01 : Day -35 : Shinanomachi
広大な室内は、すでに境界化している。
信濃町駅前に、都心としては広大な敷地を有する、舎利学館。
自社ビルならぬ教団の聖地は、新宿御苑、赤坂御用地に囲まれ、遠く皇居を見晴るかす。
無数の教団施設に囲まれる中央聖堂から見える大学病院は、学館の御用達だ。
信者を治験要員として送り込むことで、相互に莫大な利益を絞り出している──。
「本日の割り当て、30名、お願いします」
まとめ役らしい信者の言葉に、大学からのスタッフがうなずいて、互いに差し出した書類にサインを交わす。
大学病院につながる直通の地下道は、一方通行のもどれない道だ。
「当面、これが最終になります。病院のセキュリティを確保してから、新たに受け入れ計画を策定する予定です」
「そうですね。金輪際、逃げられては困る……」
会話するふたりの目線のさき、薬物でもうろうとしているらしい信者たちが、みずからの足で死地へと赴いてゆく。
彼らのうちごく一部が、なぜか病院から抜け出し、警視庁のご厄介になる事案が発生した。
──ありえない話だ。脳みそがないのに動きまわるなど、ありえない話なのだ。
それが、起こった。
「ほどなく問題は解決されるでしょう。犯人の目星はついている」
「ああ、人形使い……」
短いやり取りで、左右に分かれる大学スタッフと教団スタッフ。
学館の地下は、ほとんどつねに境界化していた──。
「こんなことは許されるべきじゃない、こんなことは……!」
ひとりの男が街路の端に追い詰められていた。
境界の悪魔たちに、彼を許すつもりはない。
ここで、この境界で食い尽くす。死体を残してはならない。
無数の蛇の頭が、男の全身にかぶりつく。
ここで、食い尽くすのだ。
瞬間、男は自分の身体に札を貼り付けた。
「急々如律令……!」
全身に死者の霊魂が集まり、食いついた悪魔ごと貪り、食い返していく。
悪魔たちの絶叫が響きわたる。
境界がほどけ、死体が放り出される──。
中谷と監察医の板垣は、目のまえで動いた死体について、判断を迫られていた。
「ネクロマンサーだと? 冗談じゃないぞ、中谷」
メスを武器にして、しばらく動く死体を観察していた板垣は、ようやく落ち着いてメスを置いた。
中谷は一度うなずいてから、ゆっくりと首を振り、
「3日まえなら、俺も同じことを言いましたがね。オヤジ、この世には信じられないことってのが、ちょいちょい起こるもんなんスよ」
「こんなことがちょいちょい起こってたまるか。だが、たしかにさっき死体が動いて、しゃべるのを見たよ。あの魔法陣ってやつが、死体に力を与えて動かした、ってのか」
「バカげた話は飲み屋でしろ、って? まあ、やつの言うとおりかどうかは、すぐわかりますよ」
さっき、動く死体は、動くはずのない喉を動かして、こんなことを言った。
──いま、おれが死んだ。これから駅前を走ってやる、死体でな。頼む、事件を解決してくれ。世に知らしめてくれ。人体農場を、脳みそを売る学館を告発してくれ!
そんなファンタジックな剖検を終えている間に、所轄、四谷署から連絡がきた。
中谷と板垣は顔を見合わせた。
──すぐに送る、という。
「現着同時かよ、丸投げか鑑識、勘弁してくれ」
「言ったでしょ。やつらはヤベエんだ」
中谷は板垣に、どうにか自分の「印象」を共有してもらいたい。
これは管理官が、事件性を判断する必要すらない案件なのだ。
一課も理事官も、全部の「捜査」が同時に動いた。
まさか「死体が走った」などとは言われなかったが、あきらかに動揺していた。ネットでも騒ぎになっている。
死体が出、それも人々の目に映り、記録されてしまったら、もう隠しおおすことはできない。刑事警察機構は自動的に動き、事件解決へと向かう仕組みになっている。
日本の警察は(基本的に)優秀だ。
その最先端に立つ中谷は、すぐれた直感で「敵」の事情を忖度する。
「内部告発者ってやつなんでしょうな、これは」
「知るかよ。ばかばかしい」
30年間、護持してきた常識を覆され、板垣は不機嫌だった。
ともかく「動く死体」は、中谷に命を懸けて、何事かを伝えてくれた。
死体がなかったら事件にすることはむずかしい。が、逆に言えば死体さえあればいい。
みずから見た境界の惨状すら、こちら側に死体が出ていないおかげで、集団行方不明にされてしまっている。
あちら側に食われたら、事件にすらしてもらえない。
そこから死体を送ってくれた。告発のために。自分の死体を。
「ようやく見えてきましたよ、敵の大本がね。……心配すんな、ネクロマンサー。おまえがいなかったことになんて、ぜったい、させやしねえからよ」
中谷は、腹かっさばかれた目のまえの死体に、敬意を表す。
おそらく最初の2体は、いま死んだネクロマンサーの仕業だったのだろう。
魔方陣を呑み込ませ、生贄として消滅することを拒絶し、脳を失った状態で、操り人形をこちら側に返した──人形使い。
