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だから、私は執筆を諦めた

人生に必要ないものが三つある。愛と、夢と、奇跡だ。


執筆は私の恋人だった。


春の光と風と温もりの中、私はポケットに手を突っ込んで、見慣れた校舎へと歩いていく。春の道を歩き、肌を撫でる風を感じ、柳の緑と桃の紅に彩られた景色を見ていると、目の前の全てが明るく輝いて見えた──私の頭の中の思考とはまるで対照的に。


最近、学園では奇妙な噂が広まっていた。「原稿殺人鬼」と呼ばれる正体不明の存在が、執筆を愛する者たちを狙い、「暗殺」を繰り返しているという。もちろん、その「暗殺」は物理的な殺害ではない。殺人鬼が奪うのは、命よりも抽象的にして貴重で、掴みどころのないもの──


**彼らから「才能」を殺し取るのだ。**


誰もその方法を知らず、被害者たちも口を閉ざす。だが、確かに「殺された」のだ。存在の真偽は未だ謎だが……私はため息をついた。私のような三流の駄文書きに、彼が狙う価値のある才能などあるはずがない。


校舎は白い四階建ての建物だった。老朽化した壁のペンキは剥がれ、窓ガラスは陽光を反射してまぶしく光る。


「私なんか、誰も奪おうとしない才能しか持ってない」


ふと空を見上げると、銀色の薄い何かが落ちてきた。壁の剥がれかけた塗料かと思った瞬間──四階の窓から、青空に抱かれるように地面へと飛び降りる人影が見えた。


それは、私自身だった。


地面に転がっていた銀色の物体を拾い上げた瞬間、私の日常は変わった。偶然の出会い、互いに引き寄せられる感覚──人生に確かに存在する瞬間だ。


「何してるの?」

彼女は校舎の階段に腰かけ、空を見上げながら問いかけた。

「授業中じゃないか?」

「休みを取ったの。宣伝部の人を探してたんだけど、誰もいなくて」

「それなら私だ。宣伝部員だから」


こうして彼女を連れて宣伝部の事務室へ向かった──事務室とは名ばかりの、四階の物置同然の教室だ。

開け放たれた窓からそよ風が入り込み、青いカーテンを揺らしていた。壁際の木製棚には埃を被ったガラクタが詰め込まれ、教室中央の四つの机には写真数枚と原稿が置かれている。


床一面に散らばった紙切れには誰かの足跡が付き、混沌とした雰囲気を増幅させていた。


「宣伝部の事務と整理は私が担当してます。用件は何ですか?」慣れた動作で椅子に腰掛ける。

彼女は遠慮なく座り、話し始めた。親しい先輩が撮影した写真を使いたいという、些細な依頼だった。


軽く承諾すると、私は沈黙した。

彼女が机の原稿に視線を走らせ、何気なく言う。「昨日の生徒総会の記事、あなたが書いたの?」

「そうです」

「とても良く書けてるわ」


その言葉に胸が高鳴った。

「とんでもない、ただの趣味ですよ」


「執筆が趣味?」彼女の視線が私を透して遠くを見つめる。「じゃあ同士ね」


同士──喜びの後に訪れたのは、激しい劣等感だった。


私のような者に「執筆が好きだ」なんて言う資格があるのか……

「私だってライトノベルを少し書いただけ。大したことないわ」


彼女が机をコツンと叩いた。「それでも立派ですよ」

自嘲的な笑いが漏れた。「50万字も書いて誰にも読まれないなんて、立派だなんて……」


「そんなに書いたの?」

「才能のない私にできるのは、努力だけです」

「きっと面白い話なんでしょう。そんなに書き続ける価値があるなんて」


「単なる物語じゃない」ため息をつく。「根本的に私はせっかちで功を焦るタイプ。注目されないと続かない。それでも……40万字の自信作がある。ただ、やはり誰も読まないけど」


「差し支えなければ、読ませてもらえる?」

「構いませんよ。ただ今すぐは無理で……明日時間があるなら、またここに来てください」

「楽しみにしてるわ」彼女がかすかに微笑む。


「どんなものを書くのが得意なんですか?」

「あなたほど多くは書かないわ。俳句を少し」


こうして会話は終わったが、私にとってこの日の全てが鮮明に記憶に刻まれた。彼女は初めて私の作品を肯定してくれた人間だった──だが疑問が残る。本当に私の作品を読んだ後でも、心からそう言えるのか。


