第41話 怪我
あっ──と思った時には遅かった。手から滑り落ちたブローチは、地面に向かって落ちていった。しかし、すすきがもう駄目だと覚悟した瞬間、ほんの少しブローチが浮いたように見えた。
「おっと」
間一髪のところで、アーロがブローチをキャッチした。手に収まったブローチをアーロが確認すると、傷一つ付いていなかった。
すすきはホッと胸を撫で下ろし、アーロに声をかけた。
「良かった……すみません、アーロ様。私、手が滑っちゃって」
すすきがそう言うと、アーロは視線をブローチからすすきへと移した。ジッと見つめられ、すすきの鼓動が速くなる。
「あ、あの。アーロ様、ごめんなさ……」
「いいんだ。それより、ちょっと手を貸して」
「え? ──っ痛⁉︎」
「やっぱり、痛めてるね。どこかで転んだりした?」
そう言われて、すすきは初めて気が付いた。掴まれた右手首は、赤くなり少し腫れていた。
慌ただしい一日だったため、すぐには原因が思い当たらなかった。しかし、今朝からの行動を振り返ってみると、ひとつだけそれと思われる出来事があった。
今朝、ハクトの部屋に移動した時のことだ。すすきは自室の前でブローチの力を使った。ブローチはすすきを時計塔のバルコニーまで運んでくれたが、すすきの体は、何故かふわふわと宙に浮いていたのだ。
石の床へ転がり落ちた時、すすきは咄嗟に手を突いた。おそらくその時に捻ったのだろう。
「今まで気付かなかったの? まったく、君って子はどうしてそんなに鈍いんだ。とにかく、メディカちゃんに診てもらった方がいい」
そう言いながら、アーロはすすきを心配そうに見つめている。触れた手の温もりとアーロの優しさに、すすきの頬はほんのりと赤く染まっていった。
まるで宝物でも扱うかのように、そっと離された手が名残惜しい。すすきはトクトクと脈打つ胸に手を当てながら、これまでと異なる感情の変化に困惑していた。
すると突然、アーロが怒りのこもった眼差しをティムへ向けた。
「ティム。今まで一緒にいたんだろう? どうして気付かなかった?」
「え? あ……それは……ちゃんと見てなくて……」
「ちゃんと見てなかった? ふざけるな。隊長補佐は、誰よりも周囲の状況を把握しておく必要がある立場だ。それなのに、隣にいる人間の変化にすら気付けなくてどうする。シールドの外でも──悪魔の前でも同じことを言う気か?」
「……すみません」
「謝るのは僕じゃないだろう」
アーロは怒鳴ることもなく、静かに怒りを表していた。だが、それが更に彼の厳しさを際立たせていた。
最前線で悪魔と戦う隊長と、国を守る副隊長。二人を信じ、共に戦う星兵たち。それらの橋渡し役となっているのが、隊長補佐という立場だ。
シールドの外では少しの怪我が致命傷になり得る。いち早く異変に気付き伝達することは、仲間の命を守ることにも繋がるのだ。その重要性を知っているティムは、何も言い返せなかった。
「すすき……ご、ごめんな?」
ティムは、しょんぼりと肩を落として謝った。
「ううん。いいんだよ。私も気付いてなかったし、手首を痛めたのはティムくんのせいじゃないんだから」
すすきがそう答えると、ティムは少しホッとしたような顔をした。
その後、すすきはアーロに改めてブローチの説明をした。アーロが快く魔力を分けてくれたことで、ブローチにはオレンジ色の魔石が追加された。
「ありがとうございます、アーロ様」
「うん。いつでも頼っておいで。僕は、君の顔を見られるだけでも嬉しいよ」
「は、はい!」
アーロのストレートな言葉に、すすきは頬を染めながら返事をした。出会った当初から王子様のようだとは感じていたが、関われば関わるほど、その感覚は濃くなっていた。
彼の態度は計算ではないのだろう。自分にだけ特別なのではなく、どんな女の子にも同じように優しいのだ。
だが、それを理解していたとしても、鼓動が速くなる。
このドキドキと揺れる気持ちが、憧れからくるものなのか、恋心なのか、すすきにはまだ分からなかった。
そんな自身の変化に戸惑っていると、少し遠くから呼びかけるような、大きな声が聞こえてきた。
「おー! ここにいたか! やっと見つけたぜ」
「フウガ様?」
