月の下の声
森の中に静寂が戻った。
つい先ほどまで耳をつんざいていた魔族たちの咆哮はなく、ただ風が葉を揺らす音だけが残っている。
私は剣を握ったまま、その場にへたり込んだ。
膝が笑い、全身から力が抜けていく。
「……はぁ、はぁ……」
荒い呼吸が止まらない。
手の平が痛くて剣を落とすと、柄の部分に血がにじんでいた。
「勇者様」
カイルが近づいてきた。
鎧には魔族の返り血が飛び散り、額には汗が光っている。
「よくやったな。あの場で剣を振るえたのは大きい」
私は首を横に振った。
「……全然、動けなかった。怖くて、足が……」
「誰だってそうだ」
カイルは低く言った。
「戦場に立ったばかりの者は皆、恐怖で動けなくなる。
だが、君は一歩を踏み出した。それができるかできないかで、未来は変わる」
その言葉が胸に響いたが、私はまだ自分を許せなかった。
ティアナが杖を抱えながらこちらにやってくる。
額の傷は簡易治癒で塞がっていたが、顔色は青い。
「リナ、怪我は?」
「私は……大丈夫。ティアナこそ、ごめん。
私が動けなかったから、あんな……」
ティアナは首を振り、にこりと笑った。
「私が勝手に飛び出しただけ。
リナはちゃんと戦った。あの一撃、すごかったよ」
「でも……怖かった」
震える声が出る。
「剣を振るって、相手が苦しむのを見て……。
私、また人を傷つけたんだって思って」
「リナ」
ティアナはそっと、優しく抱き着いた。
「その気持ちは間違ってないよ。
でも、あの魔族たちは人を殺そうとしてた。
放っておいたら、もっと多くの人が……」
「……わかってる。でも」
胸の奥のざらつきは消えない。
そのとき、砦の方から声が上がった。
「負傷者をこちらへ!急げ!」
兵士たちが傷ついた仲間を運び込み、瓦礫の隙間に簡易の治療所を作っていた。
カイルが私に問いかける。
「歩けそうか?必要ならば肩を貸す。」
脚はまだ震えていたが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
「はい、動けます」
「そうか。無理はするなよ。」
優しい笑みを浮かべた後、カイルは兵士たちのほうへと視線を移す。
「魔族が撤退した今のうちに砦を整え、情報を整理する。
魔王軍が動いた以上、放置はできん」
カイルの声は冷静だったが、瞳の奥には警戒の色が見えた。
私はふと森の奥を振り返った。
……あの声。
魔族を退かせた低い声と、赤い瞳のような光――。
「……魔王様のお声だ!」
魔族の言葉が蘇り、背筋が冷たくなった。
あの気配の主は、魔王なのだろうか。
だとしたら、私はもう――。
「勇者様」
カイルの声に肩を揺らした。
「疲れているだろうが、少し休め。夜になれば森の魔獣も動き出す」
「……はい」
私は砦の崩れた壁に背を預けて座った。
止まったままの腕時計を見つめると、心の奥に重たい痛みが湧き上がる。
――彰人、私、本当に戦っていけるのかな。
このままでは、きっと彼と同じ世界には戻れない。
「……勇者、か」
ぽつりと呟いた言葉は、風にかき消された。
気が付けば夜になっていた。
砦は仮の寝床で埋め尽くされ、兵士たちの荒い寝息とうめき声がそこかしこから聞こえる。
私は毛布をかぶって横になっていたけれど、どうしても眠れなかった。
戦いの光景が何度もまぶたの裏に浮かび、心臓の音が耳の奥で跳ね返る。
――あの声。
魔族たちを一言で退かせた、静かな、でも抗いがたい重さを持った声。
思い出すたびに、胸の奥がざわつく。
「……ちょっと、外に出よう」
私は音を立てないように毛布を抜け出し、砦の外へ向かった。
誰もいない石畳をゆっくり歩く。
砦の門の上、見張りの兵が静かにうたた寝していた。
夜風が冷たい。空には雲がなく、満月が砦を淡く照らしていた。
私は城壁の外れまで歩くと、崩れた石の上にそっと腰を下ろした。
「ふぅ……」
深く息を吐く。まだ指が少し震えている。
剣の重さ、血のにおい、ティアナの傷――忘れようとしても、忘れられない。
「……私が誰かを、守れるって、どうやったら実感できるんだろう」
勇者といわれる力を何も感じない。
召喚するなら最低限の戦う力を持たせてくれてもよかったのに。
私には……誰かを守れる力なんて……
自分のふがいなさにうつむいた。
そのときだった。
「夜の冷たさにしては、ずいぶん深い独白だな」
不意に背後から男の声がした。
私は驚いて立ち上がった。
月明かりの下に、男がひとり立っていた。
漆黒の長い外套に身を包み、銀糸のようにさらりとした黒髪が夜風に揺れている。
瞳は深い紅――けれど、どこか悲しみをたたえていた。
「誰……ですか?」
男は答えなかった。ただ一歩、私に近づいてくる。
私は反射的に腰の剣に手をかけたが、男は手を広げ、穏やかな声で言った。
「剣を抜く気配だけで、君がどれほど疲弊しているかが伝わってくる。
休むべき夜に眠れぬ者が、どうして刃を握る」
その言葉は、まるで私の胸の内を見透かしているようだった。
「あなた……私のことを、知ってるんですか」
「ふむ……君がこの世界に来た理由を、知っているとしたら?」
私は息をのんだ。
男の声音は穏やかだが、どこか人の常から外れた静けさを纏っていた。
それが、怖いとは思えなかったのが不思議だった
「……私は、何者なんでしょうね。
戦えと言われて、剣を持たされて、人を殺して……。
それで世界を救えって……」
言葉が詰まり、目に熱いものがこみ上げる。
そのとき、男がそっと歩み寄り、私の手に何かを握らせた。
それは、月光の冷たさと同じ温度の、銀の花だった。
「それでも君は立ち上がった。その一歩が、何よりも意味を持つ」
私は唇をかみしめた。
この人は――知らないはずなのに、どこか懐かしい。
「……あなた、会ったこと、ありますか?」
男の唇がわずかに笑みを浮かべる。
けれどその笑みは、どこか寂しさを帯びていた。
「……どうかな。だが、そう感じるなら――それが答えかもしれない」
風が吹き、月が雲に隠れる。
一瞬、あたりが暗くなる。
「……あなた、名前は……」
だが、その声に応える者はいなかった。
目の前にいたはずの男は、静かに消えていた。
「……いない……」
私は、残された銀の花を見つめる。
冷たい。けれど、あたたかさがあった。
どこかで会ったような気がする。
だけど――思い出せない。
その夜、私はようやく目を閉じることができた。
夢の中で、月の下に立つ誰かの影を追いながら。