夏②
その夜、なんだか弥生は寝付けなかった。
同じ屋根の下に一平がいるのを、妙に意識してしまっている。
(いい人だよなあ)
思わずほう、とため息が漏れる。頭の中で奈緒子に「惚れたな?」と言われた言葉がぐるぐると渦を巻いていて落ち着かない。
ちなみに、弥生が風呂から上がってきた段階で三人は話を止めていて、弥生は何も知らないままだ。
(そうなのかなあ――だとしたら、一目惚れってヤツ?)
そんなことを考えて、恥ずかしさからベッドの中でごろごろと悶えてしまった。
一平は人を探していると言っていた。どういう関係の人なんだろう。男だろうか? 女だろうか?
(行方不明の恋人を探して、なんていったら小説かドラマみたいだよね! あ、でも、そうだよなあ、麻生さんみたいな人には彼女くらいいるか)
つきり、と胸が痛んだ。
弥生はベッドの脇の窓を少し開けた。冴え渡る夜空に月はなく、降るような星が音もなくまたたいている。うっすらと白く帯状に続いているのは天の川、弥生はそんな星空を見るのが好きだ。心の中の不安も悩みも、夜の空に広がって溶けていってしまうように錯覚する。
それでも胸の奥に淡く灯る気持ちはあの天の川のように確かに弥生の中に存在している。
これは本当に恋なのだろうか。もし違ったとしても忘れたくない暖かい気持ち。
弥生にはわからなかった。
翌日も弥生と一平は家にいた。達郎と奈緒子は相変わらず畑に出かけている。
一平は弥生を手伝うといって、洗濯や掃除を手分けしてやっていた。おかげでいつもより早く毎日の日課が終わってしまい、二人はすることがなくなってしまった。なので、少し早めに奈緒子たちのお弁当を作り始めることにした。
「麻生さんは好き嫌いとかありますか?」
弥生が声をかけた。せっかくだから自分と一平の分もお昼はお弁当にして、奈緒子たちと食べようかと考えている。
「大丈夫、何でも食べるよ――ただ」
「ただ?」
「――グリーンピース以外は」
「ええ! 麻生さん、グリーンピースだめなんだ!」
「おっきい声で言うなよ、この秘密は墓まで持ってくんだから」
「無理だと思いますけど、隠し通すの」
顔を見合わせて二人で笑った。
二人で用意するお弁当、まるで仲のいい恋人同士みたいな他愛のない会話。
(なんだか、錯覚しちゃいそうだよ)
うぬぼれちゃいけないと自分に言い聞かせて、弥生は料理に没頭することにした。
その後ろ姿を見ながら、一平は昨夜の二ノ宮夫妻との話を思い返していた。
*****
「たしかに弥生は僕らの親戚でも何でもない。傷だらけで行き倒れてたところを拾ったんだよ」
「!」
「だがね、一平くん、弥生は発見された時にはもう何も覚えていなかった。記憶がないんだよ。名前も、自分の家も、どうやって来たのかも」
一平は聞いた言葉を何度も頭のなかで反芻した。そうでもしないと、話の内容が理解できそうにない。足下から何かが崩れてしまうような気がした。
「だから、弥生は君の言う通りその優ちゃんなのかもしれない。――違うかもしれない」
一平は小さく頷いた。
「彼女が記憶喪失だとわかって、医者と相談してしばらくは静かに暮らした方がいいだろうという話になってね。うちで預かることになったんだよ。ただ、近所から変な目で見られるのもかわいそうだから、親戚の子ってことにしてね」
記憶喪失。
それで昴グループの調査網に引っ掛からなかったのかもしれない。そうわかってから考えてみれば、能力のオーバーワークで焼ききれてしまった光流の例があるのだ、脳に何らかの影響がある可能性も考慮に入れるべきだった。
「警察へは届けてましたよね?」
「ああ、もちろん届けたよ。ほら、さっきも警官が来てくれただろ」
達郎の返事に一平は内心首をかしげる。警察に届けが出されているなら、優を探すのに昴グループの情報網に引っかかってきそうなものだが。名前がわからなかったから網の目から漏れてしまったのだろうか。
それを見つけることができたのは、一平にとっては望外の幸運としか言いようがなかった。
*****
「麻生さん、しいたけ大丈夫?」
弥生に声をかけられて、はっと現実に戻る。
「あ、うん、大丈夫」
どうやら煮物を作っているらしい弥生は一平の返事を聞くなり鍋にどかどかとしいたけを投入している。
やがて、使い込まれた重箱に煮物や卵焼きやおにぎりが詰められて、立派なお弁当が出来上がった。冷たい麦茶を水筒に詰め、後はおしぼりや箸を準備すれば完成だ。一平が重箱を風呂敷で包んでいると、箸を出している弥生の肘がキッチンに置いてあったカップに当たった。
「あ」
咄嗟にカップを受け止めようと体をひねると、同じように一平もカップに手を伸ばしているのが至近距離で目に入った。
ぼすん!