彼の遺志を受け継いでやらねばならない。
「……操屍術か」
板垣がめずらしくネットで調べながら言った。
解剖で発見された魔法陣には、たしかに東方の香りが漂っていた。
「ああ、チャイニーズの気配はありましたね、なるほど。……キョンシーってやつか」
つぶやく中谷。
その息子、チューヤの悪魔全書には、モウリョウ(魍魎)で登録されている。
僵尸の出典は『子不語』などで、コミカルな姿でも知られるが、人を食らい、竜と互角の力をもつ怪物に成長することもある。
数か月も意のままに操る「送屍術」という魔術もある。
本来、死後に硬直したまま腐乱していない屍体のことで、いわば天然のミイラだ。
「はっ! おまえも昭和だねえ。どうりで、どこかで見た気がしたわけだ」
腐す板垣と並んで、あやしげなネットの画像を眺める。
警察のまじめな画像検索では、こういう不真面目なサイトに導いてはくれない。
──昭和末期、キョンシーというアイコンが一世を風靡したことがある。
額にオフダを貼り付けて動く死体、というホラーコメディだ。
「東方系の呪術に、ほどよく混じった西洋。そして仏教系の学館か。──おまえの正体、明かしてやるからな、いかさまネクロマンサー」
中谷はつぶやき、出口へと歩き出す。
このさき解き明かさなければならない、多くの謎に向かって。
信濃町の学館ビル周辺は、ひどい騒ぎになっていた。
しかし、一歩ビルの内部にはいった瞬間、喧騒は一気に遠ざかる。
地階はまだこちら側にあったが、下、そして上へ行くほど、あちら側の気配が濃厚になる。
数人のスーツ姿の男たちが、能面のような無表情で、エレベーターに乗り込んでいく。
そのなかには外国人も多い。
高級そうなスーツは、これから対面する相手に合わせたのか。
高層階で止まったエレベーターから降りると、ひとりの女性が彼らを出迎えた。
丁重に頭を下げ、それから男たちの身元を確認する。
「……各社、1名ずつでお願いします。残りはあちらでお待ちを。ソンブレロ社、ノバテラスファーマ社、それから、デメトリクス社」
「はい」
言葉少なに応じ、3名がまえに出る。
女に導かれ、境界の奥へと進む。
──世界を覆い尽くす、メガ・ファーマ。
膨大な開発費用を要する製薬業界において、新しい薬は、もはや世界的巨大製薬企業たるメガ・ファーマシーからしか生まれない。
画期的な「プログラムを内包するカプセル」も含めて──。
「こちらでお待ちを。教祖さまは、ただいま沐浴中でございます」
だれにも文句は言えない。
3人の企業戦士は、控えの間に並んで座り、黙って呼び出されるのを待つ。
そのなかで日本人らしい「社員」が、横の西洋人に向かって英語で声をかけた。
「どうも、ノバテラスファーマ日本法人のナガノです」
話しかけられたのは、もとより社交的なアメリカ系企業戦士。
当然、これから会う人物に合わせて、完璧な日本語を詰め込んでいる。
流暢な日本語で、彼は応じた。
「ソンブレロ社、ウィルソンです。よろしく」
ふたりの視線を受け、しかたなさそうに最後のひとり、インド系らしい浅黒い肌の男が自己紹介した。
「デメトリクス社、渉外担当、タゴールです」
ナガノ、ウィルソン、タゴールは、互いの立ち位置を瞬時に理解した。
ノバテラスはヨーロッパ系メガ・ファーマで、日本の製薬会社の多くが買収を受けて呑み込まれた。
前年の世界シェア3位。
ソンブレロ社はアメリカに本社を置く、世界最大の独立系バイオベンチャー企業。
1980年創業と新しいが、画期的な新薬によって世界シェア9位を獲得している。
そして、デメトリクス社。
創業は21世紀にはいってからで、そもそも製薬とはなんの関係もないインド系IT企業だったが、とある「プログラムを内蔵したDNA計算機」という画期的なテクノロジーによって業界に参画。
元宗主国イギリスからの出資を受け、インド・イギリス合弁企業として、本年より新たに製薬業界に乗り出した。前年記録はない。
カプセルの「上流」工程を受け持つのが、このデメトリクス社である。
とあるプログラムとは、もちろん悪魔相関プログラムのことだが、公には特定疾患を内部から治療するプログラム、ということになっている。
突出した特許であり、だれにもマネできないが、それを実用的なカプセルにまでできるかといえば、彼らにはできない。
製薬業界のノウハウを詰め込んだ、高度な「中流」「下流」工程なくして、製品化は不可能ということだ。
デメトリクス社が出したのは、あくまで「上流」の「アイデア」である。
無数の特許でがんじがらめになっている製薬業界で、とくにノバテラスとソンブレロの固める特許なくして、カプセル製造は一歩も進まない。
デメトリクスにとっては苦々しいかぎりだが、それが人類の築き上げた英知の現実なのだから、受け入れるしかない。
「きょうは、原料供給側と、技術的な打ち合わせということで……?」
「まあ、そういうことですが」
