第八話 〝ガイナカニゴ〟
巨蟹の怪異には名前があった。
〝ガイナカニゴ〟――この地方の言葉で、「大きい」という意味の言葉と、「沢蟹」という意味の言葉を組み合わせたものだ。
かつて怪異を祠に封じた退魔師が付けたその名は、退魔を生業とする者たちの間でのみ伝わっていた。
〝ガイナカニゴ〟は、新たに現れた小さな獲物――凛をじわじわと追い詰め、嬲り殺しにしようと思った。もう一匹の獲物は後回しだ。あんなのは、その気になればいつでも殺せる。
しかし怪異にとって意外なことに、凛を追い詰める作業は容易には行かなかった。この新たな獲物はやたらとすばしっこく、巨蟹に動きを捉えさせなかったのだ。
徐々に苛立ちを募らせた〝ガイナカニゴ〟は、凛を仕留めるために一計を案じることにした。
†
――体が軽い。
凛は巨大蟹の猛攻を紙一重で躱し続けながら、奇妙な昂揚感を感じていた。肌がひりつくような恐怖を感じていたはずなのに、全身を駆け巡るアドレナリンの作用でそれが麻痺してしまったようでもあった。
口からボタボタと赤い泡を振り撒く巨蟹の怪物は、文字通り泡を食っているようにも見えた。そんな連想をした凛の唇は、つい三日月形の笑みを作った。
(ここまで来れば、一安心かな)
凛は巨蟹の攻撃を誘いながらひらひらと舞うように動き、円香が追い詰められていた袋小路のような場所から巨蟹を遠ざけることに成功した。これでひとまず、円香が凛よりも先に狙われることはないはずだ。きっと円香は、すぐに逃げてくれるだろう。
(――ハサミの大きさが違う)
凛は巨蟹を間近で観察してみて、初めてその事実に気づいた。巨蟹の両の大ハサミの内、左の方が右よりも若干長く大きい。また、なぜか右のハサミの方がやや動きが鈍いようだった。それに気づいた凛は、意識的に巨蟹の右手側に回り込むように動いた。
右、左、右、……。巨蟹の攻撃は決まったパターンをなぞっているかのようだった。そのどれもが凛にとっては必殺の威力を持っていたが、機敏に動く彼女を捉えることはできなかった。
とはいえ、凛の体力は決して無尽蔵ではない。また、単に化け物を引きつけるだけで事態が根本的に解決することもない。それらのことは凛にもわかっていた。
(……でも、これからどうしたら――)
巨蟹の単調な攻撃を躱しながら、凛の思考がふと脇道に逸れた。
そのときだった。
「あっ!?」
凛はぬかるみに足を取られ、横倒しに転んだ。それはただのぬかるみではなかった。巨蟹が先ほどから撒き散らしていた粘着質な赤泡だ。
(――しまった!!)
凛は自身の油断と失策を直観的に理解した。
巨蟹――〝ガイナカニゴ〟は、二つの罠を張っていた。一つは地面に撒いた赤い泡、もう一つは右のハサミの動きを本来よりも鈍く見せかけたことだ。後者の擬態によって、凛は右回りに巨蟹の周りを巡るように誘導され、まんまと前者の罠に掛かった。
倒れた凛の命を刈るべく、〝ガイナカニゴ〟はこれまでで最も俊敏な動きを見せる。
凛は赤泡にくっついた靴を脱ぎ捨て、斜め後方に全力で跳んだ。
〝ガイナカニゴ〟の右の大ハサミが、凛の目と鼻の先を通り過ぎる。そのハサミが軌道を変えたとき、凛は空中で身動きが取れない状態にあった。
〝ガイナカニゴ〟が外側に振り払った右の大ハサミに体を強打された凛は、水平方向に吹き飛び、数メートル先にあった立木に背中を強打した。
「――がはっ……!」
衝撃で肺の空気を吐き出した凛は、危うく意識を失いかけた。
〝ガイナカニゴ〟がわざわざ獲物の回復を待つ道理はない。立木の根本で身を起こした凛の目に映ったものは、間近に迫った巨蟹が左の大ハサミを振り上げた姿だった。
(――おじいちゃん、おばあちゃん。ごめんなさい……)
死を覚悟した凛の眼尻から一筋の涙が流れた。
ふと、彼女の視界が大きな影に遮られた。
(――えっ……?)
ジャキィンッ
何かが無理やり断ち切られるような硬質な音が響いた。直後、人間の腕らしきモノが林の薄闇の中にくるくると舞い上がった。
「あー……、やっぱ無理だったか」
凛の視界に割って入った大きな人影から、気の抜けるような低音の声が響いた。聞き覚えのあるその声は、ほんの少し前に凛たちを生贄に捧げると語った霊能探偵――六守破譲悟のものだった。
巨蟹に向かって譲悟が突き出した右腕は、肘から先が失われていた。