目覚めたら
本日2話目の更新です。
薄暗かった建物内がパッと赤いライトに照らされ、けたたましいサイレンが鼓膜をつんざく。
「見つかった!」
優はハッと顔を上げた。不安を煽るサイレンの音は、まるで彼女を「逃げられるなら逃げてみろ」と煽っているようだ。
「優、時間がない。早く!」
「うん、父さん」
優を先導するのは父親の総一郎だ。とにかく今は一刻も早くこの建物から出なければ。そして総一郎と二人で安全なところへ逃げる。それしかない。
二人で必死に走って、やがて無機質な廊下の先に重厚な隔壁が見えてきた。
「出口だ!」
総一郎が隔壁の脇にあるコンソールボックスに迷わず駆け寄り、パスコードを打ち込んでいく。
「よし、まだ私のコードが生きている」
真っ赤な非常灯が明滅してあたりを照らす中、総一郎がエンターキーを叩く。途端にコンソールボックスの小さなライトが緑の光を点灯させ、隔壁のロックが解除されたことを告げた。優と総一郎は重たい音を響かせながら開いていく隔壁に駆け寄る。
「いたぞ! 池田博士も一緒だ」
だがその時背後から複数の足音が迫ってきた。振り返ると廊下のずっと向こうに武装した男が二人いて、こちらに向かって走ってくるのが見える。
もう見つかってしまったか、と優は張り詰めた気持ちを更に引き締める。ここから総一郎と二人で無事に逃げ出すためには、組織の人間と戦うかもしれないことは覚悟していた。場合によっては相手を傷つけることだって――改めて覚悟を決めて精神を集中していく。
「優! 行くんだ!」
急に総一郎がすごい力で優を隔壁の隙間へ押し込んだ。開いていく隔壁から外へ押し出そうというのだ。
「待て!」
追手のひとりがコンソールボックスに駆け寄り、他のひとりが総一郎の後ろで銃を構えるのが見えた。
「父さ――」
優が外へ転げ出た、その瞬間だった。
パンッ!!
乾いた鋭い音が響いて。
総一郎の体がビクッと痙攣し。
その左胸に深紅の染みが広がって。
「あ……父、さん?」
「ゆう……っ、にげ、て――」
胸を押さえ崩れ落ちる総一郎の体が内開きの隔壁を押し、隔壁が閉まっていく。
「やだ! 父さん、待って、一緒に」
「幸せ、に、なって」
隔壁が完全に閉まる直前に見えたのは細い隙間から見える総一郎の儚い笑みだった。
「父さん! いやああああっ!」
腹の底から叫んで優はがばっと飛び起きた。全身汗だくで、ハァハァと息が上がってしまっている。
あたりを見回すと暗い部屋の中にいることがわかった。穏やかな静寂に包まれているけれど、よく耳を澄ますと風の音や車の音がかすかに聞こえてくる。半年間囚われていた組織の部屋には窓もなく、外の雑音なんて聞こえなかった。
部屋は暗いが、少なくとも無機質なあの建物内でないことはわかって肩から力が抜けた。
「ゆ、め――」
どうやら優は寝ていたらしい。今見ていた悪夢の恐怖と、そして全身を覆う倦怠感で座っていられず、柔らかな布団に倒れこんだ。汗と涙で布団を汚してしまいそうで気になるけれど、それよりも体の辛さが勝ってしまう。その勢いでぱさりと優の長い髪が布団に広がった。
(夢だったら、どんなによかったか)
もう涙なんて流し尽くしてしまったと思っていたのに、またじわりと目頭が熱くなってくる。逃げて逃げてやっとたどり着いたどこかの神社の茂みで一生分は泣いたはずなのに、まだ涙はあふれてくるのか。それはまだ十六歳の優には重たすぎる現実で、涙を流す以外にできることがないからなのかもしれない。優はもう一度ギュッと布団に顔を埋め――
――布団?
ここに来て気がついた。優は布団に寝かされている。正しくはベッドに。
「ここ、どこ?」
改めてあたりを見回す。どうやらそう狭くはない部屋のベッドに寝かされていたようだ。
部屋の左側には天井から床まで届く長いカーテンが見える。幅からいって掃出し窓だろうか? そしてカーテンと反対側の壁にはドアがあって、下端からドアの向こうの明かりが漏れて見えた。
誰かあの向こうにいるのだろうか?
ドアの外を見れば何かわかるかも、そんな軽い気持ちで優はベッドを降りようとした。が。
ガタン!
