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歩怪門

作者: 赤川ユキ
掲載日:2023/03/31

 ある日の暮方の事である。一人の少年(サトシ)が、歩怪門(ポケモン)の下で雨闇を待っていた。

 広い門の下には、この少年(サトシ)のほかに誰もいない。ただ、所々塗りの剥げた大きな仁王像に、カメムシが一匹とまっている。歩怪門が、カントー地方にある以上は、この少年(サトシ)のほかにも、雨闇をする鯉王(コイキング)光宙(ピカチュウ)が、もう2~3人はありそうなものである。それが、この少年(サトシ)のほかには誰もいない。

 何故かと云うと、この2~3年、カントー地方には、地震とか落雷とか火事とか親父とか云う災厄が連続して起こった。そこで大都会(クリスタルキング)のさびれ方は一通りではない。

 旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その漆がついたり、星の白銀(スタープラチナ)箔がついたりした木を、路地裏につみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。大都会(クリスタルキング)がその始末であるから、歩怪門の回復などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。

 するとその荒れ果てたのをよい事にして、石住賣(イシズマイ)が棲む。泥蔞虵(ディグダ)が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない夜神月(キラ)を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

 その代りまた椋羽鳥(ムクバード)がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その椋羽鳥が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けで朱くなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。椋羽鳥は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄ばみに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、椋羽鳥の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。少年は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

 作者はさっき、「少年(サトシ)が雨闇を待っていた」と書いた。しかし、少年(サトシ)は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時大都会(クリスタルキング)の町は一通りならず衰微していた。今この少年(サトシ)が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「少年(サトシ)が雨闇を待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた少年(サトシ)が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の少年(サトシ)の Sentimentalisme(廚二病) に影響した。申の刻下がりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、少年(サトシ)は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきからカントー地方にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

 雨は、歩怪門(ポケモン)をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、帆茶麻(ポッチャマ)のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――少年(サトシ)の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。少年(サトシ)は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「歩怪門達人(ポケモンマスター)になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 少年(サトシ)は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする大都会(クリスタルキング)は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていたカメムシも、もうどこかへ行ってしまった。

 少年(サトシ)は、頸くびをちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ鯉王(コイキング)ばかりである。少年(サトシ)はそこで、腰にさげた聖柄の太刀(エクスカリバー)が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。

 それから、何分かの後である。歩怪門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、(ニャルマー)のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。少年(サトシ)は、始めから、この上にいる者は、鯉王(コイキング)ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この歩怪門(ポケモン)の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 少年(サトシ)は、夜廻(ヨマワル)のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。

 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸(ルシ)が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸(ルシ)と、着物を着た死骸(ルシ)とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸(ルシ)は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏こねて造った謎草(ナゾノクサ)のように、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の如く黙っていた。

 少年(サトシ)は、それらの死骸(ルシ)の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。

 少年(サトシ)の眼は、その時、はじめてその死骸(ルシ)の中に蹲まっている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、刃屢騎(バルキー)のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸(ルシ)の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸(ルシ)であろう。

 少年(サトシ)は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「獣球(モンスターボール)が増える」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸(ルシ)の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。

 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、少年(サトシ)の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの少年(サトシ)に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか歩怪門達人(ポケモンマスター)になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく少年(サトシ)は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。

 少年(サトシ)には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし少年(サトシ)にとっては、この雨の夜に、この歩怪門(ポケモン)の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、少年(サトシ)は、さっきまで自分が、歩怪門達人(ポケモンマスター)になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。

 そこで、少年(サトシ)は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄の太刀(エクスカリバー)に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。

 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾はじかれたように、飛び上った。

 「おのれ、どこへ行く。」 少年(サトシ)は、老婆が死骸(ルシ)につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも少年(サトシ)をつきのけて行こうとする。少年(サトシ)はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸(ルシ)の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。少年(サトシ)はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。丁度、若軍鶏(ワカシャモ)の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。

 「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」 少年(サトシ)は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀(エクスカリバー)の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、少年(サトシ)は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、少年(サトシ)は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」

 すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその少年(サトシ)の顔を見守った。まぶたの赤くなった、里差吨(リザードン)のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、少年(サトシ)の耳へ伝わって来た。

 「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」

 少年(サトシ)は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸(ルシ)の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

 「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

老婆は、大体こんな意味の事を云った。

 少年(サトシ)は、太刀(エクスカリバー)を鞘におさめて、その太刀(エクスカリバー)の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、少年(サトシ)の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。少年(サトシ)は、饑死をするか歩怪門達人(ポケモンマスター)になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

 「きっと、そうか。」 老婆の話が完ると、少年(サトシ)は嘲けるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。 「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

 少年(サトシ)は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸(ルシ)の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。少年(サトシ)は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。

 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸(ルシ)の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒さまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

 少年(サトシ)の行方ゆくえは、誰も知らない。

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