第12話 風呂
すすきは椅子に腰掛け、パンを頬張りながら、これまでのことを振り返っていた。外は既に暗く、月が顔を出している。静かな自室に響く薪のはぜる音が、心を落ち着かせてくれた。
グラスに入った水が、揺れる炎の影を映し出している。このグラスは、キッチンスペースの戸棚に元々置いてあったものだ。
喉の渇きを感じて水を飲もうとした時、食器類を買っていなかったことを思い出した。そして、今から買いに行くべきかと悩んだ末に、すすきは一度キッチンを漁ってみた。そこでグラスや皿を見つけたので、そのまま洗って使うことにしたのだ。
冷たい水を口に運びながら、テーブルをそっと撫でてみる。指先には埃一つ付かない。アーロが帰った後に気が付いたのだが、昼間に掃除を終えた時よりも、室内が綺麗になっていた。石の壁も、床も、家具も、水で丸洗いしたかのようにピカピカだ。
アーロが綺麗にしてくれたのだろうか。そんなことを考えながら、しばらく指先を見つめて、再びパンを頬張った。ほのかに酸味があって、少し硬い。いわゆるライ麦パンだ。小麦のパンも売ってあったのだが、黒っぽい見た目が珍しくてライ麦を選んだ。
エルフランドのパンは予想以上に美味しかった。しかし、一人でぼんやりと食べる食事はどこか味気ない。最後の一欠片を水で流し込むと、すすきは立ち上がって伸びをした。
軽く欠伸をしながら、シンの家から持って帰ってきた服を手に取る。縛っていたスカートを解くと、少し皺になってしまっていた。
「椅子に掛けておけばマシになるかな」
独り言を呟いて、スカートを椅子の背に掛けた。取り出した服や下着はテーブルの上に置いて、スニーカーはブーツと一緒に土間に並べた。
そして、その流れでシャワー室へ向かった。寝る前にお風呂と歯磨きを済ませようと思ったのだ。しかし蛇口を捻った時に、お湯が出ないことに気が付いた。蛇口のハンドルは一つしかない。他に付いているものといえば小さなレバーだが、それはシャワーと切り換えるだけのものだった。つまりは水しか出ないのだ。
「どうしよう、お湯が使えるかまで確認してなかった。そういえば、タオルも歯ブラシもないよ。すっかり忘れてたなあ……この世界のお風呂とかってどうしてるんだろう」
水道はあっても、給湯器なんて便利な物は無さそうだ。周辺を確認してみたが、外から薪で沸かすタイプでもなく、ぽつんとバスタブが置かれているだけだった。
涼しい気候とはいえ、今日は色々と動き回って汗もかいている。それに、明日はハクトの部屋へ顔を出したいし、もう一度買い物にも行きたい。だからお風呂には入っておきたかった。どうしたものかと悩んでいると、ハクトの部屋で見た光景がふと脳裏に甦った。
時計だらけのあの部屋で、紅茶を飲む前の話だ。白うさぎのヒュパタが、ハクトへ何かをお願いするように鼻をひくつかせた。すると突然、トレイに乗っていたケトルからゴポゴポと音が鳴りはじめ、数秒後には注ぎ口から湯気が昇った。魔法でお湯を沸かしたのだ。
すすきはチラリとバスタブを見て、少しだけ水を溜めた。お湯になれ、と念じながら何となく手をかざしてみる。もちろん、お湯に変わる訳がない。
「ははは……無理だよね」
ガクンと肩を落として、すすきはシャワー室を出た。よく考えれば、エルフランドは魔法使いの国だ。給湯器が無くても、わざわざ薪風呂にしなくても、魔法を使えば簡単にお湯が沸く。バスタブと水さえあれば温かいお風呂に入れるのだろう。
だが、魔法を使えない自分にはそれが出来ない。すすきは天井を見上げて、しばらく悩んだ。そして、椅子の背に掛けていたスカートを手に取り、服と下着を再び包んだ。
「困ったことがあれば、僕の部屋においで……って言ってたよね。遅い時間に申し訳ないけど、お風呂を借りられないか聞きに行ってみよう」
すすきは服と鍵を持つと、ランプに火を点けて自室を出た。そして、夜の寒風に震えながら、階段に繋がる向かいの扉をくぐった。
ギギギ……と音を立てて扉が閉まる。風は無くなったが、塔の中はひんやりとしていた。暗い階段を照らすのは、持っているランプの明かりのみ。一歩進むたびにコツンコツンと足音が響き、静けさと闇が恐怖を掻き立てた。
ふいに後ろを振り返った。何かが聞こえた訳ではない。ただ、怖いのだ。誰もいない筈なのに、誰かいるんじゃないかと思ってしまう。キョロキョロと周りを確認しながら、慎重に進んだ。
しかし、これではいつまで経ってもハクトの部屋に辿り着けない。引き返そうかと思ったが、来た道を戻るのも怖かった。心細くなったすすきは、服をギュッと抱き締めて、皇帝の名を呼んだ。
「ハクト様」
「──なあに?」
声が聞こえ、バッと顔を上げた。すると、ランプの明かりに照らされて、目の前にぼんやりと人影が浮かび上がっていた。
「っひ、ぎいやあああああ‼︎ お化けえええええ‼︎」
心臓が飛び出しそうな勢いで叫ぶと、すすきは階段を駆け降りようとした。しかし、何かに後ろ襟を掴まれてしまった。パニックになったすすきはなんとか振り払おうとするが、逃げられない。その時、背後から再び声をかけられた。
「すすきちゃん、僕だよ」
聞き覚えのある声だった。恐る恐る振り返ると、ハクトが後ろ襟を掴んだまま微笑んでいた。
「……ハ、ハクト様?」
「ここは寒いから、取り敢えず移動しようか」
