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誰かと活動報告で交流しました。それをこんなところで保存します

作者: いのライト

私の活動報告で起こった面白い会話でした。ここで保存します。気が合えば、評価付けてもいいですよ。


☆あと(2020年3月28日)最近のことですが:

この作品の感想欄にもいいことが起きました(作品よりもいいかもww)

いい人に出会えました。ぜひ感想欄を作品を読むときと同じ真面目な、期待する目でご覧ください。

おそらくそこに書いてあるものも、読者たちにもいい読む体験になります。

活動報告原文:


私の言語能力が私が見る世界の限界になる

ツイッターでこういう目覚しい言葉を見ました。

ここでシェアしたいと思います。

The limits of my language are the limits of my world." ‒ Ludwig Wittgenstein


訳せばこんな感じになりますが:

「私の言語の限界は私が見る世界の限界になる」

これ↑↑↑↑は私訳です

ググルで訳したものはこうですが

「私の言語の限界は私の世界の限界です」


それを読んですぐに思いついたのは「やっぱり私が言語ことばで表現できないこと」とは「私がちゃんと考えなかったこと」ということと同じだろうって思います。


言語には「表現できないもの」がないといっても過言ではありませんが、ただ言語が本当に表現して自分が意味したいように聞き手に理解されるかのも疑問です。


このサイトという地形プラットフォームに応用すると、読み手がどれだけものを読んできて、さまざまな「いい」と「悪い」文体を覚えた上で「読」という体験をさらにアップさせることができるか、それが「読者」的にいう限界です。


読んですぐにこの作品がくだらないって思いやすい人を例にして話せば、くだらなくなりやすい、読む能力が大雑把で繊細でないことが「限界」になります。おそらく「限界」に触れたのといっても、私みたいにどんなに下手といわれた作品でも「まだ私の知らないものがある」が頭の裏にずうっとあって、何回読んでも楽しむ読者になります。


私は基本的に読書になる場合、時間を忘れてしまうぐらいにいわゆる「下手」(パクリも含め)といわれる作品を読み続けます。無論「いい」と「悪い」って作品を見分けることもできますが、自分はかなり思想が開放的なほうで、作品を文字でなく、人間が経験したものだと思った上で作品を読んでいます。つねに言語が正しく使われているかどうかを忘れてしまうぐらいにね、形式抜きな目で「貴方が何が言いたいのか知りたい」という強い好奇心を以って読むのに浸ります。


なぜなら、何度もミスのある文章も見てきたので、ミスをミスのままでも分かるって程度になったら、文字を無視してその内容が伝わってきます。そんな「雑」な能力を持った私ではありますが、それで「読む」の楽しさはどんな作品からでも見つけやすいのです。


書き手からすれば、言語をどう他人が慣れた読み方で書いて伝えるかも大事ですが、人に「もっと私の意味したいように意味に限界を作りたい」って伝えるために言語そのものが生まれます。旅行をする外国人さんが日本語をわずかにしか話せない場合、手振りとかで手段を尽くして必死に伝えることが多いです。「言語」の限界にふれたのが「言語以外」の手段を促したのですが、その「言語以外」の手段を「言語の中」あるいは「言語にすでにあるルールを以って生かすことができます。


思い出してみると、学校に通ったころ、先生は生徒に言葉を教えるときに、意味の伝わらない言葉があれば、反対語や説明を長引くこと、あるいは実際の例文はストーリーを引用して、言葉で言葉を説明することが多かったです。


人の知らない言葉を言いまわすとか言った手段も多かったのです。


私みたいな多国言語をしゃべる人としては、その手段も学ぶスピードをアップさせました。なぜなら形式というもの、辞書の形ですでに理解させることに失敗したものを、教師は使わず、意味が伝わることだけに集中したからです。


おそらく

「The limits of my language are the limits of my world."」と言ったその人が思っていることが、私が上述で言った観点とは違うかもしれません。

ですがこういう風に他人が書いた言葉を言ったその人の伝えたいことを理解した上で、、その人と違う意味で読んでみること、それに、特に私自身の人生の経験を以って新しい視点を見いだすことは私がよくやることです。


なぜならパースペクティブを変えることが楽しいからです。


もちろん原文の作者を理解した上でそうやっているのも、この記事を読んだ人に伝えておきたいのですが、ちゃんとこの記事を読んでそれが伝わったかどうか、コメントで話していいですよ。


批判に耳を傾ける心の準備はちゃんとしました。


では、話は以上です

読んでくれた方々には

心よりありがとうございました。

ーーーーーーーーー分解ーーーーーーーーーーーー

読者ユウグレムシさんが記事に対するコメント:


ウィトゲンシュタインって名前どこかで聞いたことあるー!と思ったら、

“語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない”

(「よく知らないんですけど」と前置きする人は、そう言った時点で続きを語る資格がない)

の人かー!


