育館の罠は、ほんの一瞬——“美点評価”へと転じた。


 ライトが一段、白くなる。

 スクリーンに金の文字。


《英語イベントクリア。制御鍵:英語を獲得》


 拍手。

 観客という言葉は、この世界に存在しないはずだった。

 けれど、今だけは確かにそれがあった。


 幕が降りる。

 真澄は膝をつく。

 灼けるような痛みの名は、羞恥と恐怖と、少しの高揚。

 帆花が肩を支える。「よく、やった」


 袖で待っていた生徒たちの中に、保健室の“天使”がいた。

 彼女は拍手をしない。真澄たちの顔を、順に確認する。

 その目は、薄く翳っていた。


「……ありがとう」

 彼女はそう言いながら、ポケットからメモを取り出した。

 罫線には、六つの名前。

 最後の一つが空欄で、彼女はペンを止めた。


「あなたの、名前は?」

 彼女は自分に問うた。

 真澄ではなく、自分自身に。

 返事は、すぐに出なかった。


 袖の隅で、取り巻きの一人——田所が、顔を覆って泣き崩れた。

「ごめん……ごめん……俺、なんで……お前の“あだ名”しか思い出せねえ……!」


 七瀬が彼の前にしゃがみ、低く告げる。

「だから言ったろ。この世界のスキルは、“誰かから何かを借りる”じゃなくて、“誰かから何かを奪う”可能性がある。

 君が自分を削ってまで誰かを治したのなら、その“空白”は、いつか形を持つ」


 田所は嗚咽の合間に頷くしかなかった。

 神前の影は、体育館の客席の暗がりで腕を組み、動かなかった。


     ◇


 日が落ちる。

 石畳の街並みは琥珀から藍に変わり、校舎の窓が灯の群れになる。

 放課後のチャイムが鳴る少し前、五人は放送室の前にいた。

 扉は無骨な金属、取っ手の横に鍵穴——“制御鍵”のアイコンが二つ点灯している。“国語”“英語”。


 真澄が息をつく。「あと一つで、今日のノルマは超えられる」

「超えられない場合の“留年”って、何を意味する?」

 帆花の声は静かだが、硬い。


「きっと、ただの延長戦じゃない」

 七瀬が答える。「“残される”のは、誰だ?」


 そのとき——

 廊下の奥から、足音がした。

 革靴の音。規則正しく、無人の足取り。

 空気の温度が一段落ちる。


 見えない誰かが歩いてくる。

 足音は目の前で止まり、扉の前に立つ。

 そこに“いる”のに、いない。

 視界の端がノイズを含む。

 ドアが、こん、こん、と二度叩かれた。


 真澄と帆花は同時に振り向く。

 レオの耳が、空白を捉える。「音は、ある。けど位相が……抜けてる。人の形になる直前の“残響”だ」


 雪弥の索引が、ページを捲るように走る。

 白紙のページで、指が止まる。“37”。

 見知らぬ学籍番号は、空白を意味していた。


 足音は、消えた。

 かわりに、廊下の非常灯が赤く点滅する。

 電子音が、低く鳴る。

 掲示板に、新しい文。


《告知:留年まで、あと1科目》


 時間が進む音が、耳の奥でカチ、カチ、と響いた。

 安息の部屋は、安息ではない。

 放送室の扉も、同じだ。

 鍵穴の向こうで、何かがこちらを見ている。


「行こう」

 帆花が言う。

 真澄は頷き、胸の奥の痛みを数える。

 それは、今日すでに何度も味わった熱だった。

 その熱は、不思議と、明日へ続く体温にも似ていた。


第3話 理科準備室、硝子越しの告白


 朝のチャイムは、昨日と同じ音で鳴った。

 だが、音の縁はわずかに金属的で、世界の角が少し削れている気がする。

 石畳の向こうにかかる薄い霧、掲示板の「理科イベント:酸化還元連鎖実験」の文字。

 必要鍵:1。評価:班平均。副作用:感情負荷の分配。

 ——今日も授業は、ナイフの上で始まる。


 理科室のドアが開くと、並ぶ実験装置の幾つかに“欠品”の赤札。

 試験管ラック、攪拌棒、滴下用のビュレットはあっても、ガラスジョイントが足りない。

 薬品瓶のラベルは「模擬品」と「本品」が混ざり、色まで紛らわしい。

 黒板には式の骨組みだけ——e⁻、酸化数、電位。

 正解は“教科書”ではない。校内に散った断片を集めて合成しろ、と書いてある。


「索引、起動」

 糸井雪弥が眼鏡のフレームを弾くと、タブが淡く脈打つ。《索引インデックス》のレンズが世界のタグを撫でる。

「反応式の欠片が三つ、離れて見える。ひとつは音楽室の譜面台、もうひとつは視聴覚室のケーブルコイル。最後は屋上の風見鶏の影……角度?」


「影?」帰宅部の小此木レオが耳を触って首を傾げる。「風じゃなくて、光の位相を拾うやつだな。それ、時計になる」


「分担しよう」帆花が指で地図を描く。「真澄と雪弥は音楽室。私とレオは視聴覚室。七瀬は屋上、……でも一人は危ない、私が合流する」


「僕は大丈夫」七瀬遥は淡い笑みを浮かべた。「屋外の方が、頭が静かになる」


 時間制限は四十五分。

 五人は廊下へ散った。


     ◇


 音楽室。

 鍵穴のように光が落ちる部屋で、譜面台は黒い鳥の群れのように並んでいた。

 雪弥の《索引》が、ある一点に吸い寄せられる。

「これ」

 譜面台の譜面挟みの裏に、透明のシール。そこに細いマジックで“+2”と“−1”。

 酸化数の変化。反応前後。

 真澄はそれをメモに写す。指先の紙が、ほんの少し熱い。


「雪弥、索引ってさ」真澄はペンを止める。「“欲しいもの”に指が伸びる感じか?」


「“必要なもの”に、だよ」雪弥は笑う。「欲しいものと必要なものは、よく似てるけど違う。索引は我慢強いんだ。感情が大声で叫んでても、ページは静かにめくられる」


 その言葉に、真澄の胸の奥で《保留デファー》が微かに鳴った。

 叫ぶ感情を抱きとめ、時機が来るまで寝かせる。

 似た性格のスキル同士は、互いの呼吸を知っている。


     ◇


 視聴覚室。

 ぐるぐると巻かれた延長コードの束がいくつも転がる。

 帆花が巻きの“方向”を変えると、中心から薄い印紙が抜け落ちた。

 “E°(MnO₄⁻/Mn²⁺)”。標準電極電位。

 レオが耳でケーブルの張力をたどる。「このケーブル、巻き始めが二種類ある。人の手が二度いじって隠した痕だ」


「つまり、誰かが見つけられるように“隠し、残した”」

 帆花の指先が一瞬だけ震えた。「昨日の“無人の足音”を、また思い出しただけ。気にしないで」


 レオは息を整える。「きのう、観客の心拍まで同調させたとき、空席の列で一瞬ズレた。あれは“いる”のに“位相が欠けてる”音だった。……いるんだよ、本当に」


     ◇


 屋上。

 空は薄い藍、水分を持たない風。

 風見鶏は東を向き、影はコンクリートに細い矢印を描いている。

 七瀬は膝をついて影の角度を測り、手帳に書く。

 そこに、別の影が落ちた。理科準備室の窓から。


 ——硝子に映る、誰か。


 七瀬はゆっくり立ち上がった。

 視線の先、理科準備室の窓越しに、相沢真澄がこちらを見ていた。


 ……いや、違う。

 真澄の視線は、窓ガラスに映った“自分”に向いている。

 窓に寄り、ガラスの向こうの薄闇へ、彼は手を伸ばしていた。


     ◇


 理科準備室。

 薬品棚の列は冷たく、硝子戸は手の温度を跳ね返す。

 真澄は、ふと、机の上のノートに目を留めた。

 “七瀬遥/能力ゼロ時代”。英字混じりの細い字。

 ページの端が擦り切れるほど読み返された跡。

 ドアの軋み——七瀬の影。


「……見られたか」


「ごめん。勝手に開いたわけじゃない。索引の光が、ここに触れた」


 七瀬はノートの前に立ち、硝子越しに自分の顔を見た。

 接眼レンズのように窓が二人を切り分ける。

 彼は言葉を選ぶように、ゆっくり口を開いた。


「《演算コンパイラ》——僕の新しいスキルだ。他のスキルの“式”を最適化して、負荷を軽くする。

 例えば、君の《保留》が受け止める“痛みのベクトル”を、時間軸にそって均すとか。帆花の《同期》の位相ズレを最小化するとか。レオの《共鳴》のノイズ除去を自動化するとか。

 ……でもね、最適化のたびに“僕が僕じゃなくなる”。」


「自分が薄まる、ってこと?」


「うん。合理性って、音を削る。余韻や癖を切り落とす。

 事故の前——転入する直前、僕は一度やらかしたんだ。自分を丸ごと“効率化”したつもりで、友だちを置き去りにした。

 そのときの“声”が、今も耳の奥に残ってる。

 『七瀬、お前は正しいけど、お前の声はどこにあるんだ?』って」


 硝子に額を寄せる。

 薄く曇った表面に、彼の息が白い花を咲かせた。


「僕は怖い。

 みんなを助けるための最適化が、最後には“君たちの声”まで均してしまうかもしれないことが」


 真澄は硝子越しに笑った。「なら、俺が保留する。お前が削ってしまいそうな余韻や癖ごと、いったん抱える。

 キメる瞬間に、まとめて返す。お前の“声”も、その中に混ぜて」


「痛いよ」


「痛いさ。痛いのは、俺が引き受ける。

 ……俺、こういう役、向いてるっぽい」


 七瀬の目に、かすかな安堵が灯った。

 硝子は冷たいままだったが、言葉は少し温度を持った。


「ありがとう、相沢。……じゃあ、最適化の相談をひとつ。

 さっき拾った影の角度と、雪弥の酸化数、帆花の電位、レオの位相——全部を一度、“君の胸”に通してから実験に臨む。負荷は均せる」


「任せろ」


     ◇


 再集合。

 理科室の机に、三つの断片が並ぶ。

 “+2/−1”“E°(MnO₄⁻/Mn²⁺)”“影の角度→終点タイミング”。

 黒板に式が生まれ、チョークの粉が白い雨となって落ちる。

 神前派の班は隣の実験台で手際よく器具を組み始め、弱い生徒に“代償担当”の腕章を付けている。

 男子のひとりが腕章に触れて、うつむいた。

 神前は笑って肩を叩く。「なぁに、君の痛覚は“投資”だ。痛いほど、俺たちは稼げる」


 帆花の眉がぴくりと動いたが、彼女は黙して式を整える。

 七瀬は《演算》を走らせ、負荷の割り当てを最適化する。

 レオは耳を研ぎ澄まし、振とう機の微振動のリズムを掴む。

 雪弥は《索引》で不足器具の代替案を引き出し、スポイトと紙で仮の滴下器を仕立てる。

 真澄は、四つの補助を胸に抱え込む。

 痛みの粒が、砂嵐のように胸の内側をすり抜ける。《保留》が、今日も息をする。


「班評価は平均。代償は分配。……誰が“引き受け”、誰が“軽くする”?」帆花。

「俺が預かる」真澄。

「最終瞬間に一気に返す。そうすれば、痛みの合計は同じでも、”感じる時間”は短くできる。副作用の尾を短く切れる」


「それ、理にかなってる。……けど君の心臓が爆発しないことを祈るよ」七瀬。


 実験開始。

 ビーカの液は薄氷の紫。

 滴下の一滴、二滴。電極の針が震え、電位差が数字の列に変わる。

 ボタ、ボタ、と時間の音が落ちる。

 神前の班が先に進み、弱者の腕章が強く握りしめられているのが見えた。

 彼らの評価ゲージは“成功率”に素直で、笑顔は収益の角度をしている。


「真澄、今——いや、まだ。もう少し溜める」

 七瀬の演算が、保留のタンクに目盛りを刻む。

 帆花の同期が、班の呼吸を一定に整える。

 レオが囁く。「振とうの“止み際”に滴下。音の谷で落とせ」


 紫の表面がとろんと揺れ、境界がほどける。

 真澄の視界で数字が弾け、痛みの粒が星座になる。

 その最中——

 スイッチの金属が、かすかに“押される音”を立てた。


 誰も、触っていない。


 真澄だけが、胸の奥で“誰か”を感じた。

 冷たい指先がガラス越しに世界を押す感触。

 指の数は、五。

 爪の先が、短く、幼い。


(いる——理科室に)


