96話 秀吉からの要請
今は夜更け、夏が近い事もあり部屋の窓は開けていたが襖は閉ざしていた。
音羽に無理を言って部屋に蚊帳も用意してもらっとった。
事が済んだ後、俺ら二人は裸で並んで横たわっていた。
お香が俺の腕を掴んで寄り添う。俺もお香の手に手を添えた。
「すまんのう、首の傷もまだ癒えへんのに」
「構わないよ」
俺は浴室で増幅した欲求をお香に求めてしまっていた。
彼女はその要求に素直に応じてくれた。
「おめえさんも疲れねえの?」
「いや全然」
「ふふ、元気なんだね」
「……すまんな、尼さんやのに」
「何言ってんだ、一度しちまったんだからもう関係ないよ」
ふっ、と俺は小さく笑った。
「だけどまだ子は作んないからね?仏門入ってんだし、まだお久っつう女ともケリつけてねえもんさ」
……久……か……
「それに私に子供産む資格なんてねえべ、あんなに人殺めて……」
そう言い俺の腕を掴む力を強める。
「そんなもん……俺もや、俺は戦で人を何十人と殺めてきた。気にすんなとは言わんが……資格はある、そんな風に考えんでもええよ」
「…………」
「俺はこれからもお前と共に……」
「分かった分かったよ女ったらし、そんな話は京でお久に会ってからだ。その後に……ね?」
「……分かった」
「さぁ寝るべ、明日の朝早くに出なきゃいけねえもんね」
「……そやな、そやけど……ほんまに秀吉様に会えるんか?」
「知らね」
「簡単に会えるお方なんやろか、なんかあのお方……目力っちゅうか……心の内にある意思の力が飛んでもなく強くて話すの怖かったぞ」
「そうなの?私は御会いした事ないからよく分かんね」
「俺みたいな身分低いもんが又会えるんかな」
「だから飯田家の使いとして行くんだよ」
「そやけどなぁ……いくら飯田家言うても……」
「ぐだぐだうるさいね、やってみなきゃ分かんねえべ?弱気は許さねっつったろ?」
「……殺されへんか?明智の残党の征伐してくださいって突然訴えかけて、秀吉様に生意気言うなって言われて処罰されへんか?捕らえられて首跳ねられへんか?」
「知らね、そんな事、実際会ってみて言ってみないとさ、どうなるか分かんないべ?」
また俺はふっ、と笑ってしまった。
一体どこからそんな強気な気持ちが湧きおこるねん……
「なるようになるんだ、そう言うもんだよ」
「そやな……」
俺は苦笑いを浮かべそう答えた。お香はその後なにも話す事なく眠りに就いていった……
「おはようございます」
翌早朝、音羽と使用人の女二人が朝食の乗った膳を運んできてくれた。
今回は音羽が来る前に起床をし、服も着ていたので恥ずかしい場面を見られる事は無かった。
無かったが……
三つの膳が部屋に置かれ、お香と音羽と俺の三人で食事をとりだそうとした時に、音羽が俺に声を掛けてきた。
「昨晩のお話の件やけど、うちらの方で調べました所……」
明智の残党の話か?
