24 : Day -33 : Yoyogi-uehara
「きみたちは、神学機構の目的がなにか、知っているのかな?」
いよいよ瀆神のさきへ、足を踏み入れようとするイスハーク。
不愉快きわまりない表情のヒナノを中心に、その周囲にいる知識の浅い連中は、なかばぽかんとしている。
「目的……?」
剣呑なニオイしかしない。
それでも聞かずにはいられない。
唇を閉ざすヒナノに代わって、チューヤが問いを投げる。
「一神教の統一とか、協調とか、そういうことでしょ?」
「表向きはね。しかし事実は、もっと過激なのだ。……彼らは破壊したいのだよ、現在ある一神教を」
「……は?」
イスハークが標榜する「意見」は、多くの誤解と中傷を生むだろう。
が、彼の到達した見地は、透徹した賢知でもありうる。
「いたずらな神は、自分がつくったものに飽きたので、破壊して、新しいおもちゃをつくろうとしているのだ」
「そんな子どもみたいな」
「子どもだよ、彼は永遠のね。見たまえ、そこにいる泣き虫の赤ん坊が、一神教の正体なのだ!」
悲しげな表情でぐずりだす、神の子を指さし声を張るイスハーク。
よしよしとあやすモナのおかげで、どうにかギャン泣きは回避された。
大声出すんじゃありません、とサアヤにしばかれるイスハーク。
彼をお笑い要員にできるところが、サアヤのすごいところだ。
「稀代のウラマーも形無しですね」
「失礼。……しかし、すべての預言者たちもそうだったのだ。わたしがここで、精神病者と言わないのは、せめてもの敬意だよ。わたしの所属する宗教たちに対するね」
イスハークは神学機構に所属していると言い条、それを壊そうとしているのだ、といまさら気づいた。
しかし彼の言いようでは、壊そうとしているのは神学機構自身のほうだという。
「まあ、トルコの破戒僧の言うことだから」
「……そうやって聞き流せないのは、きみだ。神学機構の女使徒よ」
絡み合うイスハークとヒナノの視線。
これは一神教の内輪もめだ、いつもの、と多神教徒たちは理解した。
「あなただって重要なパーツでしょう。新しいイスラームを背負うイマームよ」
「どこぞの同胞に邪魔されなければね」
いよいよ剣呑な空気になってきて、平和主義者のサアヤが声をあげる。
「どうして内輪揉めばっかりするのよ、神学機構ってところは!」
「……それに飽きてね、彼らはイスラームというアイデアを、1500年ぶりに更新することにしたんだよ」
イスハークを中心として、壮大な歴史空間が広がった。
かつてチューヤたちは、いくつかの宗教史を追体験したが、ここでついに一神教の歴史を掘り下げる契機に恵まれた。
おそらく意識的に粗野な口調で、イスハークは語る。
はじまりはユダヤ教、紀元前1280年ごろだ。
その何十年かまえに死んだエジプトの王様がチャレンジした一神教というアイデアを、モーセというおっさんがパクって逃げ出し(出エジプト)、何百年かかけてユダヤ教という宗教を完成(前950年頃)させた。
その後を受け継いだ書記(預言者)たちも、天才的なパクリ屋でありつづけた。
シュメール、エジプト、アッカド、バビロニア──。
アトラ・ハシース叙事詩はノアになり、サルゴン王の伝説にはモーセ自身が仮託された。
文化爛熟のきわみにあったエジプトの流行歌をパクったり(『雅歌』)、肥沃な三日月地帯に育まれた人生訓は採用する価値があった(『詩篇』『箴言』など)。
アッシュルバニパルの図書館はネタの宝庫だった。あまりにも恐れ多くて、神さえも「ニネヴェは滅ぼせねえよ」と降伏した(『ヨナ書』)。
彼らは周辺の多神教から豊穣なネタをパクりまくり、旧約『聖書』という民族史を編纂したのである。
さて、それから1000年して現れたイエスという痩せ男が、昔の仲間たちが信じるアイデアを踏まえつつ、新たな契約を寝物語に書き換えてみせた。
彼の行動にもとづいた『新約』は、ギルガメッシュ叙事詩をはじめとする中東の神話、伝承を寄せ集めたパッチワークにすぎない『旧約』に比べれば、それなりのオリジナリティは評価してもよかった。
そこからさらに500年後、ムハンマドという文盲が愚痴と規範を『コーラン』に集約して読み替えて以来、一神教という装置は極みに達し、世界の広大な地域を蝕むようになっていった。
「そうして1500年後のいま、新たな『神学』に統合しようとしている連中がいる」
「すばらしいことです」
ヒナノは毅然としてうなずくが、
「うん、だけど……できるのかな、そんな簡単に統合なんて」
サアヤは首をかしげる。
わが意を得たりとイスハークは膝を打ち、
