06 : Day -35 : Aoyama-itchome
竹園は約束どおり、イッキの時間を割いてくれた。
その日の給料を保証して定時まえの帰宅を許し、チューヤたちはそれと合流して、青山一丁目の彼の自宅へと移った。
ナミが全額支払っている、赤坂御用地に近い環境のいい高級マンションの一室。
いつもの理知的な面影はあまりなく、べったりとイッキにもたれかかり、唯々諾々とその言葉にしたがっている印象の──ナミ。
「おばさん! ちょっと、聞いてる!?」
「なーに? サーちゃんも、早く見つかるといいね、運命のひと……ああ、あなたはもう見つけているんだっけ。サーちゃんのことよろしくね、シンちゃん……」
「ノシつけて返……痛恨!」
サアヤはチューヤの屍のうえに立ち、
「ともかく、年頃の女子高生のまえでいやらしいことをするのだけは、ちょっと、やめていただいていいかな、ホストさん!」
「……イッキ、イッキまーす。こーんにちは、本日はご指名、ありがとうございまーす」
ホストの定型句を口走る彼に、どうやらバカにされているらしい、とサアヤは感じた。
一方、チューヤは慎重にその整ったナンバー2ホストの顔立ちを見つめ、隠された情報を読み取ろうと試みる。
これは、単にナミさんがホストにハマる、という単純な話ではないような気がするのだ。
さっきからチューヤは、ずっとナミを観察しているが、これがあの理知的な研究職、隣のきれいなお姉さん、伊崎ナミであるとは、とても思えない。
あきらかに異常な状態。
ぐったりして、のろのろとしゃべり、知性のかけらも感じられない。
ダウナー系の麻薬でも入れられているのかとさえ思われるが、ふいに正気をとりもどして、いままでどおりの笑顔を見せてくれることもある。
当人は「だいじょうぶ」とだけ言って、心配しないでともくりかえすが、とうていそんなわけにはいかない状態だ。
その横には、きれいな顔の若いホストが、年上の彼女の身体を抱いて、なんとなく愛撫している。
その動きは、とてもいやらしいもののように見える。
「ちょっと、変な目でうちの親戚見るの、やめてくれる!?」
サアヤの怒りの矛先まで錯綜していた。
憮然として応じるチューヤ。
「見てねえよ! てか俺にとっても親戚みたいなもんだわ」
「親戚を変な目で見るなんて最低だね!」
「だから見てねえっての!」
そもそもわるいのは、変なことをしている相手のほうだ、という点について掘り下げたほうがいいことに、なかなか気づかない。
ここは彼らの家なのだから、どんなことをしても自由という前提はある。
だが来客を受け入れている以上、そこには最低限の常識があってしかるべきである、と高校生たちがさかしらな理屈を──こねる必要はなくなった。
状況は、だいぶ差し迫っている。
ピシピシッ、と部屋の各所から変な音がする。
空気も妙によどんでいる。
境界化しているわけではないが、それも近いように感じられる。
ふいにナミのほうから腐臭が漂ってきた、ような気がした。
イッキはナミのうえに覆いかぶさるようにして、その唇を吸う。
その手はナミの胸を押さえるように揉んでいる──たしかに、どう見ても性的な行為であるが、チューヤのナノマシンはそこに明確な違和感を提示している。
この腐臭は、そう思いたくはないが、ナミさんの口臭ではないか?
そして、一瞬だけ見えた不気味な色……ナミさんのゆるい衣服の胸元からのぞく皮膚が、どす黒く腐敗しているように見えたのは、気のせいか?
どろどろと腐敗していく肉体を、抱擁という形で支えているのが彼なのではないか?
崩れる肉片をイッキの手が押さえて、癒し、もどしているという見方はできないか?
