ホリディ①
『J』と名乗った人物の言葉通り、優と一平が戻ってからぴたりと組織の影が見えなくなった。
一平や蘇芳、夏世の周りにも、そしてこっそりと注意を払っている南美の周りにもおかしな動きはない。それでも優は安心できずにいた。『J』の言葉を鵜呑みにすることはできないし、もしそれで油断して誰かに何かあったら――そう思うと怖くて仕方がなかった。
それもあって結局優はそのまま古川家に住まわせてもらっている。ただ、何もせず住まわせねもらうのはさすがに気が引けるので家事を少し手伝わせてもらえることになった。
とは言っても古川家には昔から勤めている家政婦の京子がいる。ただ彼女はもう六十過ぎなので、早朝や深夜の勤務は大変だ。なので優が朝食の支度などを担当することになった。
元々優は総一郎と二人暮らしだったので、普段から家事はしていた。だからなのか、料理していると落ち着くし気が紛れる。
今朝も早めに起きて、まだ誰もいないキッチンで鍋に水を張って火にかけた。今朝は一平が少し早めに出ると言っていたので、サッと食べられるものを中心に献立を決める。野菜のコンソメスープとサンドイッチを作り、ハッシュドポテトは冷凍のものを揚げるだけ。総一郎はそれほどたくさん食べる人ではなかったが、蘇芳はそれなりに、さらに一平は空手をするだけあってかなり、すごくよく食べる。だから朝からある程度がっつり作るのだ。
夜のうちにサンドイッチの中身は下ごしらえしてあるので、あとは挟むだけだ。今朝の中身はチキン、BLT、卵焼きの三種類。分厚くふわふわの卵だけは朝に焼く。
毎朝のコーヒーを淹れるのは夏世の仕事と決まっている。優が朝食を作ることになったとき、夏世も手伝うと言ったのだが、なぜか全員青い顔で話を逸らし、コーヒー専任という名誉職を夏世に与えていた。
なので「夏世さんはあんまり料理が得意じゃないのかな」と優はうっすら考えている。でも夏世の淹れるコーヒーは天下一品なので、本当に料理下手かどうかはわからない。
ちょうどコーヒーが入り、ハッシュドポテトもカリカリに仕上がった頃、タイミングを見計らったように蘇芳と一平がダイニングルームに姿を現した。その頃には既に駿河がテーブルのセッティングを終えていて、配膳を手伝ってくれている。
このひと月でこんな風景が日常になりつつある。それがうれしい。
「それにしてもいつもより早いな一平」
きれいな所作でサンドイッチを食べ終えた蘇芳が一平に訊いた。対する一平は優にサンドイッチのおかわりをもらっているところだ。
「快人にサークルのことで呼び出されたんだ。ここんとこサークルに顔を出してなかったからさ」
快人は大学の友達だと一平が優に注釈をつける。
「夏に合宿しようって話が持ち上がっててさ、俺の代が手配することになったらしくてその相談らしい」
「へえ、何のサークル?」
優がそう尋ねた途端、なぜか蘇芳と夏世は顔をそむけて肩を震わせた。一平自身も目が泳いでいる。
「――笑わない?」
「うん」
「超常現象研究会」
「ちょ……」
優は吹き出しそうになるのを必死に押し止めた。自分自身がその超常現象そのものだというのに、何とも棚の上に登るどころか登ってポーズをつけているような選択だ。
「笑うなよ。快人のやつに無理矢理引きずり込まれたんだから」
「えええ、そのお友達は一平さんの力のこと知ってるの?」
「いや知らないはず。話してないし」
「その割に真面目に活動してるよな、一平」
「いやほら、部室あると助かるっていうか。荷物とか置いておけるし」
「そういうもの?」
「そういうもの。自分大学には個人ロッカーなんてないんだよ――まあ、自分の力について研究するのも悪くないけど、サークル活動でするもんじゃないからなあ」
さてと、と一平が立ち上がった。もうおかわりした皿はからっぽだ。
「んじゃ出かけてくる」
「行ってらっしゃい」
ほどなく蘇芳と夏世も出かけ、優は出勤してきた京子の手伝いをしたり、自主的に勉強したりして過ごしている。なにしろ半年以上学校に行っていないので、勉強がそんなに好きでなかったとしても気になるものだ。
午前中はまじめに勉強に取り組んだ。優が組織にとらえられたのは高校一年の年末、とりあえず今までの復習をしている。
けれどあまり集中できなくてシャーペンを置いた。理由はわかっている、一平が出かけたからだ。
一平は大学生だ。講義があるので出かけていくが、行く日がまばらなのでひょっとしたら優がここに来てから一か月以上講義に出たり出なかったりしているのではないだろうか。出かけて行っても帰ってくるのは結構早い。おそらく予定している講義が終わったらまっすぐ帰ってきているのだろう。だから、一平がサークルに入っているということも今日初めて知った。だとすると、この一か月ちょっと一平はサークルに顔を出していないのではないか。