>私の言語能力が私が見る世界の限界になる

「年配の女性にはゲーム機がみんなファミコンに見える」とか

「昆虫に詳しくない一般人は、小蠅や蛾にもいろいろ種類があることが分からない」というようなことですね。


たとえば美しい景色を見ても、咲いている花々が何という種類の植物なのか知らなければ、

見逃してしまっている美しさがあるのかもしれません。

満開の桜はそれ自体が美しいですが、数日で散るものだと知っていると、その儚さがいっそう美しさを引き立てます。


目に見える現実なんてものは、ぜんぜん当てにならないけれど、

人間は言語という不完全なツールを駆使して、

自分の見ている世界と、他人の見ている世界との間に、折り合いをつけるしかないんですね。

ーーーーーーーーーーー分解ーーーーーーーーーーーーーーー


ユウグレムシさん


はじめまして。

こんなにも有名さのない私であって、有名さのない活動報告でちゃんとした考えを入れて書かれたコメントがいただけることに真に感心しました。その上、感動しました。


こうしてユウグレムシさんがコメントを残すことで、知り合ったわけでもない初対面(と書いてユウグレムシさんと読むのですが)とここで出会えたことにはまず感謝しております。


この活動報告の


>思い出してみると、学校に通ったころ、先生は生徒に言葉を教えるときに、意味の伝わらない言葉があれば、反対語や説明を長引くこと、あるいは実際の例文はストーリーを引用して、言葉で言葉を説明することが多かったです。

>人の知らない言葉を言いまわすとか言った手段も多かったのです。

>私みたいな多国言語をしゃべる人としては、その手段も学ぶスピードをアップさせました。なぜなら形式というもの、辞書の形ですでに理解させることに失敗したものを、教師は使わず、意味が伝わることだけに集中したからです。


にも書いてあるように、


ユウグレムシさんのコメントに書いてあるさまざまな例を通して私が書いたものをちゃんと理解したのが伝わってきました。私に理解させようとする行為自体はすごく喜ばしいことです。たくさんのいい例をいただけて心より感謝しております。


後、

>人間は言語という不完全なツールを駆使して、

自分の見ている世界と、他人の見ている世界との間に、折り合いをつけるしかないんですね。


「不完全なツール」と言われたのは、おそらく人間という生物が生まれたままで不完全であって、その上に自分が不完全であるということを知って、「完全」=「自分にできないことがある」のを他人にできることから知ったという前提で考えないといけないと思います。


「折り合いをつける」というものは人間という生物に欠点がある事実を認めた上で成り立つもので、欠点がないと妄想して傲慢になった人は、「折り合いを付ける必要がない」と考え、おそらく何にも自分の考えや言語能力を世界の中心に思っていて、他人の考え方を考えもしないままで言語という不完全なツールを使うと思います。


そのような人が、すごく危険な人間の一種でもあります。私ならできるだけああならないように自分のプライドをちゃんと押さえ、どんなときでも必死に殺そうとします。「危険」な存在といっても、あんな他人のことを考えないのは、実はすごく楽なもので、ケアフリー(のんき)なものでもあります。


しかし、そんな自分のためだけの「のんき」のせいで、すでに言語の問題で悩む人をさらに悩ませるリスクが伴い、もともと「折り合いをつける」ことでいい未来が見えるはずだが、自分の傲慢で自分の考え方が唯一正しい考え方であることで、意識したかどうかを問わず、聞き手は「理解できなかった」事実から目を逸らしたから私にとっては損の行為の一つでもあります。


ここで言う損とは、他人の時間の無駄になったという意味でもあります。豚に珠の価値が見えないように、他人は自分が使った言語(話すのも書くのも)理解できなかったせいで、言わないのと同じです。そんな場合、聞き手は話し手の言葉を理解しなければ、そもそも言語というのは贅沢過ぎて使うまでも無かったツールになってしまいます。その上に傲慢という危険なものは「他人が理解できなかった」のを自分の楽しみにする悪趣味を持っています。他人が理解できなかった、それで他人に伝える必要もなかった、他人の時間の無駄遣いの上に、語り手自身の時間の無駄遣いでもあります。「私があなたから学ばない、貴方も私から学ぶな」みたいな気まずいコミュニケーションは、コミュニケーションでなくなるといっても過言ではありません。


傲慢さは、人間に人間らしさを失わせるといってもいいと思います。


読み手や聞き手のほうからも同じく傲慢さがあります。自分の求める「言語の正しさ」を常に書き手・話し手におしつけるより、「なぜ私だけが楽しく読めない」「なぜ他人は楽しく読めて高い評価を付けた」の自己反省でまず考えておいた上で「書く」や「話す」人に返答するべきだと思います。


