12 : Day -34 : Tabata
「……トキソプラズマ感染症」
部屋の奥から聞こえた声に、一同ふるえあがった。
ただちに戦闘態勢を整え、チューヤ、ケートが前面に展開、壁を背にサアヤを守る配置。
まだ境界化はしていないので、悪魔やスキルの出番ではない。
これはこれで「現実的な対応」という前提でプランは立てやすくなるが、たとえば地下室崩壊など圧倒的な物理的破綻が引き起こされた場合、魔法で逃れるなどというズルはできないということでもある。
部屋の奥から現れたのは、しかして、あまり「現実的」ではない存在だった。
──幽霊だ。
「まじかよ、透けて見える」
「半透明だな。おかしいだろ、境界化もしていないのに」
「つまり、力はないってことだよね。ケルみたいなもんで、見えるだけ、ってこと」
サアヤの頭上で、野良ポメ・ケルベロスが「ばうわ」と鳴いた。
彼らはナノマシンを起動すれば、いわゆる「見えるひとには見える」状態にはなる。
だが、お互いに魔法もスキルも使えない。つまり人体に影響を及ぼすことはできない。
現実世界で、いわゆる「見えるひと」や「霊感体質」のひとが、おそらく内発的な理由で身体症状を起こす、ということはある。
だが境界のように、いきなり肉体を破壊してくるような魔法やスキルが発動し、有無を言わさず「外部から」破壊される、ということはない。
その点では安心していいが、とはいえ、かなり境界に近づいている状態ではあるので、警戒を怠ってはならない。
「どこかで見たことあるな、きみたちは、たしか……」
そう言われ、ハッとしてチューヤたちはその幽霊を凝視した。
たしかに、見たことがある。
あれは……そう、光ヶ丘で会った……たしか、ナミの研究チームで部下をしていたひとり、ではないだろうか?
「もしかして、ナミさんの」
「……ああ、チーフの親戚の子だね。おぼえているよ」
幽霊はなつかしそうに言った。
どうやら貴重な情報を得られそうだ。
「それで、トキソ……なんとかって、なんですか?」
チューヤの問いに、幽霊は腹蔵なく応じる。
「トキソプラズマ感染症。全人類の3割が感染しているという、ありふれた寄生虫だよ」
「き、寄生虫……。あんまりいい思い出ないね、チューヤ」
必要以上にげんなりするサアヤに、チューヤも一応は同意する。
「奇昆虫館のことかな。巨大なゴキブリもたしかにおそろしいけど、寄生虫もおそろしいね。──けど、ありふれた感染症なんでしょ?」
「そのままであれば、ね。……このラボは、ありふれた感染症を、危険な感染症に変える能力をもっている。所長は、悪魔に魂を売ってしまったんだ……」
幽霊は頭を抱えてうずくまった。
そのせいで、生医研が破滅してしまったこと。
彼はみずからの命をもって、研究所の終わりを思い知った。
自縛霊となって、未来永劫、この地下に漂うことになるのかもしれない……。
「そのままであれば。ということは、そのままではない、ということか」
ケートの突っ込みに、うなずく幽霊。
「そう。……トキソプラズマは、人類が最終宿主ではない。感染しても軽い風邪ていどの症状しかないから、かかっても平気でいられるんだよ。しかし幼児やエイズ患者など、抵抗力の弱った人間では致命的な結果になることもある。治療が必要だ。ちなみに最終宿主は、ネコだよ」
ぎくっ、と背中を揺らすチューヤ。
先刻、アホのようにネコとたわむれていた、己が醜態を思い返すだに恥ずかしい。
──トキソプラズマは、ネズミに感染し、その行動を支配して、ネコに食わせる。
ネコを最終宿主とする原虫にとって都合がいい機構だが、理由は明確にわかっていない。
通常のネズミはネコの糞便の臭いなどに恐怖を感じるが、トキソプラズマに感染したネズミは平気で寄っていく。
脳内にドーパミン量が増えていることと関係があるらしい。
「食物連鎖のコントローラか」
「それでチューヤは、わざわざ危険な方向に寄っていったんだね」
トキソプラズマに感染した男性は反社会的になり、女性は社交的になるという。
集中力散漫、規則破り、危険行為、独断的、猜疑心など。
女性は社交的、ふしだら、男性に媚びるなど。
「それでサアヤさんは、いつもよりいやらしいんですね」
「いやらしくねーよ! 私は陰性だから! よくステータス見ろよ!」
トキソプラズマの陽性反応は日本では10%前後で、フランスでは80%と高い。
薬物治療が有効で、効果はあるが、完治することはない。
「人類を危険に誘導する……これは手始めだ。所長の考えていることは、もっと危険なんだ」
企業体質の闇、奥深くまで知るらしい幽霊は、内心忸怩たる表情で言った。
知らなくてもいいことを知ってしまった、すくなくともそう判断されたことによって、彼は死を賜ったのかもしれない。
