婚約を解消させたいのは他でもない義弟ですが。
蛇足かなと思いましたが、感想等でご要望がありましたので投稿致します。
リヒャルトには幼い頃から心に決めた人がいる。陽の光の下で健康的に輝く滑らかな肌に光に透けて金褐色にも見える栗色の髪。髪よりも少し色の濃い瞳はいつも優しげな色を浮かべており、気さくで明るい彼女の周囲にはいつも人が絶えなかった。
隣国では100年以上の歴史を持つ伯爵家の生まれにも関わらず、それを笠にきることもない。
リヒャルトが初めて彼女にあった日もそうであった。母が催した私的なガーデンパーティーに招かれていた彼女は、土まみれで転がっていたリヒャルトを己の着衣が汚れる事も気にせず抱きおこしてくれたのだ。
あの日、侍女達が1歳下の弟クリストフに気をとられていた隙に、リヒャルトはふわふわと翔んでいた白い蝶を追いかけ密かな冒険に旅立った。
ハウゼン伯爵の屋敷は城といって良い様相の強固な守りの石造りのもので、優雅にガーデンパーティを開ける様な場所はない。領地での社交の場はもっぱら城から離れた場所に建てられた別宅で行われる。一家はこの別宅には毎年訪れていたものの、当時7歳であったリヒャルトは敷地内の構造を理解しておらず、彼が迷ってしまったのは当然と言えば当然であった。
白い蝶を見失い小さな冒険に飽きた彼は、元来た道を戻り始めたが、いくら進んでもクリストフ達がいる場所にたどり着かない。
こちらではなかったかもと方角を変え、それを幾度か繰り返した結果、リヒャルトは完全に己の場所が分からなくなってしまった。途方にくれ立ち止まると歩いた疲れから一気に眠気がやってくる。汚れも構わず茂みの影で座りこみぐっすりと眠ってしまったのは致し方ない事であった。
そんな事とは知らず、パーティは粛々と進んでいたが、リヒャルトの不在に気付いた使用人達が社交の場の邪魔をしないよう密かに彼を探し始めた時には、彼はすっかり夢の中。呼ばわる声も届くはずもなかった。
このままであれば一大事であったが、リヒャルト引いてはハウゼン家にとって幸いであったのは同じ年頃の少女がパーティに招かれていたことだ。好奇心旺盛な彼女は数人の侍女を伴って庭の散策を楽しんでいた。大人であれば気にもかけないような草花に興味を持ち、小木の合間を縫って、リヒャルトが眠る茂みの裏にやって来たのだから僥倖という他ない。
かくして茂みの下で横になる男児を見つけた一行は驚いた。間違いなくハウゼン伯爵家の嫡男として紹介された少年が土にまみれて意識なく地面に転がっているのだから。
侍女の1人が慌てて踵を返し人を呼びに戻るが、少女は何の気負いもなくリヒャルトの肩に手をかけ揺り起こした。
「ねぇ、こんな所で寝ると風邪を引いてしまうわ」
しばらく揺すられてようやく目を覚ましたリヒャルトの目に飛び込んできたのは、優しい茶色の瞳であった。
「...きみは」
「ルイーゼ、ルイーゼ・フォン・ベルガーよ。今朝ご挨拶したわ。リヒャルト様は何でここで寝ているの?」
迷子になっていた、とは何となく言い辛い。言葉を濁しているとルイーゼはリヒャルトを起こそうと手を差しのべてくる。
「お嬢様、お召し物が」
「大丈夫よ。そんなことよりお庭を案内して?あの黄色い花は何と言う花?」
侍女の制止も気にせず、子供同士の気安さかルイーゼはニコニコとしながらリヒャルトに話しかける。リヒャルト発見の報を聞いて駆けつけた侍女長が現れなければ、リヒャルトはよく知らぬ庭をルイーゼに案内する羽目になっていたに違いない。
そんな出会いであったのだからリヒャルトがルイーゼを慕うようになるのは一瞬であった。ルイーゼの滞在中は常に側を離れず、共に遊ぶ。この頃からリヒャルトはルイーゼを自分のお嫁さんにすると言って憚らなかったしルイーゼも慕われて満更ではない様子であった。
遊び仲間にクリストフが混ざることもあったが、ルイーゼがクリストフを可愛がればリヒャルトは露骨に頬を膨らせるという有り様だった。
ルイーゼはリヒャルトより1歳、クリストフより2歳年上であったが、弟妹がいないルイーゼには嬉しかったのか2人の面倒をよく見、仲の良い姉弟の様な関係が続いていくことになる。
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そんなおままごとの様な関係が数年続いたある日、リヒャルトが14歳を迎える年に縁談が持ち込まれた事により事態は一変した。
縁談の相手はアインホルン伯爵家の息女エレオノーラ。アインホルン伯爵家はハウゼン伯爵家に比べれば家格は若干数劣るものの、領内の鉱山開発に成功し勢いのある家だ。特に武器の精錬に必要な特殊な鉱石はハウゼン伯爵家とっても垂涎ものである。
