蘇芳の事情
翌朝目を覚ますと、カーテンの隙間から光が漏れてきているのが見えた。ベッドサイドの時計は八時を指していて、もう朝なんだと気がついて優は起きあがった。
「好きなのを着てね」と夏世が揃えておいてくれた服が並んだクローゼットから、お言葉に甘えピンクのシフォンブラウスに生成りのガウチョパンツを選んで着替える。捕まっていた間はTシャツにスパッツという格好が常だったので、女の子っぽいファッションができてそれだけで気持ちが浮き立ってくる。
備え付けの鏡台で髪を整えていると、トントンとノックの音がした。
「はい、どうぞ」
「あ、起きてた? おはよう」
ひょっこりと顔を覗かせたのは夏世だ。オフショルダーのTシャツにスキニーパンツなんてラフな格好だけど妙に決まってる。そして優の姿を見てにっこり微笑んだ。
「あら、いいじゃない! よく似合ってるわよ」
「すごく可愛いですよね、これ。ありがたくお借りします」
「あら、これはもう優ちゃんのよ。大体私にピンクとか可憐な花柄なんて似合うわけないじゃない」
「え! で、でもこんなにお世話になってるのにこれ以上ご厄介をかけるわけには」
「だけど着たきりスズメってわけにもいかないでしょ。気が咎めるならあとで返せばいいわ。といっても返されても蘇芳も一平も困ると思うけど。二人とも似合うとは思えないし」
「にあ――」
一瞬の沈黙。
直後優と夏世は一斉に吹き出した。
「ヤバイ……想像しちゃった……ぶふっ」
特に夏世は遠慮がない。
「夏世さん、やめてくださいよ」
「そう言いながら優ちゃんだって笑ってるじゃない――まあ、色の白い蘇芳のほうがまだ見られるかも。一平は色黒じゃないけどガタイがねえ。マッチョじゃないけど空手やってるぶんがっしりしてるよね」
「俺がどーしたって?」
ドアの向こうから声がした。一平だ。
「ああら一平、何でもないのよ。優ちゃんにはピンクが似合うけど、一平には赤系より青系が似合うなって話」
「ぜってー嘘だろ」
半分本当で半分嘘だ。
「なんだい、お姉さまの言うことが信じられないっていうのかい?」
「やーだなー、何年のお付き合いだと思ってらっしゃるんですかお姉さま」
なんだか二人の間で火花が見える気がする。笑顔でにらみ合いを続ける二人に優は戸惑うしかない。
「あっ、ごめん優ちゃん。ついいつもの癖で」
「いいえ。仲いいんですね」
「そりゃあ一平がちっちゃいの頃からのつきあいだからねえ」
「ちっちゃい言うな。初めて会った時は中学生だっただろ俺は」
なんとなく「蘇芳の彼女」という立場でありながらこんなにこの家に馴染んでいる理由がわかった気がする。
(夏世さんはすっかりここの家の家族なんだなあ)
ちょっぴり羨ましい気がする。
「そんなことより、私朝ごはんに呼びに来たのよ。大丈夫そうならダイニング行かない?」
そういえばおなかがすいている。優は笑顔で「はい」と返事をした。
熱々のクロワッサンにサラダ、ハムエッグ、チーズが数種類にコーヒーとオレンジジュース。リッチなメニューで、おそらく材料も一級品ばかりだろうという朝食はとても美味しかった。寝こんでいる間に運ばれてきていた食事もとても美味しかったので、料理をしている家政婦の京子の腕には感動させられる。
食後のコーヒーにはミルクをたっぷり、それにお砂糖をひとつ。優はブラックはあまり得意じゃない。
「いい香り――美味しい」
監禁中、コーヒーは飲めたが正直美味しくなかった。ふっとそれが頭をよぎるが、そんなことより今この美味しいコーヒーを堪能しようともう一度カップに口をつけた。こんなにゆったりした気持ちで過ごす朝がまた訪れるなんて信じられない。ふ、と笑顔がこぼれる。
目の端でそれを捉えた一平が、コーヒーカップを取ろうと伸ばした手をぴたりと止めた。その様子に夏世がにやりと笑う。
「どうしたのかなあ一平くん。手が止まったよ?」
「なんだよ藪から棒に」
「わかってるわかってる、こんなかわいい子が目の前にいたら落ち着かないんだよねえ。アオハルだねえ」
「ばっ! ばか言うなよ。第一、優ちゃんに失礼だろが」
「はいはい、冗談よ冗談」
再び始まった口げんかにとまどいつつも「仲がいいなあ」とほっこりする優だった。結局言い合いが終わったのは蘇芳が部屋に入ってきて手に持っていたファイルでぱこんと一平の頭をこづいてからだ。
「朝っぱらから何を騒いでるんだ」
「いてーよ」
一平の頭を襲撃したのは蘇芳が持っている黒い革表紙のファイルだ。一平の不満そうな視線を無視して蘇芳が優に笑いかける。
「やあ優ちゃんおはよう。体調はどう?」
「おはようございます。今日はもうずいぶん調子がいいです」
「それはよかった――ああ夏世、悪いけどコーヒー淹れてくれる? 二人分」
二人分? と疑問に思った直後、蘇芳の後ろからスーツ姿の男がリビングに入ってきた。黒い短髪、ちょっと色黒な彼は蘇芳と同じ年頃だろうか。蘇芳と同じようなファイルをこちらは何冊も持っている。それにノートパソコンも。
