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夜涼

作者: 雨森 夜宵

「なんか日い短くなったな」

 ぼんやりどっか行ってた思考にその台詞だけすっと入ってきて、気付いたら自分の部屋に戻っていた。暗くなり出したと思っていた外はいつの間にか文句なしの夜の色になっている。

「そうな。十九時って夜なんだって思わされる」

「確かになあ」

 自分から言い出した割に適当に応じた渡会はぷらぷら歩いていくと、ベランダに続く引き戸を開けてそのまま出ていった。俺ももう別に何も言わないでおいた。この部屋を喫煙所か何かと勘違いしているらしく何かにつけてはうちに来るこいつは、室外機の上に灰皿があることも、普通に喋ったらお隣さんに会話が筒抜けになることも、ガラス戸を閉めずに火をつけたら秒でケツを蹴り上げられることも完璧に把握している。説明することも遠慮することもない。

 出ていったわりに引き戸を閉めなかったのでケツを蹴る準備だけしたものの、渡会は煙草のケースすら出さずにくるりと俺を振り返った。三連のピアスが煌めく。ほったらかされて伸びた金髪が肩まで伸びているのは、色白も相俟って一瞬女のようにも見えた。くそ。美形め。

「まっつぁん吸わないの?」

「あ?」

「煙草。吸いたい顔してる」

 何言ってんだこいつ、と思う。全然吸いたかない。

「お前が吸いたいだけでしょうが」

「いや。吸いたそうだね」

 吸いたいんじゃないの、とにやついた表情に謎の余裕がある。何言ってんだこいつがもうひと波来てこころの底からため息が出そうになった。なんでよりによって渡会なんだ。こういう機微のひとかけらも分からん奴なのに。

「いーからはよ。虫入んぞ」

「閉めろや」

「てか部屋より涼しいぜ? 切らしてんなら一本奢ってやるし。メンソでよければ」

 そうかこいつもメンソール派だった、と思ったら心底萎えたのに、正直自分では買う気が起きないメンソールをタダで吸えると思ったら興味の方はむくむく湧いてきて断る理由がなくなった。

「分かったから閉めろ」

「うぇい」

 勝ち誇ったような顔で適当な返事されてうっすら後悔しながら重い腰を上げる。冷えた麦茶をマグカップに半分くらい流し込んでから煙草とライターを回収し、消灯して外へ出た。確かに夜風は涼しかった。律義に火をつけずに待ってたらしい渡会は俺が引き戸を閉めるのと同時に胸ポケットから箱を出して俺に向けた。まだみっちみちに入っているそこから一本抜く。紙巻としては特に変哲のないルックスだけど、銜えるどころか鼻先で振るだけでミントの匂いがした。

 例の、「普段はメンソール系ばっかり」の「メンソール系」っていうのはこれなんだろうか。

 ……いや流石に別の銘柄か。こいつとお揃いであってほしくはない。

「なんで電気消したん?」

「虫来るから」

「あーね。なんだ、抱かれんのかと思った」

 いっひっひ、と品性の欠片もない笑い方をした渡会の尻を強めに蹴り上げて、自前のライターで火をつける。吸い込んだ煙は歯磨き粉の匂いがした。吸ってる感は若干薄いけどまあ嫌いじゃないな、という感想の後に嫌いじゃない理由に思い至ってため息が出る。何が「嫌いじゃない」だ。吐いた煙がほんのり涼しい風に吹かれて右から左へ流れていく。隣のアパートの隙間に覗ける向こうには所々明かりの消えてない大学の建物がひっそりとそびえ立っている。

 今頃安井先生も煙草吸ってるかな、とかちらっと思って今日イチのでかいため息が出た。なんなんだこれ。何してくれてんだ安井先生。

 隣を見たって金髪プリンのチャラ男が涼んでるだけだし。

「……まっつぁん、絶対ケツ蹴んなよ」

「あ?」

「絶対ケツ蹴んなよ」

 同じ台詞を繰り返した渡会が煙を吐く。ぷつっ、と音がしたのはカプセルを潰したものらしい。なるほどな、と試しに探り当てて噛んでみたら本格的に歯磨き粉の匂いになって後悔した。口が寒い。

「めっちゃ言いたいことあんだよ。でも言ったら絶対ケツだなって分かってるからさあ」

「何をケツ覚悟してまで言いたいんだよ」

「その覚悟をしたくねーから言ってんの。マジ、一回だけケツなし。頼む」

「いやマジで何をそんなに言いたいんだよ?」

 手を合わせて拝む真似までしてきたから流石に笑った。ケツ……、と意味分からんところで言葉を濁した渡会は思わせぶりに煙を吸い込み、最後まで吐き切ってから、不意にこっちを見た。


「――まっつぁん彼女できたべ」


 ……彼女?