 胸の熱が一気に吹き上がる。

「今だ、解放!」


 保留の縄が切れる。

 七瀬の演算は熱を冷まし、帆花の同期は拍を見逃さず、レオの共鳴は振とうの谷に滴を落とす。

 雪弥の索引は“最短経路”を確かめるように、最後の反応を導く。

 白い泡が、ふっと止む。

 紫が、一瞬のためらいのあと——無色に切り替わった。


 ピン、と装置が高い音を鳴らす。

 黒板の上に金の文字。


《理科イベントクリア。制御鍵:理科を獲得》


 同時に、真澄の足元が傾いだ。

 視界の端が白く飛び、音が遠ざかる。

 立っている自分と倒れる自分が、同時にいる。

 床に頬が触れた感触だけが、妙にリアルで、やさしい。


     ◇


 意識の底から、波が上がってくる。

 遠い声。帆花、レオ、雪弥。七瀬の指先の温度。

 額に冷えた布。

 保健室の匂いではない、薬品棚の影。

 目を開けると、理科準備室の天井。

 四角い蛍光灯の縁は琥珀色、世界はまだ異世界の顔をしている。


「真澄!」帆花の顔がのぞく。

 彼女の頬に汗。息は整っているが、目の奥の焦りは小さくない。


「何分、落ちてた?」

「三分。……焦った」レオが苦笑する。「でも解放のタイミング、完璧だった。体育館の時と同じ“美点評価”が走って、ペナルティ相殺。お前の痛覚、会社なら役員報酬だぞ」


「不採算部門のね」七瀬が肩をすくめる。「でも、ありがとう。君が受け止めてくれたから、僕は削りすぎずに済んだ」


 雪弥がノートを差し出す。「式の確認。……あとさっき、スイッチが勝手に動いた件」


「感じた」真澄は上体を起こし、窓ガラスに視線を向けた。「“誰か”が触った。……小さな手だった」


 誰も笑わなかった。

 帆花が小さく頷く。「いる。三十七人目は、ここに」


 そのとき、スピーカーが鳴った。

 電子の鐘のような音。

 嫌な予感は、たいてい当たる。


『告知:一名、留年対象に登録』


 廊下の掲示板がパチ、と点灯し、名簿が赤く塗られる。

 “二年A組/明神みょうじん さく”。

 欠席常習、指導歴多数。

 赤いフラグが、彼の名の横で点滅する。


「……は?」レオが顔をしかめる。「朔、今日来てたじゃん。今週、ずっと」


 雪弥が指でスクロールする。「出席ログ……“欠”。昨日今日の出席記録が消えてる。——改ざん」


「誰が?」帆花。

監督者モデレータか、あるいは——“三十七番”。」七瀬の声は低い。「ただの怪談役には、しないほうがいい」


 保健室の方角から、ざわめきが押し寄せた。

 神前の笑い声は混じらない。代わりに、短い命令がほとばしる。


「人員整理だ。“留年対象”はコスト。保健イベントの前に、うちの資源配分から外す」


 帆花が立ち上がる。「行く」

 真澄も立とうとして、七瀬に制される。「三分、いや二分でいい。脳の負荷がまだ残ってる。コンパイルする。ほら、深呼吸」

 七瀬の指先が真澄のこめかみに軽く触れる。

 《演算》の微かな光が、胸の濁りをきめ細かくほどく。

 真澄は息を吐き、吸う。

 その隙間に、思考が音を取り戻す。


「朔は“欠席常習”のラベルを貼られてる。でも、今学期は違う。ラベルの方が“彼”を追いかけてる」

 真澄は言う。「ラベルが人を作り変える前に、俺たちが“声”で上書きしなきゃいけない」


「声で?」レオが笑う。「英語の劇、第二幕か」


「そう。放送室で、正しい出席ログを“全校アナウンス”する。

 ——“ログアウト条件”の文言を、こっちで乗っ取る」


 帆花は口元に強い線を引いた。「そのために必要なのは、あと一科目の鍵。そして、“三十七番”の位相補正」


「任せて」七瀬が頷く。「僕がコンパイルする。

 ただし、相沢。約束だ。最適化のたびに、僕の“声”が薄まったら——君が保留して、返す」


「当然だろ」

 真澄は笑い、胸の奥に、今朝の硝子の冷たさを思い出した。

 触れられない距離の向こうにいる誰かの声を、こちらへ連れてくる作業。

 それは、きっと自分が得意なことだ。


 廊下へ一歩。

 足音は五人分。けれど、ほんの少し遅れて、六つ目の影が床に伸びた。

 振り向くと、誰もいない。

 ただ、掲示板の端で“37”が、微かに滲んでいた。


 ——硝子越しの告白は、もう硝子を越え始めている。


 チャイムが鳴る。

 次の科目まで、残り二十五分。

 世界はきょうも、授業を続ける。

 安息ではない場所で、安息を作るために。


第4話 音楽室ノクターン、欠席の手紙


 朝の冷たさが残る廊下を抜けると、音楽室はすでに“現場”の顔で待っていた。四声の譜面がピアノの上に広げられ、壁際の合唱台には白い粉が虹のように残っている。掲示モニターに映る「音楽イベント——正しい和声進行でクラス合唱を完成させよ」の文字。制限時間四十分、評価は“平均”。副作用欄には、淡いグレーで「感情負荷は“耳”を媒介しやすい」と注記があった。


「耳を媒介、ね」小此木レオが耳朶を指で弾き、肩を回す。「了解。《共鳴レゾナンス》、起動準備。——で、譜面は?」


 帆花が配ったコピー譜を、真澄は光に透かした。和声は一見、教科書通り。だがところどころ、和音の積み方が“わずかに”気持ち悪い。第三音が落ちすぎ、導音の解決が間に合っていない。


「意図的な誤記が混じってる」雪弥がすぐに言った。「索引で“正しい形”を引けるけど——これは多分、音で“炙る”仕組みだ。視覚より聴覚がトリガー」


「つまり、レオで破る」七瀬が短くまとめる。「君の耳が罠の輪郭を描く。負荷は、僕が《演算コンパイラ》で均す。でも——たぶん痛い」


「任せろ。痛いのは慣れてる」レオは笑い、スタンドマイクの前に立った。「音量は中低。倍音の“濁り”を拾って、誤記を赤くしてやる」


 ピアノの蓋が持ち上がる。帆花の指が鍵盤に降り、Cから始まる素朴な進行が部屋を満たす。最初の八小節は平穏、九小節で空気が波打つ。レオの耳がわずかに痙攣した。


「そこ、三度が落ちすぎ。オクターブ配置、上ずってる」レオが呟く。彼のタブに淡い赤——“誤記”のタグが灯る。「——っ、来た。反響、刺さる」


 共鳴が室内の音場をなぞり、誤記部分だけ鋭利な棘となって跳ね返る。レオの表情にぎゅっと皺が寄る。眉間に小さな影。耳の奥に針を仕込まれたような痛みが、波とともに増幅されていく。


「レオ、下げる?」真澄が問う。


「まだいける。——う、待った、これ、次の小節、倍音が……吐き気くるタイプだ」


 レオは自嘲気味に笑い、背中を丸めた。こめかみの血管が細く浮く。喉がきゅっとひきつる。帆花がすかさず合図し、ピアノの和音を落とす。


「休止、小節間ブレス——七瀬」


「受け取った」七瀬はレオの背に手を置き、演算を流し込む。「痛覚ベクトルを時間方向に拡張、ピークを分散。——落ち着け、吸って、吐いて」


 神前派が、いつの間にか教室後方で見物していた。神前は壁にもたれ、顎で取り巻きに合図する。白衣の“天使”が小さなバッグを開ける。治癒系の光——だが値札がついて見える。


「うちでケアするかい?」神前は笑う。「《回帰リグレッション》は耳にも効くよ。貸しは安くないけど」


「結構」帆花が一歩前に出た。「今日の市場は、ここじゃない」


 神前は肩をすくめ、「商売敵は多い方が燃える」とでも言いたげに口角を上げた。


 レオは手の甲で口元を押さえ、深呼吸を繰り返す。「——平気。続けよう。誤記マーク増やす」


 合唱パートの配置を変える。アルトの動きを一音上げ、テナーの導音を確実に主音へ、バスは跳躍を避けて順次進行に。雪弥が索引で補助し、誤記の可能性が高い箇所に付箋を貼る。七瀬は全体の負荷を監視し、ピークを少しずつ横へずらす。帆花は拍の基準を置いて、全員の呼吸を揃える。真澄は、みんなからこぼれる“怖さと恥ずかしさ”を、《保留デファー》で胸に預け始めた。


 クラス合唱。誰でもないようで、全員が晒される場だ。最初の声はいつだって震える。視線、喉、舌、息、心拍。羞恥は痛覚の近くにいて、すぐ熱になる。


「真澄」帆花が目線で聞く。


「いい。溜める。最後の転調で返す」


 誤記の炙り出しは順調に見えた。しかし時間は冷酷だ。残り十八分。譜面の最後には、ひとつ大きな転調が待っている。そこにこそ、罠の本体がいるはず——レオの耳は、そこを“聴いて”怯えていた。


「……来る。倍音が歪む。高域、キン、と割れる。吐き気スイッチ、オンだ」レオの顔色が悪くなる。喉の奥が勝手に痙攣し、胃が浮くような嫌な波が押し寄せる。


 神前の取り巻きがニヤつく。「ほらな、耳から来るやつは《回帰》が楽なんだって」


「黙れ」七瀬の声は静かで冷たかった。「ここは、舞台だ」


 帆花がカウントを取る。「本番の流れで行く。——三、二、一」


 ピアノが、部屋の天井を一段持ち上げるように明るい主和音を鳴らした。クラスの歌が揃う。最初の和声は素朴、二段目で柔らかく解決、三段目で少しだけ切ない非和声音。レオは苦悶に眉を寄せながらも、音を捉えて離さない。額にじっとり汗が湧く。喉の奥がぐう、と鳴る。


 真澄は胸の奥に、みんなの小さな勇気と恥じらいを重ねていく。ソプラノの不安、アルトの自己嫌悪、テナーの見栄、バスの諦め——それらが粒となって集まり、やがて熱になる。耳鳴りが遠くにブンと渦を作り、足元が軽く浮く。痛い。だが、この痛みには価値がある。返すための痛みだ。


 転調前、レオが膝に手をついた。「っぐ……今、来る。倍音、刃。——吐き、そう——」


「レオ、目線、こっち」帆花が指で一点を指す。「拍の外を見ないで。ここだけを見て」


 七瀬が演算を強める。「吐き気ベクトルを拡散。君の“吐きたい”は、舞台から降りたい衝動だ。今は降りない。——立ってろ」


 雪弥は譜面の余白に小さな矢印を書き、導音の行き先を大きく示す。「ここで迷うな、という印だ。迷うほど増幅するぞ」


 神前の笑みがわずかに薄くなる。レオは喉をひとつ鳴らし、うなずいた。


 転調の合図が、ピアノの低音から立ち上がる。和声が階段を一段跳ね上がり、空気が薄く澄む。レオの顔が歪み、胃の奥が反逆を始める。その瞬間——


「——返す、今だ」


 真澄は《保留》を解除した。胸に溜めた羞恥と勇気が一斉に燃え、声の支柱へと変わる。帆花の拍がクラス全体に届き、七瀬の演算が痛覚の刃を鈍らせ、雪弥の索引が“正しい解決”へと道筋を引く。レオの《共鳴》は罠の位相を反転し、反響の刃は、拍手の布へと変わった。


 最後の和音が、音楽室いっぱいに拡がる。転調後の主和音は眩しく、しかし安っぽくはない。金色の紙吹雪は降らない。代わりに、壁紙の継ぎ目がふっと息をして——小さな紙片が、ひらりと床に落ちた。


 帆花が拾い上げる。細い筆圧、急いで走らせた文字。


 『朔は放送室にいる』


 教室の空気が、一瞬、凪いだ。すぐにスピーカーが鳴る。


《音楽イベント——クラス合唱、合格。制御鍵:音楽、獲得》


 表示の金色が消えた瞬間、音楽室の壁のモニターに、監督者の仮面が映った。いつもより強いノイズが走る。映像が崩れ、音声が遅延した。


『……放……送……室……へのアクセスは——不可。鍵が——たりてい……』


 バチ、と画面が切れ、無音が残る。


 神前が口笛を吹いた。「おやおや。面白い告知が降ってきたな。……で? “放送室”に行くのかい? 鍵が足りないのに?」


「行くに決まってる」帆花は紙片を握りしめ、淡々と答える。「でも順番は守る。鍵はあと“二つ”」


 神前は肩を竦めた。「じゃあ急いで稼ぎな。市場は待ってくれない」


 天使の横顔は、なお薄く欠けたままだった。彼女は視線だけでレオを追い、何も言わずに背を向けた。


     ◇


 放課後、帆花は生徒会室から重い帳簿を抱えて戻ってきた。紙の出席簿。デジタルではなく、昔ながらの紙と糸の本。彼女は卓上に広げ、朔のページを開く。紙は一度、引き裂かれ、再び貼られた痕跡を隠している。


「……ここ、破り取られてる」帆花が言う。「糊で戻してある。素人仕事じゃない」


 雪弥が身を乗り出し、背表紙の糸に指先を沿える。彼の《索引》は紙の記憶を読むように動いた。


「綴じ糸の張りが二種類ある。直近で差し替えられた。糊の層も二層——内側の層はまだ若い。ここ一、二日だ」


「監督者以外に、校内ログへ干渉できる“運営側”がいるってこと?」真澄が問う。


「あるいは、“監督者の手が外に伸びている”。人の手を使って、物理ログを動かした。デジタルだけじゃない」七瀬は書き込みの筆圧を指でなぞり、「同じ筆跡が校内にあるか、僕が演算でパターン照合できる」と続けた。


 レオは黙って窓の外を見ていた。夕方の光が耳の輪郭を白く縁取る。彼は自分の耳を押さえ、ゆっくりと息を吐いた。


「さっきから、変なんだ」レオが苦笑した。「自分の子どもの頃の、音が急に聞こえてくる。夏の縁側で、ビー玉を転がす音。氷の入ったグラス。——なんでだ?」


 真澄の胸が、ぴくりと跳ねた。さっき《保留》を解除した瞬間、胸の奥に、冷たい水音のような記憶が流れ込んできた感覚。ビー玉の転がるカランという音、夕立の匂い、誰かの笑い声。知らないはずなのに、なぜか懐かしい。


「……もしかして」真澄は自分の胸を軽く叩いた。「《共鳴》の副作用が、《保留》を介して乗ってきてる。俺のところに」


 七瀬が目を細める。「ありうる。君は“他人のスキルの出力”だけでなく、“誤差”も抱えた。今日の音楽イベントは“耳媒介”。共鳴のノイズ——つまり、レオの幼少期に刻まれた音の記憶が、君の胸に流れ込んだ」


「感情の混線が始まってる」帆花が紙片を見つめながら言った。「これは事故じゃなく、設計かもしれない。——感情を混ぜ、境界を溶かし、クラスをひとつの器にする“授業”」


「だとしても、戻し方はある」七瀬が紙とタブを交互に見た。「次のイベントまでに、保全と分離のプロトコルを作る。君(真澄)に積もるノイズを“仮保存”して、返却できるように」


「……それ、俺の中の“レオの夏”まで消えたりしない?」真澄は冗談めかして笑ってみせた。胸の奥のビー玉は今も小さく転がり続けている。妙に愛しい。


「消すか、残すかは、選べるようにしておく」七瀬は淡々と答える。「選べないまま薄まるのは、もうごめんだ」


 帆花が紙片を掲げ、短く言った。「方針。——“朔は放送室にいる”。今夜行く。だが突入はしない。扉の前まで。鍵はあと二つ。……でも、様子は見られる」


 全員が頷く。レオは少しだけ笑って、「その前に吐き気止めと水が欲しい」と付け加えた。神前派の方を誰も見ない。自分たちのやり方で立つと、もう決めたからだ。


     ◇


 夜の始業ベルが鳴る直前、四人と一人は放送室前に立っていた。廊下の灯りは最低限、掲示板の端には、まだ「留年まであと二科目」が赤く点っている。扉は無骨な金属。鍵穴の横に並ぶアイコンは、国語、英語、理科、音楽。四つが灯り、残りの枠が二つ空いたままだ。


 足音が、また聞こえた。

 見えない靴が床を踏む。こん、こん、と二度。

 レオの耳が細く震え、「いる」と言った。今度は怖がらず、確信だけで。


 扉の向こうで、何かがわずかに動いた。

 すりガラスの向こうに影は見えない。けれど、空気が擦れる音が確かにあった。

 帆花は紙片を取り出し、扉の隙間の近くに静かに置く。誰かへの返事のように。


「朔。聞こえる? あなたの名前は、ここにある。紙にも、私たちの声にも」


 返事はない。代わりに、天井のスピーカーが一瞬だけノイズを吐いた。

 監督者の仮面が、遠くで笑った気がした。だがそれが幻聴なのか、挑発なのか、誰にもわからない。


 レオが壁にもたれ、息を整える。

「なあ、相沢」

「ん」

「ビー玉の音、聞こえるか?」


 真澄は胸の奥に耳を澄ます。

 カラン、と小さく鳴る。

 夏の気配と、グラスの氷と、遠い笑い声。

 知らない記憶は、確かにそこにある。


「——聞こえる。貸し借りの帳尻は、俺が合わせる。返すときは、ちゃんと“返す”。でも今は、少しだけ預かる」


 レオは笑った。「なら安心だ」

 七瀬が腕時計を見て、「時間」と短く言う。

 帆花が頷いた。「撤収。次の鍵を取りに行く。全部集めて、扉を開ける」


 背を向け、歩き出す。

 廊下に五つの影が伸び、六つ目の薄い影が追いかける。

 掲示板の赤い点滅は止まらない。

 だが、音楽室の紙片は、確かにここまで届いた。


 教室へ戻る途中、真澄はふと立ち止まった。

 胸の奥のビー玉が、もう一度、小さく転がる。

 幼い笑い声が、空気に混ざった気がした。

 その声に、彼は心の中で答える。

 ——大丈夫。痛みは預かる。恥ずかしさも、勇気も。

 返すべき場所で、まとめて返す。

 そのとき、きっと、あなたの名前も一緒に。


 チャイムが鳴る。

 “放課後”はまだ終わらない。

 鍵は、あと二つ。

 世界は次の楽章へと、静かに譜めくりを始めた。


第5話 体育館、支配のルール


 午前のチャイムが短く二度、切れる。

 掲示板に“体育イベント:回廊鬼ごっこ×持久戦”の文字が灯り、校舎図面がゆっくりと歪み始めた。廊下は蛇腹のように折れ、非常扉は回転パネルへ、踊り場は円環廊へ。階段は同じ階へ戻る螺旋になり、四つ角は全て“似て非なる角”に複製される。