この頃になれば多くの年少者が兄や姉を見て、より良い立ち居ふるまいを学ぶ例に漏れず、弟の立場からかえって物事を俯瞰的にみるようになっていたクリストフは、兄とルイーゼの結婚が難しいものであることを理解していた。
子供の頃は何の意識もなかったのだが、ルイーゼはやはり外国の領主の娘であった。私的には友好関係にあり、国同士も現在は同盟国であるものの、歴史を遡れば敵国として対峙した事もある。貴族の、しかも辺境伯の嫡男の結婚が情で決まるはずもない。
しかしリヒャルトはその現実から頑なに目を背け、例年同様にハウゼン伯領に逗留しているルイーゼを連れ出してばかりいる。
幼い頃からのリヒャルトのルイーゼへの執着を知る周囲の者は、同情の視線を向けているが、その視線が同情から非難に変わっていくのもさして時間はかからないだろう。貴族は貴族としての義務を果たしてこそ、周囲から傅ずかれる立場となるのだから。
その年、リヒャルトの不在の隙を狙ってクリストフはルイーゼに聞いみた。兄との事をどう考えているのか、と。
ルイーゼとて隣国では責任ある伯爵家の娘。リヒャルトに自分以外の縁談が来る事は承知していただろう。にも関わらず、縁談が纏まりつつある中でルイーゼに付き従う兄リヒャルトをどう思っているのか。
するとルイーゼは困ったように微笑みながら告げた。
「貴方から見たリヒャルトはきっとダメな人よね。次期伯爵としての義務から逃げてばかりで。けれどリヒャルトは私にはとても優しいのよ」
そう、次期ハウゼン伯爵という公人としてのリヒャルトは清濁あわせのむことが出来ない少年らしい清廉さも相まって弟であるクリストフからしても評価が高いとは言い難いが、私人としてのリヒャルトは基本的に悪い人ではなかった。貴族の子供特有の鼻につく部分がない訳ではないが、悪事を働くこともなくある意味凡庸な人であった。ただしルイーゼのこととなれば、他が見えなくなる嫌いがあるが。
「デビューしてから色々な人を見てきたわ。けれど皆、綺麗な笑顔の下で何を考えているのか分からないわ。知っている?ここ数年は領地に帰って貴方達に会うのがの唯一の息抜きだったのよ」
リヒャルトやクリストフより年上のルイーゼは当然社交界へのデビューも早かった。都から離れた地で伸び伸びと育ったルイーゼにしてみれば、下心をもって近づいてくる良からぬ輩ばかりに疲れ、対比して何の裏もなく己を慕ってくれるリヒャルトに気持ちが救われたとしても致し方ない事だろう。
「心から慕ってくれて、私の為であれば何でもしてくれる。私に望まず、常に与えてくれる人よ。そんな人、きっとリヒャルト以外にどこにもいないわ」
それを聞けばクリストフとて2人を非難する気にもなれなかった。
そんな2人の状況はありつつも無情にも時は過ぎ、社交シーズンの到来を迎えた。勿論ハウゼン伯爵一家も帝都に赴く。そして帝都ではアインホルン伯爵家との顔合わせが控えていた。
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迎えたリヒャルトとエレオノーラの顔合わせの日、食堂で揃って朝食を食べていた時の事だ。皆の食事が終わったのを見計らい、父が静かにリヒャルトに向かって告げた。
「リヒャルト、アインホルン伯爵はなかなかの好人物。この縁談は領地にとっても利となる願ってもない話だ。お前にもそろそろ領地経営に関わる。よくよく立場を理解して言動をわきまえるように」
リヒャルトは無言であった。それを諾と受け取った父は食堂を後にしたが、クリストフは気付いていた。父の姿が見えなくなると兄が悔しげに唇を噛んでいたことに。
クリストフの中では会ったことすらないエレオノーラという少女に早くも同情心がわいてしまう。このまま無事に顔合わせが終わってくれれば、と思いつつもきっとそうはならないだろうという予感があった。
リヒャルトがエレオノーラと対面を果たしている時、クリストフはいつも通り家庭教師からの講義を受けていた。真面目に聞くふりはしているものの階下の様子が気になり、講義の内容はほとんど頭に入ってこない。
ふと窓の外を見れば、一組のカップルが庭に現れた所であった。エスコートの為に手を差し出している兄の姿を見て己の憂慮は杞憂だったかと思ったその時、兄は突如として瓶のようなものを振りかざした。
隣を歩いていた少女の明るい青色の衣装の所々が濃い青色に変わっていき、被害の状況がクリストフにもよく分かった。
傍観者の立場の為か、かえって冷静になり彼女はどんな反応をするのだろうと横目で眺めていると、少女は声ひとつ荒げる様子なく丁寧な礼をしてリヒャルトから遠ざかる様に庭の奥へと去っていくではないか。そんな彼女を兄は追うことすらせず、その場を立ち去った。