 言われた瞬間、「はあ?」とは思った。「はあ?」とは思ったけど、反射で何か言い返そうとして開いた口からなんにも声が出なかった。いや。彼女なんかできてないし。お前ふざけんなよマジ黙っとけ、まで頭の中で音声化して背後の室外機に気をつけながらケツを蹴り上げるキックの軌道までイメージして、でもその先が出ない。結局、目を逸らして無言で煙草を銜えた。口は寒いし歯磨き粉の味だし、その辺を歩いているらしい男子グループのバカすぎる音量の笑いが住宅街を貫通してきてうんざりした。

「……あホントに蹴らねんだ」

 本当に意外そうな呟きが零れ落ちて、やかましいわ、の一撃を反射で見舞った。キレは今ひとつにも程があった。

「うおい! フリじゃねえよ!」

「うっせ」

「んもー、カリカリすんな成人男性が。図星?」

「大ハズレだわ」

「あら」

 そら残念、と言った渡会がいつになく下世話な雰囲気を出してきてムカついた。

「何が残念だよ。ゴシップネタ仕入れたいだけだろ?」

「ええ? 心外、んなわけないじゃん。マジで彼女できたんだとしたらスーパー走って寿司買ってくる用意あったぜ?」

 寿司な。そらあれば嬉しいけど。

「寿司とシャンパン」

 合うのか?

「そんで盛大にお祝いして、明日お前が起きるまでにありったけラインして広くみんなに知らしめる用意があった」

「急に最悪じゃん」

「いやマジで。特に前半はマジ。そうなったら遂にお前も孤独死ルート離脱じゃん? マジ涙出ちゃう」

「その道のトップランナーが何言ってんだ」

「トップランナーちゃうわい」

 へらへらしながら歯磨き粉味の煙を吐いているこいつには悩みなんかないんだろうと思う。多分。彼女をとっかえひっかえどころか複数人常備してて、しかもその彼女同士がなんでかみんな仲良くてこいつ抜きで飯に行くようなそういう世界の住人だ。あったとしても碌な悩みじゃない。そしてこういうやつにだけはこんな話したくなかった。そりゃ付き合いは長いしこれ以上にいいやつもいないけど、できればもうちょっとクオリティの高い人間に聞いてほしかった。……くそ。こいつがベストになるコミュニティってなんなんだよ。もうちょっとまともな友達作っときゃよかった。

 てか誰だよこいつに漏らした奴。

「……亮太?」

「ん?」

「亮太になんか聞いたのかって」

「んにゃ。なんも聞いてない」

 適当に返事した渡会がじわじわ驚きを滲ませてくる。

「……てか何、マジじゃんか」

「……だから聞いたのかって言ってんの」

「ああ違う違う。マジでなんも聞いてない。単にぼーっとしてっから。あとなんか、今日顔面に締まりがない」

「……そうか……」

 シンプル過ぎる推論で言い当てられたのが心底凹む。恥ずかし過ぎて取り敢えず夜景を眺めた。夜景も何も大した眺めじゃないけど、高台にあるからある程度は町を見渡せる。アパートの隙間に見える大学の研究棟の明かりなんかは結構好きだった。深夜になってもつきっぱなしだからだ。限界ギリギリの人間が夜を徹して頑張ってると思うと尊さが増す。そしてもちろん今も光ってる。

「恋する目じゃーん?」

「……そーだよ」

「あれまあ」

 ああそうだ。何しろあそこは安井先生の所属する理工学部の棟だ。どの窓かは分からないけど恐らくどこかにいる。大体の学生が教養学部棟や食堂裏の喫煙所に行く中であれの一階のちっさい喫煙所にいたからほぼ間違いない。

「すっごいじゃん。バカになるから恋なんかしたくなかったんじゃねーのかよ?」

 やれやれ、とばかりに言った渡会をガン無視した。一回それなりにちゃんと浸る時間が欲しかった。返事しないぞ、という意思を込めて煙草を銜えた。くそつよメンソールが鼻どころか目にまで抜けるような気がする。

