第一話 海外研修の話をもらう
この日、俺は直属の上司である内調室長に呼び出された。
出向いた先には、もう一人、俺を待ってる人物がいた。
(外政審議室の室長が俺に……?)
何の用だろうと訝しんでいると、その室長さんが手元の資料を見ながら口を開いた。
「敷島大和――昭和四十六年、十二月二十二日生まれ……十八……いや、まだ十七歳か」
読み上げられたのは、俺の生年月日だった。手にした資料は、俺の履歴書か?
査定面談か何かか……そう考えていると、資料から俺の顔へと視線を移してきた。
「君のことは、うちの吉良君から聞いているよ。年齢は若いが、かなり優秀な人材だとね」
「長官も目を掛けてくださってる様子だったぜ。未成年の採用なんてってぇ反対を押し切って良かったなぁ」
両室長から称賛されて、俺は頭を下げつつ考える。
お誉めの言葉を下さるだけで済むとは、思えないからだ。
「そこで、君に一つ話が来てるんだが……海外研修、受けてみる気は無ぇか?」
海外研修……!
日本は、どうしても情報戦については他の先進国に遅れている。他国のやり方を直に学べる、願っても無い機会だ。
国際情勢の最先端の情報も、いち早く掴めるかもしれない。
「有り難いお話です。研修先は、どちらの国ですか?」
「大英帝国だよ。あそこは、今もIRA暫定派とやり合ってるからな」
IRA暫定派……イギリスと対立する、北アイルランドの武装組織か。
連中の仕業と思われる爆弾闘争は、日本でもニュースで流されている。
「イギリスにおけるテロ対策を学んで来い、というお話ですか?」
「いや、それだったら君じゃなく安保室から人を出す」
そう思ったから聞いたんだが。
何か事情があるのか、外政審議室室長の長い話が始まった。
「君も知っているだろう? 中国の天安門広場に、民主化を求めるデモが集まった。そのデモを解散させるため、参加した一般市民に対し人民解放軍が発砲、装甲車まで持ち出して流血の惨事になったのを」
つい数ヶ月前の出来事だ。当然、記憶していると答えると二人揃って頷いてきた。
それはいいが、「うちの下の子は君と同い年だが、ニュースなんかまるで見ない」と、ここでボヤかれてもなぁ。
「西側諸国は中国を大いに非難し、経済制裁へと踏み切った。日本もこれに同調し、中国への円借款を凍結した。……が、舌の根の乾かない内の先日のサミットで、中国を擁護する発言があった。首相の訪中日程まで組まれ、円借款再開も秒読みだと言われている。この朝令暮改ぶりに、『中国に抗議しろ』という抗議のデモが永田町に押し寄せてきてる」
「昔あった“ベ平連”ならぬ“中平連”ってトコか。ベトナム戦争が終わったのが、一九七五年……敷島君は、まだハナタレの頃だったから“ベ平連”なんて知らねぇよな」
いや、前世で見て知っている。
昭和の大きな出来事は、繰り返し見てきて今も記憶している。
そんな俺でも、知らないことはある。例えば、二十一世紀……平成の次の元号……幸せな結婚生活……挙げれば、キリが無い。
「日本が、自国民のデモに対して中国と同じやり方を取ることはない。だが、彼の国は分からん。天安門の煽りを受けて、台湾でも民主化を求める声が大きくなっている」
段々、話が遠ざかっている気がするな。
イギリス領の香港の話が出てくれば、まだ分かるんだが。
ここは結論を急がせず、じっくりと聞いておこう。
「中国政府は、天安門のデモはアメリカの陰謀だなどと言っている。CIAが洗脳を施した中国人留学生を送り返して、中国に混乱をもたらしたという言い分だ」
「その話を、そのまま信じる訳にはいかねぇが……それを本当に台湾でやられる可能性は考えんとな。当然、中国側もそれを阻止するために、台湾に工作を仕掛けるだろう」
中国と台湾とは、元は中華民国の共産党と国民党の対立。そこから分かたれた分断国家。
どちらも互いに、自分たちが正当な中国であると主張している。
日本は十七年前に台湾と断交し、大陸の中国と国交を結んだが……その両国の体制に変革が訪れれば、日本も対応を迫られるのは必定か。
「そこで、学んでおくべきはイギリスの北アイルランド政策だ。アイルランドは六十七年前、イギリスから独立した。が、その後も北アイルランドにある六つの州は依然としてイギリスの一部として残り続けている」
「北アイルランドでは、アイルランドの一部としてイギリスからの独立を目指す勢力と、イギリス連合王国の一部であり続けようとする勢力との対立問題がある。この問題に対して、イギリス政府が手をこまねいていると思うか? それは無いはずだ」
机の上に広げられた世界地図の隅を指先でバシバシと叩きながら、説明を受ける。
グレートブリテン島の隣に位置するアイルランド島。その北端には、確かに国境を表す線が引かれていた。
「……イギリスが、アイルランドや北アイルランドに人を送り込み、その動向を探ると共にイギリスに有利になるようなロビー活動を行っている……とすれば、その方法を学んで来いと?」
事は、単なる海外研修の話ではない。そう考えて慎重に尋ねてみる。
室長は身を乗り出し、声を潜めて俺の質問に頷いた。
「もちろん、そんなことをバカ正直に教えてくれやしない。あくまで表向きはイギリスのテロ対策を学びに来たということにして、裏から上手いこと探ってくれ」
ニヤリと笑いながら無理難題を押し付けられ、俺は絶句した。
* * *
さて、どうしたものか。
海外研修の話自体は引き受けたものの、裏の任務まではどこまでこなせるか分からない。
信任状もくれなければ、融通をきかせてくれるカウンター・パートもいないとなると困難この上無い。
(……せめて国内の協力者を頼るか)
出発までの間に出来る限りのことをしなくては。
北アイルランド情勢について勉強する傍ら、外政審議室のノゾミに協力を仰ぐ。
上手いこと話を通してもらったようだ。駐日イギリス大使の紹介状を取り付けることに成功した。
更に官房長官を訪ねると、餞別として四六〇〇ポンドほど工面してくれた。
研修手当だけでは苦しかったから思わぬ助けだが、日本円にして一〇〇万円ほど(一九八九年のレート)。捜査費としては心許ない。
とにかく、準備としてはやり尽くした。後はこの身一つで、やり抜くしかない。
日本を発つ前に、やっておきたいことがもう一つ。ミズホに電話を入れておいた。
「イギリスかぁ~。ね、ね! ピーターラビット見たら、写真撮ってきてね♪」
「ジェームズ・ボンドになら、会えるかもな」
何も観光しにイギリスまで行くんじゃない。
それこそ、ジェームズ・ボンド……海千山千のイギリス秘密情報部を相手にすることだってあり得るんだ。