ズカズカと大股で近づいてきたのは、第二部隊隊長のフウガだった。着ている隊服が、普段のそれより豪華に見える。いくつか見慣れない勲章が付いていて、金の装飾も増えていた。
「おう、お前もいたのか」
「はい。アーロ様に用があって、少しお話してたんです」
すすきが経緯を説明すると、フウガは納得したように頷いた。そして、すすきの傍に立っているティムへ視線を移した。
「おいおい。仕事サボって何しょぼくれた顔してんだよ」
アーロに叱られてすっかり大人しくなっていたティムに、フウガはズカズカと近づいた。そして、柔らかい頬を両手で掴むと、思いっきり引っ張った。
「オラ、元気出せ!」
「いたたたた! やめろよ! 痛いって! 元気だから!」
嫌がるティムの頬を、フウガはグイグイと引っ張り続けた。驚いたすすきは止めに入ろうとしたが、その行動はアーロに制止された。
しかし、誰かが止めなければティムはフウガの手から逃れられないだろう。二人を見つめながら、すすきはオドオドと狼狽えていた。すると、そんなすすきにアーロが囁いた。
「大丈夫」
「ほ、ほんとですか?」
にっこりと優しい笑顔で、アーロは頷いた。すすきは心配でたまらなかったが、無理に動くことも出来ず、そのまま見守ることにした。
元気だと言い張るティムに、フウガは疑いの目を向けていた。どんなに抵抗されても、頬を掴む手を意地でも離そうとしない。
「嘘つけ。暗い顔してたじゃねぇか。さては、女に振られたな?」
「違う!」
「フウガと一緒にはされたくないよ。ねぇ、ティム?」
「そうだ、そうだ!」
「んだと? 俺様を馬鹿にしてんのか⁉︎ 俺だって、飲み屋の姉ちゃんにはそこそこモテてんだよ、バカヤロウ」
「いひゃあああ‼︎ 痛いって、フウガ様‼︎」
ティムがフウガをバシバシと叩きながらもがいているが、やはり力では敵わないようだった。アーロも加わり、兄弟喧嘩のようなやりとりが続く。そうして戯れ合っているうちに、いつもの元気で生意気なティムに戻っていた。
三人の仲睦まじい姿を見て、嬉しくなったすすきは、クスクスと笑い始めた。上司部下の垣根を越えて、軽口を言い合える。そんな関係が、なんだか羨ましいと感じたのだ。
ようやく解放されたティムは、真っ赤になった頬を撫でながら、涙を浮かべていた。アーロとフウガは目を見合わせ、すすきにつられるように笑みを浮かべた。
ほんの短い間だったが、そこにはとても穏やかな時間が流れていた。すると、フウガが突然、思い出したように手をポンと叩いた。
「おお、忘れるところだったぜ。アーロ、お前を呼んでこいって言われてたんだった。ハクト様が勲章を取りに来いだとよ」
「ありがとう、すぐに向かうよ。……それじゃあ」
「ああ、すすきのことは俺に任せとけ」
「頼んだよ」
フウガにすすきを託すと、アーロは少し心配そうにすすきを見つめた。パチンと目が合った瞬間、すすきの頬が赤く染まる。
「あの、アーロ様。ありがとうございました」
「うん。なるべく一人にならないように。気をつけて」
目の前の揺れ動く感情に気付いているのかいないのか、アーロはすすきの頭を優しく撫でた。そして、ハクトの元へ向かうため、彼はその場から姿を消した。
すすきがアーロのいなくなった空間を見つめていると、大きな手にドンと背中を叩かれた。
「おら。怪我してんだろ? 行くぞ」
「え? フウガ様、なんで私が怪我してるって……」
「そんなに右手押さえてりゃ、嫌でも気付くだろ。メディカを探すぞ」
「あ、オレも行く!」
「ティム、お前はサボってねぇで仕事しろ。そろそろエルトンさんが爆発寸前だぞ?」
副隊長の名前を聞くと同時に、ティムは苦虫を噛み潰したような顔で「げっ」と呟いた。そして、すすきに別れを告げると、半ばフウガに追い返されるように、ボードに乗って去っていった。
「ティムくん! ありがとう!」
遠ざかっていくティムの背中に、すすきは叫んだ。ヒラヒラと右手を振っているところを見ると、声は届いたようだった。
「んじゃ、俺らも行くか」
「はい!」
すすきの元気な返事に、フウガが少し笑った。そして、お屋敷の立ち並ぶ通りから、二人の姿が消えた。
式典の日まで、あと少し。誰もいなくなった通りには、冷たい風が吹き抜けていた。
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