8 バクシーシ!俺に金をわけてくれ!!!
…大丈夫だ。まだ慌てる時じゃあない。
俺は500ルピー札1枚の入った財布を撫でる。
最初あれだけ入っていた札束は、今やこれが最後の一枚になってしまった。
しかし俺には、まだアレがある。
ホテルに戻った俺は、キッズ・ヴェーダを使いフロントスタッフに近所のATMの場所を聞く。
俺には海外キャッシング機能の付いた日本のカードがある。
…会社が立ち上がらず、典太の給与を振り込むこっちの銀行口座を作るどころではなかった。
そもそも給与振り込み口座だけあっても、肝心の給与を払う会社が立ち上がっていない。
渡航支度金として支給された現金もあったが、これは会社立ち上げが遅れている間に使い果たしてしまっていた。
なので典太はこのカードで日本の預金を切り崩して生活している。
ホテルのフロントスタッフはどこやら電話をかける。
すると汚い服を着た髭面の男がやってきて、ニヤニヤしながら立っている。
「あー、典太さん、こんにちは。私ガイドのラジャですー。」
…またカネ取る気かよ。ぶっ飛ばす。
「あー、私ホテルのサービスですからお金いらないですー。」
お、助かるわ。それなら頼むわ。
「じゃ、行きましょうねー。」
そして俺は今土産物屋で紅茶を買わされている。
カード決済OKとのことだが、そういう問題じゃねえ。何故俺はここにいる。ふざけんな。
「これ日本の総理大臣がここのマハラジャから貰ったのと同じ奴ねー。日本で買うと3万円、でもここならたったの3千ルピーねー。」
出入口は店員3~4人でブロックされている。決済終わるまで出さないつもりらしい。
「あー、それでこっちはガンジーさんが飲んでたやつー。あなたみたいな偉い人なら、これくらいの物ピッタリねー。」
…畜生、買ってやるよクソッタレ!取締役の財力見せてやるわ!
「はーいアリガト!じゃあATM行きますねー。」
この背中、蹴り飛ばしてやりたい。
石畳の迷路みたいな道を進む。客引きがいちいちウゼぇ。
「はーい、ついたねー。ここでお金おろしてねー。」
やっと銀行に案内された。俺はATMにカードを突っ込む。
…We regret to inform you that this transaction cannot be processed.
Please contact customer support using the handset provided beside the ATM.
…ん?…はァ?…ちょっと待てやこれ……
そして画面が暗くなる。
典太のカードを呑み込んだATMは、沈黙してしまった。
「うぉらふざけんなこン糞ATMがァ!カード返しやがれ!ぶち壊すぞてめえ!!!」
俺が思いっきりATMの腹を蹴り飛ばすと、すかさず警備員が飛んでくる。
何を言っているか分からないが、ブチ切れているようだ。
その手には物騒なライフルが握られている。
…そして俺は外につまみ出された。
一部始終を銀行の外で見ていたラジャの視線が、白けたようなものに変わっている。
「バクシーシ」
ラジャがつぶやく。
「ちょっと待ててめえ、金は要らねえってさっき言ってただろうが!」
「バクシーシ」
「バクシーシ」
ラジャの隣に、別な男が湧いてくる。
ラジャはヒンディー語で新しく出てきた男に何やら話をすると、その男は再びどこかへ消えていった。
「バクシーシ」
「バクシーシ」
「バクシーシ」
「バクシーシ」
そして俺はその男が連れてきた仲間の男共に取り囲まれた。
…ヤバい。
俺は大人しく最後に一枚残った500ルピー札を差し出すが、男たちのバクシーシは止まらない。
分かった、これをやる。おねがいします、ほらないでください。
カバンに入っていた飲みかけのコーラを差し出す。男は無言で蓋を開け、典太の頭にジョボジョボと注ぐ。
…なんか金目の物…金目の物…。
スマホを差し出すと、男の一人が無言で受け取る。
10分後。
身ぐるみを剥がされた典太が、キッズ・ヴェーダを片手に立ち尽くしている。
…どうしよう、これ。
もう旅行はいい。早く帰りたい。
しかし帰りの便は4日後だ。
それまではホテルで過ごしたいし、食い物や飲み物も必要だ。
そのためにはカネがいる。
そして飛行機に乗るためには空港まで行く必要がある。
そのためにはカネがいる。
今のパンツ一丁姿では空港の警備員につまみ出される。
服が必要だ。
そのためにはカネがいる。
日本大使館なら俺を助けてくれるだろう。
ただしそこまで行く必要がある。
そのためにはカネがいる。
典太の脳裏に、先日のガネーシャの言葉がよみがえる。
…お金は、神聖なものなんだ。
痛いほど、その言葉の意味が分かった。
『いいかい、典太君。この街、バラナシはね、死を待つ者と、それを見送る者、そしてそれに向き合い静かに祈る者が集まる神聖な街なんだ。』
唐突にキッズ・ヴェーダが語り出す。ガネーシャの野郎、どっかで見てんのか?
『…そしてこの地でのダーナ(喜捨)もまた、特別な意味を持つんだ。
この街での施しはね、その相手を救うだけではなく、施した側も救われるんだよ。
施して手放したものだけじゃない。業も一緒に手放すんだ。』
…で、何が言いたいんだこいつは。
『…それでね、典太君。君はたった今、施される側になったんだ。
…君も言っていいんだよ。『バクシーシ』と…』
俺はキッズ・ヴェーダからガネーシャの頭のパーツをむしり取り、地面に叩きつけた。
***
「ばく…しーし…」
俺はボロを纏って道行く人々に声をかける。
たまに5ルピー硬貨を落としていく奴がいるが、大半は素通りだ。
一度日本人らしき人に声をかけたが、韓国語が返ってきた。
頼む、過去の国同士の遺恨は忘れて、俺を助けてくれ…。
…惨めだ。取締役であるこの俺が、ボロを着て乞食をやっている。
1日で100ルピーにもならない。
やり手のバクシストは1000ルピーくらい稼ぐ猛者もいるとは聞くが、俺には無理だ。
これでは食って下痢するだけが精一杯で、とてもデリーまでは帰れない。
飛行機も逃したので、飛行機代も稼ぐ必要がある。
…ああ、どうしてこうなった…
目から自然に涙が出てくる。
そして空を見上げる。
黄昏の空には、静かに雲が流れている。
…そこに、光を放つ小さな点が現れた。
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騙されるとは、愚かさの証ではなく、心が何かを求めていた証にございます。
人は、見たいものの輪郭に言葉を重ね、都合の良いやさしさを信じようとするもの。
だからこそ、欺かれた瞬間に痛むのは相手への怒りよりも、ままならぬ煩悩に惑い、己の望みに幻をかぶせていたという、内なる錯覚の崩壊なり。
仏は語られる──
「欺かれし者にこそ、内面を見る力が芽吹く。失われしものの中に、真に欲していたものを知るのだ」と。
拙僧もかつて信を失い、言葉を責め、沈黙の中でようやく祈りを得たことがございます。
騙されたことは苦であるが、その苦は、自分の心を明るく照らす種にもなりましょう。
信じて傷ついた者よ。
その痛みは、未来の自分が人を赦すための布施にございます。――合掌。