『ルール告知:制限時間三十五分。捕縛された者には“封印”の烙印が刻まれ、一定時間スキル不使用。封印者は追手に加勢。評価は“生存率×班平均距離”。副作用:持久による感情負荷は“諦め”を引き金に増幅』


 体育館のステージ上、監督者の仮面が粒子で再構成され、冷たい声を流す。

「走れ」という命令が、あまりに自動販売的に響く。

 床のタイルが一斉にカチッと鳴り、迷路の入口が口を開けた。


 神前派はすでに円陣を組んでいる。前衛に陸上部とバスケ部、後方に“天使(回帰)”を二名。腕には白い布で“保健”の腕章。

 神前は軽く手を挙げ、明るく告げる。


「うちは“体力と治癒”の両輪。倒れたらリペア、借りはあとで返してね。囮役は——くじか、査定か、どっちがいい?」


 取り巻きの一人が薄く笑い、弱い子の背中を軽く叩いた。「査定でいいんじゃね?」


 帆花がステージ中央に出る。生徒会書記の腕章はきちんと光沢を保ち、彼女の声は反響の毒を帯びない。


「提案。ルート割り当てを公平に。全員が等確率で“角の優位”に触れられるよう、スタート地点をラウンドロビンで配置する。——賛成は挙手を」


 数人の手が上がる。だが神前が手のひらを上に向けて動かすと、その背後の多数の手は上がらなかった。

 監督者の仮面が、わずかに傾く。


『確認:クラス内合議の結果——“公平なルート割り当て”は否決。理由:賛成少数。システム適用ルールは“クラス内で決められたもの”』


 帆花の瞳が冷たく光る。「つまり、この世界は“合議の結果”を優先する。多数が強者に集まれば、ルールは歪む」


 神前は柔らかく笑い、語尾に砂糖をまぶす。「みんなで決めたよね。公平は、努力の邪魔をするから」


 真澄は喉の奥で小さく息を呑む。

 “保留デファー”は熱を帯び、胸の奥でほどける準備を始める。

 七瀬はステージ袖の手すりにタブを立てかけ、俯瞰図を呼び出した。《演算コンパイラ》が迷路の規則性——“角の類型”“循環の周期”“反転のしきい値”を抽出していく。

 糸井雪弥は分度器と油性ペンで“生きた地図”をつくる。走りながら描けるよう、紙の角を切り落としてポケットに入れた。

 小此木レオは耳を叩き、壁に手をつける。《共鳴レゾナンス》が床の振動、追手の足音、呼吸の乱れ、遠くのドアが跳ねる金具の高音まで拾い上げる。


「弱い者ほど、連結して局所を強くする」七瀬が短く言う。「“角”で勝つ。直線では負ける」


「角の先で、まとめて“返す”」真澄は頷く。「封印直前のスキルを預かる。角の先——視界が切り替わる瞬間に一斉解放。追手の“視界共有”をズラす」


「決まり」帆花が掌を差し出す。五人の指先が重なる。帆花、真澄、七瀬、レオ、雪弥。

 その上から、見えない小さな手が一瞬、ふれた気がした。

 誰も、言わない。ただ、体温が増えた。


     ◇


 スタート。

 真澄たちのルートは“北棟二階・四廊下の輪”。床のラインが白く光り、方向を示す。

 背後に笛の音——“追手解放”。


 角、一つ目。

 レオが囁く。「右角の先、三十メートル。追手二。うち一人は封印持ち——視界共有で曲がり角を“透かして”見てる」


「透かしをずらす」真澄が息を整え、《保留》を起動。

 帆花の《同期》、雪弥の《索引》、七瀬の微細な《演算》を胸に集める。

 角の直前で、真澄はひらりと“封印者の視界”に自分の影を差し入れ——保留解除。

 瞬間、同期の拍が一拍ずれ、索引が“今見えている角”を微妙に遅延させ、演算が“先読み”を三歩誤差にする。

 追手の視界は一瞬だけ“遅い未来”を見て、足を取られる。

 その隙に、五人は角を抜けた。


 角、二つ目。

 今度は下階へ降りる円環廊。

 レオの耳が震え、吐息が短く切れる。「下から三、上から一、速い」

 雪弥が地図に矢印。「下の三は直線重視。上の一は“ショートカット”。——角の処理が下手」

 帆花がカウント。「三、二、——今」


 真澄は二度目の保留。胸の痛みはじわじわと積もる。羞恥、焦り、絶望、苛立ち——逃走の感情は、刃物と砂を同時に飲むような味をしている。

 角の先で一斉解放。床板が、低く唸る。

 追手の足音は彼らの“残像”を追い、空を切る。

 背中を掠める風だけが、危機の実在を告げた。


 だが、迷路は優しくない。

 十七分を過ぎた辺りで、最初の“捕縛”が出る。

 中庭側の直線で、神前派が囮を前に突き出し、背後から二名で挟み込んだ。囮の肩に赤い紋が浮かび、“封印”が皮膚に刻まれる。

 烙印の熱が空気を焦がし、彼のタブからスキル欄が灰色に落ちた。

 囮は泣きながら神前の方を見る。

 神前は親切な顔でうなずく。「大丈夫、働きは評価する。回帰でケアしよう。ただ、貸しは積み上がる。返済計画は僕が組む」


「ふざけるな」帆花が吐き捨てる。「“合議”の影で個人を売るな」


 神前は肩をすくめる。「合議は民主主義の花だよ。君も好きだろう?」


 怒りの熱が喉を焦がし、真澄の胸の保留タンクが揺れる。

 七瀬が短く制する。「走れ。怒りは角まで持っていけ」


     ◇


 後半。

 廊下の“視界共有”は厄介さを増し、封印者が増えるほど追手の目は増える。

 神前派の前衛は足も速い。治癒のケアで持久の負荷を飛ばし、周回ごとにペースを上げてくる。

 弱い者は、疲れる。疲れは諦めを呼び、諦めは副作用の燃料だ。

 クラスの端々で、諦めが火事を起こす音がする。


「分散、不可」七瀬が判断を切り替えた。「局所集中。——“弱いほど、集まって角で強くなる”。理屈を極端に振る」


 雪弥が地図に丸を描く。「角の質が良い場所、三箇所。うち二箇所は神前派がラインを押さえてる。残り一箇所を奪って“角の祭壇”にする」


 レオが頷く。「その角、音が良い。足音が吸われる井戸。声が生きる。——行こう」


 角の祭壇。

 そこは階段と廊下が三叉路で交わる“複合角”。天井が少し高く、換気の穴が音を和らげる。

 真澄たちはそこに辿り着き、息を整えた。

 帆花が指を二本立てる。「二十秒で全員合流。遅れそうな子は“引くな”。“待ち”が勝ちだ」


 合流する影が増え、小さな輪がいくつも重なる。

 泣きそうな子、膝が笑っている子、封印が解けたばかりで震える子。

 真澄は視線を合わせ、できるだけ多くの手首に触れる——《保留》に“祈り”を預けるため。

 手の温度、汗の塩、爪の欠け、小さな傷。

 全部、実在だ。

 胸はもういっぱいだ。爆発しそうだ。

 でも、爆発の仕方は選べる。


 追手の気配が近づく。

 神前派の足音は躊躇がない。角の特性を無視して直線のスピードで押し潰してくる。

 レオが耳で“死角”を拾い、「今!」と短く叫ぶ。

 帆花の手が空を切り、七瀬の《演算》が時の刃を鈍らせ、雪弥の地図が“この瞬間だけの最短路”を作る。

 真澄は胸の中の全てに火を点ける。恥ずかしさ、恐怖、逃げたい、でも逃げ切りたい——願いを圧縮し、角の先の、ほんの一歩へ。


「——返す」


 一斉解放。

 視界が白く弾け、追手の“共有視界”は一拍遅れで角の空虚を見た。

 こちらは角の“裏側”へ流れる。

 神前の前衛が足を取られ、壁に肩をぶつける。

 角は、弱者の味方をした。


     ◇


 残り三分。

 掲示板のカウントが赤く脈打つ。

 神前が走りながらこちらを見て、歯を見せて笑う。「取引しよう、相沢。放送室を開ける鍵——俺が持ってる」


 嘘だ、と真澄は思う。だが表情は動かさない。「証拠は」


 神前はポケットを叩く。硬い音。「ほら。“保健鍵”の予備。放送室にはこれが必要だろう?」


 七瀬が短く囁く。「ポケットの形状、合致。鍵は本物。ただし“種類”が違う。放送室は二種類の鍵が要る。神前は片方だけ。——知らない」


「条件は?」真澄は走りながら問う。


「君の《保留》を俺に貸す。角での“反則”をもう一度やれ。我々のラインにいて、合図で解放。——やれば、君の“友だち”の借金を帳消しにしてやる」


 息が荒いのに、神前の声は滑らかだ。

 ここで頷けば、数人は救われるかもしれない。

 でも、クラスは死ぬ。

 “合議”が固定され、支配は制度になる。


「……悪い、貸さない」真澄は言う。「俺の《保留》は、みんなのものだ。お前のものじゃない」


 神前の目尻が僅かに吊り上がる。「後悔するなよ」


「するさ。痛いのは嫌いじゃない」


 残り二分。

 真澄は決める。

 角の手前で、速度を緩める。

 追手の封印者の影が伸びて、肩に触れた。


 灼けるような熱。皮膚の下に文字が焼き込まれる。

 “封印”。

 スキル欄が灰色に落ち、視界の端がノイズで満たされる。

 重い。体が、ただの肉になる。

 だが、真澄の胸の奥、そこだけは灰にならない。

 《保留》は、封印直前に“預かった”。

 封印が完全に閉じる“直前の瞬間”——システムの目盛りの遊び。その薄い隙間に、祈りを押し込み、栓をする。

 これで“捕まったまま、保留している”。


「相沢!」帆花の声。

「大丈夫、角まで行け!」真澄は息を吐き、追手に肩を借りるふりをして歩を進める。

 封印者たちの視界共有は、彼と世界を縫い合わせる糸になった——だからこそ、角の先でほどける。


 残り一分。

 角の祭壇に、クラスメイトたちが再び集まる。

 誰もが肩で息をして、誰もが立っている。

 泣きながら笑っている奴もいる。

 “逃げ切りたい”が、丸い形を持ってここにある。


「——いける?」七瀬。

「いく」真澄は笑い、封印の焼け跡の上から胸を押さえる。「ここに、まだ残ってる」


「カウント」帆花が指を二本上げる。「五、四、三——」


 レオが床を叩く。「角の“谷”、今!」


「二、一——」


 真澄は封印の重しの下から指を伸ばし、最後の栓を抜いた。


「——返す!」


 一斉解放。

 角の先に、見えない風が吹く。

 封印者の“共有視界”は一瞬だけ“観客席”を見て、追うべきを見失う。

 クラスの群れは角を越え、直線に背を向ける。

 残りゼロ。

 電子音が鳴り、迷路は蛇腹を畳むように縮み、廊下の角はただの角へ戻る。


《体育イベントクリア。制御鍵:体育を獲得》


 拍手はない。足音が止み、呼吸の音だけが満ちる。

 神前は額の汗を拭い、口角を無理に持ち上げた。


「……上手いじゃない。角の魔術師」


 そのとき、神前の取り巻きの一人——“天使”と呼ばれていた女子が、膝をついた。

 タブから警告音。保健室の“借金スコア”が満額に達した通知。

 彼女の名札の文字が、一画ずつ、すっと薄くなる。

 名は、ここに“ある”のに、読めなくなる。

 彼女は笑おうとして、唇を噛んだ。


「もう、無理……ごめん、神前くん……」


 神前の笑みが初めて崩れた。「回帰を——」

「回帰はもう、空白しか——」

 彼女の言葉は途中で途切れた。

 名前が、ひとつ、世界から外れた音がした。


 怒りと恐怖と悔しさの熱が、真澄の封印跡を内側から叩く。

 帆花が前に出る。「彼女は“資源”じゃない。人だ」


 神前は返事をしなかった。拳を握り、爪が食い込む。

 “合議”は彼の背中を押してはくれない。

 勝ちのルールは、敗者の重みを受け取らない。


     ◇


 夕刻。

 放送室前の廊下に、紙で切り抜いたような鍵穴が現れた。

 金属の扉には既に“国語・英語・理科・音楽・体育”の五つが灯り、残る枠はあと一つ。

 紙の鍵穴は不自然に白く、そこだけ物質が軽い。

 帆花が紙片を取り出す。音楽室から落ちたメモ——『朔は放送室にいる』。

 その紙が、鍵の形に折りたたまれていく。国語鍵の文様が浮かぶ。

 “国語鍵は一度だけ、紙の鍵となって扉を開く”。黒板の片隅にそう書かれていたのを、雪弥の索引が思い出させた。


「一度だけ」雪弥が確認する。「開閉は一回。使えば戻らない」


「使う」帆花は短く言い、真澄に目で問う。

 真澄は頷き、紙の鍵を受け取った。

 封印の熱は引き、胸の奥にまだ“祈りの残り香”があった。

 扉の前に立つ。

 紙の鍵を、鍵穴へ——


 その瞬間。

 見えない手が、先に鍵穴を塞いだ。

 ひんやりとした掌。細い指。短い爪。

 ノブが小さく鳴り、空気が押し返す。

 鍵は穴の手前で止まり、わずかに紙鳴りを立てる。

 レオの耳が震える。「……今の、音。子どもの——」


 スピーカーが低くノイズを吐き、監督者の仮面が廊下の端のモニターに滲む。

『——扉の利用条件を確認中。合議に基づくアクセスのみ——』


「合議?」帆花が振り向く。「放送室の扉も、クラスの議決で開閉が決まるの?」


『システムは、クラスの“合意”を——優先』


 静寂。

 紙の鍵穴の内側で“誰か”が、二度、扉を叩いた。

 こん、こん。

 遠い、でも確かな合図。

 “朔”の名が、どこかで赤く点滅しているのを、皆が心の目で見た。


 真澄は紙の鍵を胸に戻し、深く息を吐いた。

 痛みはまだ残っている。

 だが、角で勝てると知った痛みだ。

 合議を塗り替える“声”は、きっと作れる。

 紙は破れやすい。だけど、折り目をつければ強くなる。


「——次で、揃える」

 帆花が言う。

「あと一つ」七瀬が応える。

「角まで持っていけ」レオが笑う。

「最短路、引き続き探索中」雪弥がペンを回す。


 真澄は扉の前に残る冷気に、そっと囁いた。

「待ってろ。痛みは預かる。返すときは、まとめて返す。その時、名前もいっしょに——“合議”で、取り返す」


 チャイムが鳴る。

 世界はまだ、授業の途中だ。

 支配のルールは、角の先で裏返る。

 次の一科目へ、靴音がそろって響いた。


第6話 家庭科と選択、君の皿は誰のため


 昼休み明け、柔らかい光が被服室の白いカーテンを透かした。

 ミシンの列は布ではなくステンレスの作業台に置き換えられ、流し台の蛇口は真新しい鏡のように光っている。壁の掲示には、「家庭科イベント:班ごとに一皿を作り、評価者に『食べたい』と言わせよ」と大書され、下には小さな注意書きがびっしり。