カップは一平の手に収まった。
と同時に、弥生自身も一平の腕の中に収まってしまった。
抱き止められる形になり、弥生は一瞬何が起こったか理解できなかったが、理解すると同時に急に恥ずかしくなってしまう。慌てて体を離そうと一平の胸を手で押したが、逆にぎゅうっときつく抱き締められた。
声をあげることもできず、弥生は一平の腕のなかで固まってしまった。一平の表情は見えないが、抱き締められた手から暖かい感情が伝わってくる気がする。
それはほんの一瞬だったが、弥生の気持ちを大きく揺さぶるには充分な時間だった。
「ご、ごめんな」
一平はきつそうな表情で謝ると、弁当一式を引ったくるようにして畑へ出ていき、弥生は真っ赤になってひとりキッチンに立ち尽くしてしまった。
(は……反則だよお)
どきん、どきんと心臓が高鳴る。目眩がするほど、頭の中で今の一瞬が繰り返される。
その直後、玄関の呼び鈴が鳴った。
一平が戻るにはまだ早すぎる。誰だろうといぶかしみながら弥生は玄関に向かった。
「はあい」
玄関の擦りガラスの向こうに黒っぽい人影が見えた。
「どなたですか?」
弥生が人影に向かって声をかける。が、突然玄関の外の人物が扉を乱暴に叩き始めた。
ガンガン! ガンガン!
『やよい! 誰だよ、あの男』
玄関を開けようとする手がびくっと止まった。
『おまえは俺のものなんだよ。そうだろう? だから他の男に姿も見せちゃだめなんだ』
ストーカーだ。そう思ったが、弥生の足は恐怖ですくんで動くことができない。ストーカーは玄関の扉を開けようとガタガタゆするが、鍵がかけてあるのでびくともしない。それでちょっとほっとしたのもつかの間、外の男はかがんで何かを拾い上げ、玄関のガラスにそれを思いっきり投げつけた。
ガシャアアアン!