「そう、いい視点だ、仏教の魔女よ。まさしく、できるわけがない。それでもやる価値はあると、ある人々は考えている」
「……神学機構の上の連中ってのは、何者なんだ?」
リョージの素朴な問いを、イスハークが丸投げする。
「多神教の方々に教えて差し上げたらいかがか、金髪の使徒よ。きみたちのたくらみが、いかなるものか。ほんとうに気持ちがわるい、その中身を」
「あなたはどちらの……」
「もちろんわたしは神学機構の味方だよ、なにしろ中のひとだからね。……彼らが、このようなすさまじい力をもつ〝絶対善〟を手にしたら、どんなことが起こるだろう?」
イスハークの視線のさき、軽い寝息を立てる幼児キリスト(仮)。
すさまじい力をもつことは知っているが、当然のようにアンコントローラブルであり、腫れ物に触るようにそっと抱き留めておくしかない。
「それこそ、上の方々の決めること……」
言いかけて唇を閉ざすヒナノ。
「むしろ、このような〝絶対善〟のほうが不自然な代物であることを、やがてきみたちも知るだろう」
空恐ろしいもののように、赤ん坊を見つめるイスハークの表情に、底知れぬ闇。
しばしば語られる絶対善や絶対悪といったものは、言葉としてしか存在しえないものだ。にもかかわらず、ここに実在する。
この不自然さが、なにより問題なのだ……。
「すばらしい恩寵です。神の子……神学機構にとって、これほどすばらしい授かりものはありません。……しかるべき手つづきを経て、ただちに引きわたされるよう希望します」
ゆっくりと立ち上がるヒナノ。
彼女はもはや、イスハークを同じ神学機構の「仲間」だなどとは、毛ほども思っていない。
「ふっ、なるほど? 神学機構としては、そうなりましょうなあ」
いやらしく笑うイスハーク。
いや、もうこの場のだれもが、彼をすなおに「わるい人」だと考えはじめている。
「わるいこと考えたらメッメだよ! 赤ちゃんはご両親に返すのが、あたりまえの判断だと思うけど!」
「だよなあ。サアヤが正しい」
「……そうかもしれないが、あまりにも重要な赤ん坊を民間人の手に託しておいては、安全が保てないというのは事実だ。ねえ、金髪の使徒」
うなずきながらも、そこまでの良識には同意できない立場のイスハーク。
彼と同じ立場であることが、ヒナノにはとても不愉快だ。
「そーいやダッドさんも、奥さんがけっこうおかしくなってたみたいな話はしてたよな。けっこう育てづらい感じなんスかね?」
「それはそうだろう。高レベルの星天使さえ、狂わせるほどの〝絶対善〟だ。わたしはこれを、狂信者製造機と呼びたいくらいだよ。あるいは、この世にいないほうが……」
キッ、と鋭い視線を浴びて、さすがにイスハークも口を閉ざした。
いろいろな意味で、「キリストを殺す」のだけは、まずい、ぜったいに。
「赤ちゃんに罪はないと思うよ! ほんとに無邪気な寝顔」
サアヤの言葉にも、含蓄がある。
無邪気。罪のない幼児。絶対的に庇護されるべきもの。
「そうだな……しかし〝絶対善〟が不自然であることは、よくおぼえておいたほうがいい。……わたしの言っていることを、もっとも理解できるのは、そう、きみだ。同じ悪魔使いであるわれわれは、多くのことを理解しなければならない」
ぎくっ、として自分を指さし、立ちすくむチューヤ。
うなずくイスハーク。視線を交わすタイプSのふたり。
ヒナノは、それみたことか、という表情で「悪魔使い」なる存在の根底から忌まわしいことを再認識する。
「俺、っスか」
「そうだ。きみは、これから東京で、三大善人、三大悪人という輩と出会うだろう。それらは見つけたら、速やかに消し去ってしまったほうがいい存在だ。すくなくともわたしは、そう考える」
「悪はともかく、善はいいと思うけどな」
「三大屋台のほかに、東京には善人とか悪人が三大派閥を形成しているのか」
やれやれと肩をすくめるリョージ。
話がめんどくさくなって以来、彼はやたらと時間を気にしている。
6時まであと1時間。
学校にもどって鍋をつくらないと、暴れる猛毒のヘビがいる……。
「出会ってみればわかる。とても皮肉な存在だと気づくだろう。たとえばこの赤ん坊、たしかに〝絶対善〟だと思う。赤ん坊は善だ。これがどういう意味か、わかるかね?」
あまりにも皮肉な言葉遊び、言葉の罠に直結する思考実験。
善行を積み重ねたり、道徳にしたがって意識的に他人を助ける、それが善人である。われわれは通常、そう考える。
偽善者の議論はさておくとしても、意識して善行を積み重ねるからこそ善良で、価値がある。
赤ん坊にしか〝絶対善〟がないとしたら、そもそも善とはなにか?