『評価者は“ランダム指名”……ただし指名の偏りは“クラス内人気指数”を参照。未評価のまま時間切れ=失格。副作用:調理過程で溜めた空腹・焦燥・失敗感は“味覚”を媒介して増幅』


 最後の一文に、真澄は舌の奥がぎゅっと縮むのを感じた。失敗の味はしょっぱい。喉の上に乗る塩は、たいてい後悔と同じ温度をしている。


 神前派は既に作戦会議を完了させ、材料棚の前を壁のように占拠していた。陸上部の男子が腕を組み、取り巻きの“天使”——名前の画数が欠けつつある彼女——は軽量スプーンを並べている。神前はポケットの奥で鍵の感触を弄ぶ癖を見せつつ、にっこりと笑った。


「うちは“映える丼”で行く。タンパク質、油、糖。評価者の快楽回路に最短で刺さる設計。もちろん、治癒で味覚疲労もリセット可能——ポイントは君たちから徴収するけど」


 帆花は一歩前に出る。生徒会書記の腕章が、蛍光灯の琥珀に反射した。


「提案。評価のランダム性に“人気”が混入しているなら、生徒会規定に基づく“匿名評価フォーム”を導入する。評価者は調理台を回り、無記名で“食べたい/もっと工夫を/今は食べない”の三択。集計は自動。——これに賛成は?」


 数人の手が上がる。だが神前が「わざわざ匿名にする意味ある?」と甘い声で問うと、ためらいが波のように広がった。

 監督者の仮面が天井モニターに浮かび、無機質な判定を下す。


『ルール適用条件:クラス内“合意形成”を確認。現状、過半数未満。採用保留』


 帆花は眉をわずかに寄せる。七瀬が肩を並べ、タブに最短路を描いた。


「中立層を動かす。三分で説得。相沢、君は調理準備しながら“保留”の使いどころを設計して」


「了解。雪弥、買出し——じゃない、配分。欠けそうなスパイスは?」


「クミン、ナツメグ、花椒。あとは“香りの立ち上がり”を助ける柑橘系が少量」

 糸井雪弥は索引のレンズを光らせ、材料棚の“奥の奥”から小瓶を引き出す。瓶には「模擬品」と「本品」のラベルが混在し、小さな星印が本物の目印だった。


「レオ、音だ。食感は音から先に記憶される。揚げ音、焼き音、包丁のリズム——拾えるか?」


「拾うさ。今日の俺の耳はまだ“吐き気”じゃなく“腹の虫”に寄ってる。共鳴で“カリ”の余韻、消さないように」


 帆花は中立層に向かって歩いた。演説ではない。目線の高さを合わせ、短い言葉で芯を置く。


「“匿名”は卑怯じゃない。弱い意見が生き延びる手段。合議を多数派の棍棒にしないための、最低限の工夫です。——私たちは料理の勝敗を決めたいんじゃない。『食べたい』が正直に言える空気を作りたいんです」


 すれ違いざま、神前が声を上げた。「匿名? そんなの臆病の隠れ蓑。胸を張ってうまいと言える皿を出せばいい」


「“胸を張る”って、誰の胸?」帆花は振り向かずに言った。「借金の胸ポケットに手を入れられながらでも?」


 ざわめき。中立の顔がすこしずつ動く。七瀬がタブにチェックを入れ、監督者の画面に“過半数到達”の薄い印が灯った。


『確認:合意形成——成立。匿名評価フォームを臨時採用。評価者の選定は“巡回制”に変更』


 神前は肩を竦め、笑顔を崩さない。だが“天使”の少女が一瞬だけほっと息をついたのを、真澄は見逃さなかった。彼女の名札の二画目が細く薄れて、形の輪郭だけが残っている。


     ◇


 調理台。

 班のメニューは“焼き目を纏った豆と挽肉の一皿”。派手ではないが、香りの層で勝負する。スパイスは控えめ、油は軽く、代わりに温度と時間を厳密に。


「まずは玉ねぎをスライス、低温で甘みを引き出す。焦らない」七瀬。


「音で見張る。甘みの音は“ぺた”から“さく”へ移る直前」レオ。


「索引、盛り付けの重心を設計。皿の“掴み”は視覚の中心に置く」雪弥。


「私は合議の残作業と評価動線の整備、戻ったら手を洗ってサラダの仕上げ」帆花。


 真澄は包丁を握る。野菜の繊維がカツ、カツ、と整うリズムで切れていく。火が入れば、世界は匂いの言語を喋りだす。

 フライパンに油。温度計は使わない。レオの耳が伝える音だけで見極める。


「……今。入れて」

 玉ねぎがフライパンに滑り込む。じゅ、と低く湿った音が広がり、すぐに微かな甘い匂いが湧く。

 塩は控えめに。失敗の塩は“後悔”の味だ。早く乗せればすぐ取り返しがつかなくなる。


 真澄の胸の《保留デファー》が、ゆっくりと呼吸を始める。彼は火口の前で、仲間のスキルの“補助”をそっと預かった。帆花の《同期》は動線と作業呼吸を揃え、七瀬の《演算》は温度変化の誤差を均し、雪弥の《索引》は手順の最短路を示す。レオの《共鳴》は音の“ピーク”を見つけ、上ずる前に抑える。


 ——香りは、最後に一斉に立ち上がる。

 それが今日の勝ち筋。


 だが、副作用は先に来る。

 空腹。

 焦燥。

 “やば、ちょっとしょっぱくしたかも”という小さな失敗感。

 全部が喉に集まり、気管の入口で渋滞する。

 唾を飲み込むほど塩が増える。

 空腹は風を生んで腹の内側を引っ張る。

 その風が、香りを押し戻そうとする。


「相沢、呼吸」七瀬の声が薄い氷の上を渡る。「四拍吸って、四拍吐く。味見は俺がやる。君は“待つ”」


「了解……っ、湯気、吸いたくなるな」


「吸っていい。吸って、抱える。ただ飲み込むな。君は“食べる人”じゃない。“預かる人”だ」


 ミンチを入れる。火加減を少し上げる。

 レオが耳を片方塞ぎ、もう片方でフライパンの縁に触れる。「カリが来る直前。——いま、ひっくり返す」


 真澄はフライパンを振る。肉の表面がぱちんと弾け、香りの粒が空気に散った。

 花椒は最後。その前にナツメグをほんの少しだけ。

 雪弥が皿の中心線に沿ってペーパーを敷き、盛り付けの“重心”を置く位置を指先で示す。


「皿は楕円。長辺の端点を“逃げ道”に、短辺の中央を“視線の住所”に。君の“返す瞬間”を短辺中央に重ねる」


「了解。返しは最後の十秒」


 帆花が戻ってきた。「匿名フォーム、成立。評価の巡回ルート、こちら。——あ、相沢、顔、青い」


「空腹の副作用と、少しの失敗感。しょっぱさが喉に……でも、行ける」


「味は?」

 七瀬がスプーンでひとすくい、舌の上で温度を転がす。

「……悪くない。最後に“香りの階段”が要る。スパイスの解放を君の《保留》で。火入れの誤差は僕が消す」


 制限時間、残り一分。

 評価者の巡回音が近づく。評価シートの端の紙音が擦れる。

 神前派の“映える丼”からは甘い油の香りが煙のように流れてくる。胃袋への直通エレベーター。

 対してこちらは、階段を作る。最初に玉ねぎの甘み、次に挽肉のカリ、遅れて花椒の痺れ、最後に柑橘の皮一片。

 その階段を一気に駆け上がらせるのが、《保留》の仕事だ。


 残り十秒——

 七瀬が「演算、火入れ補正」と短く告げ、火力をほんの指先分だけ上げてから落とす。

 レオが「食感の残響、今が最大」と囁き、フライパンの外周を軽く叩く。

 雪弥が「盛り付け、中心へ」と皿を真澄の前に滑らせる。

 帆花が空気を揃えるように一歩引き、視線の流れを皿に注ぐ。


 真澄は胸の熱を、解いて、握った。


「——返す」


 スパイスの香りが、部屋の温度を一度だけ押し上げた。

 玉ねぎの甘みから柑橘の高音域までが一本の糸でつながり、湯気の白が揺れる。

 評価者が立ち止まった。

 巡回表の矢印が微かに滲み、視線が皿の短辺中心に吸い寄せられる。


 ——保健室のあの少女だ。

 彼女の名札の輪郭は、また少し薄くなっている。画数の欠けた名前は音になるのを怖れているみたいで、唇の動きだけが先に来る。


「……きれい」

 小さな声。

 彼女はスプーンを取るのではなく、ただ皿を見た。

 目に、光が乗る。

 声が、音になる寸前で震える。


「——食べたい」


 瞬間、掲示モニターが白く跳ね、アイコンが金に変わる。


《家庭科イベントクリア。制御鍵:家庭科を獲得》


 彼女は手を口元に当て、ほんの少し笑った。

 その笑みは、誰かの“回帰”に似ていたけれど、返る場所を自分で選び直す笑いだった。

 神前の陣からわずかな舌打ち。だが大勢は動かない。彼は笑みを戻し、肩を竦めるだけだ。


 真澄の喉は、その瞬間やっと解けた。

 塩はうしろに引き、空腹は温度に変わる。

 胸の《保留》は空に近づき、代わりに奇妙な満腹感が残る。

 それは、誰かの“食べたい”を一瞬分けてもらったような、やさしい重み。


     ◇


 片付けがひと段落すると、帆花が静かに真澄を廊下に呼び出した。

 放送室の方角からは相変わらず微細なノイズが漏れている。掲示板は“留年まで、あと一科目”と赤く点滅し、紙の鍵穴はまだ扉の表面にかすかな白さを残したままだ。


「相沢」

 帆花は壁に軽く背を預け、腕を組まない。手の指先をポケットにかけ、言葉の置き場を探す。


「あなたはいつも“痛み”を代わりに食べてしまう。今日だって、空腹も焦燥も、誰かの失敗まで飲み込んだ。……でも」


 そこまで言って、彼女は一度だけ息を浅く整えた。

 瞳はまっすぐで、やさしさの形を迷っている。


「あなた自身の皿は、誰が用意するの?」


 真澄は、答えられなかった。

 喉が乾く。さっきまでの塩が、別の形で戻ってくる。

 自分の皿。

 いつかどこかで用意されたことがあったか?

 誰かが“食べたい”を真澄に言ってくれたことは?

 思い出そうとすると、胸の中のビー玉(レオの幼い夏)がコロリと転がって、答えの輪郭をぼかす。


「……わからない。今は、とにかく——」


「“返す”ことが先?」

 帆花は小さく笑い、それ以上は問わなかった。「合議を動かす。扉は“合意”で開く世界。相沢の皿は、そのあとでも……いい。けど、忘れないで。いつかは“食べてもらう”側になって」


