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アジサイの庭

『⒕』。

 仮称とはいえその名を聞いたことは優にとって良かったのか悪かったのか。

(父さんの命を奪った人たち――)

 総一郎は「⒕」傘下の研究所で働いていた。いわば組織のために研究をしていたというのに、それをああも容易く手にかけてしまう冷酷さにぞっとする。

 優の胸に痛いような恐怖が渦巻いている。が、その奥には冷たい何かがじわじわと広がってきている。これは何だろう。焦燥にも似たそれは「⒕」という名を与えられたことで形を成すようにはっきりしてくる。

「その人たちが、父さんを殺したんですね」

 自分でも驚くほど低い声が出た。その声に返事はなく、その場にいる全員が重苦しい沈黙に包まれる。

 やがて蘇芳が口を開いた。

「――ほぼ確実とは言ったけどまだ百パーセントじゃないからね、僕たちの方でもっと調査を進めてみるよ。優ちゃんはこれまで通りこの家にいてね。本当に『⒕』が絡んでいるなら優ちゃんの生活圏は見張られていると考えていいだろうから、自宅も学校も危険だ。軟禁するみたいで申し訳ないけど」

「いいえ。私、むしろお礼を言わないと」

「じゃあ決まりだね」

 その後スケジュールが詰まっているという蘇芳と番匠の二人は出かけていき、夏世も一旦自分のマンションに戻って荷物を取ってくると出かけていった。優はみんなのコーヒーカップを集めて片付けるためにトレイに載せながらぽつりとつぶやいた。

「⒕――」

 その組織が関わっているというのはまだ推測の域を出ない。なのに優にもそれは確かなことにしか思えなかった。頭の中にそれが真実だという考えがこびりついて離れないのは、優の超能力者としての勘なのか、それとも父の敵を早く知りたいと思うが故の思い込みなのか。ついコーヒーカップをトレイに載せる手が止まってしまった。

 そのトレイに優より大きな手が水色のカップを載せた。一平だ。

「あのさ――早まるなよ?」

 思考の淵に沈みかけていた優は一平の言葉にどきりとして顔を上げた。何かを見透かされたような気がして居心地が悪い。

「私は――別に」

「そう? ならいいんだ」

 一平はさっさとカップをすべてトレイに載せ終わり、優の手からトレイを取りキッチンへ運んでいってしまった。

 どうして一平はそんなことを言ったんだろう。後に残った優の目にその時ふと壁にかけられた鏡が飛び込んできた。金属で繊細に細工された薔薇が周囲を取り囲んでいる鏡の中にひどく暗い、思いつめた顔の自分が見える。

「ひどい顔」

 自嘲気味に笑ってみるけどやはり鏡の中の優は暗い顔のままだ。こんな顔では一平に「早まるな」なんて言われてもしかたがないかもしれない。

 軽くほっぺたをつねってみる。


 それでも心の底を浸す冷たいものは晴れそうになく、気持ちを変えたくて優はリビングから庭へと出ていった。

 ベランダから見ていてわかっていたが、改めて見れば見るほど美しい庭だ。整えられた低木にも計算され尽くした配置の高い木々にも、新緑から濃い緑へと移り変わる初夏特有の鮮やかな緑色が映える。刈り込まれた低木の西側はもう少し自由な雰囲気になっていて、これもまた目を楽しませてくれる。カーブした小道を辿っていくと、曲がった先には大きな植え込みがあった。

「うわぁ」

 目に飛び込んできたのは正に花盛りのアジサイだ。鮮やかな青紫色の花がまるで水彩画のような景色を作り出している。花の塊は零れ落ちそうなほどにこんもりとしていて、もし雨が降ったら自重で茎が折れてしまうんじゃないかと心配になってしまう。

「すごい、きれい」

 けれどアジサイを見ているうちにふと鮮やかな青いアジサイの咲いている場所を思い出してしまった。とたんに寂しさがわき上がってくる。

 だってそれが咲いていたのは――

「アジサイが好き?」

 アジサイを見つめながら物思いにふけっていた優は後ろからかけられた声に顔を上げた。声の主はやっぱり一平で、おだやかな笑顔で優を見ていた。いつの間に近寄ったんだろう、それとも優自身が気がつかないほど思考の底に沈み込んでいたのか。