「それはいいんですけど、とりあえずトキソプラズマのほう、なんとかしてもらえないですかね?」
ようやく「自覚症状」に達したチューヤの求めに幽霊は、
「通常は免疫系によって抑え込まれるはずだよ。急性感染症でも、軽快を待つのが得策だ。免疫機能が低下しているひとの場合は重篤な症状を起こすが……」
ケートは首を振って言葉を返す。
「すでに重篤だろ。危険に飛び込んでいくんだぞ。危なっかしくてやってられん」
「なるほど、そうか。では、ピリメサミンとスルファジアジンを投与するといいだろう。あるいはクリンダマイシン、ロイコポリンを足してもいい」
トキソプラズマ症の治療に使われる組み合わせだ。
ただし適用は妊婦や免疫不全症などにかぎられ、健常者は治療を必要とせず、むしろ自然に任せたほうがよいとされる。
「ところで、あのドアのむこうは、どうなってるんですか?」
「ああ、あそこか。あのむこうは、とても危険だから、ぜったいに行ってはいけないよ」
幽霊の言葉に、ガッツポーズで跳びあがり、歩き出すチューヤ。
「っしゃおら! 行くぞおまえら、危険のなかにこそ新たな道が開け」
「黙ってろ」
すこーん、とチューヤの脳天をしばいてから、ケートは幽霊に向き直る。
「その薬、効果あるのか? 変異したパターンだろ?」
「もちろん、効果は未知数」
「そもそも、こんなところに薬とかないだろ! しょせん血塗られた道だ。だいじょうぶ、父さんは帰ってきたよ!」
どうしても奥のドアに向かいたいらしいチューヤの背中を押さえながら、一生懸命突っ込むサアヤ。
「父さんは行ってないだろ! 竜の巣じゃないし!」
「じゃあ、ほかに道あんのか? こんな病気、風邪みたいなもんだよ。たいして影響ない。俺は冷静だ。うしろにもどれない以上、まえに進むしかない!」
「もどる算段を立てるという選択肢を頭から排除するのはやめろ。……幽霊、とりあえずリスクを判断したい。まえに進むか、もどるか」
「すくなくとも、わたしがここにきて以来、そっちに進んだ人間が生きてもどってきたことはない」
幽霊が示唆するのは、壁際に積まれた袋の山。
一般にそれは「死体袋」と呼ばれている──。
「このさきには、なにがあるんだ?」
「谷中といえば、決まっているだろう。──墓地だよ。死者の国だ」
おそらく彼も、本来はそちらに進まなければならないのだろうが、どういう事情からか、まだこの場所にとどまっている。
「所内での死亡者か? なぜ通常の手続きを踏まない?」
「最近、行方不明が増えているからね。めんどうな手順を省くのに、ちょうどいいのだろう。以前のわが社なら、こんなことはしなかった。買収以来、すべてが狂ってしまった」
頭をかかえ嘆く幽霊。
ふと背後に変化を感じて、ふりかえるケート。
エレベーターの階数表示が「7」から、下向きに動きはじめている。
顧みた幽霊は、ぽつりとつぶやく。
「……そろそろ動き出すだろうな。セキュリティが」
「どういうことだ」
「どうもこうも、きみたちは侵入者だ。本来、行くはずのない地下にエレベーターが向かった。知ってのとおり買収劇の混乱で、社内には手が足りていない。とはいえ、アラートが鳴ったら対処チームは動くだろう。監視カメラをチェックして、どうすべきか判断する。どうなるかは、自分で想像してくれ」
おとなしく捕まるか。
さきへ進むか。
「行こうぜ、ケート! ドアを開けてくれ」
「チューヤ、ハウス! 危ないことしたらメッメ!」
「男には、やらなきゃならないときがあるんだよ! たとえるなら空を翔ける」
「一匹のバカチンがーっ!」
サアヤにしばかれ、ふっとぶ流れ星。
しばらく考え込んでいたケートは、みずから奥の錆びた鋼鉄のドアのまえまで歩き、ノブに手を添える。
鍵がかかっているが、幽霊がボイラーの裏を示唆すると、そこにキーボックスが見つかった。
おそらく点検員などが通常使用するのみなのだろう。
かけられた鍵の束を手に取り、端から試す。
3つめで、カチャリ、とまわった。
「毒を食らわば皿まで、ってか。──行けよ、チューヤ」
「さすがケート、話がわかるぜ! ヒャッハー!」
「ちょっと、ケーたん!」
危険に向かい、らんらんと目を輝かせて、チューヤがドアを開く。
一瞬、陰圧に引き込まれるような感覚とともに、広がる新たな世界。
はてしない地下へとつづく「坂道」は、強力な境界となって、生者たちを呑み込んだ。
取り残された幽霊は、自分の遺体が積まれている袋に腰かけながらつぶやく。
「だれももどってはこなかったけど、それはぼくがここに積まれて、まだ24時間しか経っていないからかもしれない。──健闘を祈るよ、若者たち」
そのさきに、はたして希望はあるか。




