16 : Day -33 : Gokokuji
リョージは約一週間まえ、この場所を訪れたことを思い出していた。
極東カテドラル。
キリスト教に縁もゆかりもないリョージにとっては、一生訪ねることもないと思っていた場所だ。
しかし先週、水曜の鍋のあと、ヒナノとふたりで「エジプトの動きを探る」ことになり、彼女の迎えのクルマとともに蒲田へむかう途中、すこしだけ寄った。
美しくモダンな建築の様式はわからなかったが、そこが一神教にとって重要な場所であることは理解できた。
異教徒ではあるが、だからといって立入禁止でもない。
下の聖堂までは出入り自由で、観光スポットにもなっているという。
移動の途中で、ヒナノの家庭教師(?)であるガブリエルの陥っている状況について、簡単に説明を受けた。
すこし面会をしていきたい、ということで立ち寄ることに否やはない。
カテドラルが極東における一神教の牙城である、ということは老先生からも聞いて知っていた。
敵陣視察、という思惑がなかったわけではない。
ヒナノと敵対することなどあまり考えはしなかったが、周囲がリョージの思惑どおりに動くとも思えない。
いや、むしろリョージたちを巻き込んで、意図しない暴虐な流れをもたらすのが、残念ながらこの「世界の真実」というものだ。
ふと、背後に気配を感じてふりかえった。
ヒナノが立っている。
「わざわざ来ていただいて、恐縮ですわ」
「いや、最初からそういう予定だったろ。……チューヤたちは?」
ヒナノは一瞬、うざったいような表情をしたが、すぐにいつもの冷静な面持ちで、
「代々木上原で集合と伝えてあります。彼らにとっても、そのほうが近くてよいでしょう」
「そうだな。……なんか最近、学校サボってばっかだよな」
水曜の昼間、まだ午前中だ。
本来、絶賛高校生中でなければならない時間。
だが世界的に、そんな場合ではない、という状況を多くの地球市民が理解しつつある。
そんななか、日本はいちばん「ぬるま湯」の状態にあるらしい。
それでも、そのぬるま湯に投げ込まれている面々にとっては、足もつかないし流れは強いしで、たいへんな状況であることはまちがいない。
「……なにを考えていましたか?」
ヒナノの問いに、リョージはしばらく物思いにふけってから、言った。
「やっぱ、先週のこと、かな。頭のわるいオレには、よくわからなかったけどね」
「安心してください。わたくしにとってすら、そうとう難解な話です。……われわれアブラハムの宗教には、おそろしい歴史がある事実は、認めなければなりません」
ふたりは、並んでともに正面の十字架を見上げる。
その姿が、先週の彼ら自身と重なる──。
その日まで、ガブリエルはカテドラルの敷地内であれば、自由に移動できていたという。
それが翌日以降、自室軟禁の状態まで格上げされたのは、おそらくこのせいだったろう。
ヒナノとの再会を喜ぶガブリエルの表情が、おそろしいほど蒼白になって固まった。
その視線をたどり、ふりかえったさきにリョージは見た。
聖堂の入り口にたたずむ、褐色の肌をしたひとりの長身の男を。
「ルイさ……っ」
「近寄ってはなりません!」
鋭く声を発するヒナノにおどろいて、足を止めるリョージ。
叫んだ彼女が緊張した面持ちで、視線上、褐色の肌と色ちがいの瞳をこちらに向ける、その男を凝視する。
それから、ちらりと横に視線を移し、ガブリエルの表情を確認する。
ガブリエルは静かにうなずいて、一歩を踏み出した。
「ひさしぶりですね、ルシファー」
「きみか、ガブリエル」
互いに数歩の距離を詰める。
リョージとヒナノは、ガブリエルの背後に守られるような位置取り。
「あの、知り合い、ですか」
リョージの問いに答えるつもりは、だれもないようだ。