 そこまで言って、彼女はふと掲示板を見た。

 顔が、わずかに固まる。


「ねえ、今、見た?」


 掲示板の右下、“学籍番号”の欄。

 昨日までは“37”。

 さっきまでも“37”だったはずだ。

 そこが、ゆっくりと、滲むように変わっていく。


 ——“38”。


 空気の温度が一度だけ落ちた。

 レオの耳が廊下の端の空洞を捉え、七瀬のタブに小さなエラーが走る。

 雪弥は思わず背表紙の糸を探す仕草をして、帆花の指先から紙片がずり落ちかけた。


「増えてる」

 帆花の声は、鋭く静かだった。

「合議に“存在しない手”が混ざり始めてる。……相沢、扉の前に、もう一度行こう」


 五人の靴音がそろう。

 放送室の前に立つと、紙の鍵穴はまだそこにあり、冷たい掌の気配が内側を撫でている。

 扉の向こう、誰かが二度、軽く叩いた。

 こん、こん。

 それは“朔”かもしれないし、三十八番目の“だれか”かもしれない。


 真澄は胸の奥の空腹と塩を少しだけ抱え直し、掌を扉に当てた。

 紙は破れやすい。だけど、折り目が増えるほど強くなる。

 合議は壊れやすい。けれど、声が重なるほど固くなる。


「——次の一皿で、扉を開ける」

 自分に言い聞かせるように、彼は呟く。

 返すべき“食べたい”が、まだこの学校に残っている。

 誰かの名前と一緒に、皿の上で待っている。


 チャイムが鳴る。

 世界の譜めくりは止まらない。

 彼らはまた、教室へ戻る。

 痛みを預かり、返すために。

 そしていつか——自分の皿を、誰かに差し出すために。


第7話 図書室アーカイブ、増殖する名簿


 昼下がりのチャイムが、硝子に走る罅みたいに鋭く鳴った。

 掲示板には新しい指令。


《図書室イベント:学籍簿の“真本”を復元せよ》

《条件:断片化索引カードの正序整列/欠落名の“読み”と“画数”の推定/背表紙の糸の縫い目一致》

《評価:復元精度×班平均作業速度》

《副作用:確信過多による“思い込み蓄積”。他者の確信に同調しやすくなる》


「“確信”に副作用?」

 帆花が細い眉を寄せる。「つまり、思い込みが感染する。図書室という名の思想戦、ね」


「主導は俺にやらせてくれ」

 糸井雪弥が眼鏡のブリッジを軽く押した。図書委員の腕章は今日の主役の証。「索引インデックスは、こういう時のためにある」


「僕はアルゴリズム。候補を絞る。《演算コンパイラ》で“読み”と“画数”の共起を推定する」

 七瀬遥はタブにナイフのような数式を並べ、すぐさま消した。「いや、ここでは式の刃をむき出しにしすぎない。余韻を残す」


「レオ、物理層」

 帆花が視線で促す。

「オーケー。《共鳴レゾナンス》で本棚の“奥の音”を拾う。紙の乾き、糸の軋み、空洞の呼吸」


 真澄は胸に手を当てる。《保留デファー》は朝から低く唸っていた。

 “確信”という熱は燃料としては強力だが、燃え残りが貼り付く。今日の副作用は、たぶん重い。


     ◇


 図書室は、いつもの静けさを装っていた。

 けれど棚と棚の間に薄い靄がかかり、背表紙の文字はところどころ“読み”を拒む。

 カウンターに積まれたカードボックスは、色あせた名札の墓標みたいに並ぶ。

 そこから、紙の魚の骨のように索引カードが飛び出していた。


「ルールの合意を取る」

 帆花が手短に説明する。「採択手順は“多者一致”——過半数ではなく、反対なし。ここでの“合議”は“拒否権”:誰か一人が“違う”と言えば、その仮説は廃棄」


「厳しいな」

 レオが肩をすくめる。


「でも妥当だよ」雪弥は、カードを一枚つまみ上げ、光に透かす。「ここで妥協すると“真本”は歪む。図書室は嘘を嫌う」


 七瀬が即座に補足する。「候補は僕が並べる。だが選ぶのは全員。僕の“合理”は、みんなの“声”で丸めてくれ」


「了解。俺は、みんなの“確信”を預かる。過熱する前に寝かせて、最後に返す」

 真澄が頷く。


 開始のベル。

 箱から吐き出された索引カードは、名の断片、読みの仮名、画数の数字、担任印の朱。

 紙の肌は乾いているのに、生ぬるい体温がある。まるで誰かの“証拠”そのものだ。


「まずは“糸”」

 帆花が縫い針を掲げる仕草だけして、背表紙の列に目を走らせた。

 奇数番は“縦縫い二本返し”、偶数番は“横すくい”の癖。わずかな張りの違いがリズムになる。

「これが背骨の拍。カードはその上に乗る“言葉”。拍と合えば、嘘は鳴らない」


 雪弥が索引を開く。

 指先がページを呼ぶ。

 紙と紙のあいだに、見えない目次が走る。

「“学籍番号”の並びに“欠落の癖”がある。十の位が“同音異字”で揃う時期、五の位が“外字”に傾く時期……」


 七瀬のタブが風を切るように動く。

「“読み×画数×年度×担任印”の共起行列を作る。正規化——いや、ここは正規化しすぎない。現実には“揺れ”がある。揺れを残してモデル化」


 レオは棚の奥へ手を差し入れた。

 木の呼吸を聞くように、共鳴を薄く広げる。

「……この棚、裏に空洞。音が返る。古い紙の匂い。インクに鉄の味。旧制中学の……」


「旧制?」真澄が振り向く。


「たぶん戦後に整理された名簿の“層”。この校舎、過去の層が重なってる。音が“時差”を持って返ってくる」

 レオが押す。棚が、ためらいがちに動く。

 裏の隙間、平綴じの茶色い冊子が三冊、眠っていた。


 帆花が白手袋をはめる。

 七瀬は“触れる速度”を計算し、雪弥は“ページ送りの呼吸”を同期させる。

 表紙に墨で「名簿」。中に名前、名前、名前——その幾つかが、赤い線で抹消されていた。


「ここ」

 雪弥の声が低く落ちる。「“明神”の姓。時代の字形。朔の祖父に相当する年代。赤で消されてる」


 ページの上の“赤”は、怒りではなく“制度”の赤に見えた。

 誰かの手続きが、誰かの名前を消した——そんな几帳面さ。


「過去の層と接続してるってことは、名簿の“真本”は一冊じゃない」七瀬。「縫い目で時代を超えて継ぎ足されてる」


「縫い目が一致しない限り、真本じゃない」帆花。「背骨を合わせる」


     ◇


 その間にも、掲示板の隅にある“学籍番号”のカウンタは、じわりじわりと——いや、指数関数的に増え始めていた。

 “38”が“42”へ。二歩歩く間に“45”。

 誰かが、増えている。

 “見えない生徒”が複数いるのか。

 それとも——私たち自身が複製されているのか。


「嫌な増え方だ」レオが歯を食いしばる。「音まで増えてる。足音が一人分、二人分、四人分って感じで膨らむ」


「合議の“参加者数”が変動している……?」帆花。「いや、そもそも“合議”に幽霊票が混ざってる」


 雪弥は索引を強く握り、呼吸を整える。「思い込みに飲まれないように。確信はゆっくり飲む」


「モデル更新。複製仮説と不可視者増殖仮説の両立を維持。単一解に絞ると罠」

 七瀬の指は高速だが、言葉は慎重だ。


 真澄の胸の《保留》は、熱を帯びる“確信”を吸い上げ、いったん冷却していく。

 仲間の「これだ」という直感、恐れ、怒り、そして“朔の祖父”の赤に対するざらついたやるせなさ。

 すべて、預かる。

 今すぐに振りかざさない。

 最後に、“返す”ために。


     ◇


「カードを並べる」

 雪弥が宣言する。

 索引は、静かに燃える。

 机に一直線の“背骨”を作り、そこにカードという“肋骨”を差し込む。

 読みの断片「ア/イ/ザ/ワ」、画数の数字「9/3/7/…」、担任印の朱が押された「承/否」。

 帆花は「否」のカードに拒否権の重みを置く。「ここ、違う。背表紙の糸が“横すくい”になってない。年度の縫い目に合わない」


 七瀬は候補を絞る。「読みが“サ”か“ザ”か。画数で割り切るな。旧字体と新字体で差が出る。二通り、残す」


 レオが棚の奥に耳を当てる。「……名前を呼ぶ音がする。“知られていない呼び方”の方が響く」


 増殖は止まらない。“45”が“53”。“56”。

 図書室の空気が薄くなり、天井の照明が一段暗くなる。

 “確信”の副作用が、互いの喉を締め始めた。

 自分の思い込みが他人の思い込みと重なって、一塊の岩になっていく。

 息が合いすぎるのは、時に窒息だ。


「相沢」

 帆花の声が、救命ロープみたいにまっすぐ届く。「あなたの出番」


「——預かった分、返す」

 真澄は机の端に立ち、カードの列を見渡した。

 胸の中の“確信”たちが、音もなく整列する。

 七瀬の合理、雪弥の指先、帆花の拒否権、レオの耳。

 それから、保健室の少女の“食べたい”、体育館の角の祈り、理科室の小さな手の冷たさ。

 全部を一本の糸に撚る。


「差し込むのは、最後の十秒だ」七瀬。「アーカイブのロックは“瞬間の整合性”を見ている。長考は罠」


「了解」

 真澄は息を吸い、吐き、十から数えた。

 十——カードが指先で軽くしなる。

 九——背表紙の縫い目が呼吸する。

 八——糸の張力が“いま”を指す。

 七——読みの仮名が耳で鳴る。

 六——画数が膝の裏を通る。

 五——レオの耳が軽く弾き、音の谷を示す。

 四——帆花が「よし」と一言だけ置く。

 三——雪弥が眼鏡を押す。

 二——七瀬が「いまだ」と囁く。

 一——


「——返す」


 カードが一斉に差し込まれた。

 机の上に見えない“背骨”の音が鳴り、背表紙の糸が遠くでうなった。

 アーカイブの奥のロックがほどける。

 図書室の奥、普段は閉じた書庫の扉が“内側から”開いた。

 薄い埃が光を泳ぎ、一冊の本が、そこにあった。


 表紙は革でも紙でもない、誰かの体温でできているような質感。

 タイトルは——「学籍簿」。ただそれだけ。

 帆花が手袋を直し、ゆっくりと開く。

 ページが、読む人の名前順に自動で並び替わる。

 “1”から“36”。

 そして、“37”。


 そこに、“相沢真澄”。


 時間が止まった。

 いや、時間は動いたまま、教室だけが凍った。

 レオの耳の中の世界が一瞬無音になり、七瀬のタブのカーソルが白い点のまま固まる。

 雪弥は指先の感覚を落とし、帆花の喉仏がわずかに上下するのを真澄は見た。


「……俺?」

 声が自分の口から出るのに、遠くで誰かが喋っているみたいだ。


「“見えない生徒”の登録——相沢真澄」

 七瀬の読上げは、震えない。震えないように、震えない声を選んでいる。


「じゃあ、“見えない三十七人目”は」

 帆花が、真澄を真正面から見た。「あなた」


 視界の端で、掲示板のカウンタが“60”から“61”へ跳ねる。

 真澄は、笑おうとして笑えなかった。

 だって、確かにここにいるのだ。

 手のひらで机を叩けば、木の音が返る。

 胸に手を当てれば、《保留》が心臓と拍を合わせているのがわかる。

 けれど名簿上の“自分”は、不可視。

 誰かが、彼を透明にして、このゲームを設計した。


 ——“透明な主役”。

 滑稽で、手の込んだ悪意。


 その瞬間、アーカイブの奥から風が吹いた。

 図書鍵が、ページの間に金の薄片として現れ、帆花の掌へ滑り込む。


《図書室イベントクリア。制御鍵:図書、獲得》


 同時に。

 真澄の胸に、怒涛が落ちてきた。


 誰かの記憶。

 誰かの確信。

 誰かの呼び名。

 誰かの、祖父が赤で消されたページをめくる指の震え。

 体育館の角で泣き笑いした息。

 保健室の“天使”が名前の画数を失っていく焦燥。

 音楽室のスプーンの冷たさ。

 理科室で小さな手が金属スイッチを押した触覚。

 ぜんぶ、ぜんぶ、一気に流れ込む。


「っ……!」

 足が、机の影に沈む。

 帆花の手が伸びるが、触れる前に七瀬の指がこめかみにそっと触れ、《演算》の網をかける。

「受け止める。削りすぎない。君の“声”を残す」


 それでも、波は高い。

 胸の《保留》が裂けそうになる。

 その裂け目から、ひとつの映像が、まっすぐ浮かび上がった。


 ——放送室。

 薄暗い機材室の明かり。

 金属の匂い。

 “朔”が、マイクの前で口を開いている。

 声は、校内だけでなく——外へ。

 “外の世界”の、どこかへ。

 オレンジ色のオンエアランプが、規則正しく明滅する。

 彼の声は、外の誰かに届いていた。

 ログアウト条件“全校アナウンス”は、外へも届く。


 映像が途切れ、真澄は片膝をついた。

 レオが肩を支え、雪弥が水を差し出す。

 帆花は息を整え、結論の言葉をつくるために沈黙を置いた。


「つまり、“放送室からの全校アナウンス”は、ここと外をつなぐ橋」

 帆花の声は低く、しかし揺れない。

「ログアウトは、外へ声を“通す”。朔は外と交信していた。——私たちも、できる」


 七瀬が頷く。「扉は“合議”で開く。合議の参加者は——増殖してる。不可視の参加者も、過去の層の亡霊も、もしかしたら外の誰かも」


「だから、合意を取りに行く」レオの声は強い。「角で勝ったみたいに、声を重ねて勝つ。図書鍵が揃った今、背骨は通った」


 真澄は呼吸を整え、ゆっくり立ち上がった。

 胸の中の波は、まだ高い。

 けれど砕けるたび、自分の声が残るのがわかった。

 透明にされていたのは、名前であって、存在ではない。

 なら、取り返せばいい。合議で。

 紙に、声で、縫い目で。


 その時、図書室のスピーカーが低く鳴った。

 監督者の仮面が、いつになくノイズを帯びて笑う。


『——“真本”の復元を確認。だが参加者数に整合性がない。学籍番号は64……81……128……』


 指数は跳ね上がる。

 棚の影が倍々に増える。

 椅子の足音が二重写しになり、ページのめくれが合唱する。

 図書室が、複製の気配で満ちる。


「落ち着け」

 帆花が手のひらを上げる。「ここは図書室。図書室は“選ぶ場所”。何を真とするかは、私たちが決める」


 七瀬が演算の刃先を鈍らせ、雪弥が索引の灯りを落とし、レオが耳の蓋を半分閉じる。

 真澄は胸に手を置いた。

 痛みを預かる。確信も預かる。透明も預かる。

 返すべき場所で、まとめて返す。

 その時、扉の向こうで——外で——誰かが、きっと聞いている。


「……行こう」

 帆花が、図書鍵を掲げて言う。「背骨は通った。残る鍵は、あと一つ。放送室の前で、合意を作る」


 廊下へ出る。

 掲示板のカウンタはなお跳ね上がり続けるが、もう恐怖だけではない。

 参加者が増える。

 なら、味方も増える。

 合議は壊れやすい。けれど、声は重ねられる。


 歩き出す五人の影に、もう一つ、薄くて小さな影が寄り添った。

 “朔”か、それとも“透明にされた誰か”か。

 図書室の扉が静かに閉まり、背表紙の糸が“またね”と鳴った。


 チャイムが、次の時間を告げる。

 世界はまだ授業の途中だ。

 透明の帳をはがす授業。

 名前を取り返す授業。

 声を外へ通す授業。


 相沢真澄は、胸の波を抱えたまま、前を向いた。

 透明という設計に、声で穴を開けるために。


第8話 生徒会裁定、民主主義の罠


 昼下がり。掲示板に新しい要件が滲み出た。


《放送室解錠条件:規則改定の承認——“学級委員+生徒会+保健代表”による三者合意制の導入。承認は臨時総会の可決を要する。》


 最後の鍵は物理でも謎解きでもない。合意だ。

 生徒会室のガラスが光を弾き、帆花は短く顎を引いた。


「臨時総会を開きます。議題は一つ。“放送室の開錠権限を三者合意制へ変更”。——これで“誰か一人の恣意”を止める」


 神前派の空気が、廊下の端で笑った。神前は頬杖をつき、いつもの砂糖をまぶした声。


「反対だな。三者合意制? 拒否権をバラまいて、結局何も決められない仕組みになる。安全装置は甘美だ。でも甘いだけで腹は膨れない」


「腹はもう膨らんでるだろう?」とレオがぼそり。「保健室経済で」


 神前は肩をすくめ、眼だけで「なにか?」と問う。

 保健室の“天使”——名札の画数がいくつか欠けた少女が視線を泳がせる。彼女の存在自体が、神前派の“力の証明”であり、同時に“負債の広告塔”だった。


     ◇


 体育館が総会の会場に変わった。

 ステージに卓、中央にマイク。壁面モニターには議題と投票方法。賛否は電子投票だが、発言は順番待ち。

 天井の梁には黒い小球。音声の抑揚と発話量を測る監視だろう。話し合いに“負荷”がかかる設計。


『注意:討論は“感情負荷”を増幅。長引くほど班平均の“疲弊率”が上昇。疲弊率が閾値を超えると“思考短絡”デバフが発生』


「つまり、議論はコスト」七瀬がメモに走り書きする。「合意は“消耗戦”の中にある。民主主義に、明確なエネルギー代価が設定されている」


「疲れるほど、強い声が勝つ」雪弥が唇を引き結ぶ。「図書室の“確信”が感染したみたいに、今度は“諦め”が感染する」


 帆花は壇上へ。生徒会腕章にマイクが反射する。


「提案理由を述べます。三者合意制は決定を遅くする装置ではありません。責任の輪郭をはっきりさせる装置です。学級委員は教室の日常の代表、生徒会は全体の手続きの番人、保健代表は身体と安全の現場。三者の“違う痛み”を持ち寄って、初めて開いていい扉がある。放送室はその一つ。……以上」