派手な音と共にガラスが割れ、玄関の外に置いてあった植木鉢がたたきに転がった。
割れた穴から生白い手が入ってきて、引き戸のクレセントをかちりと回す。それからがらがらと扉を開けた。
そこにいたのは背の低い、青白いやせぎすの男で、黒いTシャツにジーンズを履いていた。この男に弥生は見覚えがあった。いつもの制服姿じゃないけど、この人は…
「堺――さん? 交番の?」
なんで、という言葉すら飲み込んでしまうほどのショックだ。ストーカー男の正体は、交番でストーカー被害の届け出を受け付けてくれた、いつも親身になってくれる警官だったからだ。
「やよい、迎えにきたよ。これからは誰にも邪魔されず二人で一緒に暮らそう」
「ひっ!」
堺が弥生の手を掴んだ。思わず悲鳴が上がる。
「ああ、思ったとおりすべすべの肌だ。俺のために、毎日磨いてくれてるんだろう。愛してるよ、やよい。おまえも俺のこと、愛してるんだろう? もちろん知っているよ」
男の手が弥生の腕を撫で回し、弥生は嫌悪感と恐怖で全身が粟立った。
「やっ! 離して!」
思い切り手を振り解くと、うっとりしていた男の表情がみるみる険しくなり、弥生の心の中は恐怖で一杯になる。
「俺の言うことを聞かないやよいには、おしおきが必要だな」
言うが早いか、乱暴に弥生を引き寄せて羽交い絞めにし、手で口を塞いでしまった。
「んん――!」
「あの男が戻ってくる前にここから出るんだ。来い!」
力づくで玄関から引き出されて、畑とは逆の方向へ引きずられていった。弥生は恐怖のあまり必死に男の手を引っ掻いたが、男はそんなささやかな抵抗をものともせず、ちょうど家をはさんで畑から死角になるあたりに止めてある車に向かった。
あの車に入ったら終わりだ。
いやだ。いやだ、いやだ!
(助けて! 助けて!)
心の中で必死に祈る。だが、それも空しく弥生の体は無理やり車に押し込められてしまった。慌てて体を起こし車のドアを開けようとドアノブに手をかける。だがガチャガチャいうだけでドアはびくともしない。チャイルドロックがかかっているのだろう。その上運転席と後部座席の間はタクシーのようにアクリル板でふさがれていて、運転席にいる男につかみかかることもできない。まるで檻の中に閉じ込められてしまったみたいだ。弥生の心はどんどん追い詰められていく。
離れたくない。あの家から、あの人たちから。
一平から。
(何とかして、逃げ出さなきゃ)
すぐに堺が車を発進させる。
(でも、どうやって?)
何故かこんな状況なのに、頭のなかで冷静に考えている自分がいる。
(でも、出来そうな気がする――ううん、出来る。やらなきゃ!)
「降ろして!」
弥生は叫んだ。アクリル板をがんがん叩いたり、力一杯揺さぶったりした。だが、透明の板はびくともしない。
そのとき、弥生はふと思った。
そうだ。
これ、壊しちゃえばいいんだ。
ほら、こうやって。
自然とやり方がわかった。心を集中させると、突然弥生が触れていた部分のアクリル板にビシッと鋭い音を立ててひびが入る。もう一度意識を集中し掌に力を込めると、アクリル板が真っ二つに折れた。それに驚くことなく手を伸ばして堺の目を塞いだ。
「うわっ! はなせっ!」
急に前が見えなくなって堺は思い切りブレーキを踏んだ。車が急停止した勢いで後輪がざざっと横に滑る。
(ドアを開けなきゃ)
堺に両手で目隠しをしたまま自分の横のドアをにらむと、ドアはひとりでに勢いよく開いた。弥生は急いで車を降り、来た道を走りだした。
だが、味わった恐怖のせいか、弥生の足はガクガクして思ったように動かない。すぐに堺も走ってきて追いつかれてしまった。
堺の手が弥生のTシャツの背中をわしづかみにする。引き戻され、背後から力いっぱい抱き着かれた。弥生の全身に鳥肌が立つ。気持ち悪い。他の人に抱き着かれるなんて!