こうして私は心血を注いだ作品を彼女に手渡した。

机を挟んで向かい合い、私は上の空で作業を続け、彼女は椅子にもたれながら無表情に原稿を読んでいく。


「よく書けてるわね」彼女は読み終わらないまま原稿を置いた。

胸の奥で失望の波が渦巻き、後悔さえ芽生えた。ネットで誰にも注目されないこの作品は、きっと退屈で魅力のない代物なのだ。


「困ったわね」彼女が一行を指さす。「ここに幻想要素を加えたら?」

その瞬間、稲妻が背骨を駆け抜ける感覚があった。


言葉を発そうとした瞬間、ドアが勢いよく開いた。

別の文芸部員が立っていたが、今日は仕事ではなく別の用件らしい。


「辞めたいんです」生徒は俯きながら呟く。

「なぜ?」

「もう……書けなくなったから。才能を……殺されたみたいで」


「わかった」ため息をつく。「先生に伝えておく。帰っていいよ」


ドアが閉まり、私たちは顔を見合わせた。脳裏に浮かんだのは同じ存在──「原稿殺人鬼」だった。今この瞬間、私たちの眼前で犯罪が完遂されたのだ。


だが私は気に留めない。

創作のプロセスや伏線の張り方を滔々と語り始めた。彼女のような理解者を得た喜びを抑えられるはずがない。努力が認められ、趣味が理解され、継続を褒められる──こんな体験は初めてだった。


彼女は時折核心を突く指摘をしながら聞いていた。続きを読まないのは、すでに私の思考を全て理解し、同じ作者として同じ道を選ぶからだと感じた。ならば、わざわざ読み進める必要もないのだろう。


夕日が沈みかける中、彼女は顎を手のひらに乗せて言った。「よかったら、私も本を薦めてもいい? あなたの小説を読ませてもらったから、返礼に」


書名を教わり、すぐに書店へ向かいその本を手に入れた。詳細な歴史書だった──この時初めて、彼女も歴史好きだと知った。まあ当然か。物書きで歴史に興味ない人の方が珍しい。


「歴史こそ最高の作家よ。文人なんて、歴史の前ではみんなペテン師みたいなもの」

私はこうした文体は好みじゃなかったが、最後まで読み切った。


「時間がある時、感想を話し合いたい」と伝えると、彼女はうなずいた。部員が減ったため、彼女を宣伝部の仕事に巻き込んだ。その後、学校行事が途絶え、宣伝部は活動休止状態になったが、この廃教室は私の城のままだった。


彼女は時折教室を訪れ、向かい側の席でノートに何かを書き続けた。私の小説はまだ彼女の手元にある。読み切ってほしいという思いを抱えつつも、彼女が机の上の原稿に目もくれないことに苛立ちを覚えた。


「いいわよ」彼女が顔を上げた。「いつが都合いい?」

理由を詮索せず、余計な質問もしない。その配慮に胸が熱くなった。


「明日の夕暮れに──二人で散歩しよう」


こうして私たちは夕暮れの学園を歩いていた。

舗道にはまばらに学生の姿が見え、柳の茂みがレンガの上に影を落とす。薄闇に包まれた空の下、全てが輪郭を失っていく。


湖岸を歩きながら、彼女が隣にいる。水面には紺碧の空が映り、鴨たちが碧色のキャンバスを泳いでいる。彼女の髪の毛先が夕日に金色に輝き、呼吸でゆらぐ胸元、深淵を湛えた瞳が視界に焼き付く。左側に広がる湖水の横顔、右側に佇む彼女の横顔──この光景に私はしばし時を忘れた。