ルシファーは静かに、リョージを含め、一同に漠然と告げる。
「明日、一度アメリカに帰ることになっていてね。たぶん、しばらくもどれない」
「ああ、老先生も言ってました。見送り、行きますよ」
リョージは短く応じたが、それ以外の面々にとって、ルイの発言の意味するところは大きく異なるようだ。
ガブリエルは能面のように冷たい表情で、さらに一歩、踏み出す。
「……アメリカを壊すのですか?」
その一言は、直球のように人々の耳朶を打つ。
読め、とムハンマドに強いた大天使の姿を、まさに彷彿とさせた。
ルイは、冷たい笑みでそれに応じ、
「人聞きのわるいことを言う。アメリカが壊れるとしたら、それは神が決めたから(マニフェスト・デスティニー)だろう?」
神から与えられた使命として、アメリカ人はインディアンからつぎつぎと領土をむしりとって、その生命と生活を破壊した。そう、神が決めたからだ。
なんとも都合のいい神に「決められた運命」にしたがって、アメリカ人はアメリカを奪い取った、それじたいを「正義」とした。
日本人も、これと寸分たがわぬロジックを体験している。
太平洋戦争で「日本人を大量虐殺したのは正義」と、国連憲章でうたわれている。負けた側は、そのような理屈を受け入れざるをえない。
これは客観的に認められる近代史であり、厳密に検証可能な史実である。
「……ルシファー。あなたは」
その一瞬、見せたガブリエルの表情と、ルシファーの表情が同じにみえた。
リョージも気づいたその事実を、ヒナノは全身全霊で拒絶したかったが。
「ギャビー、きみもまた神に背くのか?」
空気が凍りつく。
ヒナノは、気の毒なほど顔面蒼白となって、ガブリエルを凝視した。
ガブリエルをギャビーという愛称で呼ぶほどの親しさは、ほとんどミカエルに比肩する。なにより、その言葉の意味内容。
「ガブリエル……っ」
ヒナノの悲鳴のような声に、しかしガブリエルはふりかえりもせず、わずかに左手を挙げただけで高ぶった感情を抑えこんだ。
一神教の象徴ともいえる大天使、ガブリエル。
それが、背教の極みであるルシファーと通じているとしたら。
イスラームの邪神バフォメットと通じ、神学機構の勢力図を塗り替えようと奸計をめぐらせた黒幕は、やはりガブリエルだったのではないか?
払拭されるべき疑いまでが、よけいに燃え立った。
「気乗りのしない仕事もあります」
しかしてガブリエルの声音からは、わずかの緊張も感じ取れない。
「おかげでいいところまでいったが、エルサレムを滅ぼすには至らなかったな」
ルシファーも同断だ。
なつかしげな視線を交わす両者。
彼らはただ「昔の話」をしている。
──「歴史」。
彼らの会話は、一挙に2000年を超えていた。
紀元前500年、イスラエルに怒りをおぼえた神は、万能の戦車を用いて、イスラエル全土に火を降らせることとした。
旧約の怒りっぽい神は、またぞろ言うことを聞かないユダヤ人に憤慨し、こんどこそ滅ぼし尽くしてやることに決めたのだ。
その役割を担ったのが、ガブリエルだった。
しかし彼女は、イスラエルを滅ぼしたくなかった。
「あきれるほど、のろまなケルビムでした」
「そうだ。きみは気乗りのしない仕事を失敗させるため、わざと無能な天使を相棒に選んだ。おかげでわたしは、神の決めたとおり、イスラエルを滅亡させることができなかった。いいところまではいったがね」
ネブカドネザルはエルサレムに猛攻を仕掛け、第一神殿を破壊して火をかけた。
ユダヤ人の身分の高い者を人質とし、イスラエルを徹底的に痛めつけた。かの名高い「バビロン捕囚」である。
ガブリエルは眉根を寄せ、
「バカな。欺瞞もたいがいになさい。あなたほどの力をもってして、脆弱な民族のひとつやふたつ、絶滅させられぬはずがありますか」