「惟任光秀の残党がおると言うお話はどうやらほんまやと思われますが、穏便に動いとるようで実態がよう分からんそうどす」
「……あぁ」
「何でも近江の坂本の方に集結しとるそうなんやと」
坂本か……
「まだ亀山の方で争いは無い言うそうどす」
「そうなんか」
俺は少しだけ安堵した。どこまでが確かな情報か分からんが……
「ほんでもうひとつなんどすが……」
「…………」
俺もお香も音羽をじっと見詰めた。
「羽柴筑前守様、もう京におられません」
「……あぁ、そうか……」
俺はそう呟いたが、若干安堵した。
変に会って、変に無理な要望したら、怒りに触れて殺されるんちゃうかと思ったからやった。
「尾張のお国に行かはりましたんやと、二日前の朝に」
音羽がじっと俺を見詰める。
尾張って具体的な場所は分からんが聞いた事はある。お香も行った事がある言う話をしてたし。
「ほんで二郎さん、昨日調べに使わさせたもんのお話、少し聞いとくれやす」
「……使わさせたもん?」
「はい」
そう言うと音羽が立ち上がり、襖を開けて部屋を出ていった。
「……なんや?」
俺は隣のお香にそう尋ねた。
「分かんね、誰か呼んでくんだろ?」
「…………」
俺は無言で音羽を待った。膳に手をつけずに……
「お待ちどう様」
音羽が部屋に戻ってくると白い木綿の着物と紺の袴を履いた男が彼女の後ろに続いて入ってきた。
長身の若い男や。
音羽が膳の前に座るとその男は俺らに軽く頭を下げ、音羽の斜め後ろに腰を下ろした。
座ると再び俺らに頭を下げる。
「二郎さんら、御食事お召し上がっとったら宜しいのに」
音羽が口に手を当てて笑うとる。
「あぁ……そやな」
俺はお吸い物の蓋を開けた。普通の味噌汁や。
俺はそれを一口、口に運んだ。
味噌の味が口に広がる。
うま……
「お話、宜しいでしょうか」
音羽の後ろに座る男が味噌汁を飲む俺を見詰める。
お香が俺の腕を掴んできた。味噌汁飲むのを止めろと言う事やろう。
音羽もじっと俺を見とる。
俺はお椀を膳の上に置き、男を見た。
若いな、若いが二十一の俺よりは年上やろう。
そやけど、かなり男前やぞ。
鼻筋が通っとって切れ長の目をした端正な顔立ちをしとる。
しかし武士には見えん。そこまで気品は無い。
そやけど鋭い目をしとる。
その目の奥には殺気すらも宿っとる。
「昨夜、音羽様より仰せつかり京の羽柴秀吉様が御宿泊なされておった御寺へと参りました」
「…………」
俺は無言で男を見た。お香も黙って聞いている。
「羽柴秀吉様、すでに京を経ち尾張の清須へと向かわれておられます」
「きよす……」
知らんぞ、そんな地……
「して、羽柴秀吉様よりの御言葉頂戴致して御座ります」
「……はい……」
秀吉様からの御言葉?
「尾張までへの道のりの護衛として葛原光丞殿に要請願いたく存ずる、つきましては六月二十三日に妙顕寺へ来られたし、と仰せなさられておられたと」
「……え?」
俺はぎょっとした。
今日は六月二十五日やぞ……
「え?え?俺そんなん全然聞いとらん……」
「既に秀吉様は京をお発ち致しております、それにつきましては致し方御座いませぬ」
男が無表情なままに俺を見詰める。
「しかし、まだ尾張へは参られておられぬと思われます。つきましては……」
男がじっと俺を見詰める……
まさか……まさか俺を……
尾張に連れて行くんちゃうやろな。
「秀吉様が清須に御到着なさられる前に、直ぐにも秀吉様の元に参りましょう」
「……今日?」
俺は男にそう尋ねた。
「秀吉様よりの御要望なれば、早急に」
ほんまかい……ほんまかよ……俺は亀山に帰って無事を確認したいんやが……
「俺、亀山戻りたい思うとったのに」
「亀山で争い事あったとは聞いておりませぬ、それよりもすぐにも秀吉様の元へ参られた方が懸命かと存ずる」
男が冷静にそう言い、じっと鋭い目で俺を見詰める。
随分落ち着いた男やな、感情もなんも伝わってこん。
「……今、秀吉様どちらにおられるん?」
俺は無表情の男にそう尋ねた。
「恐らくではありますが、近江か美濃の境辺りにおられると思われます」
「……ふふ、どないしよお香」
俺は思わず吹き出し隣のお香にそう尋ねた。
「行かなきゃ」
「……ええ……」
行くんかよ、そんな遠い所。
「秀吉様御本人からの御要望と言うのは本当ですか?」
お香が男にそう尋ねた。
「本当の事と伺っております、亀山の葛原殿の元へ使者を使わされなさっての御要望と」
ほんまかい……実家に秀吉様の使者使わせて俺を呼んでたとは……
これはすぐにも秀吉様の元に行かなあかんのちゃうか。
「わ、分かりました、すぐにも出発致します」
「左様ですか、でしたらわたくしも用意して参ります」
そう言い男が頭を下げる。
「御苦労様、ごめんなさいね玄蔵さん」
音羽が男にそう告げた。男は立ち上がるとそのまま部屋を出ていった。
「……あの、音羽……どういう事なん?」
「うちも報告聞いただけで詳しい事はよう分かりませんねん」
「秀吉様が俺に護衛しろって言ったって?」
「そうらしいどすね、そやけど二郎さん亀山のお家お留守やったからね、仕方ありまへんよね」
そう言う言い訳通じるんやろか……怖くなってきたぞ……
「お香、俺尾張行くわ、お前ここで休ませてもらっとけ」
「はぁ?私も行くよ、何言ってんだ」
「遠出なるやろ、首の傷も……」
「首首うるさいよ、もう治りかけだ」
「そやけど……」
「私も尾張で世話になった事あんだ、久々に行ってみたい、それと羽柴秀吉様に御会いしてみたい」
「……ほんまに?」
「ほんまや、ふふふ」
大丈夫なんか……ほんまに大丈夫なんか?