さて当事者以外に唯一事態を知ったクリストフとしては何とかしたい所であるが、如何せん家庭教師はまだ講義を続けている。今か今かと授業が終わるのを待ちわび、教師の退室を待った上で急いで部屋から飛び出した。
幸い今日はこの季節にしては暖かい。彼女が凍えている事はないだろう。
タウンハウスにしては広すぎるハウゼン伯の自慢の庭だが、クリストフにとっては慣れ親しんだ遊び場である。小木の合間から覗く明るい青色はすぐに見つかった。
声をかけようかと迷ったが、泣いているかもしれないと思い自ら声をかけることを躊躇った。少し迷った上、足元に落ちていた枯れ枝を力を入れて踏みぬく。パキッという軽い音が彼女にも聞こえたはずであった。
「どなたかいらっしゃいますか」
誰何の声と共に芽吹き始めたばかりのハシバミの後ろの小木の影から少女が1人現れる。
少女の青灰色の瞳には、クリストフが懸念したような涙の痕跡は見つけられない。
兄と同い年と聞いていたが、ずっと大人びて見える冷静そうな瞳が少し困った色を浮かべてクリストフを見つめていた。
「お声がけ致しまして申し訳ございません。私はアインホルン伯爵の娘、エレオノーラと申します」
クリストフの顔を見ればリヒャルトの血縁と分かるだろうに、律儀に挨拶をしてくる。感情を荒げる事もなく礼儀を弁えた落ち着いた振る舞い。身近にいる同年代と言えば感情豊かなルイーゼや非常に我の強いリヒャルト位であったため、クリストフはこのエレオノーラという少女を物珍しい思いで眺めた。
リヒャルトの弟であると簡単に名乗り、何故1人でこんな場所にいるのか問うてみる。すると少女は青灰色の瞳に浮かぶ困ったような、戸惑うような色を更に深めた後、リヒャルトと庭を散策中にはぐれてしまったのだと嘘を告げた。
この少女は兄から受けた理不尽な仕打ちを全て1人で飲み込み、無かったこととする気だ。何故だろう?彼女に非はないのだから、兄からの仕打ちをを公然と非難すればよいのに。
そんな疑問も浮かぶが、己が兄の行いを知っているとは思っていない彼女に訊けるはずもない。明らかに不自然な返答をそのまま受け取り流す他ない。
サロンへと戻る道すがら、せめてもの詫びにと丁寧に庭を案内し、当たり障りのない雑談を交わす。
「義姉上とお呼びしても?」
「勿論ですわ」
「では私のことはクリスと。義姉上が我が家に来て頂ければ歓迎致します」
「有難いお言葉です」
「見知らぬ相手に嫁ぐ不安はないのですか?」
「これから知っていけばいいことです。それに父が良しとして判断したのであれば従うのが私の義務ですから」
しっかりとした返答に感心してしまう。内心はどうであれ、周囲の要望をくみ取り、弁えた振舞いをする様は己の兄とは対極にある様に思えた。
そして同時に、綺麗に繕われた外側でなく、彼女の内側を知りたいと思ってしまった。きっと涙1つ浮かべていないあの青灰色の瞳を見た時から、クリストフは彼女に興味を持ってしまったのだ。
***
***
そろそろ兄の代わりにエレオノーラを迎えにいく準備をしなければならない。そう思いつつ書庫から自室に向う途中で兄に出くわす。
「兄上、義姉上の迎えに行かれては?」
「行くわけがないだろう」
「いい加減に義姉上への態度を改めてはいかがですか。もうとっくに呆れられていますよ」
「早く解消の申入れをさせる事が目的だからな」
「表面的にすら取り繕えないのであれば、兄上から断りを入れれば済む話ではないですか」
「父上はアインホルン家の婚姻を既定路線に据えている。こちらからの解消の申入など出来るものか。何より存外エレオノーラを気に入っている様だからな」
「であれば、せめて体面だけでも保たれては?」
「ルイーゼへの裏切りの様な真似はしたくない。私の隣に立つのは彼女だけだ」
ルイーゼに寄せる情の万分の一すらエレオノーラには与えないのであるから、自分の兄ながら見下げた根性だと思ってしまうのはやむを得ない。
さりとてリヒャルトに代わって己がエレオノーラの婚約者になると言い出す事は出来なかった。アインホルン家との血縁関係はハウゼン家にとって価値あるものであり、己が継ぐバルツァー家では意味が薄れる。何とか策をと思いつつ考えあぐねているのが実情であった。
社交の場に頑なにエレオノーラを伴おうとしない兄の代役を幾度もつとめるうちに、エレオノーラと打ち解けてきたことだけが今のところ得られている僅かな成果だ。
だが少なくとも兄という婚約者がいる限り、エレオノーラに新たな縁談が来ることはない。クリストフはせいぜい義弟の立場を利用すると決めている。この婚約の解消を誰よりも待ち望んでいることを隠しながら。
完