 淡々と、しかし要所を刺す。

 中立の列がわずかに動く。

 直後、神前が手を挙げ、舞台に上がった。


「はい、反対意見。難しい言葉はいらないよ。僕たちの目標はただ“帰ること”。扉が開けばいい。合意が三人分? じゃあ次は五人? 十人? そのたびに誰かが疲れる。……それって、優しいふりした遅延じゃない?」


 笑いが起こる。神前は人前の温度をつかむのが異常に上手い。

 彼は続ける。


「ねえ、みんな。人気投票をやろう。もし今ここで、この提案が“好き”なら挙手して? “嫌い”なら手を下ろして。好き嫌いで決めるのは幼い? そうかな。好き嫌いは胃袋に嘘をつかない。美味いもんは美味い。それでいい」


 拍手が散発的に湧き、疲労のゆらぎが“簡単な答え”へ引き寄せられていく。

 帆花の眉間にささやかな皺。

 七瀬が低く言う。「時間をかけるほど、議場は“思考短絡”へ落ちる。帆花ひとりの説得では間に合わない」


 真澄は、壇の袖に立ったまま、胸を押さえた。

 保留デファーが、別の声で呼吸している。

 今までは“戦闘”や“演目”の瞬間に使ってきた。

 でも本来、このスキルは感情を束ねる手だ。

 なら——討論の痛みも束ねられる。


「……やる」

 自分に言い聞かせるように呟く。「“痛み”を俺が食う。会場から抜けるエネルギーを預かって、投票直前で“冷静”に返す」


「待て」七瀬が振り向く。

「無茶は承知。でも今は、これしかない」

「君の“輪郭”が削れる。議場の雑音は“誰の声でもない声”だ。取り込めば、君自身が薄くなる」


 帆花が袖へ一瞬だけ目を送る。頷きはしない。止めもしない。

 選ばせる目だ。

 真澄は一歩、壇上へ出た。


     ◇


「発言を許可します」帆花の事務的な声。

 真澄はマイクの前で一拍置き、客席全体を見た。

 体育館の空気は低く煮え、飽和直前のスープみたいに重い。

 保留を起動。

 視界の端に、数え切れない糸が光る。

 苛立ち、眠気、空腹、焦燥、嫉妬、後悔、自己正当化、同調圧力、居眠りの罪悪感、やさしさの疲労……

 それらが全部、音のない悲鳴を上げている。

 真澄はそれを食べる。

 味はしょっぱい。喉に刺が刺さる。

 胃が重い。酸がこみ上げる。

 食べ続ける。

 壇上の彼は、ただそこに立っているだけに見える。

 でも足下には、吸い込んだ黒い煙が渦巻いていた。


「相沢?」帆花の声が、遠い。

 七瀬が横から支える気配。

 真澄は小さく首を振る。

 まだ、だ。

 会場が疲弊の臨界へ近づくまで。


 神前が気づいた。素早く嗅ぎとる。


「……ねえ、相沢。君、ここで“何か”してるね?」


 笑いながら、近づく。

 その距離は短いのに、視界が二重になる。

 真澄は、吸い込んだ痛みの栓に指をかけた。


「合意ってさ」

 自分の声が自分のものであるうちに、言う。

「誰かの痛みを見なかったことにする仕組みになりやすい。でも、痛みを見たまま合意する方法もある。

 ——痛みを、いったん預けてくれ。返すから」


 投票カウントダウンが始まる。

 10。

 帆花の資料が最終ページで止まる。

 9。

 神前派の列に不安が走る。

 8。

 スピーカーの黒い小球が、会場全域の心拍を集計する。

 7。

 レオが席の端で拳を握る。

 6。

 雪弥が“賛否の波形”をメモに描き、頷く。

 5。

 七瀬が耳元で囁く。「今なら戻れる」

 4。

 真澄は、首を横に振った。

 3。

 保留解除の準備。

 2。

 吸い込んだ“痛み”の温度が、胸の中央で均されていく。

 1。

 ——返す。


 黒い煙は、白い霧になって会場へ戻った。

 それは“痛み”ではなく、ひやりとした冷静に変換され、各自の額にそっと貼りつく。

 眠気は醒め、怒気は輪郭を失い、同調圧力の重さは半分になる。

 心拍が一拍落ち着いたその瞬間、投票のカウントがゼロを打った。


《投票結果:可決 —— 三者合意制、承認》


 体育館に短い静寂。

 続いてざわめき。

 神前派の数名が立ち上がり、周囲を見渡す。

 神前本人は笑っていた。

 笑っているが、握られた拳の骨は白い。


『承認確認。放送室——第二鍵、形式上の解錠を許可。残る要件:合意形成の持続性(一定時間の維持)、および管理アカウントの有効性確認』


 電子音が告げる。

 帆花は深く息を吸い、吐いた。

 壇上の真澄が、ぐらりと傾ぐ。


「相沢!」

 七瀬が飛び込み、肩を抱え込む。

 脚が言うことを聞かない。

 視界が白い。

 自分の名前が、遠くへ行く。

 自分が何者かの輪郭が、砂丘の風紋みたいに崩れていく。


「無茶だ、君は——君のままでいないと!」

 七瀬の声が揺れる。

 帆花が駆け寄り、マイクを切って、短く宣言する。


「生徒会として、明神朔の件の責任追及に入る。運営にアクセスできる“教職アカウント”の所在を調べる。ログ改ざんの手口、保健室経済との連動も。——生徒会は、放送室の扉に手続きで穴を開ける」


 体育館の後列。

 “天使”の少女が小さく震えながら立ち上がる。

「……わ、私、保健代表の代理になってもいい?」

 彼女は自分の名札を見下ろす。画数の抜けた名前を、弱い力でなぞる。

「拒否権は、使わない。使い方、覚えるまで、誰かと一緒に持つ」


 帆花は頷く。「ありがとう。それが“合意”の持続性だ」


 神前は舞台袖でポケットを叩き、笑い直した。

「じゃ、次の一手。君たちは“合意”に酔っている。管理アカウント? 教師はどこにもいないよ?」


「“アカウント”は人に紐づく必要はない」雪弥がぼそり。「役職に紐づけば、“残る”」


 レオが耳に手を当てる。「放送室の向こう側、キー入力の残響。誰かが定期的に触ってる音だ。先生じゃない“手”か、僕らの“複製”か」


 その時、モニターに監督者の仮面。

 ノイズは薄い。声は、やけに澄んでいた。


『——民主主義は、合意にコストを課す。話し合うほど、君たちは疲れる。合意は、支払える者の手に落ちる。

 それでも、君たちは——選ぶのか?』


 誰も返事をしない。

 帆花はただ、真澄の脈を数えている。

 七瀬は彼のこめかみに手を当て、《演算》で崩れた輪郭を仮止めする。

 レオは体育館の床の鳴りを聞き、雪弥は議事録の余白に小さく「冷静は資源」と書き込む。


 真澄は、薄れかけた自分の中でひとつだけ確認する。

 痛みを預かった。

 返した。

 その返し先に、確かに可決の文字が灯った。


 選ぶとは、たぶんそういうことだ。

 支払った痕が残る。

 跡が痛む。

 でも、扉は少し開いた。


 体育館の窓から、石畳の夕方が覗く。

 放送室の方角で、かすかなクリック音。

 第二鍵の形式上の錠前が、内側でひとつ、外れた。


 あと、一つ。

 帆花はマイクを掴み直した。


「総会はこれで閉会します。次——放送室前での合意維持プロトコルに移行。保健代表、学級委員、そして生徒会。三者で、外へ通す“声”の準備に入る」


 チャイムが鳴る。

 世界は、まだ授業の途中だ。

 民主主義の罠は、罠のまま。

 それでも彼らは、選ぶことを選び続ける。

 扉の向こうの誰かへ、声を通すために。


第9話 放送室前夜、三つ目の鍵


 午前二時四十三分。

 石畳の夜は、ガラスの底に沈んだ氷みたいに青かった。

 校舎の廊下は人の気配を失い、蛍光灯の琥珀は最小限の呼吸で明滅する。

 放送室前。金属の扉には、六つの灯り——国語・音楽・体育・家庭科・理科・図書。

 残る枠は、あと一つ。

 その脇に紙の鍵穴がうっすら浮かび、かすかな白い息をしている。

 扉のスピーカーが微かにざらつき、文字が浮かんだ。


《三つ目の放送室鍵:人間関係の証明。——クラスの“断絶を跨いだ三者の共同宣言”を要する。賛同は合意としてログ化され、拒否は“痛み”として課される。》


「断絶を跨ぐ、三者……」

 帆花は腕章を正し、夜の冷気を肺に入れた。「学級委員、生徒会、保健代表——三者合意の実装版ね」


「神前は来ない」

 レオが壁に耳を当て、踵で床を軽く二回叩く。「足音ゼロ。彼は“不在の力”で座るつもりだ」


「なら来てもらう」

 帆花は振り返り、小走りに闇の向こうへ消えていった。

 七瀬はタブを開き、短く告げる。「相沢、準備。討論戦でやったやり方、もう一段深く潜る。負荷は僕が分散させるが、根っこは君だ」


 保健室の方角から、足音。

 帆花が戻ってくる。肩で息をしている——いや、違う。隣の少女の息が浅いのだ。

 薄い白衣。髪を後ろで結び、名札はまだ画数が欠けたまま。輪郭のいくつかが、カタカナの直線に崩れかけている。


「……来てくれて、ありがとう」

 帆花が囁く。少女は頷いた。

 声は震えたが、言葉は選んでいた。


「わたし、保健代表の代理を引き受けます。あの、その……」

 喉がひっかかり、胸の上の何かが邪魔をしている。

 彼女は名札を指先で撫で、勇気を少し切り出してから続けた。


「みんなの借金を、チャラにしたい。返せないで潰れるの、もう見たくない。わたしの“回帰”が空白を増やすなら、もう使わない。それでも、債務のスコアはゼロに近づけたい」


 レオの耳がわずかに震えた。「この声、嘘がない。痛い正直だ」


「宣言の核にする」

 帆花が言い、三人の立ち位置を整える。

 扉に向かって真正面。左に学級委員の帆花、中央に保健代表の少女、右に生徒会の七瀬——ではない、と七瀬が首を振る。


「生徒会は帆花、学級委員は教室の現任——代理で僕が読み上げるのは不自然だ。……相沢、ここは君が“クラス”の口だ」


「俺が?」

 真澄は喉の奥がひゅ、と鳴るのを感じた。「俺、“見えない生徒”だぞ。透明の三十七番——」


「だから、だ」七瀬が言葉を重ねる。「断絶を跨ぐとは、可視と不可視を跨ぐこと。君が立つ意味は、構造に届く」


 躊躇は、一拍で切るのが正解だ。

 真澄は頷き、扉の前に並んだ。

 レオは一歩さがり、壁に手をあてる。「共鳴、痛みを和音に変換する準備。耳、開ける」


 スピーカーが低く唸り、扉が条件の文言を読み上げる。

 冷たい声。監督者の代行だ。


『共同宣言は、三人の“本気”を要する。それぞれが差し出すものを明示し、“返すべき先”を指定せよ。』


 帆花が先に口を開いた。

 声は枠線を持ち、しかし刺は尖らせない。


「生徒会書記・東雲帆花。差し出すのは権限。私のペンは、拒否権の乱用を止めるためにある。返すべき先は“決められなかった時間に置いてきた誰かの涙”」


 少女が続く。

 言葉は震えるが、ひとつずつ置くように。


「保健代表・——」

 名を言おうとして、口が止まる。

 画数が足りない。

 七瀬がそっと横から支える。「名前は、返ってくる途中でいい。今は“役”で話して」


「……保健代表。差し出すのは利権。保健室のポイントの帳簿。返すべき先は“借金で名前を削られたわたしと、みんな”」


 真澄は息を吸い、喉の塩辛さをそのまま掴む。

 胸の《保留》がひらく音がした。


「二年A組——相沢真澄」

 透明という設計に穴を開けるため、名前をはっきり置く。

「差し出すのは、痛み。みんなの“借金スコア”も、“諦め”も、“恥も怒りも失敗も空腹も”、いったん俺の胸に預ける。返すべき先は“外”。外の誰かの耳。外の誰かの眼。外の誰かの“手”」


 その言葉に、扉の小さなインジケーターが一段明るくなった。

 同時に、痛みが来た。

 保健室の債務スコアが、数字の列の衣装を脱ぎ、温度と重さになって真澄の胸に落ちる。

 こわい。

 肺が縮む。

 呼吸が、少しずつ薄くなる。

 頭の奥で、紙幣が燃える音がした。名前の画数がはらはら落ちる映像が脳裏にかぶさる。


「分散する」

 七瀬の声が、細い針金のようにまっすぐ刺さる。

「《演算コンパイラ》——相沢の胸に集まる負荷を時間軸で均等割り。ピークを細切れにして、返すタイミングに合わせる。君の輪郭は、ここで僕が保持する」


「音にする」

 レオは壁を軽く叩く。「共鳴——痛みのうなりを和音に変える。ノイズは和声で小さくなる。相沢、耳を貸せ。今、胸の重さは、低いGだ」


 真澄は目を閉じた。

 胸の奥の重石が、音階に翻訳される。

 低いG、少し濁ったB、遠くのE。

 呼吸がその和音に合わせて、少しずつ形を思い出す。


「——いける」

 唇が乾いているのに、声は出た。


「宣言、続行」

 帆花が扉に向き直る。「ここに、三者の共同宣言を置く。——保健室経済の再編、拒否権の制動、痛みの外部送信。この三つを、放送室の“鍵”として認めて」


 スピーカーのノイズが消え、扉が静かになる。

 沈黙は、否定ではない。

 計算の時間だ。


『確認:三者の“差し出すもの”の実在、確認。返却先の指定——外部、仮接続待機。共同宣言は“断絶を跨ぐ”要件を満たす。』


 カチリ。

 扉の中で、三つ目の錠前が回った。

 冷たい金属音。世界の歯車が一枚、こちらの側に来る感触。


 同時に、放送室内のモニターが横から光り、教員用PCのログイン画面がひとりでに切り替わる。

 黒い画面に白い文字。


《管理者ログイン:成功》

《権限:教職アカウント(仮想)》

《操作:放送系統—外部回線接続 待機》


「……誰かが、入った」

 雪弥の背筋がわずかに冷える。「先生はいない。でも“役職”は残ってる。そこにアクセスしている“手”がある」


「神前?」レオ。

「違う」七瀬が即答する。「彼は“近道”を好む。役職を自作する手間を選ばない。——複製か、朔か、あるいは外」


 扉がわずかに開いた。

 すりガラスの隙間。冷気。

 そこから——手が差し出された。


 細い指。短い爪。

 放課後、理科室のスイッチを押した小さな手に似ている。

 そして何より——透明だった。

 輪郭はあるのに、光が通る。

 触れれば、冷たいのに、形がない。


「……朔?」

 帆花の声。

 真澄の胸がひゅ、と鳴った。確信が、名を呼ぶ。


(朔。透明化の代償で、消えかけてる)