自分のために一平が普段の生活を犠牲にしているのでは、と申し訳なくなってしまったのだ。
「ああもう、今日はおしまい!」
立ち上がって問題集や文房具を片付けていたら、コンコンとノックの音がした。駿河だ。
「優様、少し休憩してお茶にいたしませんか」
「駿河さん。はい、ありがとうございます」
古川家の執事である駿河はもうすっかり髪に白いものが目立つ年齢だが、年齢を感じさせない優秀な執事だ。優が勉強しているとこうやって時折休憩に誘ってくれるのだが、このタイミングが絶妙だ。そして彼の淹れるお茶は素晴らしく美味しい。優好みの少し濃いめのお茶にミルクを落としたミルクティを教わりたいと思っている。
「本日はウエッジウッドのプシュケにいたしました」
優が茶器好きだと知って、駿河は日替わりでいろいろなカップでお茶を淹れてくれるようになった。鮮やかなブルーの柄が入ったカップとソーサーに見入ってしまう。お礼を言って紅茶の香りを堪能する。
と、駿河のスマホが鳴った。ちなみに着信音はクラシック音楽だ。「おや」と駿河がスマホ画面を見て眉を上げる。優に一言断ってから着信のボタンをタップした。
「失礼いたします――はい、一平様。駿河でございます。はい、はい――お机の上でございますね? かしこまりました」
どうやら一平からの電話だったらしい。駿河は通話を切ると申し訳なさそうに優を振り返った。
「申し訳ありません、用事ができまして少々外出してまいります。お昼は京子さんと二人で先に召し上がっていてください」
*****
「えっ、桜沢女子大と合同合宿?」
ホコリ臭い部室の一角で一平は目を丸くしていた。やっと梅雨も明けた七月の終わり、夏の日差しと湿気が無遠慮に押し寄せる中、あまり効きの良くないエアコンがあるだけでも部室の中は外よりずっとましだ。
机の向かい側では快人が買ってきたばかりの冷たいコーラの蓋をプシュッと開けている。
「合同合宿っていうか、たまたま桜沢と合宿の日程と場所が被ってるのがわかったんだ。たから、合宿中に一度会合持てたらいいねって話になっただけ」
「ああ、そういうこと。にしても、桜沢なんてお嬢様大学によくうちと同じようなサークルがあったな」
「そこは七不思議みたいだよなあ。ま、どこにでもお仲間はいるってことさ。とにかくな、いいか一平。俺たちの学年は今回の合宿の企画と実行を担当する」
「うん」
「そして今回の合宿に期待に胸を膨らませすぎている先輩諸氏がいらっしゃりやがるわけだ」
「――うん」
「つまり、合宿の失敗は俺たちに死を招く。主に脱非リア充に失敗した先輩に」
「いやそりゃ八つ当たりってやつじゃ」
「そういうことだ! だから、その会合だけでもバッチリ準備しなきゃいけないんだ」
快人が勢い込んで机に乗り出す。手にしていたコーラがチャポンとはねて白っぽい泡がペットボトルの中で薄く湧き上がった。
「あっ俺、準備は手伝うけど今年の合宿パスするから」
その勢いを一平が押し止めた。
合宿に行けないわけじゃないが、さすがに狙われている優を置いて泊まりで数日間も家をあけるのは心配だ。だから昨日話を聞いてからそのつもりだった。自分が優のために合宿サボるとか言ったらきっと彼女は気に病むだろうな、とわかっていても、逆にこっちが落ち着かないのだ。
とりあえずそういう理由だということは優には黙っておこうと決める一平だった。
「なんだと! おま、桜沢女子だぞ! それを蹴るってのか」
「いや、ちょっと家の方の用事で夏休みは潰れそうなんだよ。ええと――親戚! そう、親戚の子を預かってて。悪いな」
快人が不満そうに椅子を鳴らす。けどため息混じりの声で「しゃあねえなあ」と呟いた。
「準備は手伝えよ。んで三島屋のお好み焼きで納得してやる」
「了解」
一見やんちゃ坊主みたいだが、快人はさっぱりとした気のいい奴だ。中学からの付き合いだが、昔からこのカラッとした笑顔に何度も助けられてきた。だからできる限り協力しようと決めた。
「んじゃ、善は急げだ。今から行くぞ」
「どこに」
「三島屋! 俺今日はチーズ明太モダンに豚イカトッピングと、あとネギ焼きな」
「あー、うん、いいけど行く前に駅に寄ってく」
「駅に?」
既にデイパックを背負っている快人が一平を振り返る。スマホで時間を確認し、一平も立ち上がった。
「本田教授のレポートさ、今日の一時までだろ?」
「うん」
「大学来てから送信するつもりで準備してきたんだけど」
「まさか」
「――USB、忘れてきた」
