17 しゃらくせェ!口座くらいもう一回作らんかい!!!
「ほほん ほほほん ほほほほーん」
500ルピー札20枚の札束を扇のように広げ、俺は顔を扇いでいる。
エアコンの温度23度に設定された室内は別に暑いわけではない。
むしろ寒い。
「さて典太君、次はセンチュリー22の口座開設だね。」
ふやけて文字が霞んだコンサルのマイルストーンを読みながらポテチをポリポリ齧っているガネーシャが何か言っている。
それより今は現金を感じていたい。
バラナシでの俺の(?)信徒の布施のおかげで、何とか個人口座を開設することができた。
そしてまとまった金が入ったことで俺の心は潤い、波一つ立たず凪いでいる。
貧すれば鈍す。鈍すれば窮す。そして窮したら通じた。
餓死の心配がないということは、餓死することがないということだ。
生存を保証された俺は、静かに資本主義を感じていた。
***
「それで乃木、登記遅れのキャッチアップは進んでるか?」
…マズい。
この10日間、自分の銀行口座を開設するために免許取ろうとして失敗したり、かわりにレーシングライセンス取ったり、銀行員と口座開設で押問答したり、カジノでギャンブルしたり、聖者として布施を集めたり、集めた布施でやっと口座開設したり、資本主義を感じたりで碌に会社の仕事やってねえ。
「乃木君、社長にCOI取得を報告したら現在の修正ロードマップ提出を求められてね…。次のステップ…口座開設と資本金の入金と…何だこのFIRC?…これの現在の状況と、完了予定を説明しなければならないんだ。」
…大山常務、多分アンタ俺より詳しい。何すかその聞いたことあるけど微妙に思い出せねえ言葉。
もうこっち来て自分でやったらいいっすよ。
多分俺、聖者やって稼いで金なくなったらまた聖者やって…って生活の方が向いてますわ。
「乃木ぃ!お前いっつもミュートなってんなァ。」
伊地知専務、まず画面右下のスピーカーのマークにバツついてないか見てください。
…それどころじゃねえ。説明、どう説明したら…。
「…乃木ぃ?」
「ん?どうしたね乃木君。」
「ミュートぉ?」
やばい、なんか言わなきゃ。
「アウ…アウアウアウ…。」
まったく言葉が出て来ない。
何もやってませんとか言ったら…怒られる!
(典太君、これを使うんだ!)
カメラの外にいるガネーシャが、ガンジープリズムパワーで毛の束みたいなものを生成する。
(これはね、げだつ道具の『いいわけジャータ』って言うんだ。シヴァ父さまから借りてきたよ。これを付けると、宇宙の真理とリンクして、相手を納得させる知恵が降りてきて、とても上手に釈明ができるよ。)
サンキュー、ガネーシャ!早速使わせてもらうわ。
俺は頭にその毛の束を付ける。
すると、ひとりでに口が開き、雄弁に語り出した。
「オーム・ナマ・シヴァーヤ。
我が子らよ、よく聞きなさい。
我は典太、業の濁流に乗りて異国の地に転生せし者。
ラクシュミーは我を見放し、ヴィシュヌは試練を与え、シヴァはジャータを振り乱し、我はただただ輪廻の渦に巻かれておった。
給与は振り込まれず、口座は開かれず、資本主義のガンジス川は干上がり、我が生命は枯れ果てんとしていた。
食事にも事欠き、真我は震え、我は生きるために布施を求め、聖者の皮をかぶりて衆生に悟りを説いた。
インドの銀行口座開設──それは手続きにあらず、ブラフマーが設計し、ヴィシュヌが運用し、シヴァが破壊する三位一体の苦行である。
我が身は神々の力を持たぬ凡なる器──そのような者にとって、この儀式は一瞬で済むものにあらず。
アグニの炎をくぐり、業の泥を踏み、ジャータの束を解きながら進むしかない。
業務を中断したこと、これを咎める者もおろう。
されどそれは怠惰にあらず、これは業の再配置、法の再定義、解脱へ続く道である。
我が行動は宇宙の流れを整える儀式、ジャータの束を解き、シヴァの髪から真理を引き出す試みであった。
これを言い訳と捉えるなかれ。
これは魂の布告、輪廻の中で光を見出す者の咆哮である。
オーム・シャーンティ・シャーンティ・シャーンティヒ。」
***
「馬鹿野郎!過去一で滅茶苦茶怒られたぞ!」
こんなんでも『カシャコン』は来る。
俺は目を押さえてひとしきり悶絶した後、ガネーシャを怒鳴りつけていた。
取締役3人は、このヒンドゥーグルの説法のような俺の釈明に呆気に取られていた。
そして画面越しでも分かる程度に顔が赤くなり、額に青筋が立っていくのが見えた。
そして俺は小一時間説教され、1週間以内のセンチュリー22の口座開設を命じられた。
「本当に君の国の人たちは不信心者ばかりだねぇ…」
ガネーシャは呆れたようにぼやいている。
ぼやきたいのはこっちだ。
「ええい、ゴチャゴチャ言っててもしょうがねえ。とにかく銀行に行くぞ。」
