夏世の憂鬱③
お見合いの後まっすぐ古川家へ戻ってしまったので、夏世の荷物は井原家に置きっぱなしになっている。
翌週末、夏世は蘇芳の車で荷物を取りに井原の家にやってきた。迎えに出てきたさとは、夏世と蘇芳を見てうれしそうに微笑んだ。その笑顔にほっとする。
「ごめんね、さとさん。心配かけちゃったでしょ」
「とんでもない。心配はしましたけどね、ご本人を見て安心いたしました」
と、蘇芳の方を振り返った。蘇芳もにっこりと笑顔を返す。穏やかに挨拶を交わす二人の組み合わせがなんだか新鮮だ。
さとが夏世の耳に口を寄せてこっそりささやいた。
「ようございましたね、お嬢様も信じた甲斐があったでしょう」
「さとさんったら」
さとはにこにこ笑うのみだ。そのまま応接室まで案内されたが、夏世は座らず「お父さんに会いに行くわ」と告げた。
「僕も一緒に行くよ」
蘇芳がそういったが、夏世は首を横に振った。
「蘇芳はここで待ってて。何かね、お見合いの時に思いっきり文句を言ったらすっきりしちゃったみたいで――今なら自分の言葉でちゃんと話せると思うの。蘇芳の力を借りたら、それはちょっとずるいかなと思うんだ」
正直、父と話すのは怖い。今まで通り息をひそめていたい気もする。
けれど、お見合いの席であんな別れ方をしてしまったのだ。このまま放置せず一度きちんと話をしなければならないだろう。きちんと会って、お見合いはしたくないこと、自分の心は既に蘇芳を選んでしまっていることをはっきり告げておきたい。
それでも父との話がずっと平行線をたどるのであれば、もうここに帰ってくることはないかもしれない。そのくらいの覚悟で夏世は父の部屋の扉をノックした。
父の部屋へ入ると、父はデスクで何かを読んでいるようで顔を上げない。
「お父さん」
「――」
父の返事はない。夏世は意を決してもう一度呼びかけた。
「お父さん、この間は」
「もうおまえも二十三になるのか」
唐突に言葉をさえぎられて言いかけた言葉が引っ込む。
「ええ、そうです」
「そうか」
読んでいたものを父がばさりと机上に置いた。それは写真のアルバム。夏世や史孝の小さいころの写真がちらりと見える。
「まだ母さんがいたころはあちこち連れて行ってたんだなあ」
てっきりぎすぎすした空気で言い合いになるかと思っていた夏世は拍子抜けだ。そういえば父は一体いくつになったのだろうか。それすら正確に思い出せない。
「見合いの時におまえが言ったことをずっと考えていた。
正直に言って、確かに見合い直後はおまえに腹を立てていた。だが、冷静になって思い返せば古川会長――古川くんの横に立っているお前は、俺が知っていた夏世のままじゃなかった」
どういう意味だろう。父が話していることが今一つ理解できない。
それは今まで聞いたことのある父の声と違っていたから。威圧的で、断定的で、張りつめたような色が見えない。お見合いの前日、久々に顔を見たときに「年を取った」と感じたが、今はもっと強く現実的に感じる。
「おまえは――夏世は、すっかり成長していた。俺の手の届かないところで。以前の夏世なら諦めて投げ出して、内にこもるか逃げ出すか。そう思っていたが、それがどうだ。あの場で反論してきたじゃないか。さっきも言った通り腹が立ったが、同時に驚いていたんだ。ひょっとしたら俺は何かを見誤ってきたんじゃないか、とな」
「お父さん」
「いや、正直言うとまだ間違いだったと認めるのは難しいが」
それってほとんど認めているってことじゃない、と夏世は思ったがあえて口には出さなかった。
「昔の夏世はそんな風だったから、道筋は俺がつけないとだめになると思っていた。だから嫁ぎ先もいいところを見つけてと考えたんだが」
「え? 政略結婚じゃなかったの?」
