第六話 鬼ごっこ
「……瑠璃亜ぁ、由惟ぃ」
悪友二人を求める岡部円香の涙混じりの声は、薄暗い林の中に空しく吸い込まれた。
円香たちが初めて道路で巨大な蟹の化け物に遭遇してから、もう一時間は経っただろうか。円香たち三人は化け物に追い立てられるようにして、村の北部に広がる林の中に入った。
木々の間を縫うようにして懸命に走っている間に、円香は二人の友人がついて来ていないことに気がついた。しかし、少しでも蟹の怪物から距離を取ろうと思うと、二人を探しに戻ることはできなかった。
――遊ばれとる。
林の中を当て所なく逃げ迷い続けた末に、岡部円香はようやくその考えに思い至った。
必死で逃げ回りながら何度も転んだ円香は、髪や制服のあちこちに枯れ葉や土埃を付着させ、手足にはいくつもの擦り傷を作っていた。一言で言ってボロボロだった。
――この巨大なアカニゴ(〝沢蟹〟の意)のような怪物は、きっといつでも自分を殺せるのだ。なのに、自分が無様に逃げる様をいたぶって楽しんでいる。
なぜなら、自分の体は周囲の木々よりもずっと脆く、柔らかいはずだから。
あの大きなハサミに摘まれたら、自分の体はたやすく両断されるだろう。あの脚爪の一本にでも貫かれたら、自分は致命傷を負うだろう。
これだけ周囲の木々を容易に破壊し続けている化け物が、疲労でフラフラの自分をいつまでも取り逃がし続けるはずがない。
――それを理解して、円香はみっともなく逃げ惑う自分自身の姿に滑稽さを感じるようになった。
ふと円香は小学生時代、蟻の行列に悪戯をして遊んだときのことを思い出した。
ああ、あたしはアレをやられているんだ。
あのときの蟻が、今のあたしなんだ。
それでも容易に自分の命を諦められない円香は、棒のように鈍く固まった足を無理やりに動かして活路を探す。
左右を見回し、円香が辿り着いた先は――幾本かの倒木によって作られた擬似的な袋小路だった。
「えっ……?」
追い詰められた。
それを悟った円香の足が止まる。巨蟹の化け物は本能のままに暴れ狂っているように見えて、実際には狡猾な内面を隠し持っていた。
円香の背にどっと汗が噴き出し、今まで頭の端に追いやっていた疲労が全身に重くのしかかる。
円香の背後でパキパキと木々が圧し折られる音がする。円香が目に涙を溜めて振り返ると、ずんぐりとした戦車のごとき巨蟹が間近に迫りつつあった。
「い、いや……」
円香は後退りをしようとして、落ち葉で足を滑らせて尻餅をついた。
ゆっくりと近づいて来る巨蟹の化け物に焦った円香は、両手を後ろ手に地面に着き、座ったままの不格好な姿勢で慌てて後退した。トスン、とその背が一本の立木に遮られる。
「あ……」
行き止まり。逃げ道は何処にもない。
巨蟹は左右四対の歩脚を巧みに動かして真っ直ぐに円香に近づいて来る。その頭部から突き出た二つの真っ赤な複眼が、円香を見下ろしていた。
「……やだ、やだやだ! こ、殺さないでぇっ!!」
円香はパニックを起こして必死に手足をばたつかせるが、それは何の意味もない行為だった。
巨蟹は歩脚を広げてやや体を沈み込ませるようにして、横に広い顔面を円香の目と鼻の先まで持っていった。まるでそれは獲物を品定めするような動作だった。
「――――」
恐怖の権化というべき存在を面前にして、円香は言葉を失った。彼女の股座からちょろちょろと温かい液体が流れ出ていたが、自身ではそれを意識する余裕さえなかった。
巨蟹が左の大ハサミを空高く振り上げる。それは年端も行かない少女の命を奪うには不釣り合いに大きな処刑器具だった。
円香はふるふると首を左右に振る。震える唇から声が、絶叫が漏れ出る。
「……い、いや……――いやあああぁぁぁっっっっ!!」
――コツンッ
そのとき、円香の左手側から飛んできた石礫が巨蟹の右の眼球を直撃した。
巨蟹が体をそちら側に開くと、もう一つ石礫が飛んできたので、巨蟹は右のハサミを盾にしてそれを弾いた。
巨蟹の化け物が振り向いた先には、木の棒を携えた小柄な少女が立っていた。
同じくそちらを向いた円香は、彼女が何者かすぐにわかった。
「て、転校生……? なんで?」
新たに現れた少女――凛はその問いに答えることはしなかった。彼女は手に持った木の棒を巨蟹に向け、大きな啖呵を切った。
「カニの化け物! 食べるなら私からにしなさい!」
『…………』
凛の啖呵に反応してか、巨蟹はブクブクと口元で泡を立てていた。
円香はその姿を目前にして、まるで化け物が笑っているかのように感じた。