そう言われた途端に、すすきの目に映る光景は切り替わった。
移動した先はハクトの部屋だった。相変わらずカチコチと規則的な音が響いている。明るい場所で改めて見ると、ハクトの服装は、昼間の白装束ではなくパジャマ姿に変わっていた。お風呂上がりなのか、いい香りが漂っている。首筋の辺りで切り揃えられた白髪は、さらさらで思わず触れたくなった。一体どこのシャンプーを使っているのだろうか。気になって見つめていると、ハクトが首を傾げた。
何か用があって来たのかと聞かれ、すすきは事情を説明した。一晩でいいのでお風呂を貸してほしい。そう伝えると、ハクトは快く受け入れてくれた。
「ごめんね。僕はいつも魔法で沸かしてるから、気が付かなかったよ。そうだなあ……お風呂を沸かすなら、香火石を使うといいかも」
「香火石?」
「うん。それがあれば温かいお風呂に入れると思う。詳しいことは明日話してあげるから、今夜は僕の部屋で済ませたらいいよ」
「ありがとうございます。でも、お風呂ってどこにあるんですか?」
キョロキョロと室内を見回して、すすきは首を傾げた。この部屋には、お風呂やトイレが見当たらなかったのだ。あるのは大量の時計と、テーブルと椅子だけ。それに、この部屋には扉が一つしかない。昼間に来た時は、その一つしかない扉から外に出た。だが、降りていく途中でお風呂がある場所などは見掛けなかった。
不思議に思っていると、ハクトが手を差し出した。繋いでという意味だと受け取って、すすきはハクトの手に自身の手を重ねた。するとその瞬間、ぐにゃりと空間が歪みはじめた。壁も、床も、自分たちの姿まで歪んでいく。ぐにゃりぐにゃりと動く世界に、酔ってしまいそうだった。そして、徐々にその歪みが無くなっていくと、目を見開くほどの豪華な部屋が現れた。
天蓋付きのキングベッドに、天井から吊り下げられたシャンデリア。白を基調とした清潔感のあるその部屋には、美しい王冠や勲章が飾られていた。大きな本棚には、沢山の書物も並んでいる。
「さっきいた場所も僕の部屋で間違いないんだけど、ここが本当の私室。無防備なところを襲われないように、空間を歪めて隠してあるんだ。この部屋には僕と一緒じゃなきゃ入れない。隊長でも来たことがある人は少ないから、結構レアな経験だよ」
感嘆の声を上げるすすきに、ハクトはそう言って微笑んだ。
すると室内を見回していたすすきが、あるものに気が付いた。大きなテーブルの上に、無造作に置かれている青い本。どこかで見たことがあると感じ、すすきはアッと声を上げた。
「ハクト様、あれってもしかして……!」
「そうだよ。君を呼んだ青い本。少し見た目は違うけどね」
ハクトの言う通り、三上書店で手に取った本とは少し違った。金色の装飾が施され、表紙の真ん中に黄色く光る宝石が付いている豪華なものだ。しかし、三上すすきを転移させた魔法書には間違いない。この青い本を手に入れれば、三上書店に帰れるかもしれない。そんな出来心が生まれ、すすきはゴクリと喉を鳴らした。すると、ハクトがスタスタとテーブルに近付き、青い本を手に取った。
「すすきちゃん。君は時空魔法を使えないから、青い本を手に入れただけじゃ元の世界には帰れないよ。それに、この部屋の出入り口は僕自身。つまり君は今、閉じ込められているのと同じなんだ。どんなに叫んだって外に声は届かない。……もし何かを盗み出そうと思った時は、僕に殺される覚悟もしておいてね」
ハクトの口調はとても穏やかだった。だが、にこやかに微笑むその姿に、えも言われぬ恐怖を感じた。もし殺されそうになっても、逃げ場はどこにもない。この部屋では、全てハクトの思いのままだ。
すすきの体は小刻みに震え、その場から動けずにいた。するとハクトが、青い本をテーブルに置いて、今度は愉快そうに笑った。
「冗談だよ。でも、殺すってところ以外は本当。時空魔法じゃないと元の世界には帰れないから、僕からのお願いを果たすまで頑張ってね」
「はは……冗談に聞こえなかったけど、頑張ります」
顔を引き攣らせながら、すすきは頷いた。
その後、ハクトに案内されて、すすきはお風呂に入った。気になっていたシャンプーは、高級そうなガラス瓶に入っていた。お洒落な見た目で、香りもいい。使っていると、なんだか甘く幸せな気分になった。
案内された時に尋ねたのだが、エルフランドには歯ブラシで歯を磨くという概念はないらしい。魔法薬で口をすすぐことで、口内を清潔に保っているとのことだった。
皇帝御用達ともなれば、どちらも目が飛び出る程に高いのだろう。使わせてもらうのが忍びない。そんなことを考えながら、すすきは全身の汗を流した。大きなバスタブで温かい湯に浸かると、今日一日の疲れが吹き飛ぶようだった。
至福のひとときを過ごしたすすきは、ハクトに自室まで送ってもらった。と言っても、空間魔法で移動は一瞬だ。すすきがお礼を告げ、明日また会うことを約束すると、ハクトは手を振って帰っていった。
買ったばかりの布団に入って目を閉じると、すぐに睡魔に襲われた。どうか、三上書店へ帰れますように。ウトウトと揺れる意識の中で祈りを捧げながら、すすきは夢の中へ落ちていった。
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