定義の問題に還元してしまえばそれまでだが、では、そもそも善悪とは?
われわれはいつ、『善悪の彼岸』を乗り越えたのだろう……?
「まあ、さしあたりこの〝絶対善〟は保たれるべきだろう。これからさき、使い道もあるかもしれない。しかし〝絶対悪〟については、ただちに排除してしまったほうがよいかもしれないな」
自分の足元が崩れるのではないか、と心配する体を装いながら、自虐的におどけるイスハーク。
彼の知性は危険な域であるが、同様に、より危険な暴虐の世界が広がっていることも事実だ。
「マフユの世界かなあ」
ゆっくりと立ち上がるリョージ。
さっきから、暴れるヘビのイメージが脳内でかしましい。
ついていけない話から降り、つけていない腕時計を指すゼスチャーで、学校にもどろうという意思を伝える。
「マフユ?」
「ダークな女でしてね。ロキって邪神と……ああ」
考えてみれば、目のまえのウラマーも邪神バフォメットをガーディアンにつけている。
彼らは「闇」だが、だからといって、すなわち「悪」と定義してもいいのだろうか?
「……きみたちは、誤解をしているのではないか? わたしはマフユという女のことを知らないが、ロキは知っている。ロキは闇だが、悪ではない。いや、おおむね悪ではあろうが、〝絶対悪〟ではない。説明がむずかしいが……たとえば絶対悪というのは、ロキすらも持て余す暴力、教団の魔女、女子どもから血を吸う吸血鬼のような連中をいうのだ」
ぴくり、と反応したのはサアヤ。
「……吸血鬼?」
「ほんとうに胸糞な連中だよ。われわれとってすらだ。わたしは風俗嬢が大好きなんだがね」
「堂々と言わんでください、そういうことを」
突拍子もないイスハークの物言いに慣れてはきていたが、彼の表現方法は、内心で同意できても表向きうなずきづらいのがやっかいなところだ。
事実、彼はエロい顔で不埒なことを言っているようにも聞こえる。いや、言っている。
「彼女らは、とてもすばらしい。優秀な人材であることを忘れてはならない。そもそも風俗嬢にすらなれないアウトな女たちだって、たくさんいるのだ」
「イスハさん、それあたしのこと?」
「とんでもないよ、モナちゃん。きみは『喪女某』のアイドルじゃないか」
そういう名前の風俗店が、五反田にはあるらしい。
当人が喪女だと自覚し、そんなあたしでもいいですか、というスタンスで来客を迎える。
彼女のような小人症や、斜視、肥満など、外見にコンプレックスのある女たちが集まっている店だという。
しかし、逆にそういう女が大好きな男というのも、一定数いる。
「五反田はまだましだよ、下には下がある、鶯谷とかね」
「そういう話はいいの! で、その吸血鬼って?」
憤慨してさきをうながすサアヤ。
イスハークは、思い出したくもないのだが、というやや暗い表情で、
「胸糞な男だったね。死んだと思っていたが、最近見かけたよ。小さい女の子や男の子ばかりを狙う、小児性愛者のクズだ。あれだけは、わたしもさすがに許せないね。いやモナちゃんは小児じゃないでしょ! 見た目小児だろうと中身おとなならいいんだよ。というかべつに小児でも、当人がよければいいとすら思うよ」
「ダメでしょ……」
「ダメなのは、無理やりやらせることだ。弱いものを暴力で縛り、春をひさがせて金を得る。反吐が出る悪だよ。みずからの仕事に誇りをもって仕事をしている風俗嬢に対する冒瀆だと、わたしは思うね。ああいうクズな吸血鬼は見つけしだい……」
殺すべき吸血鬼の名。
それは以後の展開に、重要な意味をもつ可能性があった。
イスハークの風俗趣味は下劣かもしれないが、今回にかぎっては、彼の知見が必要な可能性がある。
「イスハークさんが悪というくらいだから、そりゃもうホンモノの悪なんでしょうね」
「余人をもって代えがたい悪だね。ものすごい邪悪のオーラを吐いているから、見ただけでわかるよ。おそろしい男だったな。こうね、背中にべったりと女の怨霊が張りついているんだよ。よく生きてられると思うが、あれはすごかったね」
そもそもチューヤたちにとって「悪」に見えるイスハークが、ただの「闇」であって、ほんとうの「悪」ではない可能性について掘り下げる契機にはなった。
世界はそれほど単純ではない──。