本題に入らず、まずは雑談を続ける。

「最近原稿殺人鬼の出現が増えてるわね」彼女が赤レンガの道を見つめながら言う。

「私なら襲われないと思う」

「どうして?」

「才能がないからさ」


「才能がないのに、どうして書き続けるの?」彼女が真っ直ぐに見上げる。

「上手いから好きなら当然だろ」暗澹たる空を見上げて呟く。「でも下手でも愛してるなら、それが本当の『好き』だ──違うか?」


「才能って何だろう?」

「見せるためじゃなく、自分だけの為に書くこともあるわ」彼女が真剣な面持ちで言う。「書けること自体が才能よ」

「でも見せる為に書くんだろ?」首を振る。「自分だけの為なら書かなくていい。評価は読まれるかどうかだけだ」

「誰にも読まれない執筆は──根源的に失敗なのよ」


「じゃあ……どうしてこんなに長く続けてこられたの?」


唇が震えたが、結局言えなかった──「執筆が好きだ」という最も単純で真っ直ぐな言葉を。


「いつか死んでしまうと思うと、胸にぽっかり穴が空くような気がするんだ」ため息が零れた。「生きているだけで苦しい。ニーチェもフロイトもヘーゲルも埋められない虚無がここにある」


「だから願ってる……遠い未来で、誰かが私の文字に触れてくれることを」作り笑いを浮かべる。「そうすれば……生きていた証になるだろう?」


彼女はしばし考え、きっぱり言った。「そんな複雑なこと考えないわ。物語が好きで、書く感覚が楽しいから。執筆は喜びだから好きなの」


ああ、彼女は口にした──私が千回捻っても出せなかった言葉を、軽々と。


足元から電流が背骨を駆け上がり、元々暗かった周囲が真っ黒に染まった。沈黙が支配しそうになった瞬間、跳ねるように近づく女子生徒が声をかけてきた。


彼女のクラスメイト──どこか抜けた文章を書く子だ。紹介され、学内の執筆愛好者たちと知り合った。初めは軽薄に思えたこの子に、今は感謝していた。冷え切る寸前の空気を救ってくれた。


「お二人、デート中ですか?」女子生徒が笑いながら言う。


私たちは凍りついた。誘った私も、応じた彼女も、意識していなかった事実を突きつけられた。


「邪魔しちゃ悪いから──」女子生徒が去ろうとするのを遮り、「ちょうど良かった。トイレ行ってくるから、彼女とここで待ってて」


湖畔に二人を残し、私は逃げるように立ち去った。

同級生は相変わらず笑いながら言った。「デート中に原稿殺人鬼に襲われないか心配じゃないの?」

彼女は淡々と答えた。「あの子が表立って襲うとは思えないわ。ところで、あなたはどこへ?」


「投稿しに行くの」同級生がカバンから原稿を取り出した。「文学部の企画に参加するから。最近作者が減ってるからね」

「見せてもらえる?」彼女が手を差し伸べた──


その瞬間、もう一つの手が空中から原稿を掴み取った。

二人が振り返ると、そこには性別の判別できない黒衣の人影が立っていた。顔を覆う銀の仮面が不気味に光る。


「原稿……殺人鬼……」同級生が青ざめるより早く、原稿は怪物の手に移っていた。

砂を噛むような声が響いた。「こんなもの……執筆だと?」


彼女の声は氷のように冷たい。「どういう意味ですか?」

周囲に人影は少ないが、叫べば助けが来る状況だ。


殺人鬼が原稿を掲げた。「賭けよう。この原稿をかけて……君たちが私を説得できれば返す。逆なら──才能を没収する」

鋭い視線が同級生を貫く。彼女は迷わず頷いた。「受けましょう」


私が戻ると、地面には灰と泣き崩れる同級生がいた。

「何があった?」警戒しながら周囲を見回す。

「原稿殺人鬼が……目の前で才能を奪った」彼女の平静な瞳に初めて悔しさが浮かぶ。「負けた……原稿を焼かれた」


詳細を問いただすが、彼女は頑なに口を閉ざす。同級生を落ち着かせ、私たちは歩き続けた。


辺りは完全に暗くなっていたが、原稿が炎に包まれる瞬間が瞼に浮かぶ──迸るインスピレーションが黄金の光を放ち、灰となり風に散る。ほのかな明かりが仄暗い空間を照らす情景が。