床に立った途端ぐらりと目が回った。ベッド脇に置いてあった椅子を巻き込んで倒れ込み、あたりに大きな音が響く。幸いひどく打ちつけたりはしていないが、頭がぐらぐらして起き上がれない。何とか倒した椅子を支えに上半身を起こしてみたものの、体に力が入らなくてそれ以上は無理だった。へたりこんだまま倒した椅子にもたれかかり、浅く息をつく。
すぐにドアの外から声が聞こえてきた。
「何? 何の音?」
若い女性の声だ。ぱたぱたとスリッパの音も優のいる部屋に近づいてくる。優は反射的に顔を上げた。声の人物があの時自分たちを追いかけてきた追っ手でない保証はないのだ、警戒を解けないのも無理はない。もちろんすぐにへたり込むことになるのだが。
やがてノックの音がしてドアが開かれた。さあっと流れ込んできた光は落ち着いた暖かい色。ドアを開けた人物はベッド脇に座り込んでいる優を見つけると、慌てて部屋の照明のスイッチを入れた。
「やだ、大丈夫?」
急に明るくなった室内が眩しくて顔をしかめる。細くなった視界の向こうに駆け寄ってきた女性が見えて優はゆっくり目を開いた。
心配そうにのぞきこんでくるその人は、予想通り若い女性。二十歳くらいだろうか、きれいな人だと優は思った。
あごの線あたりで切りそろえたワンレングスの黒髪がさらりと流れ、つり目がちな大きな瞳が印象的なスレンダーな女性だ。
「だめじゃない、寝てないと」
女性にベッドに促されたが、優はぐったりして立ち上がれそうにない。そんな様子を察して女性は「ちょっと待ってて」とドアのところへ向かい、声を上げた。
「一平! ちょっと手伝って、一平!」
すぐにまた別の足音がして姿を現したのは大学生くらいの青年だ。部屋の中の様子を見て「おや」というように目を見開いた。
「どーした、寝かしとかなきゃダメじゃん」
「何でもいいから彼女をベッドに寝かせてあげて一平。立てないみたいなの」
「了解――ごめんな、持ち上げるからつかまっててな」
一平、と呼ばれた彼は優の横にかがみこみ、優の背中と膝裏に腕を回してひょいっと持ち上げる。
「きゃっ」
抱き上げられてバランスを崩しそうになり慌てて一平にすがりつくと、一平は「軽いな」と微笑んで優をそっとベッドに降ろした。
「大丈夫?」
「は……はい」
そう答えたものの、優は人の良さそうな一平の笑顔を見てもまだ不安と疑心暗鬼に囚われたままだ。実はこの人たちは「組織」の仲間で、やさしくして自分を懐柔し、言うことを聞かせようとしているのではなどと悪い可能性が次々に思い浮かんでしまうのだ。素直にこの人たちの好意を受け取るには優がこの半年で受けた心の傷は少しばかり深すぎた。
「いろいろ気になるだろうけどとにかく休まないと」
「そうよ、あなた昨日からすごい熱で丸一日目を覚まさなかったんだから」
最初に入ってきた女性が説明してくれた。
「丸一日……?」
優は目を丸くする。女性の説明によると、どうやら神社の茂みの奥で倒れていた優を一平が発見し、家まで連れて帰ってくれたらしい。
それから丸一日たったということは、この二人は「組織」の仲間ではないのだろうか。
優をあの隔壁の向こうへ連れ戻そうというのならその間に運んでしまう時間はたっぷりあったわけだし、もし口を封じようというのなら優が目覚めるのを待つ必要もない。つまり、丸一日ベッドに寝かせていたと言うことは害意がないということになるのではないだろうか。
優は恥ずかしくなった。人様の親切心を疑ってしまった自分を叱ってやりたい。元々優は平凡な女子高生、人の奥に潜む悪意には慣れていない。むしろ人を信じることが当たり前の世界で暮らしてきたのだ。
「丸一日――それじゃすごくご迷惑かけちゃったんですね」
「大丈夫大丈夫、迷惑だったら連れて帰ってこないよ」
「そうよ、一平も蘇芳――あ、蘇芳ってこの一平のお兄さんなんだけど、二人ともバカみたいにお人好しなんだから」
「バカはないだろ」
はぁ、と一平が大きくため息をつき、倒れていた椅子を起こした。
「自己紹介がまだだったよな。俺は麻生一平。こっちは井原夏世」
「――池田優、です」
「優ちゃん、ね。よろしくね」
言いながら夏世がサイドテーブルに置いてあった水差しからグラスに水を注ぎ優に手渡してくれる。そういえば喉がカラカラだ。一平が優を起こし、寄りかかれるようにクッションを積み上げてくれたので、ベッドに上半身を起こしたまま今度は疑わず素直にグラスを受け取った。
「ありがとうございます……お水、いただきます」