「たまたま条件のいいご子息が取引先にいただけだ。まあ、あわよくばという気持ちがあったことは否定しないが」
「正直ね、お父さん」
では本当にただのお見合いだったのか。夏世自身も父に対する色眼鏡があったんだなあ、と反省しきりだ。
なら、自分もきちんと自分の気持ちを伝えなければ公平じゃない。
「確かに私、家の中に自分の居場所はない、ってずっと思ってた。だから高校に上がって一人暮らし始めたけど、多分それは逃げてたのよね。考えてみればこうやってお父さんと腹を割って話したことなんてなかったんだから」
「どうする? 家に戻ってくるか?」
「ううん」
今、夏世のいたい場所は蘇芳の隣だから。
「まあ、そうだろうな。これからはもう少しお互い話をすることにしよう――さあ、このへんで話は切り上げよう。今日は古川くんは一緒なのか?」
「ええ、応接室で待ってもらってるの」
「そうか、彼とはつきあってどのくらいになるんだ」
「もう六,七年になるかしら」
「結婚は考えているのか」
「やだ、まだ私学生よ」
「早すぎることはないだろう――さて、昼食はまだなんだろう」
「ええ」
「食べていきなさい。古川くんも一緒に」
そういって父は席を立った。急な父の態度の変化に夏世は戸惑ってはいたが、とてもうれしかった。
今まで冷たいと感じていた家の中が、ふわりと温かくなった気がする。
「夏世はやっぱりすごいなあ」
帰りの車の中でぽつりと蘇芳が言った。
片側二車線の道路は路上駐車のおかげで少し渋滞していて、さっきからのろのろとしか前進できない。熱気に溢れかえる道路は陽炎が立ち昇り、歩けと言われたら定常にお断りするだろう。道端に咲いているタチアオイを眺めていた夏世は、前を向いたままハンドルを握る蘇芳を振り返る。いつも通り穏やかな表情だ。
「何よ、突然」
「あれだけ苦手だって言ってたのに、きちんと向きあう勇気を持ってる。食事の時も普通に話してたし」
「結構ドキドキだったのよ? 予想より話せたとは思ってるけど。まだまだ手探りだよね。でも……頑張るけど、やっぱり今までの辛かった気持ちとかわだかまりとか、そういうものがパッと消えるものじゃないから。私も、多分父も」
「――大丈夫だよ」
ゆっくり車を走らせながら蘇芳が言った。
「少なくともお父さんたちは、夏世が思ってるほど――いや、僕が言っちゃいけないな。これから時間をかけて夏世が見つけていくことだよね、ごめん」
テレパスな恋人にはいろいろわかったことがあるらしいが、あえて口をつぐんだようだ。
「お父さんたち」と蘇芳は表現したが、実は昼食には兄の史孝も同席していた。いつもきつい言葉を投げかけてくる史孝だが、夏世としてはちょっと拍子抜けなほど無口だった。まあ、蘇芳が来客としている場所で毒舌を吐くほど常識外れだとは思わないが。
とはいえ「顔をつぶして」くらいは言われるかと身構えていたので、帰るまで何もなかったのが不気味なほどだ。
「うーん……」
「お兄さんのこと? それも、ねえ――僕としては面白い人だと思ったよ」
「え、あの兄を?」
「うん。不器用なんだよ、お兄さんは」
「――? それも秘密?」
「その方がいいと思うけど、まあヒントくらいは。お兄さんと今度会う機会があったら、お兄さんの言葉を別の方向から読み解いてみてごらん」
「どういう意味?」
「ヒントはここまで。焦ることはないよ」
ちょうど路上駐車の車の脇を過ぎ、そこからは順調に車を走らせる。
蘇芳が言おうとしていることはよくわからないが、彼の言葉を額面通り受け取るならば、少なくとも蘇芳が父や兄に対して悪い印象を持っていなさそうなことはわかった。二人に思うところがある夏世としてはちょっとばかり複雑な心境だ。
少しの不安と鬱屈と、そして期待が胸の中で渦巻いている。
夏世と蘇芳を乗せた車は、陽炎の立ち上る道をまっすぐ走っていった。