彼女は沈黙したまま──重い空気に耐えかねた私は、彼女が薦めてくれた本の話を切り出した。

軽い会話が続くうちに、彼女も次第に表情を和らげていった。


「どんな作風が好きなの?」彼女が問う。

「日本の古典文学と近代文学かな。夏目漱石や川端康成の影響を強く受けてる。いつか彼らのような作家になりたい……って、無理な夢だけど」


彼女はため息をついた。「残念。私は欧米文学が好みよ。シェイクスピアにセルバンテス、エドガー・アラン・ポー。難解でも芯がある文体が好き」

「人間の言葉じゃないような文体ってこと?」冗談めかす。

「感傷に溺れるよりまし」鋭く返される。


暗闇の中で──彼女がそっと私の手を握った。

原稿殺人鬼出現による緊張からだと分かっていた。それでも、心の底から喜びが湧いた。


こうして私たちの「デート」は幕を閉じた。

私の胸中には未だ、困惑と萌芽する感情、迷いが渦巻いていた。


その後も原稿殺人鬼は頻繁に現れ、学園に残った「作者」は遂に私たちだけになった。

いつものように事務室の机を挟んで向き合う。口には出さないが、私たちは同じことを考えていた──銀の仮面が今この扉を開けるのではないか、と。


「あの時……奴は君たちに何を言った?」抑えきれずに問う。

「話したくない」彼女はノートから目を上げない。

「俺にでも?」

ここ数日、ゲームから趣味まで全てを語り合った仲ではないか。


「あなたも『作者』だから」彼女はノートを置いた。「創作の根源に触れる言葉よ。作者でなければ理解できず、作者なら──才能を奪われる」

「なら奴の正体を暴こう」

彼女は涼しい笑みを浮かべた。「必要ないわ」


「最近また夏目漱石を読んだんだ」声が微かに震える。「今でも好きなのは『人は義務ではなく、愛のために生きるべきだ』って言葉」


彼女は顔を上げず、冷たい月のような声で答えた。「私のは『人間は自分が思うほど偉大ではない』かな」


その瞬間、ガラスの割れる音が頭蓋に響いた。


俯いたまま表情を隠し、「今日は用事があるから……明日も遅れる。先生に呼ばれてる」

彼女は軽く頷いた。「わかった」


元々、毎日ここに来ると約束したわけじゃない。それでも──伝えたかった。


胸の奥で萌芽した未熟な感情に気づいたような、まだ霧の中にいるような──少なくとも今は、誰もいない場所でこの圧迫感を解き放ちたかった。


翌日、事務室に着くと──慣れ親しんだ影はなかった。用事があるだけだろう。私が遅れたから、彼女も遅れるんだ。そう信じようとした時、机の上のメモに気づいた。


女性らしい繊細な筆跡が記されている。

**「今日は帰ります。もう来ません」**


紙片がゆっくり床に落ち、心臓を砕く轟音がした。


最初から──彼女は誰よりも私の文章を読み解き、鈍感な私ですら彼女の真意を感じ取っていた。この世界で、私をここまで正確に理解できる存在は──おそらく彼女だけだった。


私が彼女を好きで、彼女が私を好きではない──それだけの単純な事実だ。


事務室に立ち、酸っぱい空気を呼吸する。胸を締め付けるのは痛みでも悲しみでもなく、より複雑で、しかし心臓を引き裂くほどではない──それは「未練」という名の感情だった。