「やよいっ!」
「やだ! 触らないで!」
叫んだ瞬間、堺が弾き飛ばされた。数メートル先に勢いよくどしんと投げ出される。
弥生は呆然としてそれを見ていた。とても不自然なことなのに、自分がやった自覚がある。
「今の、感じ」
そうだ、覚えてる。
自分の、能力。
「私は」
その瞬間、頭のなかでガラスが割れるように弥生の中を塞いでいた何かが壊れて消え、記憶が渦を巻いて溢れ出てきた。
自分が誰なのか。
今までの出来事。
そして、誰よりも大切に思っている人。なぜ忘れていられたんだろう。
「一平さん」
思っていたよりは車は距離を走っていなくて、遠くにまだ家が見える。そして、弥生がいないことに気がついて追いかけてくる彼の姿が見えて、弥生――優は思わず叫んだ。
「一平さん!」
早く側に行きたい。声が聞きたい――触れたい。
気が急いて、優も走り出した。
あと三百メートル。あと二百メートル。あと百五十メートル。
だがあと少しというところで背後から伸びてきた腕に首を抱え込まれてしまった。堺が追いかけてきたのだ。
「やよい! 逃がさない!」
「離してっ!」
堺は優を腕で抱え込んだまま、隠し持っていたピストルを出して銃口を一平に向けた。ピストルを見た瞬間、優は凍りついてしまった。何しろ父と一平の二人を銃で襲われているのだから。
「命が惜しければ近寄るな!」
堺が怒鳴る。一平はその場所で止まり、境をにらみつけている。
「ふざけんじゃねえ。あんた、昨日の警官だな? あんたがストーカーかよ」
「ストーカー? 違うな、俺とやよいは深く愛し合ってるんだ。引っ込んでろ」
恍惚と妄想を語る堺に抱え込まれたまま、一平と目が合った。経緯はわからないけれど、あの時確かに一平は撃たれたはず。だけど今はどこも痛いところはなさそうだ。そう思ったら少しだけ冷静さが戻ってきた。
優は堺のピストルを見た。重厚な金属の塊。けれどまだ安全装置を外していない。なら、大丈夫。
思いっきり膝を上げて、力いっぱい堺の足めがけて踏み下ろした。
「ぎゃっ!」
堺が悲鳴を上げ、銃口が下がった瞬間だった。
勢いよく一平が駆け出し、境に肉薄する。瞬時に堺の懐に入り込み、銃を手刀で叩き落とす。その衝撃で腕が緩んだ隙に優を引きはがし、最後に堺の腹に拳を叩き込んだ。
堺はそのまま地面に伸びてしまった。今度こそ意識がないようだ。
それを確かめてから一平が優を振り向いた。
「弥生ちゃん、ごめん。俺がそばを離れたせいで怖い思いさせた。けが、ないか」
一平はそう言って彼女を抱き締めようとして、はっと手を引いた。彼女が優ではなく弥生だということを意識したのだろう。
けれど、優は迷うことなく一平の胸に飛び込んだ。
「一平さん」
「や、弥生ちゃん?」
優は首を横に振って、少し潤んだ瞳で一平を見上げた。一平も「まさか」と目を見開く。
「ゆ、優――?」
おそるおそる名前を呼ばれる。とたんに優の表情がぱあっと輝いて大きく頷く。
「本当に? 優? 思い出したのか?」
「うん」
「俺――の、ことも?」
「一平さん。私の大好きな人」
そういって顔を赤らめる優を、一平は驚きと喜びがない交ぜになったような顔で見つめていた。やがてぐすっと鼻をすすったかと思ったら、優の肩に頭をこつん、と乗せてその体をぎゅうっと抱き締めた。優も一平の背中に回した腕に力を入れた。優が抱き締めた一平の背中は小刻みに震えていて、一平が頭を乗せている優の肩はじんわりと涙で湿っている。
「ごめんね、私、すごく心配かけちゃったんだね」
優が言うと、一平は首を横に振った。
「もう会えたから……大丈夫だ」
一平はそっと顔をあげた。目と鼻がちょっとだけ赤い。
「優、探したよ」
それから失った時間を取り戻すようにしばらく優の顔を見つめていたが、指先で優の髪を、額を、頬をそっと撫で、最後に唇に触れた。
一平の顔が近づいてきて、優はそっと瞳を閉じた。
唇を重ねて、そこから生まれてくる幸福感に酔いしれる。そっと離れると、そこにお互いがいることを確かめるようにもう一度抱き合った。