本田教授の講義はとても面白く人気なのだが、いかんせんレポートに特に厳しいことで有名だ。内容だけでなく、もちろん締め切りにも。
今回のレポートは、結構調べなければならないことが多く、思ったより時間がかかってしまった。夕べ遅くに書き終えたはいいが、疲れていたのでとりあえずUSBメモリに保存し、朝もう一度読み返すつもりでそのまま寝てしまったのだ。
登校してから送信するつもりでいたのだが、いざ大学に来てみたら肝心のUSBがない。自室のデスク上に置き忘れていたことに気がつき、慌てて駿河に電話を掛けて持ってきてもらうことにした。。
テレポートすれば家に取りに帰れたが、基本的に毎日の生活の中で超能力は使わないのが一平のマイルールだ。おまけに今日は朝からずっと快人と取っている講義が一緒なので、日がな一日つるんでいる予定。こっそり抜け出して取りに行くのも難しい。
「うわあ一平、やっちまったなあ!」
「あー、朝イチで送信しとくんだった……で、そろそろ待ち合わせの時間なんだ」
「オーケーオーケー。つきあうよ」
二人で部室のある校舎を出て駅に向かった。
大学の最寄り駅は大学の正門を出てすぐのところだ。正門から数十メートル行ったところに駅の入り口があり、その左右にまっすぐ線路が伸びているのが見える。
正門前の広場を横切り向かった駅の入り口は、改札に向かう大きな階段になっている。ここの改札は跨線橋も兼ねているのだ。
階段を上がり、人もまばらな改札付近で一平が見つけたのは駿河、ではなく。
「優ちゃん!」
優だった。
ギンガムチェックのショート丈のキュロットに水色のフレンチスリーブのブラウス。ブラウスは袖にレースがついていて可愛らしいデザインだ。肩から下げているバッグはデニム地のトートバッグで、今日の装いによく合っている。
一平の声に優が振り向く。とたんに笑顔が花開く。
「一平さん!」
軽い足取りで駆け寄ってくる。驚いて立ち止まってしまった一平の元まで来ると「はい」とトートバッグから出した小さな巾着を渡してくる。
「はい、USB。あのね、駿河さんがどうしても家を空けられなくて、京子さんも買い物に出てて、それで私が持ってきたの」
「え! 大丈夫か? 何もなかったか?」
「うん。跳んできちゃったから、ぴょんっと」
最後の部分だけ小さな声で耳元にささやきかけられた。いたずらが成功した子供みたいに笑顔を見せる。
そんな優を初めて見る気がする。いつも申し訳なさそうに微笑んでいるイメージの優が、すごく浮かれていて満面の笑みだ。そんな表情に一平はえも言われぬ感覚に襲われる。
(やべ、かわいい)
顔が赤くなってないだろうかと心配になって思わず口元を手で隠す。が、その手を後ろにぐいっと引っ張られた。
「一平! ちょっと来い!」
そうだ快人が一緒にいたんだ、とやっと思い出したが、そのまま優から引き離され壁際まで連れていかれてしまった。
「おまえ! なんだよあの子」
「だから、親戚の子が来てるって言っただろ」
「親戚の子って、子供の子じゃなくて『娘』じゃねえか! あの子がいるから来られないってのか! つまり彼女か、つきあってるのか? いつから?」
「ち、違うって。本当に預かってるだけで」
鬼気迫る快人の勢いに思わず後じさりそうになる。
「――ふうん、ま、そういうことにしておいてやろう」
いや納得してないだろ、とすぐわかる目つきだったがひとまず快人は一平を放した。じりじり焦げそうな快人の視線を受けながら優のところへ戻ると、優はいつも見るちょっと申し訳なさそうな笑顔に戻っていた。
「あの、それじゃ私先に帰ります」
「え、優ちゃん、その」
「帰るなんてとんでもない!」
一平の声にかぶせるように快人の声が響く。優がびっくりした顔で快人を見た。
「初めまして、俺、宇都宮快人。一平の友人です」
「あ、初めまして。池田優です」
「池田さんっていうんですね。せっかくここまで来たんですから、三人で一緒に昼飯行きませんか?」
「え、でも」
優が助けを求めるように一平を見た。けれどその一瞬前、もう一度彼女がうれしそうな笑顔を見せたのを一平は気がついていた。
よく考えてみれば、優は半年以上前に『⒕』に拉致されて、そこから脱走した後も結局一平の家に隠れ住んでいるのだから、組織がらみでなくこうやって外出するのはものすごく久しぶりなんじゃないだろうか。身の危険はあるのだから完全に自由とは言い難いけれど、それでも彼女がはしゃいでいる理由がわかった気がした。
なら、一平の答えは一つだけだ。
「優ちゃん、一緒に行こうよ。美味いお好み焼き屋が近くにあるんだ」
優がうれしそうに頷いた。