「そんでさ、さっきの男ずいぶんと男前だったけんど何者なの?」
お香がやや声を上ずらせて音羽にそう尋ねとる。
何言うとんねんこいつ……
俺は呆れ顔でお香の横顔を見た。
「今年の春先に雇いました者どすよ、諜報の御仕事させとるねん、伊賀の出のもんやと」
「伊賀……」
俺はそう呟いた。
また、伊賀か……
「お国えらい事になって京まで出て来られたんやと」
「伊賀……か」
また伊賀か、安土でも伊賀のお結さんにお世話になったが……
そやけどあの殺気の宿る鋭い眼差しはちょっと普通ではない感じはした。
「忍びだよね、忍びの里だよ」
お香が俺にそう言う。
「忍び?何それ」
「乱波だよ乱波、知らねえ?だけんども伊賀の忍びは乱波ではないのかな」
「…………」
何を言うてんのか分からず俺は黙り込んだ。
「相模に乱波の集団が居たんだ、風魔党って言う乱波の集団がね」
「らっぱ……」
「だけど伊賀は又違うよね、忍びだよ、知らないの?」
「……知らん」
「あんたほんと何も知らないんだね、ふふふ」
お香に笑われてしまっとる。
なんや……忍びって……
「だけどさ、すんごい男前だったよね、おめさんより男前だったよ?」
そう言いお香が俺の肩をパンパンと叩く。
「やかましいわ」
「あっははははは」
大口開けて笑ってやがる。こんな尼さん世におるんかよ、と呆れてしまう。
「そやけど秀吉様から直接の御要請お有りしましたんやったら直ぐにも出ていかんとあきまへんね」
音羽がそう言う。
「もう秀吉様、京出て行ってもうとるんやろ?追い付くんかな」
「そら分からしまへんけどほっとく訳にもいきませんやろ?うちもう御手紙書いとりますねん、持って来ますよって御食事の方どうぞお召し上がっとってくださいね」
そう言うと音羽が立ち上がった。
「すまんな、色々と」
俺は立ち上がる音羽に声を掛けた。
「かましまへんよ」
そない言うと音羽は襖の戸を開けて部屋を出ていった。
「……ほんで尾張ってどこにあんの?」
俺は箸を手にして茶碗を持ちながらお香にそう尋ねた。
「ずっと東の地だよ、美濃の南だ」
「美濃も分からん」
「伊勢の東だ」
「伊勢も分からん」
「東の方の遠い地だよ、武蔵ほど遠くはないけどね、武蔵なんてさ尾張から更に東だ。三河通って遠江行ってさ……」
お香の長い話が始まった。
俺は話半分に彼女の話を耳にしながら味噌汁を口に運んだ。
大丈夫なんやろか、亀山に旅立つつもりやったのに突然秀吉様のおる地まで赴かなあかんようになるとは……
しかも目指すは、行った事も無い尾張と言う国へ。
「大丈夫だよ、京から尾張だと急げば三日、四日で着くべ?」
お香は呑気にそう言い味噌汁を口に運んどる。
大丈夫なんかと何度も思ってしまう。
田舎者の俺にとってそんな遠出はかなり不安に感じていた……