 バイト先の学習塾で講師をやっている安井先生は、俺は事務バイトだから先生って呼んでるけど実際には同い年くらいのはずだった。とにかく真面目でしっかりしてて、でも厳しすぎるわけでもなくて本当にいい先生って感じだ。生徒からも好かれてるし、多分授業もうまい。それは事務のバイトをやっていると一目瞭然だった。出勤退勤の度にしっかり挨拶してくれるし、欠員が出ると高確率で駆けつけてくれるし、欠席者用のノートコピーもそもそもの板書のきれいさがにじみ出てる。お調子者の生徒たちが他の先生の文句を言いがてら「もう全教科やっぴがいいー」と言ってくることもしばしばだ。安井先生な、と都度訂正してはいるけど、まあ本人がいる時はちゃんと安井先生と呼んでるからいいかと思っている。というかその点では面と向かってまっつぁんと呼ばれタメ口をきかれている俺の方がやばい。ナメられすぎてる。

 で。

 そんな真面目な安井先生と今日初めてバイト先の外で出くわしたのが、まさかの研究棟一階の喫煙所、という。

 たまたま一限が休講になって、まあじゃあ一服して図書館でレジュメでも作るかって寄り道したらそこにいた。長い黒髪をひとつに縛ってるのはいつも通りだったけど、いつもはつけてないなんか、細い葉っぱの輪郭だけみたいな金属パーツがついたピアスがゆらゆら揺れて、先生をやってる時のサバサバした感じとは一味違う雰囲気で。なんというか。……どきっとした、というか。好きかも、と思ったというか。

 安井先生、って声かけたら最初は驚いてたけど、控えめながらぽつぽつ話もできたりして。三年生でちょうど同い年ですねとか、元々家庭教師のバイトしててとか、なんか色々、意外と話してくれて。松野さん子供たちと打ち解けててすごいですね、って褒めてもらったり。いやナメられてるだけですよとか言ってみたり。流石にバイト中に吸えないからつらいっちゃつらいですよねとか。いつもその銘柄なんですかとか。いや普段はメンソールばっかりなんですけどたまには違うのも試してみようと思ってとか。

 ――じゃあこれも試してみます?

 ――えっ何ですかこれ、見たことない煙草。

 ――あんま見ないですよね。西口にちょっと品揃えのいい煙草屋さんあるんすよ。そこで買って。

 ――あっ、そうなんですね。今度行ってみようかな。……あ、ちょっとパッケージの写真撮ってもいいですか? 結構好きかも。

 ――よかった。どうぞどうぞ。

 ……とか。結局三本分くらいのんびり喋って、また塾でと別れた。

 それで。


 ――みんなにはナイショでお願いしますね。


 終わり際にさらっと、でもなんだか随分いたずらっぽく言われた台詞だった。冷静に考えたらわざとらしいような、ちょっとお決まり感さえあるようなその一言で、炭酸みたいなしゅわしゅわした浮遊感が体の奥の奥に生じた。

 あっこれ負けたわ、と思った。不確定だったものが急にかたちをもって迫ってきたような感じがした。なんだ俺安井先生に恋してんだ、って妙に冷静に自覚した。


 ……いや恥ずいって。なんだよ「冷静に自覚した」とか言って。ダセえな。そっから全部ふわふわしたままの奴に冷静も何もないだろ。

 室外機の上の灰皿に吸い殻を押し付けて自分の煙草を銜える。フレーバーのついてないシンプルな煙は少しずつ口に残った清涼感を洗い流していった。……けど、どうあがいても安井先生の「普段のメンソール」がどこかにちらつく。知らないメンソールの味。安井先生の「いつも」の味……。

「俺も知ってる子?」

 渡会が不意に言った。ぷち、と二本目のカプセルを噛んだ音がする。

「いや」

 知ってる子じゃなくて知ってる人って言えや、とうっすら思いながら研究棟の明かりを確認する。紙巻は喫煙所まで吸いに行かなきゃいけないけど、加熱式なら両隣の研究室がいない場合窓を開けて吸っていいというルールだと今日聞いた。もしかしたらもしかするかもしれない、とは正直思ってる。研究棟はL字になってるから部屋の位置によっては見えない。それは分かってる。でも探したい。馬鹿だ。

「何、サークル? バ先?」

「言わねえよ」

「あっそう。……いや、でも嬉しいねえ。まっつぁんも馬鹿の仲間入りじゃん?」

 満面の笑みを浮かべた渡会が言って、急に煙草銜えて空けた手を差し出してくる。訳わかんないけどノリで握手したら満足そうだった。握った手が妙にすべすべで、しかもその割には思ったよりがっちりしててちょっとムカついた。なるほどな。これがモテ男の手の質感な。