***
「はい、書類は一通り確認しました。」
俺はコンサルの担当者、ムスゴパルと並んで銀行の法人窓口にいる。
「COI(登記証明書)、MOA(定款)、PAN(税務番号)、取締役会の口座開設承認議事録…すべて問題ありませんね。」
銀行の担当者、サプナ嬢が書類をめくっている。
さっき連絡先を聞いてやんわり断られていたムスゴパルは、鼻の下を伸ばしている。
『この書類、俺が作ったんすよ。俺、デキる男なんで』と顔に書いてある。
「それでは、取締役様のKYC書類を提出してくださいね。」
KYC(Know Your Customer)書類…これは要は本人確認書類だ。
この国はこの手の口座の開設から通販の荷物の受け取りまで、あらゆるものに本人確認書類の提出を求められる。
それが俺のような外国人にとってのインド生活の鬼門の一つではあるのだが…俺に抜かりはない。
コンサルのフラウドギブマネーに依頼し、必要なものは一式用意してある。
「パスポートに、FRROに、アパートの契約書に…はい、受理しました。典太さん、って言うんですね。」
名前を呼ばれて微笑まれるとちょっとドキドキする。
このサプナ嬢、この銀行のセンター張れる。
「それでは、インド人取締役の方のKYCを確認させてください。」
刹那、ムスゴパルのドヤ顔がやっちまった顔に切り替わる。
…お前表情豊かだな。
ムスゴパルが震える手で出したKYC書類…それはサドゥーに転身してフラウドギブマネーを去っていった、マヘシュのものだった。
***
帰りの車の中、ムスゴパルはおいおい泣きながら運転している。
冷たい顔でサプナ嬢からKYC書類を突き返されたムスゴパルは今、ハートブロークンムスゴパルに進化している。
ハートブロークンムスゴパルは2~3回運転を誤って車をぶつけた。
あまりに危なく見ていられないので俺が運転を代わる。
サイドブレーキを引いてアクセルを開け、FFドリフトでコーナーを曲がりながら話を聞く。
ムスゴパルは泣き止み、真剣な顔になり、上ずった声で説明を始める。
そしてなぜか助手席で小便を漏らしている。
――会社登記自体はインド人取締役無しでも、外国人取締役の居住要件を満たしていれば問題ない。
しかし法人の口座開設時は、インド人取締役が必要になる。
――そこで前担当者のマヘシュが名義を貸す形でセンチュリー22インディアのインド人取締役ということになっていた。
このマヘシュがいれば、今日の口座開設も何の問題も無かった。
――しかしマヘシュは神の啓示を受けサドゥーに転身。
センチュリー22には今、インド人取締役がいない。
そしてマヘシュ退社後、フラウドギブマネーは新しいセンチュリー22インド人取締役の登記手続きを失念していた。
――今から大急ぎでムスゴパルを取締役に登記しようとしても、典太が本社から厳命された週内の口座開設にはどうやっても間に合わない。
ムスゴパルのDSC取得からDIN(取締役識別番号)の取得、取締役会の開催と承認決議、取締役の登記申請、という流れの手続きが要るという。
…どうやっても間に合わないじゃねえか!
俺は運転を誤り、車ごと横転した。
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本人確認とは、ただ身分を証すものにあらず。
それは、この世に己が在ることを、静かに如来蔵の深奥へ申し出る儀式にございます。
我々がこの世に生を受けし瞬間より、名を持ち、姿を持ち、声を持ち、そのすべてが「私はここにおります」と、風に語りかけておるのでございます。
されど、現代においては、本人確認とは紙に記されし番号、写真、署名、印影──
まるで魂の抜け殻のように扱われることもございます。
しかしながら、最澄上人はかつてこう申されました。
「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」と。
己が居る場所を照らすことこそ、尊き行いであると。
本人確認とは、まさにこの「一隅を照らす」行いにございます。
己が誰であるかを示すことは、己が責任を持ってこの世に立つことであり、己が響きを持って誰かと交わることでございます。
人は迷い、過ちを犯し、時に自らの名を恥じることもありましょう。
されど、名を持ち、顔を持ち、声を持つことを怖れず、そのすべてを差し出して「私はここにおります」と言える者こそが、真にこの世に響きを残す者と申せましょう。
本人確認とは、罰を恐れて差し出すものにあらず。
それは、己の命が誰かの命と交わるための、静かな祈りの証明にございます。
どうか皆様──
番号に惑わされず、書類に怯えず、ただ静かに、己が響きを差し出してまいりましょう。
それが、本人確認の本懐にございます。
――合掌。