彼女は私を理解していたが、好きではなかった。

あれ……どうして……こんなに腑に落ちないんだろう……


手を胸に当て、爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめた。荒い息が喉を焼く。


もしあの時……「好きだ」とはっきり伝えていたら……

もしあの扉を叩く勇気があったなら……私は……別の人生を歩んでいただろうか……


馬鹿げた空想だと分かっていても、妄想は止まらない。


春風の中、事務室のドアを出る。春に始まった物語は、春に終わるべきだった。


その後数日、私は二度とあの部屋を訪れなかった。


──背の低い同級生が私を見つけるまで。


「彼女、退学したよ」

最初の一言で私は凍りついた。

「それが俺に何の関係が?」作り笑いを張り付ける。

「重度の鬱だって……でも本当の理由は」彼女が声を潜めた。「原稿殺人鬼じゃないかと思って」


「原稿殺人鬼?」

「知らなかったの? 先週の金曜……彼女が襲われたらしい」


私は同級生の肩を掴んで揺さぶった。「先週の金曜?」

まさに──私が最後に事務室を訪れた日だ。


よろめきながら部屋へ駆け込み、乱暴にドアを押し開ける。あの日もっと早く来ていたら……


彼女の席側の机を漁り、引出しの中身を全て引きずり出した。飛び散る紙屑の中心に──彼女が毎日抱えていたノートがあった。


ページをめくる手が震える。書き込みのある最後の頁まで一気に捲る。


そこにあったのは、彼女の最後の詩だった。


表紙にはっきりと記されていた──


**「だから、私は執筆を諦めた」**


これが……君の答えか……


ポケットから銀のライターを取り出す。かつて他人の作品を焼き尽くしたように、このノートも灰に変えようとした。だが手が震え、どうしても火がつけられない。泣き笑いが顔を歪ませ、中の文章を見まいと必死で──ついに怒号を上げてノートを投げ捨てた。


震える手で、いつもの席の机の奥から銀の仮面を引きずり出した。誰も見ていなくても、表情を隠したかった。


彼女だけが私を理解していた。彼女だけが、殺人鬼の仮面の下にある脆い本質を見抜いていた。


「結局──優れた物語は山ほどあるんだろ? 同時代ですら傑作を生む人間がいる。こんな出来損ないの模倣者が書く必要なんてあるのか?」


「完全にオリジナルな物語なんて存在しない。俺たちは偉大な断片を盗んで飾り立て、自分の作品だと嘯く詐欺師だ。これが執筆だと?」


「まさか本気で自分が必要だと思ってる? 質も量もAIに敵わない。結局執筆ってコピペの延長じゃないか。お前とAIの違いなんてあるのか?」


仮面を見つめながら、かつて才能を奪った言葉が逆流して自分を貫く。


「ただ……妬んでたんだ……」嗚咽が喉を締め上げる。「どうして……どうして俺の作品は……どんなに頑張っても……誰にも……どうして……君たちは読まれなくても書き続けられるんだ……」


他人の執筆を否定しながら、ただ自分だけは例外だと信じていた。だが今、その時が来た。


よろめきながら壁際に辿り着き、ノートを手に取った──

表紙を開くと、そこに清らかな字で彼女の名前が記されていた。今まで知らなかった名前だ。その響きは、強い意志を持った少女を思わせる美しいものだった。

ライターを握りしめた手が震える。ノートに火を点けた。

黒煙が事務室に立ち昇り、少女の淡い憂いが浄火へと変わる。私は哄笑した──胸中は複雑な感情で渦巻いていた。

机の上の紙屑を見て、ようやく気付いた。あれは彼女に託した、私が心血を注いだ小説だった。

私は凍りつき、狂ったように紙の山をかき分けた。

原稿用紙を掴み、走り書きの文字を見つめる。唇が震えるが、言葉が出ない。

彼女が丸で囲んだのは小説全編でたった一箇所──私が心から紡いだ言葉だった。

**「人生に必要ないものが三つある。愛と、夢と、奇跡だ」**

その横に彼女の字が添えられていた。

**「あなたはきっと、人の心を動かす物語を書ける」**


「ちょっと幻想的な要素を足したら?」彼女の声が蘇る。

好きな人が自分を好きでないなら、私も好きでいられない。


荒い息を吐き、ライターで自分の小説に火を放った。

執筆は恋人だ。たとえ筆を折っても、物語を構想する癖は治らない。


だが──

君だけが、君こそが、私の執筆そのものだったのだ。

だから、私は執筆を諦めた。


人生に三度の恋愛運があるという。私は既に二度使い果たした。罪を贖えば、もう一度巡り会えるだろうか。


「この詩はあと九十字、私の人生もそうだ」

彼女の最後の詩句を呟く。この九十字は私への遺産だと悟った。

窓枠に立ち遠くの紺碧を見つめながら仮面を放り投げる。

腕を広げて清風を飲み込み、青空に抱かれた。

彼方から少年が近づいてくる。

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