前任勇者
王都の空は、砦よりも明るく澄んでいた。
城壁の内側では、白壁の建物が整然と並び、色とりどりの花が咲く街路を人々が行き交っていた。
召喚されたあの日に見た景色と、ほとんど変わっていない。けれど――
(あの頃とは、私の中がまるで違う)
莉奈は、王城の前に並ぶ兵士の列を目に入れながら、自分の手を見下ろす。
指先には、ほんの微かに震えが残っていた。
砦での戦闘。
死の間際をすり抜け、誰かを守ろうとしたのに、守れなかった自分。
血の気配、仲間の叫び。あれはまだ、記憶ではなく実感として皮膚にこびりついていた。
それでも、王都の空気は淡々としていて。
歓迎の鐘が鳴る音さえ、どこか現実味がなかった。
「勇者リナ殿、お戻りを歓迎いたします」
城門の前で膝をついた兵士がそう告げた。
それに続くように、周囲の人々が次々と頭を下げる。
まるで、彼女が何か偉業を成し遂げたかのように。
(……何も、していないのに)
胸の奥で、つぶやく。
初陣で取り逃がした魔王軍の残党。
重傷を負ったティアナ。
民を守るための戦いだったはずが、結局は混乱だけを残して終わった。
それなのに、「凱旋」のような扱いを受けることに、心が追いつかない。
王宮内の謁見室へ通されると、見慣れた石造りの空間に、金糸のカーテンが風に揺れていた。
玉座に座る王が立ち上がり、莉奈に近づいてくる。
背後には、重厚な鎧を身につけた王国騎士団長と数人の文官が控えていた。
「よくぞ戻った、勇者リナ。そなたの働き、王都全土が称えておるぞ」
(働き……?)
喉が乾いて、言葉が出ない。
けれど返事をしなければならない立場だった。
口角を引き上げ、ぎこちなく頷く。
「ありがとうございます、陛下……」
「そして、そなたにはもう一つ、大切な顔合わせがある。聖女セラとの対面だ」
(セラ……?)
初めて耳にする名前だった。
横に控えていた侍従が口を添える。
「聖女セラ・ルーミア様は、前任勇者様と共にこの国を支えた存在にございます。
召喚直後はご体調を気遣い控えておりましたが、今こそご紹介にふさわしい時と……」
前任勇者?
また、知らない言葉が出てきた。
「私は……その、前に勇者だった方のことを、まだ……」
言葉を選びながらそう口にすると、場にわずかな沈黙が流れた。
王が頷くように目を細める。
「無理もない。召喚以来、混乱の中におったそなたに、その名を告げる機会もなかったであろう」
この言葉を受けた侍従が、莉奈の前に一枚の肖像画を差し出した。
金の額に収められた絵。
白銀の長髪、琥珀の瞳。凛とした眼差しと、軽く剣を構える姿。
「彼女こそが、セリア=リュミエール様。
かつてこの国を救った、前任の勇者でございます」
見た瞬間、莉奈の胸がざわめいた。
――この人が……勇者?
威圧的な強さは感じなかった。ただ、目を離せないほど美しかった。
けれどその瞳に宿る感情は、静かで、どこか冷えていた。
「……亡くなったんですか?」
「うむ。数年前の大戦にて戦死。
だが彼女の名は、今もなお民にとっては希望の象徴である」
莉奈は息を呑んだ。
(私が……この人の代わり?)
自分には、あんな瞳はできない。あんな強さも、美しさも。
それでも、この国は“勇者”という枠に彼女を重ねて、自分を重ねようとしている。
「聖女殿は既に王宮内に。間もなくご案内いたします」
そう言われ、足元に力が入らなくなるのを感じながら、莉奈は頷いた。
心臓が飛び出しそうな緊張感に襲われながら王城の応接室に向かう。
応接室の扉は、私の気持ちを表すように重々しくゆっくりと開いた。
中にいたのは、窓際で本を閉じた一人の女性。
白銀のローブに身を包み、金髪を編み込んだ姿。
腰まで流れる髪は整いすぎていて、どこか現実離れしていた。
そして何より――その瞳。
春の若葉を思わせる淡い緑が、ゆっくりと莉奈に向けられる。
「貴女が……リナ様ですね」
優しい声。笑みを湛えた美貌。
けれどその瞬間、リナは直感した。
(この人、私を……拒んでる)
口に出さずともわかる。
聖女セラは、最初から「歓迎していない」のだ。
「お会いできて光栄です、セラ様」
「ようこそ、勇者様。……私たちは長らく、貴女のような存在を待っていました」
そう言いながらも、セラの微笑みは形ばかりだった。
彼女はそっと近づき、莉奈の手を取る。細く、冷たい指。
「セリア様は、あの時――自らの命を捧げ、この国を守りました。
ですから私は……今でも、彼女を超える勇者などいないと、心のどこかで思ってしまうのです」
微笑のまま語られる言葉は、棘のようだった。
莉奈は、心臓の鼓動が跳ねるのを感じながら、無理やり笑みを作る。
「……比べられても、仕方ないのは分かっています」
「そうですね。……でも、比べられる方は、いつも傷つく。私も、そうでしたから」
その言葉に、莉奈は目を瞬かせた。
――聖女もまた、誰かと比べられて、苦しんだことがある?
一瞬だけ見せた横顔には、哀しみの影があった。
けれど、それ以上は語られなかった。
その夜。
自室に戻った莉奈は、胸の前で手を組むように座り込んだ。
机の上には、砦から持ち帰ってきた銀色の花。
それを見つめながら、心の奥に言葉が浮かぶ。
(私が……誰かの代わりじゃなくて、私としてここにいるには、どうしたらいいの?)
窓の外、王都の空には星が降り始めていた。
莉奈の言葉には答えないと言わないばかりに……とても静かな夜だった