 彼は扉に手を伸ばしかけ、止めた。

 触れられない。

 触れた瞬間、指が崩れてしまいそうで。


「相沢」

 七瀬が静かに言う。「保持。君の《保留》で、朔の輪郭を一瞬、預かれるか?」


「やってみる」

 真澄は目を閉じ、胸のタンクをさらに開いた。

 透明の手から、ささやかな温度が流れ込む。

 不安、焦り、罪悪感、そして——誰かに届いてほしい声。

 すぐ限界だ。

 吸い込めば、輪郭が薄くなる。

 でも、今だけは。


「——預かった」

 透明の手が、少しだけ重さを得た。

 見える。

 帆花がそっと添え、レオが耳で息の拍を合わせ、七瀬が《演算》で崩落を止める。


「朔、聞こえる? あなた、外に声を送ってたんでしょう」

 帆花の瞳に、燃えない炎が灯る。「続きは、私たちがやる。扉は三者で開ける」


 そのとき、天井のスピーカーが不快な金属音を吐いた。

 監督者の仮面が廊下のモニターに浮かぶ。

 今夜はやけに滑舌がいい。


『告知:明朝、最終週のカリキュラムへ移行。未達の場合、総合留年が発動。残留者は“この世界の住人”となる。

 現在時刻:03:00』


 時間が、背中に乗る。

 痛みが、胸を叩く。

 朔の手が、ふっと軽くなった。

 透明が勝つ。

 隙間の向こうへ、指先が戻る——消える前に、二度、扉を叩いた。

 こん、こん。

 それは合図であり、委任だった。


 扉は一センチの隙間を残し、止まる。

 教員用PCの画面には、SOSの予告が点滅する。


《外部回線:待機》

《メッセージプリセット:SOS/救援要請/学内事故/不正アクセス》

《※発信には“全校アナウンス”権限が必要(合意維持:連続10分)》


「維持……」

 帆花が吐息を整える。「合意は、可決しただけじゃ足りない。連続で保たなきゃ、声は外へ出ない」


「疲弊をもう一度食うことになる」

 レオが言い、七瀬が頷く。「相沢の胸に、また溜める。だが今回の“痛み”は、きっと全員分」


 真澄は扉にもたれ、目を閉じた。

 保留は、痛みを束ねるためにある。

 全校放送は、声を束ねるためにある。

 なら——僕たち全員の痛みを、外へ届ければいい。


 胸の中に、階段ができる。

 国語の焦げた不安、英語の恥ずかしさ、理科のスイッチの冷たさ、体育の角で震えた祈り、音楽の転調でこぼれた涙、家庭科の塩辛い後悔、図書室の赤で消された名前、合議の議場で擦り減った理性、保健室の帳簿に貼り付いた恐怖——

 それらが段差になり、最後の踊り場で一つになる。


「帆花」

 真澄は静かに言った。「“合意維持”のプロトコル、組もう。十分。全員の声を、俺が預かって、最後の一秒で返す」


「危険すぎる」七瀬が食い下がる。「君の輪郭が——」


「君は君のままでいろって、言ってくれただろ」

 真澄は笑った。

 自分の笑い方が自分のものか確認するみたいに。

「だから、戻す技術を作ってくれ。返したあとに、俺を俺に戻すやり方を」


 七瀬の眼差しが、やわらいだ。

「約束する。コンパイルは、必ず“元の音色”で終わらせる」


 帆花は短く頷く。「合意の維持は手続きと感情の両輪。私が全校の意見の温度管理をする。レオは拍、雪弥は言葉の配置。……“保健代表”は、あなた自身の名前を取り戻す準備を」


 少女は名札を見下ろし、そっと指で空白をなぞった。

「はい。わたしを、返してもらう準備をします」


 窓の外、東の端がうっすら色づく。

 朝は、授業の開始を意味する。

 そして最終週は、終わり方のテストだ。


 真澄は扉に掌をあて、外の空気の温度を想像した。

 見知らぬ都市の朝、通学路の砂埃、コンビニのドアの電子音、眠そうな犬のあくび——

 そこに、声を投げる。


「……行こう」

 彼は目を開け、ゆっくりと胸を広げた。

 痛みを預かる。

 最後の一秒で返す。

 その時、外にいる誰かが、こちらを振り向くように。


 午前三時を刻んだ校内時計が、秒針をひとつ進める。

 扉の向こうで、オンエアランプが小さく一度、ため息のように点って消えた。

 夜は、もう終わりに向かっている。

 そして、声の朝が来る。


第10話 情報科:管理者の影は、印刷キューに潜む


 午前のチャイムはやけに乾いていた。

 掲示板に新しい課題が浮かぶ。


《情報科イベント:校内ネットワークのトポロジーを復元せよ》

《副課題(隠し評価):教職アカウントの不正使用ログを検出・証拠化せよ》

《警告:理科準備室/視聴覚室の端末は監督強。直接トレース=即アラート》

《副作用:思考過負荷は“自他境界の希薄化”を促進》


「やることは二つだ」七瀬遥が指を折る。「見える配線と、見えない権限」


 図書室の余熱を残したまま、五人は情報教室に入った。黒いモニターの列、天井を這うケーブルラック、角ばったスイッチ群。壁のホワイトボードには既に淡いトポロジの骨格が映し出されているが、線は意図的に途切れ、セグメントのラベルには“ここから先は危険”と赤い注釈。罠は、最初から正体を名乗っている。


「理科準備室と視聴覚室は触れない」帆花が即断する。「代わりに“合意ルート”からログに触る。生徒会名義で閲覧合意を取る。議決コストは私が払う」


「配線は俺が追う」糸井雪弥が工具箱を持ち上げ、床のOAフロアを開ける。「配線ダクト、旧LAN図面、現場の“癖”を照合。紙で残る図は嘘をつかない」


「流量の揺らぎだけ拾う」七瀬がタブを起動。《演算コンパイラ》の画面に、細い波形が布目のように走る。「パケットの中身は触らない。帯域の微妙な喘ぎを統計で写す。監督者のアラートは内容に敏感で、揺らぎには鈍い」


「音は任せて」小此木レオは耳を軽く叩いた。「機械は待つ時もしゃべる。プリンタの待機音は日記だ。紙は沈黙しない」


 真澄は深呼吸をして、配線経路図の前へ。胸の《保留デファー》は朝から静かに脈動している。痛みを預かる器は、情報のざわめきにも反応する。誰かの焦り、誰かの苛立ち、誰かの諦観。それらが画面の裏から湿った風のように吹きつけてくる。


     ◇


 最初の一時間は、見える線を淡々と拾い上げる作業だった。

 雪弥が古いLAN図面を拓き、紙の端のホチキス跡にまで意味を見出す。

「この無駄な迂回、施設課の“癖”。十年前に棟間を跨ぐとき、現場が勝手に楽なルートで通した。——つまり、紙の図面にない裏道がある」


 帆花は生徒会メーリングから視聴覚室のログ閲覧の合意を引き出す。

 議場を開かずに済むよう、あらかじめ多数の委任を集めていたのだ。

「合意のコストは低く、でも効力は同じ。正攻法の時短は、いつだって正義」


 七瀬はスイッチ群のリンクランプの点滅周期に統計をかけ、呼吸の乱れを抽出する。

「普通の授業時間帯にない深夜の規則性。午前三時前後に、どこか一箇所だけ波形が“整う”。人間が眠る時間に、機械の確信が走る」


「午前三時……」レオが柱に耳を押し当てる。「職員室のプリンタ、夜に喋ってる。待機音の余韻がいつもと違う。——紙が一枚、通った音だ」


「プリンタの待機音で印刷の履歴がわかるのか?」真澄が笑い半分に問う。


「紙は沈黙しない」レオは肩を竦める。「トナーが焼けると金属の匂いが変わる。紙送りローラーは疲れるとひゅと鳴く。深夜の三時二分、一度だけ鳴って、それっきり。——ジョブ一件」


 職員室のプリンタ管理画面にアクセスするのは危険だ。だが閲覧権の合意を帆花が通していたため、監督者アラートは鳴らない。

 ログが開く。

 そこにあった。

 3:02、部数1、出力先は——「教員掲示板・施錠規程改定案」。


「紙はどこ?」帆花。

「見当たらない。破棄されたか、隠されたか」雪弥。


 七瀬がタブに別の層を重ねる。「送信元の揺らぎを逆算。ネットワークの呼吸を辿ると——保健室のPCの可能性が高い」


 保健の先生は、数日前から姿がない。

 空白が、役職の椅子だけを残している。


「権限は人じゃない。権限そのものが歩く」七瀬がぽつりと言った。「今日の“管理者”は、人間の顔をしていないかもしれない」


 その言葉の温度を、真澄は胸の中で確かめた。透明は名前だけの話じゃない。権限もまた、姿を消せるのだ。


     ◇


 午後、帆花は短いアナウンスで臨時監査を宣言した。

「合意に基づく監査を行います。対象は保健室端末と教員掲示板。立ち会い:生徒会、学級委員、保健代表。——神前、あなたも来て」


 呼ばれた神前は、最初から険しい顔だった。ポケットの中で鍵を弄ぶ癖はそのまま。

「監査ね。勝手にどうぞ。放送室の鍵は早く開けたい。僕も同じ目的だから、条件付きで協力する」


「条件?」帆花の声が硬い。


「簡単さ。俺の取り巻きの“債務スコア”——全部、相沢の《保留》で肩代わりしてもらう。今」


「——」空気が一度止まる。


「無茶だ」七瀬が即座に遮る。「情報科の副作用は自他境界の希薄化。このタイミングで他人の負債を抱えれば、相沢の輪郭は薄紙になる」


 真澄は神前の目を見た。

 笑っているのに、奥が笑っていない。

 取り巻きの数人は俯いたまま、名札の角をむしっている。逃げ場がないことを知っている眼だ。


「……やる」真澄は言った。

 帆花が目を見開く。七瀬が肩を掴む。

「俺しか、できない。まとめて受けて、まとめて返す。それが、俺の役だ」


「良い取引だ」神前はあっさり笑い、腕を組む。「さ、監査を始めようか」


     ◇


 保健室。昼の消毒液の匂いは薄く、代わりに機械の待機音が低く鳴っていた。

 保健代表の少女は名札の欠けを指でなぞりながら、端末の前に立つ。


 七瀬が合意の鍵で端末を開く。

 画面に証明書が浮かぶ。

 「養護教諭:久遠 奈央」。

 資格有効。

 そして代理ログインの履歴。


《委譲先:副校長代理(臨時)》

《委譲期限:昨年度末》

《現在状態:有効化継続(自動延長)》


「期限切れの委譲が、今も有効」雪弥が眉をひそめる。

「現実世界の規則が、こちらで形骸化している」帆花が低く言う。「誰が延長したの?」


 ログのIPトレイルを辿れば簡単だ——だが直接トレースはアラートだ。

 七瀬は揺らぎだけで色を塗る。

「副校長代理の権限が、深夜帯に定期心拍を打ってる。起点は……保健室PC。やはりここだ」


 その瞬間、壁のモニターに監督者の仮面が滲んだ。

 無表情に、よく通る声。


『——権限は、現実世界が決めた。私は適用しているだけだ』


 帆花は食い下がる。「現実の規則に矛盾があるなら、あなたは止められるはず。適用は選択だ」


『合意がない。私はルールの合意に従う。君たちが決めれば変わる』


 いつもの言い草。責任の矢印は、常にこちらへ返される。

 仮面はすっと消え、画面の端に印刷キューの小さなアイコンが明滅した。


「プリンタの中」レオがさっと前に出る。カバーを外し、定着器の横の隙間から、波打った紙片をピンセットで引き抜く。

 熱に縮れ、文字は途切れ途切れ。

 だが、読める。


『透明化対象の倫理上の取り扱い』

『退学・留年・残留の定義』

『透明化(Invisible)は処罰でなく適応』

『適応途上における観測の不確定性——個体はこちら側から消えかける』


 帆花の喉がぎゅ、と鳴る。「朔は、処罰されてるんじゃない。“適応”という名の消失に、流し込まれてる」


 真澄は胸を押さえた。《保留》の底で、黒い塊がふくれあがる。

 神前の取り巻き全員分の貸借が、さっきから住み着いている。

 息が浅い。視界の端で、自分の名前の画数が欠ける幻覚がまたちらつく。


「相沢——今、返すか?」七瀬が囁いた。

 彼は首を横に振る。「まだ。証拠を鍵に変えるまで抱えてる」


 ホワイトボードに、七瀬が最小の線で全体像を描いた。

 現実の規則→代理権限→延長のバグ→監督者の適用→保健室PC→印刷キュー→教員掲示板。

 雪弥が紙片をクリアシートで保全し、帆花が臨時監査報告のテンプレを開く。

 そのうえで、帆花は振り返った。


「神前。約束は守る。相沢は払った。あなたは立ち会いを完遂して」


 神前は短く舌打ちし、肩を竦める。「さすがだね。じゃあ、最後まで。鍵が欲しいのは僕も同じ」


     ◇


 情報教室に戻ると、イベントの採点画面が開いていた。

 トポロジは復元済み。隠し評価のゲージはほとんど満タンだ。

 最後のトリガーは——“合意と証拠の紐付け提出”。


「提出」帆花がキーを叩く。

 映像が走る。午前3:02のプリンタキュー、一部の紙片、代理権限の不自然な継続、監督者の発言ログ。

 そして、生徒会・学級委員・保健代表の共同署名。


《情報科イベント:クリア》

《制御鍵:情報 獲得》

《付与フラグ:副校長代理(臨時)——一時的権限降格/監査モード》

《注意:フラグは期限付き/“合意維持10分”要件により自動失効の可能性》


 キン、と乾いた澄んだ音が教室に降った。

 鍵はそろった。

 扉はあと一押しで外へ通じる。

 外の朝の空気が、ほのかに胸に触れた気がした。


 ……次の瞬間、真澄の膝が折れた。

 黒い塊が、ついに形を主張する。

 取り巻きひとりひとりの**「ごめん」、「まだ返す」、「ちょっとだけ」が渦になって喉に絡みつく。

 視界の端で、相/沢/真/澄の一画が砂のように崩れ、床に落ちる幻覚**。


「戻ってこい、相沢真澄!」

 七瀬の声が、網になってこちらへ投げられる。

 《演算コンパイラ》の手つきが、真澄の輪郭を仮止めで縫い合わせる。

 レオが床を一度叩き、拍を置く。「息、四拍。G—B—E。今はそれでいい」

 雪弥が冷水を差し出し、帆花が掌で額を押さえる。「今は返して。今ここに。」


 真澄は喉で砂を噛み、《保留》をそっと緩めた。

 黒い塊は、線になってほどける。

 取り巻きの幾つかの名札に、一画が戻る。

 保健代表の少女が、唇を噛みながら頷く。

「……ありがとう。私も返す。利権じゃない。名前を」


 教室の端で、神前がふっと笑った。

 笑いは砂糖の味がしたが、少しだけ苦みが混じっていた。

 彼の拳は、わずかに開いていた。


 壁のスピーカーが気怠く鳴り、監督者の声が薄く落ちる。


『確認:情報科鍵の獲得、監査フラグの発火。副校長代理(臨時)の権限は降格し、一時的に監査対象へ。

 繰り返す。私は適用する。君たちが決めれば変わる』


 いつもの台詞。けれど今は、その言葉の継ぎ目が見える。

 適用の向こうにある選択。

 合意の手前にある痛み。

 そこに、印刷キューのかすかな呼吸が重なる。

 紙は沈黙しない。

 履歴は音で語る。

 そして、声は外へ通る——もうすぐ。


 真澄は椅子の背に指をかけ、自分の名前を心の中でゆっくりなぞった。

 相——沢——真——澄。

 欠けた一画が、たしかに戻る。

 七瀬が小さく笑い、肩を叩く。


「な、お前は——お前だ」


 帆花は腕章を正し、振り向いた。

「これで、扉に手続きで穴を開けられる。三者合意は維持、情報鍵は揃った。残りは——声」


 窓の外、光が一段明るくなる。

 放送室の向こうで、オンエアランプが予行練習みたいに一度だけ点り、すぐ消える。

 印刷キューのアイコンは、もう明滅しない。

 夜は終わる準備をしている。


 “透明化の倫理”の紙片をポケットに入れ、帆花が言う。

「放課後じゃない。今行く。合意維持10分を取って、そのまま“外”へ」


 真澄は頷き、胸に薄く残った痛みの糸をまとめ直した。

 印刷機の熱は、まだ指先に残っている。

 その熱を合図にして、彼は歩き出す。

 管理者の影がどこに潜もうと、履歴はもうこちらの手にある。

 声は、届く。

 外の誰かへ。

 ここにいる、全員の名を抱えたまま。


第11話 美術・技術:透明を描く、輪郭を縫う


 午前のベルが鳴る前、図工室と技術室をつなぐ渡り廊下のガラスが、薄く曇っていた。夜の冷えが残る校舎に、掲示板の新しい命令が浮かぶ。


《複合イベント:美術×技術》

《課題:見えないものの“見える化装置”を製作し、三分間の展示を行え》

《評価:観客の“理解度”ד居場所感”/安全性・再現性・説明責任》

《副作用:可視化による“代償の移転”——誰かが払う。払った痕は、残る》


 帆花が腕章の位置を直し、短く息を吸う。「……“見えないもの”。朔に届くテーマ」


「届くけど、難易度は理不尽」七瀬がタブを起動し、指先で空を撫でる。「**演算コンパイラ**で位相差から投影に落とし込む。装置は最低限の素材で、三分で説得力を出す。——できる」