「で? どんな子?」

「言わん」

「ケチ~」

「ケチじゃねえよ。まだなんでもないんだから」

「え、片思い?」

「……まあ」

「えーかんわい~! ――いって! おいケツやめろって!」

「うるせえ、声押さえろ」

「暴君じゃん……」

 眉を八の字にして呟いた渡会が冷たい匂いの煙を吐く。まあでも、と一言置いてから髪を掻き上げて耳にかける。随分遠い目で夜を見つめている渡会の横顔は静かで、吸い込んだ煙草の先がじじっと音を立てて光っては闇に沈む。安井先生の横顔が浮かぶ。毎回丁寧に顔を背けて煙を吐いてくれる安井先生の、動くたびにほんの少し音を立てるピアスのきらめきとか。束ねた黒髪の下のうなじに小さなほくろがあることとか。……あと、スタイルいいなとか。唇、ちょっとぽってりしてるんだな、とか。吸い口になんかキラキラした唇の痕が残ってるのドキッとしたなとか。

 あの唇とキスしたら、なんかその……。どう、なんのかな、とか。

 ……いや馬鹿馬鹿馬鹿、馬鹿お前、馬鹿! 何考えてんだお前こんなとこで! もう!! 馬鹿!!

「まっつぁん恋したことねえの?」

 ぶんぶん頭を振る俺を前に、意外にもというか、渡会は茶化しなしで言った。

「……あるにはあるよ」

「いつ」

「ガキの頃」

「小学生とか?」

「……ん」

「はーん。大ブランクじゃん」

「そう。……だからどうしていいか分からん」

「かんわい~」

 俺が返事をしなかったせいか、赤ちゃんにでもやるような仕草で頬をつつかれた。最早つつかれた指もそのままにしておいた。ここまで吸い込んだ灰の汚れが全部出るんじゃねえかってレベルのでっかい溜め息が出る。そのまま項垂れたら流石に指もひっこんだ。手すりの冷たさが額の熱に混じってぬるくなる。

「……最悪」

 恋なんかしたくなかったんだ。恋すると馬鹿になるから。

 こんなふわふわした状態の自分、マジで許せない。

「別にいいじゃん、恋くらい」

「いやマジで許しがたい」

「バカになんのが?」

「……ん」

「んにゃ。逆だよまっつぁん」

 がた、と重い音がする。わざわざ差し出してくれた灰皿に吸い殻を押し付けて、でも次に火を点ける気にはなれない。

「普段のまっつぁんがかしこすぎんの」

「……お前やっぱ煽ってる?」

「違うって! マジでまっつぁん真面目過ぎんの。いったん思い切って髪真っピンクとかにしたら?」

「はあ? しねえよ」

「なんでえ」

「……あの人はそういうタイプ好きじゃない」

「フゥ~! ――いっっって!! お前マジでいい加減にしろよ!?」

「うっせえ! マジなんだよこっちは!」

 思い切り吼えてから慌てて口を閉じた。幸いにも両隣が乗り込んでくる気配はなかったけど、両手でケツを押さえたままの馬鹿がえらく優しい笑顔を浮かべてるのは死ぬほど癪に障った。

「……いーじゃん。マジなんだ」

「指ごといくぞ」

「いやごめんって。違うの」

 慌ててケツを背けてから、俺結構マジで嬉しいんだわ、と渡会はまあまあしみじみ言った。

「なんか、まっつぁんコンクリブロックみたいな人間だからさあ。そういうのも好きだからこうやってつるんでるけど、なんつーの? そのコンクリの隙間からちっちゃいタンポポ出てきたみたいな気分でさ。なんだろ。人間の成長を見てるよな今」

「……なんだその丁寧な煽り」

「煽ってねえの! 聞け! 俺ずーっとまっつぁん恋した方がいいって思ってたんだよ。無理強いすんのも違うなと思って黙ってたけどさあ」

 髪を耳にかけ直して、渡会は俺に言う。

「お前に必要なのは、隙間から生えてきたちっちぇー花をだいじにだいじに育てることだと思う」

 ちっちぇー花な、と何故かそこだけ念押しされる。

「……馬鹿の花?」

「そ、バカの花」

 あまりにもさっぱり言い切られたのが妙におかしくて、少し笑った。渡会のピアスが三つ並んでちかりと光る。安井先生のピアスの揺れ方を夜の闇に見る。つやつやな黒髪と、如何にも生真面目な目つきと、塾じゃ絶対に見せたことない意外といたずらっぽい笑顔と。柔らかそうな唇。ピアスのかすかな音。遠くへ吐き出される煙。うなじのほくろ。