ただ「何が正しいか」といっても、たとえば方言を話す人の中で「自分の方言が一番標準なアクセントだ」っていう人がいるのではありませんか。それと同じようにみなが行った学校が違って、言語を教えた教師も違い、言語を教えた教師が性別的に、教育的に、時代的にも「この時代」や「このグループ」に合わない言語を教えた人が必ずいます。


中国を例にして言えば、広東省という南方の省の教師たちは、十年間前中国の中国の標準語を小学生の生徒に教えるときに、基本的には「標準語」が上手く話せません。北方である北京の方言と言われる言語に基づいた「標準語」は、北京で学校に通った人であれば、言葉のチョイスや訛が「標準」に近いと誉められ、南方の人なら南方方言が「標準語」と大きい違いがあるせいで生徒たちの言葉のチョイスや訛が常に違ってきます。


もっと細かく話せば、人と人が「同じ教師」に教わったといっても、学んで理解した「言葉の意味」が必ずしも同じわけではありません。今でもああいう「この言葉は日本人の9割がよく間違って使うよ」とかのネット記事があり、そんな記事の中で「正しく使え」の視点もあれば「間違いがもう間違いではないが、昔の人はこう使ったのを教えただけ」という視点の記事もあります。情報のありふれたこの時代ではああいう記事を読んだら言い方を変える人もいれば変えない人もいます。だが、記事に会えた人だけにそんなチャンスがあり、ぜんぜん会えなかった人なら、おそらくそのまま「間違った」といわれる使い方の枠に自分も知らずに統計されます。


同じ時代の人なのに、教科書も似た単語を教えているのに、それでも人間には学ぶときに理解の差が必ず出てきます。あと家で父と母が方言しか話せない人とか、学校でそのせいで標準語が上手く話せない、言葉のチョイスが可笑しい人のことは話すまでも無く、「理解の差」が必ずとの人間の間にはあるものだと皆に長引いて説明しなくても理解できることだと思います。


上述の話でまとめて言えば、南方の中国人教師たちの「時代」や「グループ」が「標準語」を上手く話さないせいで、南方の生徒に言葉のチョイス可笑しさを北方人だけが感じるという場面が出てきます。こういう場合、教育や生まれた土地のバックグラウンドが違うせいで、「折り合いをつける」大事さがさらに必要になり、一つの大きい国として平和に共存する必要なものでもあります。互いから「違い」を学ぶことで、サプライズみたいに思ってもいいことです。多彩な花が咲くような、美しい場面に私はこのような平和さを見ています。


人間が不完全であるを認める前に、人間は傲慢さを捨てるのが、前提です。自分が不完全であることを直視することから目を逸らさせるのが傲慢さの目的です。傲慢さがそうしない場合は傲慢でなくまります。ですから、それを捨てないと、「語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない」といったように、「語り手、読み手」の中で傲慢な人が沈黙せねばならない、したほうが自分のためになる(つまり、自分が思っていることでなく、もっと実際に起きている自分と関係のないことを見ることができるようになる)といっても過言ではありません。他人に対して自分の「理解」もそれによって深まります。


このように、時に言語のツールを使うまでもなく、「折り合いは自動的に付けられた」ことは、傲慢さを捨てた上ですぐにできることです。


ですが、傲慢さが人間の細胞全部を支配しているかのように存在しているので、言語の「不完全さ」が常に自己の正しさに酔っている人間に目を現実(自分が不完全で、自分が使うツールも不完全であること)に向けさせて、覚まさせます。


互いを理解して、折り合いをつけるってことは、時に言語が言語の不完全さがあってこそ魅力的なものです。矛盾などが可能であることが、魔術師が時により衝撃を与えるマジックを見せるためにわざと失敗しておくことと同じように、折り合いをつけることに失敗する場合、それが結果でなく、過程に思えば、未来が見えます。特に、傲慢で現実を見る目を失った人でなきゃ、その未来がちゃんと見えるはずです。


言語という不完全なツールを、正しく使えば、傲慢さの危険さを学ぶことができ、間違って使えば、傲慢さを光栄に思ってしまうこともできます。そんな中で、話し手と聞き手の関係で、両方が「互いに違いがある」と認めた上で、傲慢さを捨てた関係が、一番喜ばしいことだと思います。


そんな関係がこの世界でたくさん生まれたら、私も嬉しくなります。


あと、上述の長い話の熱意をこめて、ユウグレムシさんへの感謝の意をこめて言います:

コメントを書いてくれたことに、真にありがとうございました。ユウグレムシさんの話を読むことができて、すごく楽しくて、嬉しかったです。

はい、では、また次作で!

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