「材料を引っぱってくる」糸井雪弥は図書委員の鍵束を指で鳴らし、軽やかに踵を返す。「古い写真部の暗室、チョークダストが床に積ってる。理科からドライアイス、技術室から電源タップと廃材。索引で当たりをつける」


「音は俺」小此木レオが耳朶を指先で弾く。「空気は穴を隠せない。《共鳴レゾナンス》で抵抗の変化をアレイに拾わせる。待機音と違って、これは“生き物の呼吸”に近い。——音を縫う」


「合意は私が通す。展示エリア、観客動線、説明の順番。合議コストは最小で」帆花は生徒会端末に予定表を打ち込む。「展示審査は監督者の代理審査員。言葉選びも揃える」


 真澄は工具箱の蓋を開ける。胸の奥の《保留デファー》が、朝から低く震えている。「俺は最後に束ねる。みんなの検出を輪郭に変える役」


「代償は重いよ」七瀬が真顔で言う。「“透明”の孤独は熱を持ってる。それが君の胸に沈む」


「知ってる。でも、やる」


 全員が頷く。彼らが散ると、教室の空気が一段明るくなった気がした。やることは多い。だがやることがわかっている時、人は強い。


     ◇


 古い写真部の暗室は、昼でも夜の匂いがした。棚の隙間、現像液の名残の金属臭、暗幕の埃。雪弥はライトを最小にし、床を指先でなぞる。「チョークダスト。白と灰、粒径揃い。——良質」


 理科準備室では、事故のないように帆花が許可を取り、七瀬がドライアイスの扱い手順を板書して掲示する。「安全宣言。合意に基づく取り扱い。——記録、よし」


 技術室では、レオが簡易アレイマイクのフレームを組む。棒状マイクを廃材の定規に沿って並べ、方眼用紙に配置を描き、配線を等長にして位相差を拾いやすくする。「等長が命。ずれると幽霊が出る」


 七瀬はノートPCに数式を並べる。音速、温度補正、位相差からの擬似スライス、トモグラフィの簡略化。「演算は刃じゃない。縫い針にする。荒い縫い目でも、つながれば“形”になる」


 帆花は展示の三分の脚本をつくる。導入は“教室の空気の形”の実演、中盤で“呼吸の曲面”を見せ、最後に“メッセージの転写”を試みる。「伝わる順番を守る。感動は編集で生まれるけど、納得は順序で生まれる」


 真澄は《保留》の準備をする。心拍を落とし、胸の奥の空洞に余白をつくる。そこに、みんなの“かすかな検出”を流し込み、最後の数秒でまとめて返す。「——痛みの器、本日も開店」


     ◇


 試走一回目。

 技術室の床に白いチョークダストを薄く撒き、ドライアイスの冷気を呼吸のように流す。空気の温度差が微細な霧をつくり、透明の“穴”を視覚化する。

 アレイマイクが拾った位相差が七瀬の画面に網となって現れ、粗い点群が曲面の気配を持ち始めた。


「……いる」レオの声がかすれる。「肩の高さ、人の。腕の位置、ここ」


 点の集合が、確かに**“空気の彫刻”へと変わる。呼吸のピッチは人のリズム。止まれば不自然、揺れれば緊張。七瀬のアルゴリズムは余白**を残す構えで、過剰な補完を避ける。「見たがる心に、数式を迎合させない」


「ここで相沢」帆花が合図する。「《保留》で輪郭に変えて」


 真澄は胸の空洞に、アレイと投影と粉塵の情報を吸い込む。

 粉の触れ合う音、霧が肌を撫でる冷え、位相がずれる微細な遅れ——微弱な検出が積分される。

 代償はすぐに来る。孤独の熱。

 透明なものが持つ痛みが胸に沈む。誰の視界にも入らないまま、そこに在る苦しさ。名札の画数が減るたび、自分の輪郭が薄くなるあの感じ。

 息が詰まる。だが、踏みとどまる。


「——返す」


 床の粉塵が、縫い目のように光の線を浮かべた。

 網の目の中心に、空気の曲面が生まれる。

 “肩の台形”、“肘の球”、“指の束”——人の要約。

 帆花が一歩近づき、声を柔らかく落とす。


「朔? 聞こえる?」


 曲面が、わずかに震えた。

 空気の節が動き、波がほつれて結び直される。

 いる。たしかに、ここに。


 だが三分の本番は、もっと密度が必要だ。観客を前に、説明を通し、合意の線を装置に通す。

 帆花は脚本を手直しし、七瀬は投影の遅延を一拍縮め、レオはマイクのゲインを微調整、雪弥は粉塵の粒径を混ぜ、真澄は胸の余白をもう一段広げた。


     ◇


 本番前、思わぬ来訪者があった。

 神前だ。ポケットに手を突っ込み、こちらを値踏みする目。

 隣には、保健室代表の少女。名札の画数はまだ欠けたまま、だが立ち姿は昨日よりまっすぐだ。


「約束通り、連れてきた」神前が言う。「こいつの債務スコア、本当にチャラにするんだろうな」


「する」真澄は頷く。言葉は短く、揺れない。


「ならいい」神前は視線を逸らし、壁際に寄った。「見せてもらおう。透明を、どう“売る”のか」


 売る、という言葉に、小さな棘が走る。

 だが彼の視線の奥には、焦りがある。扉を開けたいのは彼もまた同じ。

 帆花が少女の肩に手を添え、そっと展示ラインへ導く。「一緒に見る。一緒に証言する。あなたの名前の行方のために」


     ◇


 開演。

 体育館脇の展示区画に、観客用の点線が床に引かれている。監督者代理の審査員がクリップボードを抱え、表情のない目を向けた。

 帆花が短くお辞儀をし、導入へ入る。


「“見えない”は怖い。怖いから、見えるふりをするか、見ないふりをする。今日は、その両方をやめる方法——見える化をやってみせます」


 レオがスイッチを上げ、アレイマイクの拍が走る。

 雪弥がドライアイスの冷気を“呼吸”のテンポで吹かせる。

 七瀬の画面に網が走り、点群がゆっくり曲面へ。

 帆花は観客の視線を丁寧に誘導する。「今、空気の穴が見えますね。ここが、誰かの肩。ここが肘。ここが喉。——ここに、明神朔がいます」


 真澄は、胸の奥の器を開いた。

 観客の「わからない」が、微弱な“拒否”として空気に混ざる。

 好奇心、懐疑、不安、感嘆——すべて吸う。

 吸って、形にする。

 代償の熱が胸に降り積もる。だが、置き場は確保した。

 最後の数秒に向けて、束ねる。


「——返す」


 粉塵の雲が、光の縫い目に変わった。

 教室の中央、空気の彫刻は人の輪郭を——一瞬でも、疑いようのない誰かの居場所を——確かにそこに刻んだ。

 ざわめき。息を飲む音。審査員のペン先が一拍遅れて走る。


「朔?」帆花が、声を落として呼ぶ。「聞こえる?」


 輪郭が震え、ゆっくり前へと滑った。

 黒板の前へ。

 指——見えない指——が、窓ガラスに近づく。

 冷気の結露に、線が走る。

 文字が浮かぶ。


『放送で、外へ』


 帆花が、追いかけるように問う。「透明は、罰じゃないの?」


 窓に、震える線がもう一つ。


『透明は処罰じゃない。選ばされたんだ』


「選ばされた? 誰に」


 間があり、輪郭がわずかに薄くなった。

 それでも、もう一打だけ、結露に線が置かれる。


『外が、そうしろと』


 空気が、凍る。

 誰かが唾を飲む。

 神前でさえ、眉をわずかに寄せた。


「“外”が……設計した」七瀬が息を潜める。「適用するのは監督者、設計は外。——奪った合意の形で」


 輪郭が揺らぐ。限界が近い。

 真澄の胸で、孤独の熱が悲鳴を上げる。

 痛みの束が限界に膨らみ、視界が白く反転した。


「相沢!」

 七瀬の声が遠くで響く。

 帆花が寄り、雪弥が水を差し、レオが背を叩く。

 神前は——動かない。だが隣の少女の手を握った。その手は震えず、ただ固く。


「……肩代わり」真澄は荒い呼吸の合間に言う。

「約束、ここで払う」


 保健室の債務スコアが、見えない黒い糸になって胸に流れ込む。

 名札の画数が、視界の隅で一瞬崩れる。

 だが、そのすぐあと——黒板の前の輪郭が、光の縫い目としてもう一段鮮明になった。

 指が、二文字を書き添える。


『SOS』


 そして、消えた。

 粉塵が落ち、冷気が薄れ、空気が平らに戻る。

 静寂。

 審査員のペンが、しゅ、と紙の上を滑った。


《評価:展示成功。安全基準遵守。説明責任——合格》

《制御鍵:美術・技術 獲得》


 審査員が事務的に頷き、監督者のモニターに仮面が浮かぶ。

 声はいつもの平坦で、言葉だけが人の心を刺す。


『——見える化は、居場所を作る。だが居場所は代償を求める。君たちは、居場所を誰から買う?』


 買う、という動詞が、胸に残る。

 誰から。何で。いつまで。

 仮面はそれ以上言わず、映像はふっと消えた。


     ◇


 幕が下りたあと、真澄は工具箱の影で吐き気に膝をついた。

 胃は空だが、胸の器は満杯だった。孤独の熱と、債務の黒が渦を巻く。

 七瀬が後頭部を支え、耳元で拍を置く。「四拍吸って、四拍吐く。G—B—E。君の音色はそこだ」


 雪弥が水を差し出し、レオが背中を叩く。「音は裏切らない。戻ってこい」


 帆花は窓の指文字をノートに転写した。曲がらない字形、震える画。

 彼女はページを閉じて、低く言った。


「“外”の誰かが、ここへシステムを押し付けている。合意を偽装し、権限を歪め、透明を“適応”と呼び替えて」


「でも、声は届く」レオが天井を見上げる。「SOSって、短い音。合図はもうある」


「届かせるには、居場所が要る」雪弥。「放送室。合意の連続10分。手続きの背骨」


「そして返す」七瀬が真澄の肩を軽く叩く。「君が預かった痛み全部を、外に向けて返す。その方法を僕が作る。戻す技術は、僕の担当だ」


 真澄はうなずく。呼吸はまだ重いが、輪郭は戻りつつある。

 保健代表の少女が、一歩近づいた。名札の欠けは相変わらずだが、瞳の色が濃くなっている。


「……さっきの縫い目、きれいでした。名前、いつか全部に戻る気がした」


「戻す」帆花が笑う。「戻すって、合意の別名でもある。あなたがあなたを承認するところから始まる」


 少女は深く頷き、ポケットの中で何かを握りしめた——紙片だ。あの「透明化の倫理」の破片。彼女はそれを胸の前で二つに折り、自分のルールにした。


     ◇


 夕刻、教室に戻ると、黒板の隅の粉塵がまだ光っていた。

 糸井が指でそれを集め、小瓶に入れてラベルを貼る。「朔の輪郭粉。——冗談半分、証拠半分」


「証拠は冗談に紛れさせるのが一番長持ちする」七瀬が微笑む。「外に出すとき、嘘くささが盾になることもある」


 レオが窓枠に耳を当て、小さく目を見開く。「向こうから、オンエアランプの呼吸。今日は深い」


「明日に賭ける」帆花が時間割を開く。「合意維持のプロトコル、最短で決める。保健代表、学級委員、生徒会——三者で声をつなぐ」


 真澄は胸の糸を整え、黒板の前に立った。

 白墨を取る。

 黒板に、ゆっくり書く。


『居場所は、買わない。織る』


 帆花が目を細めて頷き、七瀬がその右に小さく数式を足す。「織りの式。交差と強度と、解けやすさのモデル」


 雪弥が左下に小さく索引記号を置き、レオが四拍のマークを添える。

 保健代表の少女は、空白に自分の名前の最初の一画を、そっと書いた。

 欠けたままの一文字。だが、始まりだ。


     ◇


 夜、監督者の声が構内放送に落ちてきた。

 仮面は相変わらず表情を持たないが、音の端に疲労のようなノイズが混じった気がした。


『——見える化は、居場所を作る。だが居場所は代償を求める。

 君たちは、居場所を誰から買う?

 君たちが決めれば、私は適用する』


 帆花は窓の文字をもう一度ノートに写し、静かに答えた。


「買わない。合う。縫う。返す。

 それを決めるのは、私たち」


 真澄は目を閉じ、心の中で朔の呼吸に耳を澄ます。

 空気の曲面、光の縫い目、結露の文字。

 “SOS”。

 “外”。


 外へ届く声は、もうすぐここから出る。

 合意はつながった。

 鍵は揃った。

 縫い目は強く、でも解けるように結んだ。

 あとは、朝を待つだけだ。


 ——三分間の展示は終わった。

 だが、私たちの展示は、まだ始まっていない。

 世界という観客の前に、全校放送で、見える化の続き——痛みの総和を、外へ。

 そのために、今夜も胸の器を拡げて眠る。

 明日、返すために。



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