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月夜

 殺風景な応接室のような部屋で、ソファーに座っているでっぷりと肥えた男が、立ったままの優をニヤニヤと眺めている。別にいやらしい視線というわけではない。むしろ気に入りの玩具を見ているような目だ。男が満足そうであればあるほど優は気味が悪く、怖かった。

「安心するといい、おまえに危害を加える気はないよ、P7」

 男があからさまに作った笑みを浮かべて足を組み替える。

 一人がけのソファーは男には少々窮屈そうだ。ふんぞり返るたびにギシリとソファーが悲鳴を上げる。

「何しろおまえは貴重な――」

 その言葉と一緒に男の姿がグニャリと歪む。醜悪に歪んだ笑い顔は大きく膨れあがり、両腕が触手の様にずるりと伸びてくる。絡め取られ、身動きができない。苦しい。


「――!」

 はっと目を覚ました。

 またしても見てしまった悪夢から解放され、優は大きく息を吐いた。自分がいるところはあの夢の中の応接室でもなく隔壁の中でもなく、一平に担ぎ込まれた彼の家だということに心底ホッとした。夏世と一平に助けられた事の方が夢でなくてよかった。ベッドの中で確かな現実感をかみしめた。

 あれから一日寝たり起きたりを繰り返し、ずいぶん回復してきた。もう起き上がってもクラクラしたりしなくなっている。

 優が寝ている間、何度か様子を見に来てくれたのは家政婦の京子だ。通いで来ているらしく、夜帰ったあとは夏世がバトンタッチしてくれていた。


 時間はもう夜十時を回っている。それでもさすがにそろそろ寝が足りてきたのだろう、今は眠れる気がしない。というかまた悪夢にうなされそうで眠りたくない。優は慎重にベッドから立ち上がり、ゆっくりカーテンのところまで歩いて外を覗いてみた。

 最初に思っていた通りカーテンの裏側は掃出し窓になっていた。窓の外にはベランダ、それに寄り添うように生えた大きな木が張り出して窓から見える景色を少しだけ隠している。

 そっと窓を開けベランダに出た優は目を見開いてしまった。昼間寝ているベッドから窓を見たときに何となく違和感を覚えていたのだが、その違和感の正体に気がついたのだ。

 ベランダの向こうは広い広い庭園になっていた。違和感の正体はどうやら「窓のすぐ外に建物が見えない」ことだったようだ。住宅街にあればどんなに大きな家だってそれなりの距離に隣接した家があるはず。

 このベランダからもに正確には建物は見えるのだ。けれどそれはかなり遠くて、まるで大きな公園の端から反対側の端を望むくらいの距離を感じさせられる。

 つまり、大きな公園並みに庭が広いのだ。

 頭を占めていたあれやこれやを一瞬忘れてしまうほどの光景に息を呑む。

「す、すごく広い」

 まるでテレビで見たヨーロッパのお城の庭園みたいに美しく整えられている。かなり向こうに庭を取り囲むように背の高い重厚なフェンスが設置されているのも見える。日中に見ればどんなにきれいだろう。花は咲いているだろうか。緑のグラデーションが美しいんだろうな。でも庭に数基設置されたライトと半分より少し太った月明かりに浮かび上がった庭も幻想的だ。

 ――こんな景色をまた見られると思っていなかった。

 じんわりと目頭が熱くなる。何でこんなに泣き虫になってしまったんだろう。半年前、まだ普通の高校生だった頃はこんなに泣いたことはなかった。総一郎と二人、普通に生活して普通に学校に行って、勉強したり友達とおしゃべりしたり――そんなごく当たり前の生活がまるで夢のように儚いものとは思いもしなかった。

「学校――」

 頭をよぎったそれに胸の奥がキュッと締め付けられる。優は特に学校が好きだったわけじゃない。嫌いでもないけれど。部活と友達に会えるのが一番の楽しみ、そんなごく普通の生徒だった。だからこそ学校は今の優にとって「普通の生活」の象徴だったみたいに思える。けれど今や優を取り巻く状況は一変し、あの当たり前の毎日に戻ることは難しいだろう。

 ベランダの手すりに置いた手に自然と力がこもり遠くに見える街の灯りがうっすらにじむ。ただ悲しい。ぽっかりと黒い穴が開いて、そこには何も残っていないような、そんな虚無感――

「あれ? 起きてたんだ」

 暗いところへ沈みきってしまう直前に声が聞こえた。それも足下から。

 ベランダから見下ろすと、すぐ下に人影が見えた。

「一平さん」

 一平だった。普段と違いスポーツウェア姿だ。首にマフラータオルをかけていて、少し汗ばんでいるように見える。ランニングにでも行ってきたのだろうか。

「歩いて大丈夫か?」

「はい、だいぶ。一平さんはランニングですか?」

「うん、日課なんだ。いつもなら外出て走るんだけど今日はちょっと蒸し暑いから庭の中軽く走ってきた。まあそれなりに広いから」

「本当に広いですよね。びっくりです。一平さんのおうちって一体」

「あれ? そういえば話してなかったか。ちょっとそっち行っていい?」

「部屋にですか? はい」

「こんな時間に大きな声で話すのも何だからな。ちょっと待ってて――よいしょ」

 言うが早いか一平はベランダ脇の木をするすると登ってベランダに到着した。優がただぽかんとそれを見ているしかできないでいるのを横目にベランダの手すりによっかかり「でね」と話し始めた。