「優ちゃん、彼は番匠拓海。僕の秘書で友人なんだ」
「番匠です、どうぞよろしく」
「池田優です。よろしくお願いします」
挨拶を済ませみんな席に着いた頃夏世が蘇芳と番匠の分のコーヒーを持ってきた。夏世はコーヒーを配り終え、優の隣の席にすとんと腰を下ろした。
「優ちゃん、番匠さんは学生時代からの蘇芳の親友でね、とっても信用できる人よ。安心して」
夏世がさりげなくフォローを入れた。突然初めて会う男性が入ってきたら優が警戒すると思ってのことだろう。確かに知らない人が現れて警戒はしたが、番匠を連れてきたのは他ならぬ蘇芳だ。大丈夫、の意味を込めて優は笑顔で頷いた。
「優ちゃん、朝食は?」
「はい、いただきました。ご馳走様です」
「そうか、そしたら少し話をさせてほしいんだ」
そう言うと蘇芳はファイルのページをぱらぱらめくる。それをきっかけに何となくリビングの空気がぴんと張り詰めた気がして、優は思わず椅子に座る背中を伸ばして姿勢を正してしまった。 それに気がついたのか、蘇芳が「緊張しなくていいよ」と笑いかける。
「さて、ここに報告書がある。番匠に調べてもらっていた『一条化学研究所』――優ちゃんのお父さんが勤めていた研究所についての調査報告書だ」
「父さんの?」
「うん。番匠、説明して」
番匠が自分の持つファイルをぱらりとめくり話し始めた。
「はい。『一条化学研究所』は特に目立った業績があるわけではなく、言ってしまえばどこにでもあるような研究所です。製薬関連の研究がメインですね。ただ普通すぎて逆に調査に手間取りました」
番匠がそこからつらつらと研究所の概要を話していく。どこかインターネットのホームページに載っていそうな内容だ。
「――とまあここまではちょっと調べれば出てくる、『一般に公開された部分』ですね」
「一般に公開?」
「はい。ですが調べてみると研究費用の流れが少し怪しかったんです。具体的には公表されている研究内容に比べてあからさまに研究費が少なすぎるんです。どう考えても予算以外に資金がないとつじつまが合わない、つまり表に出せない秘密のスポンサーがいるということです。
けれどなんのために? 『一条化学研究所』の研究内容はそれほど特異なものじゃない。だとすれば裏で公にできない研究をしていて、それのために資金が裏で流れ込んでいると考えれば納得できる」
そこまで話して番匠は蘇芳に目配せした。蘇芳もそれを受け止めて大きく頷いてみせる。
「番匠、話していいよ。ぜひ優ちゃんの協力は欲しいから」
「かしこまりました――そこで思い当たったのがとある組織です。この組織はいわゆる『死の商人』――武器や兵器の流通を生業としていることがわかっています。何らかの非合法な薬を作ろうとしているという情報を最初に掴み、調査を始めたのが二年前です。昴グループの大元は製薬会社だというのも理由のひとつです。
ただ、掴めているのは組織が実在して暗躍している事だけで、実態は全くといっていいほどわかっていません」
番匠の話を聞いて優は首をひねった。
蘇芳に詳しい話をしたのは昨日の夜中というか今日の深夜だ。それから半日も経っていないというのに、番匠はなぜこんなことを調査できたのだろうか。それだけ番匠が有能だということかもしれないが、どう考えても数時間の調査だけでは調べきれることじゃないだろう。
そんな優の疑問が顔に出ていたのか、番匠がファイルから顔を上げて頷いて見せた。
「そうなんです。実は我々はこの組織についてもう二年調査しています。ただあまりに手がかりが少なすぎて、正直行き詰っていました。だからびっくりしたのは我々の方なんですよ。大きな手がかりが飛び込んできてくれたわけですから」
「そうなんですか?」
「すごい偶然もあったものですねえ」
そこで一平が「はい」と手を上げた。
「その組織と優ちゃんを追っている組織が同じ組織だって、はっきりとした証拠が?」
「ほぼ間違いないとは思っています。なにしろ噂の怪しい薬が関わっていますからね。まあ他にもいろいろありますが――というわけで優さん、いろいろ質問させていただければ」
急な展開に優はびっくりしてしまって頭が回らない。回らない頭で考えて、優は小さく頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
「ありがとう優ちゃん。どんな小さなことでもいいから話してもらえるとうれしい」
蘇芳もホッとしたように口を添えた。
「ところでさ、蘇芳。蘇芳たちは前から調べてたっていうならその組織の名前もわかってるのか?」
「いいや、正式な名称はわかっていない。ただ、僕たちが掴んでいる数少ない証拠から、僕たちはその組織をこう呼んでいる。『⒕』(フォーティーン)と――」
⒕。
優は口の中で小さくつぶやいてみた。
それが大切な父を殺した連中の名前なのだ、と。




