第九話 擦れ違い、晒されるもの
凛は、状況の急な変化に混乱していた。
彼女に背を向けて立つ大男――六守破譲悟は、祠を壊してしまった凛たちを見捨てたはずだった。
なのに、その男が凛を庇った代償として、「右腕」を失っていた。
「――う、うう、腕がっ!」
凛は震える手で譲悟を背後から指差し、ショックを露わにしていた。
しかし、譲悟はそんな凛を顧みることなく、平然と左手を素早く動かし、いくつかの掌印のような形を続けざまに象った。
「【前覆後戒――戒縛!】」
譲悟は左手で型をなぞりながら呪文のような言葉を唱えた。
そのとき、巨蟹の怪異――〝ガイナカニゴ〟に断ち切られた譲悟の「右腕」は、くるくると放物線を描いた後、図ったように巨蟹の頭上の位置まで落ちてきていた。
譲悟が呪文を唱え終えた瞬間、その「右腕」を起点に淡黄色の光が迸った。眩輝く光は五本の太い光条に分かれ、巨蟹に巻き付くように渦を巻く。そして、半球状の結界を形成して巨蟹を完全に閉じ込めた。
『ギチギチギチ……』
巨蟹はハサミや歩脚をモゾモゾとさせるが、その動きはごくわずかだった。形成された光の檻に厳重に拘束されているように見えた。
凛にとってその光景はまるで、ファンタジーかバトルアニメの世界の出来事だった。
「すごっ……」
凛は絶句した。――霊能探偵とは、かくも凄まじき秘術を使うものか。
そんな中学生女子に対し、譲悟は依然、巨蟹に向かって左手を構えたままの姿勢で言う。
「――そうだな。持って五分ってとこか」
「たったそれだけっ!?」
凛は驚きのあまり、素っ頓狂な声を上げてしまった。この拘束を維持できるのは五分だけらしい。――派手な見た目に反して、効果が少なすぎるのではないか。
それはさておき、凛としては他にも譲悟に掛けるべき言葉があると感じていた。なにせ彼は凛を今まさに命の危機から救い、「右腕」を失ってしまったのだ。
「……あの、その、腕は――」
「悪いが、説明してる暇はねぇ」
譲悟の対応はにべもないものだった。
左手一本で掌印を構える彼は、巨蟹の動きを封じるのに集中していた。
「俺はこの結界の維持で動けねぇ。そこで頼みがある。そこにある俺の荷物の中から勾玉を取り出してくれ」
「は、はい!」
凛には譲悟が実際に何をやっているのかはわからなかったが、時間も余裕もないことは理解できた。なぜ、一度は見捨てたはずの自分を助けに来たのかは気になるが、それを問い質す隙はなさそうだ。
譲悟が持っていた黒革のアタッシェケースは、彼の左後方五メートルの位置に置かれていた。凛は一足飛びにそちらに移動する。馴染みのないアタッシェケースの金具に苦労しながら、凛が箱状の鞄を開くだけで一分は過ぎただろうか。
「ひっ……」
鞄を開けた凛がまず目にしたのは、人間の腕のような物体だった。それを見て、びくっと体を震わせた凛だったが、すぐにそれが生身の物ではなく人工物だと気づいた。
(――義手?)
それは譲悟の予備の義手だ。
(……そっか。そういうことだったんだ)
これを見たことで、凛の胸中で漠然と膨らんでいた疑問が解消した。
なぜ譲悟は「右腕」を失ったにも関わらず、血の一滴さえ流すことなく平然としているのか。それは、アレが元々装着していた義手だったからだ。
「――おい、まだか!」
「は、はい! もうすぐ!」
考え込んでいる場合ではなかった。
譲悟の催促によって、凛の思考は現実に引き戻された。
凛は義手の件を頭から追い出し、アタッシェケースの中から目的の物を探す。
しかし、……
(ええと、何だったかしら? マガタ……?)
凛は、肝心のその物の名前を上手く聞き取れていなかった。――そもそも凛は「勾玉」という言葉も、それが示す物についても知らなかった。
譲悟に確認すれば済んだ話なのだが、差し迫るタイムリミットに焦った凛は、自分なりにこの場で求められる正解を導こうとしてしまう。
(……お札は違うわね。この穴の開いたヘンテコな石は何かの玩具みたいだし……――わかった! きっと、これよ!)
凛が消去法的に選び出したのは、荷物の中で最も直接的な攻撃手段になりそうな物――一振りの脇差だった。
(――マガタナ! 間違いないわ!)
脇差の中でも比較的小振りなその小刀は、鞘や鍔に見事な意匠が施されていた。それだけで、かなり値打ちのある物だと思われた。
脇差を取り出した凛は、念のため少しだけ鞘から刀身を抜き出そうとする。まさか、玩具などではないだろう――そう思いつつも、一抹の不安を拭い去るためだ。
「……おい、いい加減に――」
一向に指示した物を寄越さない凛に対して、業を煮やした譲悟が振り向いたのはそのときだった。
譲悟は凛が手にした物に気づくと、ギョッとした。
「ば、馬鹿! それじゃねぇよ!」
「――え?」
折しも凛は脇差を目の前に掲げ、鞘に触れたところだった。
――するりと、何の抵抗もなく鞘が外れ、脇差の美しい刀身が夕闇に清冽な輝きを放つ。
それを目の当たりにした譲悟は、あんぐりと大口を開けていた。