「お腹はすいてない? スープとかおかゆとかのほうがいいかな」
優が水を飲んでいるのを横目に夏世が一平に言った。
「一平、京子さんにお願いして帰る前に何か胃にやさしい食事用意してもらっておいて。優ちゃんが食べられそうなら私が後で温めるから」
「ん、わかった」
一平が出ていってしまうと、夏世は椅子に座って体温計を優に渡した。測ってみると三十七度を少し超えたくらいの微熱があるだけだ。
「熱、下がったね。よかった――ところで優ちゃん、ご両親は? 優ちゃんまだ高校生くらいでしょ、ご心配だろうから連絡するよ」
「――ません」
「え?」
「両親は――いません。母は私を産んだときに、父も、ついこの間――」
夢で見たのと同じ光景が脳裏に浮かび、優はわき上がってくる涙を必死に抑えた。じんわり赤くなったであろう目元や鼻を夏世に気づかれていなければいいけど、とちょっとだけ鼻をこすった。
「ごめん、辛いこと聞いちゃったね」
夏世が申し訳なさげに眉を下げた。少しの間部屋の中に静寂が訪れ、ただ時計のコチコチいう針の音だけが聞こえる。
水を飲み終わった優からグラスを受け取り「なら、さ」と夏世が微笑んだ。
「なおさらしばらくここにいればいいわよ。まあこの家の人間じゃない私が言うのも何だけど、賭けてもいい、蘇芳も一平も絶対ノーって言わないわ。何しろ天下無双のお人好しだから」
言いながらおどけたように肩をすくめてみせ、優もその仕草にクスッと笑ってしまった。
「ふふ、やっと笑ったわね」
夏世か目を細めて笑った。どちらかというと「かわいい」よりは「美人」という表現が似合う夏世だが、弧を描いた鮮やかな唇にも少し吊り目な目にもとっつきにくさは感じられない。夏世が一平とその兄を「お人好し」と評している以上に、この夏世という女性も筋金入りのお人好しなのだろうと優には想像できた。
その少し緩んだ空気にトントン、とドアをノックする音が混じった。
「京子さんがスープ作ってくれてた。少し持ってきてみたけど、食べられそうか?」
一平が小さなトレイを手に部屋に戻ってきたのだ。トレイには湯気の立つスープカップがひとつと小さなロールパンを乗せたプレート、それにスプーンを添えられている。せっかくだからと受け取りひと匙口にすると、コンソメに野菜の甘みが溶けこんだやさしい味がした。
「おいしい」
「よかった。京子さん喜ぶわ」
食欲はなかったが体は欲しがっていたらしい。結局スープもパンもしっかり食べてしまった。体がぽかぽかして何だか汗っぽい。熱があったのだから当然か、と思い直した。
「熱はだいぶ下がったみたいだけど体力は落ちてるんだから休んだ方がいいわ」
食事が終わると夏世に布団に押し込められた。優がおとなしく横になったのを見届け、夏世と一平は部屋を出ていった。
再びしんと静まった部屋で優は深く息を吐いた。お腹に物が入ったからか、さっきより気持ちが落ちついている。そうしてぼんやりと部屋の中を見回しているうちに、むくむくと疑問がわいてきた。
何しろ今優が寝かされているのがあまりに豪華な部屋なのだ。優の寝かされているベッドも布団も、壁際に置かれているサイドボードもその上に飾られている花瓶すらも洗練されて高級品のオーラを隠せない。部屋は淡いピンクで統一されているが決して派手さはなく、落ち着いた色合いで、まるで一流ホテルを思い起こさせる。
一平はこの家に住んでいると言っていた。そして兄がいると。
夏世は「井原」と名乗った、ということは一平とは家族じゃない。ならなぜここにいたのか。
さらにスープを作ったという「京子さん」という人物の話も出たが、この人も何者なのか。。
けれどこの室内の豪華さを見ていると、一平の家は庶民という言葉からかけ離れたところにあるんじゃないだろうか。とすると「京子さん」は家政婦さんか何かだとしたら筋が通る。
(どうしよう――すごいおうちに来ちゃったみたいだけど)
気後れしてしまうのも確かだ。けれどそれ以上に優を不安にさせるのは、自分の事情に夏世や一平を巻き込んでしまうんじゃないか、ということだ。
「組織」が逃げ出した優を放置しておくわけがないのだから。
もう少しだけお世話になって、体を動かせるようになったらこっそり出て行こうと優は決心した。親切な人たちにお礼する暇がないのは気が咎めるが、巻き込んでしまうよりははるかにましなはずだ。
優はもう一度目を閉じたけれど眠れる気はしなかった。
それでもまだ体は休息を必要としていたようで、彼女はやがてうとうととまどろみの中へ溶けこんでいった。