「優ちゃん、昴グループって知ってる?」

「もちろん。よくテレビでコマーシャルやってるじゃないですか」

「そう、それ。蘇芳はそこの会長なんだよ」

 蘇芳。まだ会っていないけど一平の兄だと聞いている。

 その兄が会長。昴グループの。

「え、ええっ」

 じわじわと驚きが広がってくる。なにしろ「昴グループ」といえば日本国内でも屈指の企業グループであり、「昴グループの会長」といったらそれらすべてを統括する、要は一番偉い人だ。メディアの露出が一切ないことで有名な人物で、若くして会長の座につき辣腕を奮っているという。あまりに表舞台に顔を出さないのでゴシップ誌で時々下世話な噂話が流れたりするが、現会長になってからそんな噂を吹き飛ばすほどに昴グループは右肩上がりの業績なので誰も文句は言わない。

 その会長が一平の兄? 本当だとしたらこの屋敷の広さにも納得だ。

「蘇芳は年もまだ二十六だし、結構派手な外見してるから表舞台に出たら騒がれるのわかってるんだ。だから顔出しがいやなんだって。でも噂通りのやり手だし人望も厚いんだ。それで周りの人間も蘇芳の意向の通り会長の正体を隠してる」

 そんなわけでこの話は内緒な、と一平は人差し指を唇の前に立てて言った。

「まあそんなわけだから、人のひとりや二人厄介になったところで痛くも痒くもないんだよ、この家は。だから しばらく腰据えてここにいなよ。俺なんてもう十一年も居候してるんだぜ」

「居候?」

 十一年というとそれこそ一平が小学生くらいの頃ではないか。

「いや、俺実は身寄りがなくってさ。八歳のときに蘇芳に引き取られたんだ。蘇芳とは血縁じゃないんだけど、いろいろあってさ、結局引き取ってもらったっていうか」

 ぽりぽりとこめかみのあたりを掻く。

「だからさ、蘇芳は懐の深いいい奴だよ。安心して厄介になっちゃいな」

 そういって一平は優を見た。

 雲の切れ間から照らす月明かりの下でおだやかに笑うその人の顔は、何だか優には柔らかい光のように思えた。

「そういう一平さんも、いい人ですね」

「え?」

「だって、見ず知らずの行き倒れを家に連れてきちゃうんだから」

「うーん――だって、ほっとくわけにいかないだろ?」

「普通、救急車呼んだりしません?」

「いや何となく……何でだろうなあ」

 ひどく照れたように一平は明後日の方を向いている。優はくすっと笑った。

(でも、事情を聞かないでいてくれる)

 優には全てを話してしまいたい衝動と、話してはいけないという強い自制が働いている。

(もし話しても信じてはもらえないだろうし、それに)

「あれ? 蘇芳だ」

 一平の声にはっと見ると、一台の黒っぽいセダンが門から入ってきたところだった。

「やっと帰ってきたか」

「今日はいつもより遅いんですか?」

「いや、帰ってくるのが二日ぶりなんだ。オフィスに寝泊まりしてたらしいよ、夏世が着替え持って行ってた」

「――そういえば夏世さんってこの家の人じゃないんですか?」

「はは、溶け込んじゃってるからなあ。夏世は蘇芳の彼女なんだよ」

「彼女さん」

「そ。優ちゃんが最初に目を覚ました時は、さすがに男所帯のところに優ちゃんを寝かせとくわけにもいかないからって来てもらってたんだ。夏世はマンションで一人暮らしなんだけど、あの二人はつきあいが長いからどっちが家だかわからないくらい入り浸ってるよ」

 そんなところまで気を遣わせていたなんて申し訳なさ過ぎていたたまれない。それが表情に出てしまったのだろうか、一平が茶化すように明るい声を出した。

「ほらぁ、そんな顔すんなよ。俺がいじめたみたいじゃん――さ、俺はそろそろ退散するよ。 女の子の部屋のベランダにこんな時間にいたなんてわかったら、何言われるかわかったもんじゃない」

 そう言ってベランダの手すりから離れ、また木を伝って降りようとした、その時だった。

「もう遅――い!」

 またもや足元から声がした。男性の声だ。さっき一平がいたあたりを見下ろすと一平が「げ」と変な声を上げる。

「一平! 何やってるんだ」

「あー、蘇芳お帰り」

「ああ、ただいま。じゃなくて、こんな夜更けに女の子の部屋に」

 ベランダから下を覗き込みながら弁解の言葉を並べ立てている一平をよそに優はまたしても驚いていた。

 白い肌、銀にも見える淡いプラチナブロンドのその人は、どう見ても日本人には見えない。こんな薄暗いところで見てもはっきりわかるほどに白色人種なのだ。日本人らしい造作の一平とはあからさまに人種が違う。

 優が驚いている間も二人の応酬は続いている。

「おまえをそんな男に育てた覚えは」

「あのなあ」

「あのっ、私が眠れなかったから一平さんがおしゃべりにつきあってくれていたんです!」

 決して悪いことしていたわけじゃ、と思わず一平をかばう言葉を並べ立ててしまった優だった。蘇芳は驚いたように優を見上げ、にこりと笑顔を見せた。

「大丈夫、冗談だよ。こいつにそんな甲斐性がないのはよくわかってるからね」

「蘇芳、ひでえ」

「君が優ちゃんだね? 初めまして。こんなところで挨拶もなんだから、もし体調がいいようならリビングまで来られるかな? 辛いようなら僕がそっちに行くよ」

「は、初めまして。あの、そうしたらリビングに行きます」

「了解。一平、彼女をリビングまで案内して。頼んだよ」

 蘇芳はそう言い置いて玄関へ入って行ってしまった。ちょっとばつの悪そうな顔をしていた一平も「じゃ、リビング行こうか」と履いていたスニーカーを脱いで手に持った。



 


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