奇妙な夢
王都に戻って三日目の朝。莉奈はまだ、自分の立ち位置に戸惑っていた。
正式な凱旋の式典は終わり、王命により、彼女には王宮内の一室が与えられていた。
だがその部屋は、広く、美しく、そして――どこまでもよそよそしかった。
ティアナの治療は長引き、カイルも負傷兵の報告に追われて今日は顔を見せれないらしい。
孤独な静けさの中、莉奈は時折、砦で見た黒髪の男を思い出す。
(あの人は、何も言わなかった。けれど、何かを知っていた……)
記憶の奥底を掘り起こすような視線。
あのとき確かに、名前ではない何かを通じて、彼は自分を“知っていた”ような気がしてならなかった。
けれど――彼の目。確かに、あれは初めて会った目の動きだった。
莉奈には、かつてこの世界で過ごしていた記憶がある。
けれど──あの魔王が、誰であるのかまでは分かっていなかった。
そんなとき、使者がやってきた。
「聖女セラ様より、勇者殿へご招待とのことです」
莉奈は頷いた。聖女とは昨晩以来だ。
──彼女は、この国にとって信仰と権威の象徴。
拒まれてはいるけれど、今後の行動のヒントを得られるかもしれないと期待を抱く。
連れてこられたのは、王都の中央聖堂の奥、関係者しか入れない“聖域”だった。
石造りのアーチに囲まれた回廊、冷たく澄んだ空気、祈りの香の名残が漂う。
荘厳な静寂の中に立っていたのは、一人の女性だった。
白銀のローブをまとい、背筋をすっと伸ばした姿。
それは間違いなく、聖女セラだった。
「来てくださってありがとう、リナ様」
口元に浮かぶ微笑は柔らかい。
けれど、その瞳の奥には、やはり計り知れない深さと冷たさがあった。
「勇者として、この国を守る覚悟は、もうできたのでしょうか?」
問いかける声は穏やかでありながら、まるで魂を見透かすような響きを持っていた。
リナは息を吸い、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……正直に言えば、まだ分かりません。でも、逃げるつもりはないです」
セラの瞳がわずかに細まった。
「覚悟は、美徳ではありません。必要なのは、選択と結果です。
……貴女には、何を救えるの?」
その言葉は、まるで審判だった。
(何を……救えるか?)
思考の波が胸を打つ。自分は“選ばれた”にすぎない。
過去を知らず、世界の仕組みもまだ理解しきれていない。
「セラ様は、何を救いたかったんですか?」
自然に出たその問いに、セラの表情がふと曇った。
「……彼女を、救えなかった」
その一言に、沈黙が降りる。響く鐘の音のように、深く重く、空間を満たした。
それ以上は語られなかった。けれど、その“彼女”が誰なのか、莉奈にはわかる気がした。
そしてその痛みは、どこか自分にも重なっているような気がして、心がきしんだ。
聖域を後にしようとしたとき、セラはふと、一冊の古びた本を差し出した。
「これは……前任の勇者、セリアの記録です。
読めば何かに役立つでしょう」
革装丁の重みある書だった。
受け取ったとき、指先が微かに震えた。
部屋に戻った莉奈は、静かにページを開く。
剣技の心得、魔物との戦闘記録、仲間との戦いの日々。
読み進めるうちに、視界がにじみ、重たい眠気が襲ってくる。
その夜、莉奈は奇妙な夢を見た。
赤く染まる空。焼け落ちた街並み。崩れ落ちる塔。裂ける大地。人々の悲鳴。消えていく命の光。
その中心に、ひとり、立ち尽くす影がある。
(……誰?)
見覚えのあるはずの後ろ姿。
それなのに、胸の奥からこみあげてくる喪失感に、涙が止まらなかった。
「──どうして……あなたを……」
夢の中の自分が、声をふりしぼって叫ぶ。
影は振り返らない。
その手に、何かを宿していた。光か、あるいは刃か。
そして、その手を掲げた瞬間、世界が音を立てて崩れ始めた。
瓦礫に飲まれる直前、影がこちらを見たような気がした。
莉奈は、涙で目を覚ました。
汗で濡れた額に手をあて、深く息を吐く。
(今の……夢……?)
赤く染まる空は、まだ胸の奥に焼き付いていた。
窓の外には、丸く満ちた月が浮かんでいる。
不思議なことに、現実の月までが、ほんの少し赤く染まって見えた。
“貴女には、何を救えるの?”
セラの問いが、再び心に重く響く。
けれど今は、まだ答えは出ない。
ただ、莉奈の中には確かに芽生え始めていた。
誰かの代わりではなく、過去に縛られる存在ではなく――
この世界に立つ“自分”として、何かを選び、掴み取るための意志が。
莉奈は静かに立ち上がった。
月の光が、その背中を照らしていた。