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別れと召喚

 音が、消えていた。

 世界から色も匂いも抜け落ち、私の中にはただ、冷たい空虚だけが広がっていた。

「彰人……」

 掠れた声で名前を呼んでも、もう誰も応えない。

 指先で握りしめたのは、止まったままの腕時計。

 彼が最後にくれた、古びた銀の腕時計だ。

 秒針は事故の日の午後11時1分で止まったままだった。

 ――どうして、私だけが残されたのだろう。

 一緒に笑って、一緒に生きていくはずだったのに。

 彼がいなくなったこの世界に、もう私の居場所なんてない。

「私も……一緒に行けたらよかったのに」

 小さな声が夜の部屋に落ちた。

 窓の外は春の雨が静かに降っている。

 アパートの一室、ベッドの上で体育座りをしたまま、私はただ時計を握りしめ続けた。

 涙はもう、とうに枯れ果てていた。泣きすぎて、涙を流す力すら残っていない。

 ぼんやりと天井を見上げていると、不意に耳鳴りがした。

 ――じぃん、と、低い音が耳の奥に響く。

「……え?」

 頭が揺れる。視界がぐらりと歪む。

 目の前の景色が波打ち、輪郭が崩れていく。

 足元が吸い込まれるような感覚に襲われ、私は反射的にベッドの端を掴んだ。

「な、なに……?」

 息が詰まり、喉が苦しい。

 世界が破れるような音がしたかと思うと、視界が一瞬、真っ白に染まった。




 ――そして、目を開けると。




 そこは私の部屋ではなかった。

 目の前に広がっていたのは、石造りの床と高い天井を持つ荘厳な大広間だった。

 壁に掲げられた赤と金の旗、列をなす松明の炎、巨大なシャンデリアの光が私の頭上を照らす。

 大広間の空気は厳粛で、私が動いた瞬間、石床がわずかに冷たく足に伝わった。

「……え?」

 声を上げた途端、空気が一斉にざわめいた。

 その場にいた数十人の人々が、まるで化け物でも見たかのように私を見つめている。

「召喚……成功したのか?」

「……勇者様だ!」

 低い声とどよめきが交じり合い、さらに混乱が増した。

 私の目の前には玉座があり、そこに立派な王冠をかぶった男が座っていた。

 髭をたくわえた壮年の男は、厳かな面持ちで私を見下ろしている。

「救世の勇者よ……我らの願いに応え、ここへ来てくれたのだな」

 その言葉の意味を理解する前に、私は反射的に一歩後ずさった。

 ここはどこ? この人たちは誰? そして、救世の勇者って――?

「ちょっと待って……! ここはどこ? 私、どうして……」

 言いかけたとき、ガシッと腕を掴まれた。

 見上げると、長身で鋭い青い目を持つ鎧姿の男が立っていた。

 男は鋼色の鎧を纏い、肩当てには王国の紋章が刻まれている。

 白い肌、短い金色の髪、戦場を渡り歩いた男の風格。

 彼の掴む手は大きく、力強かったが、乱暴さはない。

「落ち着け。大丈夫だ、害はない」

 低く落ち着いた声に、私はかろうじて呼吸を整えた。

 男は私の手を離し、背筋を伸ばして自己紹介した。

「俺はカイル・グリフォード。この国の騎士団長だ。

 勇者殿、君は救世主としてこの世界に呼ばれた」

 言葉の意味が頭に入ってこない。私は必死に掠れた声を絞り出した。

「……私が、救世主……?」

 カイルは真剣な目でうなずいた。

「この世界は今、滅びの危機にある。……そして、君だけがそれを救える」

 その一言が、重く私の胸にのしかかる。

 だが、私は混乱を拭えなかった。

「帰して……元の世界に帰してください……!

 私、ここに来たくなんて――」

 言いかけたとき、王が玉座から立ち上がった。

 その威圧感に押されて、私は思わず口をつぐんだ。

「帰すことはできぬ。……勇者よ、そなたが来たのは運命なのだ」

 その瞬間、私は悟った。

 元の世界に戻る方法はない。

 足元が崩れるような感覚に襲われ、私は視界が滲むのを感じた。

 そのとき、小柄な少女が人混みをかき分けて近づいてきた。

 淡いピンクがかった銀色の髪を揺らし、琥珀色の瞳が好奇心に輝いている。

 魔法使いのローブを纏い、手には大きな魔法書を抱えていた。

「この子が勇者様? ……なんか、普通の女の子だよ?」

 彼女は首をかしげながら、わざとらしく私の顔を覗き込んだ。

「ティアナ、言い過ぎだ」

 カイルが低く叱ると、少女――ティアナは「ごめんごめん」と軽く手を挙げて笑った。

 ティアナは元気そうに見えるが、瞳の奥は少し怯えているように見えた。

 この世界の人たちもまた、恐怖の中にいるのだとわかる。

「……本当に、私が勇者なの?」

 小さな声で呟いたその問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 沈黙の中、王の厳しい声が響いた。