 ――みんなにはナイショでお願いしますね。


 ああ。くそ。悔しい。

 安井先生と俺だけの秘密があるってことがめちゃくちゃ嬉しい。嬉しいのが悔しい。絶対にまたあの喫煙所に行って安井先生を探してしまう自分が悔しい。

 本当に馬鹿になってしまった。

「で?」

 早くも調子を取り戻したらしい渡会がにやにやしながら俺の顔を覗き込む。

「寿司?」

「……は?」

「寿司みたいな人? ピザみたいな人?」

「別に太ってはねえよ」

「バカ、雰囲気だよ。どんな子? かわいい系? キレイ系?」

「言わねえよ」

「言えよお、そしたら俺マジで奢るから」

「言わねえって」

 多分今恐ろしく締まりのない笑い方してるんだろうなと思ったけど、今更どうにもならないかと諦めた。しつこい渡会から視線を遠くへ逃がし、ぽつぽつ灯った理工学部棟の窓の光に思いを馳せる。あの言い方だと電子タバコも吸うんだろうか。それもはっきりとは聞けなかった。俺が知っているのは「安井先生」だけで、大学生としての「安井さん」がどんな人なのかは全然知らない。

 ……これから、知っていけるんだろうか。あの喫煙所で。

「俺の……」

「ん?」

 ゆっくり、息を吸い込む。

「……まだ、行ったことない店の、すっきりしたカクテル……とか……」

「おぉーい!」

 最後まではっきり言いきれなかったのを爆音の歓声が叩き切った。

「おっまえ、外飲みねだってくんなよお!」

「いやだってその、既知の飯で表現できるわけねえだろあんなの……」

「おい真っ赤!!」

 わはははは、と腹を抱えて笑う渡会が涙まで拭いながら、俺の背中を思いきりしばいた。カウンターで形だけ一発入れてから両手を頬に当てる。恥だ。せめてもうちょっと気温が低ければよかったのに。

 どんっ、と衝撃が来る強さで渡会が肩を組んでくる。

「いーよ。俺この後約束あるからギリまで付き合う、任して」

 至近距離の渡会からは煙草の匂いと、その奥に何かとんでもなくいい匂いがした。香水らしい。なんの匂いだと一瞬素でどぎまぎしてから、それと「約束」という言葉が結びついてげんなりする。そうだ。香水つけてる日はそういう日だ。

「……彼女か」

「へっへへ」

「んだよ気持ち悪い」

「お前もいずれこうなるよ」

 文末にキラキラの絵文字が見えるようなきっしょい予言を言い放って、そういえば普段より若干上機嫌な渡会は一足先に部屋へ戻っていった。ベランダにひとり取り残されて、今の今まで渡会の様子が何一つ分かってなかったことに暫し立ち尽くす。嘘だろ? そんなに頭がいっぱいだったのか? そんなに俺、安井先生のことしか考えられてなかった、のか? 

 部屋の電気をつけた渡会がそのままトイレに消えていく。大したもののないごちゃついた俺の部屋の、真ん中に置かれたローテーブルのところに一瞬安井先生を想像する。正座を横に崩して座って、うちの麦茶を飲んで。俺は多分、正面を少し外して座って、テーブルの向こうの安井先生を「安井さん」と呼ぶ、かもしれない……。


 ――ああっクソ! 何考えてんだ馬鹿! 今のなし! 終わりだ終わり! 終わり!!


 ぶんぶんと頭を振って、うっすら熱のこもった部屋に戻る。ほったらかしていたコップをゆすいで干した。浮かれてる場合じゃない。安井先生との間には煙草三本分の秘密の共有しかないし、好きも何も俺の一方的なものでしかなくて、何ひとつ動き出してさえいないこの時点で何考えたって無意味だ。


 だから。


 ……だから、今はただ、この気持ちだけで浮かれててもいいのか……?


 トイレから出てきた渡会と目が合った。廊下を横断して向かいの洗面所に向かうほんの短い合間に、渡会は心底可笑しそうな笑みだけを残して消える。水道の音がした。

「いやあ~いい顔してんなあ~!」

 一緒に飛んできた声を通りすがりのケツキックで打ち返す。




 fin.


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