「もちろん、たいへん難易度の高い代物ですね、このDカプセルは」
ノバテラス社ナガノは、他社の名を冠したデメトリクス・カプセルという呼び方をあまり好まない。
「ディプセルの力は、それだけすさまじい。値段のつけようがないほどだ」
ソンブレロ社のウィルソンは、悪魔を宿すという意味で「Dip」を動詞活用した。
最初の挨拶を交わせば、もう友人。オープンなアメリカ人の口調は、早くもフランクに砕けている。
悪魔の力を身につけるためのナノマシン。
異世界線の侵略を受けるこの世界で、敵の力を活用して撃退する、あるいはともに生きる、という生き方を選ぶ自由もあっていい。
そのために欠かせないのが、このディプセルだ。
「現状、試供品的に流しているだけだが、そろそろ本格的な流通があっていいと考える」
「早まるな。原料供給という難題を、どうクリアするかだ」
「世界に知らせたらいい。どうやってつくるのか?」
苦虫を噛み潰したように、ナガノとウィルソンが顔を見合わせた。
まさに、それを知らせたら、それが量産できない理由もわかる。
「──デメトリクス・システムは、大脳新皮質でのみ、増殖する。どうしても、犠牲になる人間工場が必要だ」
「この作り方だけは、なんとかならんものですか、上流工程の」
「正確には、増殖はしない。自己増殖するナノマシンは、いまのところ存在しない。また、存在しないほうがいい。惑星規模の悲劇を避けたいならば」
淡々と応じるタゴール。
自己増殖する人工の微生物的なものによって、地球が滅びる、というアイデアはしばしばSF作品の素材となっている。
「やはり、人間を工場にするしかない、ということですか」
眉根を寄せるナガノは一見、虫も殺さない日本人的やさしさを示す。
「そうだ。人間の脳を使い、感染許容量までナノマシンを増殖させる。カプセルの原料になりうるのは、同じ人間の大脳新皮質以外にあり得ない」
人間の大脳、というタイミングで、ウィルソンがポケットから、見慣れた白いカプセルを取り出した。
3社の協業によって、どうにか製造が可能となっているカプセルの製造は現在、1日数千個とされている。つまり世界で数千個、ということだ。
現状、ひとりの人間の脳髄から百個ほどつくれるが、技術開発の方向としては、その数を増やす努力をする、という方法がまずは最優先だろう。
「自分、このたびレベル10を超えてね。2個目のカプセル受け入れ準備が整った。というわけで、おぇぇえー」
吐きそうな顔を演出しながら、冗談めかしてカプセルを呑み込むウィルソン。
「心配はいらない、人間そのものを食っているわけではない。分子レベルで抽出した、ただのナノマシンだ」
タゴールは興味なさそうに、真実のみを告げる。
短く嘆息し、うなずくナガノ。
原料が血液だろうが臓器だろうが脳漿だろうが、人間は助け合って生きなければならない。そう、頭では理解している。
「輸血を受けるようなもの、というわけかな?」
「しかし、その過程にはだいぶ問題があるようだ……」
「としても、われわれには関係がない」
「議会のコンプライアンスをまえに、同じ言葉が言えるかい?」
「培養された大脳じゃないか、ただの」
「ただの大脳? なるほど、悪魔らしい言葉遣いだ」
ゆらり、とタゴールの皮膚の色が変化したように見えた。
どうやら彼はタイプRらしい。
「人間に感染させるナノマシンを、人間の脳で培養するのは合理的な選択肢だろう? むしろ当然の方法といってもいい」
「倫理学の授業を受けさせたら、きみは落第するだろうなぁ」
「半導体素子をつくるのと同じ工程で、ナノマシンを製造できる技術まで、いずれはたどりつくかもしれない」
「だが現状、生物工場である人間の脳を使うのが、いちばん手っ取り早いのだ」
「しょせん、魂を吸い取られた抜け殻の肉塊でしかない」
ウィルソンはカプセル摂取の興奮からか、立ち上がり、オーバーアクションで饒舌に語る。
「そうだ、悪魔が魂を食らい、その残滓である肉体、大脳の一部が、つぎの人類を強化するためのナノマシンに使われる。これほど効率的な経済原則はないだろう? いちばん人類が喜びそうな工程じゃないか? きれいごとにばかり拘泥するのはよせ。人間はそうやって拡大してきたのだ。同じたぐいの手法で、自分たちが道具の一部になるだけだ。それを悪魔の所業と断罪したいなら、それはみずからを断罪するのと同じだ」
「自己省察と文明批判は、人類史において、つねにくりかえされてはきたわけだが」
「では、つづけるがいい。それが忌まわしいものだと思うなら、文明の利器を使わない生活にもどって、静かに暮らせ」
「それもひとつの理想だな」
「ほんとうに、理想だよ」
ナガノが皮肉な笑みを浮かべたとき、ドアが開いた。
──原料供給業者。
彼らのご機嫌を損ねたら、ビジネスは一歩も進まない。
3名のビジネスマンは、決意も新たに立ち上がった。
このさきにいる「教祖」のご機嫌を1ミリも損なわず、最大の供給体制を確保しなければならない──。