「勇者よ。この世界を救ってくれ。……魔王を討つのだ」

 魔王――。

 その言葉が、胸に重く突き刺さった。

「魔王って……本当にいるんですか?」

 私は勇気を振り絞って問う。

 王はうなずき、険しい表情を浮かべた。

「奴は“アスラ”と名乗る。人類の敵、そして世界の破壊者だ。

 圧倒的な魔力を操り、すでに幾つもの国を滅ぼした。次は我らの番だ」

 低いどよめきが大広間に広がる。

 ティアナが小声で私の袖を引きながら言った。

「魔王って、空に裂け目を作るんだよ……。世界を壊す力があるんだって」

「裂け目……?」

 そのとき、玉座の後ろにある大きな窓の外で、雷のような轟音が響いた。

 皆が一斉に空を仰ぐ。

 暗い夜空に、巨大な亀裂が走っていた。紫色の光がそこから漏れ出し、世界の空気を震わせる。

「……なに、あれ……」

 目を疑った。まるで世界が引き裂かれているみたいだった。

 あの裂け目は――この世界の終わりの象徴なのだろうか。

「ご覧の通りだ、勇者よ」

 王が重々しく言う。

「この世界は崩壊に向かっている。あの裂け目は日に日に広がり、土地を呑み込み、命を奪っていく。

 奴はそれを利用してさらに破壊を進めている。……だから、魔王アスラを討たねばならぬのだ」

 私は息を呑んだ。

 ……この世界は、崩壊している?

「待ってください。どうして私が……」

 声が震える。

「私、戦ったことなんてない。人を救うなんて……できるわけない」

 カイルが一歩前に出て、私の前に跪いた。

 近くで見た彼の瞳は、炎のように真剣だった。

「君しかいないんだ」

 低い声が胸に響く。

「勇者は異世界から呼ばれし者。

 レイライン――世界の魔力の流れに干渉できるのは、君のような存在だけなんだ」

「……レイライン?」

「この世界を繋ぐ魔力の川みたいなものだ」

 ティアナが横から補足する。

「でも、それが崩れてる。だから……勇者じゃないと」

 私は言葉を失った。

 全てが現実味を欠いている。けれど……

 目の前の裂け目も、人々の怯えた表情も、確かに本物だった。

 形見の腕時計を握りしめる。止まった針が冷たく指に触れた。

 ――彰人、私、どうすればいいの。


 そのとき、大広間の扉が勢いよく開いた。

 騎士が駆け込んできて、膝をついた。


「報告! 魔王軍の偵察部隊が国境を越えました! 西の砦が……!」

 場が凍りついた。

 王の表情が険しくなる。

「砦がどうした?」

「半壊です! 我らの攻撃は全く通じず、魔王軍の兵は――」

 報告はそこで途切れた。

 騎士の口が恐怖で震えている。

「奴らは……人間じゃない……!」

 私は背筋が冷たくなった。

 魔王軍……。

 まだ一度も見たことがないのに、その言葉だけで胸が締めつけられる。

 カイルが立ち上がり、剣の柄を握った。

「王よ、俺が向かいます。勇者様も連れて行きましょう」

「えっ……私も?」

「君には、この世界を知ってもらわねばならない。訓練も始めねば……

 だが、まずは魔王軍の脅威をこの目で見てくれ」

「……」

 行きたくなかった。怖かった。

 でも、逃げ場はどこにもない。

 私は小さくうなずいた。

「……わかりました」

 カイルは少しだけ安堵の表情を浮かべ、私の肩に手を置いた。

「大丈夫だ、俺が守る。勇者様」

 そのとき、王が再び口を開いた。

「忘れるな、勇者よ。魔王を討つのだ。奴が生きている限り、この世界は救われぬ」

 私は答えられなかった。

 ただ、胸の奥で漠然とした不安が渦を巻いていた。

 魔王アスラ――彼は、どんな姿をしているのだろう。


 私はこの時、まだ知らなかった。

 魔王アスラが、亡くした恋人に瓜二つの姿をしていることを。


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