「はい、きれいですよね。どの花も微妙に色が違ったりして、水彩画みたい」

 にこっと笑ってまたアジサイに目を落とした。

「学校にもすごくきれいなアジサイの花壇があったんです。去年の今頃、すごく鮮やかな青いアジサイが一杯咲いて、私、今年も見るのを楽しみにしてたんです。でも――」

 ちょっとの沈黙。胸の奥に苦いものがこみ上げてきて口を閉じた。

 わかってる。さっき蘇芳にも念を押されたけど、学校だって家だって見張られている可能性があるんだから、顔を出すわけには行かないんだってことは。だからこそ優はあの日あんな神社の植え込みの奥で行き倒れたりしていたんだ。

 優は無理に笑顔を作って一平の方を振り向いた。

「でも、ここで見られたから、もういいです。一平さんちのは青って言うより紫ですね」

「学校、見に行きたい?」

 一平が聞いた。

 言った瞬間「しまった」というように顔をゆがめ、一平は自分の口を手で覆ってしまう。思ったことがつい口をついて出てしまっただけなのだろう。

「ごめん……悪かった」

「ううん、大丈夫です。ほら、そんなに学校が大好きっていうわけじゃなかったし、ええと、こんな状況になってちょっと感傷的になっちゃっただけっていうか――」

 優もあわてて言ったが、話しているうちにぽろりと大粒の涙がこぼれた。自分で全く自覚していなかったので、たやすくうろたえてしまう。

「え、あ、何でだろう――どうしよ、止まらな……っ」

 ぽろぽろとこぼれてくる暖かい滴に頬が濡れる。どうやってこれを止めていいのかわからなくて慌てて両手で顔をぬぐった。

「ご、ごめん! 泣かせるつもりじゃ」

 一平が慌てた顔でジーンズのポケットを探り、タオル地のハンカチを差し出してくれるのを受け取ってそれをぎゅっと目に当てる。止めどなく流れてくる涙をぬぐいながらしばらく二人でその場にたたずんでいた。少しだけ湿っぽい風が濡れた頬に冷たい。

 ほんの一分足らずだったかもしれない。あるいは、十分も立ち尽くしていたのだろうか。

 優は、真っ赤になった目元を隠すようにうつむいて、ハンカチを外した。

「ごめんなさい、急に泣いたりして――気にしないでくださいね。ハンカチ、洗って返しますから」

 恥ずかしくて一平の顔が見られない。借りたハンカチを胸元でぎゅっと握りしめ、優は元来た道を戻ろうと振り返って――止められた。

 一平が優の手を取って引き留めたのだ。

「行こう」

「え?」

「学校。俺も一緒についてく」

「ええ?!」

「学校、どこ?」

「和瀬学院ってとこですけど――」

「和瀬学院――世田谷の方だよな。そんなに遠くない」

 そのまま一平に引っ張られてリビングへ戻り、三人掛けのソファーに座るよう促される。素直に従って腰を下ろすとすぐ脇に一平が座った。優はちょっと驚いたが一平は彼女の方を振り向かず、そのままスマホで何やら検索を始めた。

「あった。ここか」

 どうやら地図を見ているらしい一平の指がスマホの画面に触れないように一本の線を描く。

「ええと、うちがここだから――こう」

 優の学校とこの家との間の直線を描いているのだと気がついて、優は焦った。

「待って下さい、ひょっとして学校までテレポートするつもりじゃ」

「ん? そうだけど」

「だめですよ、まだ午前中ですよ。今日は学校やってます。それに学校なんて『奴ら』に見つけてくれって言ってるようなもので」

 一平は優の言葉を半分以上聞いていない様子だ。ただ、今すぐテレポートするのは得策じゃないとは気がついたらしい。

「あ、そっか」

 壁に掛かったシンプルな時計はまだお昼にもなっていない。一平が納得したようなので優はほっと胸をなで下ろす。

 ところが一平はマップ画面を閉じ、改めて何やら検索を始めてしまった。

「そしたらさ、いっそのこと――」

 なんだか嫌な予感しかしない。

『⒕』に気づかれずに学校へ行く安全な方法なんてあるんだろうか。第一、一平を危険な目に遭わせるなんて到底容認できない。

 断ればいいのに、それでも学校を見に行くというのは何とも魅力的な提案には違いなくて優は断れないでいた。


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