第三話 どうやら記憶が曖昧だ
とはいえ、現状の確認は必要だ。この人は誰なのか? ここはどこなのか? わたしはなぜここで、こんな格好で寝ていたのか? 服と下着はどこにあるのか? 等々。悪い人ではなさそうだし、記憶がないことを正直に話して、教えてもらおう。見えている件と神様云々は一旦保留だ。
とりあえず上半身を起こし、何故か正座になって向き合う。
「ジロジロみたりして大変失礼なことをしました。申し訳ありません。正直理解が追いつかないのですが、見えていることについては、一旦そのままの意味で捉えておきます。」
「全然謝られるようなことじゃないから、気にしないで」
「ありがとうございます。少し話は変わるのですが、いくつか質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろん。構わないよ」
「実は、どうしてこの部屋で寝ていたのか全く記憶がないのです。わかる範囲で構いませんので、わたしがここにいる理由や、ここがどこか、あなたのことなどを教えていただけないでしょうか。
あ、わたしの名前は――」
わたしはその後の言葉を続けることができなかった。
(え、なんで? 自分の名前がわからないなんて、そんな……)
どういうことだ……。自分の家、部屋、家族構成、学校、なんなら行きつけのカフェまで思い出せるのに、自分の名前を覚えていないなんて……。
いや、ちょっとまて。確かに家族構成はわかる。父、母、姉、そしてわたしの四人家族だ。
父はそこそこ厳格な人で、普段あまり雑談しないが、結構子煩悩だ。わたしは姉に比べて出来の悪い妹だが、口うるさく言われないし、姉が大学に進学する際は「お前たちの学費は既に溜めてある。行きたいところに行くといい」とかなんかカッコイイこと言うような人だ。おかげで姉妹揃って大学に進学できたし、奨学金は借りていない。
逆に母は賑やかな人で、まあ釣り合いの取れた夫婦だと思う。隙あらば「お父さんのここがカッコイイ」とかすぐに惚気るが、私の話はつまらないことでも愚痴でもなんでもよく聞いてくれる。
二つ離れた姉は、文武両道、品行方正で友達も多く、わたしの自慢の姉だ。大学が県外だったため進学する際に家を出ていったけれども、月に一回は会って一緒に買物に行くくらいには仲が良い。
だが、なぜか"顔"と"名前"が思い出せない。綺麗さっぱり抜け落ちている。友達も同様だ。
(あ……これは……、これは……ダメだ……)
気づけばわたしの両目から涙がポロポロ溢れていた。どうせ忘れるならすっぱり忘れてくれれば良かった。こんな中途半端に思い出だけ残っているなんていうのはつらい……。
目の前に座っている彼女は察してくれたのか、何も言わずにわたしを軽く抱きしめてくれた。
気づけばわたしは彼女の肩で嗚咽を漏らしながら泣いていた。
* * *
(恥ずかしい……。あと半年もすればお酒も飲めるようになる年だというのにボロボロ泣いてしまった……)
しかも見ず知らずの女性に抱きしめられて、だ。彼女はわたしと同じような白い襦袢を着ているが、その肩はわたしの涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れ灰色になっており、それなりの時間そうしていたことを物語っている。
だがそんなことは欠片も気にすることなく、彼女はずっとわたしの背中をさすってくれている。
(女神様かな……? あ、そういえば神様だって言っていたな……)
「落ち着いた?」
「はい……。あの……ごめんなさい。見苦しいところをお見せしました。その、肩のところも……」
「全然気にしなくていいよ」
「本当にすみません……」
彼女の体温が離れていく。
名残惜しい。そう思ったわたしは大層浅ましく、嫌になってしまう。
「……オドロ」
「えっ?」
「私の名前。オドロっていうんだ。」
「オドロさん……?」
「うん。貴方が名前を思い出せないことなんだけど、たぶん、最初の質問の答えに絡んでる。ただ説明すると長くなるから、今日はゆっくり休んで、明日にしよう」
「……わかりました」
その後、わたしはおにぎりとお茶だけ貰い、また布団の住人となるのだった。