「ちょっと、高校生いるんだから、エッチィことはあとにしてよ! おばさん、ホストさん、あんたら常識ないのか!」
「……待て、サアヤ。どうも、俺たちは大きな思いちがいをしているのかもしれないぞ」
チューヤは慎重に観察をつづけながら、一歩を踏み出す。
「なによ、ここはふたりの家だから自由とか、そういうこと言いたいの? 覗き根性じゃない!」
「ちが……」
瞬間、激しいラップ音が響いて、ハッとふりかえったさき、本棚もないのに降ってきた本がサアヤに直撃する瞬間、チューヤの手がそれを振り払う。
壁に視線を走らせると、黒い影が蠢いている。
天井からは足音のようなものが響く。
ことここに至って、ようやくサアヤも尋常ではない状況に気づいた。
「ちょ、なにこれ、事故物件!?」
「新築マンションを買ったと聞いたけど……青山墓地が近いせいかな」
もの問いたげなチューヤたちの視線を受け、ゆっくりとこちらに顔を向けるイッキ。
ホストはその美しい唇で、淡々と事実を告げる。
「もちろん新築だよ。たしかに墓地の近くだが、むしろそのほうが都合がよかった。この場所を通っている霊道はなかったが、おそらく引き寄せたのだろう……」
それは孤高の気高さを感じさせる独特な口調で、ほとんど独り言のようにも感じられた。
ナミは力なくぐったりと、ただイッキの愛撫に身を任せている。
それなくしては彼女自身の身体が腐り落ちてしまう、もっと強く抱いて、と彼女は口を開かずとも全身でそう訴えている。
「おばさん、まさか……」
ようやくサアヤもナノマシンを起動して、ナミの身体に起こっている異変を慎重に観察すべき必要に気づいた。
イッキに触れている部分はきれいだが、より離れている末端、たとえば足の先などには黒いシミのような影がまとわりつき、ぶよぶよと腐っているようにも見える。
壁に黒い影が這う。
ぴちゃぴちゃと水漏れのような音がするが、どこから聞こえているのかわからない。
足音がするのに、だれもいない。
「そのバッグにオフダがはいっている。部屋の四隅に貼ってくれないか」
イッキが指さしたカバンを手に、チューヤはそのなかから大量の束になったオフダを取り出した。
ケートに書いてもらった魔術回路の古い形が、このオフダというものだ。
ただの印刷物であることが多いが、ときにはこのオフダのように、きちんとした封魔回路として機能しているものもある。
ひととおりオフダを貼ると、室内を満たしていた怪現象は、ひとまず静まった。
「……どういうことですか、イッキさん」
チューヤの問いに、イッキは深く吐息した。
その肉体に浮かぶ疲労の色は濃かったが、説明責任を免れるつもりはないようだ。
「数日まえまで、うちのクラブには優秀な陰陽師がいたんだ。そいつに毎日、オフダを書いてもらっていた。ところが最近、その彼が行方不明になってね。どんな事件に巻き込まれたのか……ま、想像はつくが。しかたがないから、本場京都の陰陽寮まで行って調達してきた。ただの印刷では意味がない。ホンモノでなければ、効果がないんだよ。ついでに奈良もまわってきた。すばらしいね、日本の古都は」
遠くを見るまなざしで、やや呑気なことを言っている。
チューヤはバッグにオフダをもどしながら、
「もしかしてナミさん、なんかに取り憑かれてるんですか?」
「取り憑かれている……と言えばそうかもしれないし、そうではないと言えば、そうではないという言い方もできる。これは、彼女自身なんだよ……」
やさしい動きでナミの身体を抱く。
あらためて見直せば、それは性的な愛撫ではなく、癒しの「手当て」のようだ。
「いったいどんな……」
と言いかけた瞬間、いっそう激しいラップ音が部屋の四隅から響きわたった。
ゴンゴンゴン、と床下から突き上げてくるような激しい音もする。
床のうえを歩けないので、しかたなく床下を歩いている巨人、といった体の苛立ちが伝わってくるポルターガイスト。
ぺたぺたと壁をたたくような音もする。
無数の死人が仲間を求めて押し寄せている──あるいは死人の女王を探し当て、迎えにきているのかもしれない。
眉根を寄せるイッキ。
「……わるいが、連れて行かせるわけにはいかない。お得意さまなんでね」
「ちょっと、どういう理由!?」
「ナミさん、だいじょうぶなんですか?」
「わからない。ぼくがそばにいるあいだは、連れて行かせるつもりはないが」
イッキは言いながら、しゃくり、と桃を食べる。
軽く咀嚼してから、ナミの口にそれを寄せる。
さっきから彼らの飲食は、このスタイルが多い。
べたべたと気持ちわるいカップルの不衛生なイチャつきようだ、と思ってみればそうも見えるが、それ以外に栄養補給方法がないのだ、という可能性については考えもしなかった。
「桃は生命のしるしだ。彼女に生命をもどしてあげなければ。……きみが1日1000人の命を奪うなら、ぼくは1500人分の命を注ぎ込もう」
それはとても気高く、歴史の深い言葉だ。
かつ、現代社会に符合する部分を、少なからず含む。
「イザナギと、イザナミ……」
チューヤはそこに、日本という国が神話の時代から背負ってきた「象徴」を、見ないわけにはいかなかった。
──現代日本の平均寿命を考えると、1日1000人が死ぬのは3000万人程度のコミュニティ、という計算になる。
日本の人口はまだ1億人をキープしているが、その大部分がいわゆる大都市圏に集中している。
端的にいえば、彼女の存在は、まさにこの東京圏にぴたりとあてはまるのだ。
少子化の昨今、残念ながら1500人は生まれていないが、それは彼の力が足りていないということなのかもしれない──。
イッキの手が、ナミの衣服を脱がしにかかっている、ということは、そういうことだろうと察する高校生男女。
生命を育む行為は、そのまま癒しに直結する……のかもしれない。
高校生たちがあわてて踵を返し、部屋を飛び出した──瞬間。
そこには部屋にはいれない悪魔たちが、大きく口を開けて待ち受けていた。
深い深い穴の奥底へ、吸い込まれ、落ちていくチューヤとサアヤ。
静かに閉じる境界のドア。
生と死の境界線上、いずれかの世界へと傾き落ちていくことは、生物であるかぎり避けることはできない。
あとは、どちらを選ぶのかだけだ──。