1 やってられっか!日本帰りてぇええええええええええええええええええええええ!!!
「だ~~~~!もうやってられっか畜生め!ふぁっく!しっと!じゃっぷ!」
リビングの椅子に腰かけて、酒を煽る。
既にキングフィッシャーの瓶が5~6本、床に転がっている。
キレがなく、なんとなく甘ったるい味が腹の奥にしまって蓋をしていた怒りの感情を呼び覚ます。
「おらぁぁっ!大奮発じゃい!ド外道め!」
ビニールの包装に箸を突き立てて破り、紙パックの頭についている栓をひねる。
近所のワインショップで5000ルピーという法外な値段で1パックだけ売れ残っていた「鬼ころし」の2Lパックは、管理のなっていない店頭での長期間展示で劣化して、コップに注ぐと薄めた小便のように黄ばんでいる。
「畜生め。あいつら。安全圏で好きなこと言いやがって。そこまで言うなら明日羽田から飛び立ってこっちに来ててめえら自分でやってみやがれ。そして牛のクソ踏んで滑ってこけろ!」
外では埃だらけでボッコボッコにへこんだマルチスズキの車がやかましくクラクションを鳴らしている。
そして3ケツでふらふらしながら走るバイクがそのマルチのバックミラーを弾き飛ばし、ドアに新しい凹みをこしらえた後罵声を飛ばし、そして何事もなかったかのように走り去っていく。
「…お願いだから仕事して会社登記してよ、コンサルちゃん…それが出来ないなら、せめてお金返して…そしてうちの社長にごめんなさいして…」
乃木 典太の勤務する商事会社、「センチュリー22商事」の現地法人はいっこうに立ち上がる気配がない。
典太のカバンから、分厚い書類の束がはみ出ている。
センチュリー22がインドでの会社設立のために契約している総合コンサル、「フラウド・ギブマネー・インターナショナル・インディア・プライベート・リミテッド(FGMII)」の作ったマイルストーンだ。
3カ月前、メタボリックボディをプルプル震わせながら、営業2課の児玉課長が俺のところに辞令を持ってきた。
6カ月後に現地法人を立ち上げるという。
「お前、カレー好きだったろ。感謝しろよ、これからは毎日食えるぞ。」
海外異動の辞令ってやつは普通もう少し本人の希望を聞いてから決めてくるもんだと思う。
「乃木 法太
右の者はインド共和国 デリーに渡航のこと。
インド支社開設および同地での勤務を命ず」
微妙に俺の名前を間違えた、社長のハンコ付きの紙を持っている。
冗談じゃねえ。来月は待ちに待ったスバル・フォレスターの納車だ。
これで俺は空気を運ぶんだ。
超行きたくねえ。
これがタイならまだ考えてやる。タイ支社の秋山からは極楽っぷりをよく聞く。
でも、あんなばっちそうで暑そうで現地人めんどくさそうで街がカオスで食うくらいしか娯楽なさそうな国はハッキリ言って行きたくない。
しかもそこに一人で行って会社作ってこいだぁ?
「いや最近イスラム教に改宗したんで、もうカレー食えないんですよ」
「ん?そうか?じゃあ良いこと教えてやる。あっちのカレー、普通は豚入ってないらしいぞ。」
聞けば、独り身で結婚する気配もなく、賃貸住まいでローンもなく、親も既に鬼籍に入っており介護もなく、ノリがよくおだてたら断らない性格だから多分断ってこないだろうという点で消去法で俺に白羽の矢が立ったことを匂わせている。
・・・なめんな!屠畜すんぞ豚!
13層くらいにフィルターをかけた心の奥底で罵倒してやったが、顔には営業スマイルを絶やさずに、俺はこう言った。
「あのー…それホントに決まってるんですか?僕、そんなことできるか自信ないですよ?」
「ん?お前この間呑みに行ったとき言ってたじゃん。行きますって。あと心配すんな。立ち上げの実務は向こうの日本語出来るコンサルがやるから、お前は座って書類にサインするだけで良いぞ。」
子曰く、人事の8割は飲みの席で決まると。
社長名のハンコ付きの紙が出ている以上、俺が病気にでもならない限りひっくり返ることはなく、これは俺、泣いていいと思う。
そんな訳で、俺は羽田空港から飛び立った。 …2か月前に買い替えたばかりのテレビをメルカリで売っぱらって。
しばらくテーブルの上に乗った、小便のような色の「鬼ころし」とにらめっこする。
…絶対やべえ色だけど大丈夫かこれ?
絶対期限切れてんよな?…まあ期限切れてんのこれだけじゃないんだけど。
典太は今日までのことを思い出した。
赴任初日。近所のレストランでカレーを食った。腹を壊した。
その3日後。モールに入っているちょっと綺麗な店なら大丈夫だろうとそこでカレーを食った。腹を壊した。
そして帰りの車の中で少し漏らした。知らんふりをした。
日本料理なら大丈夫だろうとよく日本人がたむろしている日本料理屋でカツ丼を食った。腸チフスになり2日間入院した。
ならば外食は諦めた。俺はパンしか食わん。そう心に誓ったのだが、こないだ内科医から「あー、あそこのパンたべたね。あそこは有名だよ。」と言われ、胃薬2種と抗生物質3種と整腸剤と下痢止めを処方されたところだ。飲んでないけど。
それでも、俺は生きている。
人間、腹を壊したくらいでは死ぬことはない。 今のところ。
俺は目の前の小便殺しを一口、口に含む。
ちょっとエグみのある味がする気がするが、俺には医学の知識がある。
アルコールはバイ菌を殺す。
無問題だ。
…調子に乗って3杯くらい飲んだ頃だろうか。 耳元で みょーん、みょーん という音が聞こえてくる。
あーこれ、何だっけ。シタールとか言ったかな?
…そう思い、顔を上げると、そこにはまるまる太った体を持つ、化け物がいた。
「やほー。調子どう?」 4本の腕と、ゾウの頭をもつそいつは、なれなれしく俺に話しかける。
俺は、白目を剝いて小便を漏らした。
拙僧は清く貧しい仏僧故、経済や会社、法律の仕組みなどにはとんと疎くござる。
されど天竺については、お釈迦様のお生まれになった地として、幼き頃より敬い、慕ってまいりました。
この物語もまた、ご縁あって天竺の地を舞台にしておりまする。
混沌の中にこそ、仏の気配あり。
望まぬ辞令であってもこれを御仏のお導きと捉え、与えられた尊い使命を万物への感謝の気持ちとともに果たして行くこと。
これが道元禅師の「修行即悟」の精神をあらわしておるのかもしれませぬ。
皆様の胃腸と肝臓が、少しでも安らかでありますように──合掌。