「フッ。きみがイスラエルを気に入っているようだったのでね。かの民族を使って、どんな歴史を刻むつもりなのか、見てみたくなったのさ」
聖書などでは口を極めて罵られている、ネブカドネザル2世。
その正体こそが「ルシファー」である。
『列王記』『エレミヤ書』『歴代誌』『ダニエル書』など、多数の文献によって言及されている悪魔の長は、暗喩、あるいはしばしば直喩をもって、新バビロニアの王ネブカドネザルを指している。
最悪の悪魔として描かれる、ネブカドネザル。
しかし彼は、たしかにイスラエルの多くの民を捕囚としたが、けっしてそれを絶滅させようとはしなかった。
むしろユダヤ人に自由と権利を与え、豊かなバビロンで新たな繁栄を約束した。
狭量なイスラエルは旧約聖書において、そんなネブカドネザルの暴虐を、口を極めて罵っている。
しかし、戦争捕虜の立場でありながらそのような記録が残せたことじたい、かのバビロン王がユダヤ人をどれだけ優遇し、自由を許していたかの証左ではないか。
やがて王国が滅び、自分の国へもどるがいいと言われても、多くのユダヤ人がバビロンを離れようとしなかったという。
それほど、かの国は居心地がよかったのだ。
「もともと神も、それを望んでいたはずです」
「忖度したってわけか。しかし、きみは内陣から追放されたではないか」
「おかげで、しばらく休むことができました」
「そうだな。そして、すぐに復権を果たした。──ガブリエル、きみは神に愛されるようにできているのだ。わたしとちがってね」
再び見つめ合うふたり。
あまりにも深い歴史の真相が、リョージにはまったく理解できず、ヒナノにも半分くらいしかわからない。
「ガブリエル、説明なさい、あなたは」
「ルイさん。そのひとと、どういう知り合い?」
若者たちの問いに、名高い大天使と堕天使は、ゆっくりと視線を向けた。
「聖書学をご存知でしょう、マドモワゼル。あの書物には、多くの真実があるのです」
「そして虚偽もな。リョージくん、わたしは西の連中にいじめられたので、東のご老人と力を合わせて、思い知らせてやることにしたんだよ」
冗談めかした物言いに100%の真実は読み取れないが、それでも根拠のない言質でもないことは理解できる。
太上老君と力を合わせて、一神教の勢力に一泡吹かせる、という意味だろうか?
ガブリエルは、再びゆっくりとルシファーに向き直る。
「福音派から強い懸念と警告が発されています。超大国をもてあそぶのはおよしなさい、ルシファー」
「神の長女よ、きみたちにとってみれば、しょせん対岸の火事ではないか?」
ガブリエルはフランス系オランダ人だが、もちろんEUの中心としてその代表権を握っている。現状、一時的に失権してはいるが。
「われわれは、新たな盟約を交わしたのです。神学機構は統一戦線を張る。すくなくとも約束の日までは」
「そうだったな。よもやイスラームまで取り込むとは、きみたちの底力には恐れ入る」
ルシファーは皮肉な笑みを浮かべ、右足にかけていた体重を左に移しながら、ガブリエルの背後の少年少女に視線を投げる。
ヒナノは、その視線を感じるたびに恐怖をおぼえ、リョージは、旧知であるはずの「ルイさん」の底知れぬ雰囲気に戸惑う。
「……あなたこそ、強すぎる。ゆえに、その傲慢も理解できなくはないが」
「そうかね? ──神は、こんどこそ、アメリカのイスラエルを滅ぼそうと、お決めになったのではないか?」
「新たな勅命は出ていません」
「フッ……きみが聞き耳を立てていないだけかもしれないぞ?」
薄笑いを浮かべ、そのまま背を向けるルイ。
おそるべき計画は、淡々と進行している。
リョージとヒナノは、ただその輪郭さえも、おぼろにしかわからない──。




