32話 勝竜寺城
目が覚めた。
天正十年六月十日(西暦1582年6月29日)の朝や。
朝日が俺や陣内を照らす。
ほぼみんな寝ているが起きている連中もチラホラといる。
俺はそっと身を起こした。
ゴザも何もなく草の少し生えた地べたにそのままで寝ていたので若干背中と腰に負担がかかり痛みを感じる。
徳二ともう一人の名も知らん男はまだぐっすりと眠っとる。
俺はそっと立ち上がると外から丸見えの厠に行き小便をした。
そして陣の端にある大きな釜の元に歩み寄ったが早朝の為か誰もおらん。
釜の中も空やった。
腹減ったな……
一応夜にこの陣屋で飯は食ったんやけど汁物一杯だけであんまり腹の足しにならんかったしなぁ。
しゃあない、しばらく我慢するか……
その代わり外で槍の稽古でもしとくか……
俺は先程寝ていた元に戻り、地面に置いていた槍を掴むと陣屋の外へと向かっていった。
野原の一角に設けられた陣屋とは言えど幕などは張られていない。
ここは京の都の中。
少し離れた場所には民家がたくさん立ち並んどる。
俺はある程度陣から離れた場所で立ち止まった。
民家群が立ち並ぶ地ではなく、まだ野原と言うのか広野の一部分である。
俺は槍を携え目を閉ざした。
『お日様、観音様、今日も死なんが為に鍛練いたします。どうぞ御加護のほどお頼みもうします……』
そして目を開くと槍をぶるんぶるんと振り回し、槍の動きの確認をしていった。
安土でお結さんに教わった槍術の動きをただひたすらにお復習していった……
槍の訓練を終えて、再び寝床の元に戻り腰をおろしてぼぅーっとしていると徳二達が起き出した。
陣に設けられた釜の元にも人がポツポツと集まり出している
どうやら飯が配られだしとるようや。
俺らはそこに行き飯をもらうと他愛もない話をしながらそれを食らった。
昨日と同じ煮た野菜の入った汁であるが今朝は味噌も入っていた
しばらくしてから出発命令を下された。
出発言うても戦と言う訳じゃなくて、すぐそばの斎藤利三という殿様の宿泊する寺へ行くだけの話らしいが……
本能寺ほど広くはないが、それでも丹波亀山にある寺などに比べられば遥かに広いその寺を囲むようにして俺ら足軽隊は突っ立ち警護をさせられた。
これからどこかへ行くのか、ずっとここで寺の警護をするんか、どうなるのかも分からずにただ突っ立っとった。
隣には徳二ともう一人の男もおる。
未だに名も知らん男やけど興味が無いんでどうでも良かった。
「いつもここに来とったんや」
隣の徳二がそう言う。
「ずっとここで立ってたんか?」
「そうや、一日中や、日が暮れてもしばらくはな」
徳二は前を向いたままにそう言った。
周囲には古い民家が立ち並んどって人々も行き交っている。
……戦なんてしばらくは無いんやろうか。
しばらくはこんな警護をするだけの日々が続くんやろうか。
退屈なんが苦痛やけど死に直面する事がある訳ちゃうからそれはそれで良かったが……
「殿様よりの御命令である!!これより移動を致す!!これより移動を致す!!」
ぼぅーっと寺の周囲で突っ立っていた俺らに対し足軽大将の男がそう怒鳴り散らしている。
あちらこちらからも大将の男どもが移動の事を足軽兵にわめき散らしながら伝えている。
移動言うてどこにや……
「戦や」
隣の徳二が俺を見てそう呟いた。
……戦……
ずっと斎藤利三隊におった徳二は妙な異変に気付いたんかもしらん。
なぜなら俺も大将連中のただならぬ雰囲気を感じ取っていたからやった……
俺らは正午過ぎに京を発ち、南西方面へ向け歩かされていた。
俺らと共に斎藤利三様も帯同している。
ただどこへ向かってるんかは分からんかったが……
……おそらく戦やろう……
今から死に直面する戦が始まるんやろう。
隊に漂う妙な緊張感と空気で何となく分かる。
『兄貴、今どこおるんやろ、お互い死なんと亀山で会いたいもんや』
俺は歩きながら首から下げた龍涎香の入った巾着袋をそっと握った。
『……織田信長様……兄貴と俺が無事生きて帰れますように、お願い申し上げます!!』
そっと上空を眺めた。
空は曇っているがお日様が辛うじて見える。
……兄貴……
目が潤む……涙ぐんでしまう……
どうか無事亀山で顔会わせようや……
兄貴……
昼前に京を発ち、日が暮れる前に目的地にたどり着いた。
こじんまりとした御城や、勝竜寺城と言う御城。
京からそんなに離れとらん御城の側の狭い陣屋の中に今はおる。
一応幕は貼られとった。
陣屋はいくつも設けられとって、その内の一つに兵を詰め込んだと言う感じや、なんせ狭い。
ぎゅうぎゅう詰めと言う感じやけど横になられへんと言う程でもなかった。
「まちごうてこの隊来たの災難やったなぁ」
少しにやけながら徳二の知り合いの名も知らんアホ面男がそう言う。
「どの隊おっても一緒や、そんなもん」
俺は素っ気なくそう告げた。
「あんさんえらいごっつい服着とるけど亀山の衣装か?」
ニヤニヤとしながらアホ面がそう言う。
「……いや拾いもんや」
「拾うたんか?コジキか?コジキ!」
イラッ……と来る。
「じゃかあしいわアホ面が、シバくぞ阿呆が……」
俺はそいつを睨み付けそう言った。
「コジキ!コジキ!」
「なんやお前?」
俺はついムキになり立ち上がってしもうた。
「やめとけや」
徳二が俺を止める。
「お前も黙っとけや」
そしてアホ面もたしなめとる。
……クソ……隊の空気が硬直し、俺もそれに触発されてイライラとしてしまった。
「すまんな?悪気はないんや」
なぜか徳二が俺に謝っとる。
「ふぅ……お前は関係あらへんよ」
「戦前言うのみんな分かってもうとってなぁ、みんな気が立っとるんや」
徳二がそう呟く。
……確かにそうやな……
俺だけやなくみんな何らかのもんは感じとるんやろう……
「腹減ったな、飯はまだやろうか」
徳二が雰囲気を変える為なんかそう呟いた。
時刻はそろそろ夕方やろう。
確かに……やや空腹を感じる。
人が密集しとるからやや蒸し暑さも感じる。
そない思っとると……
「水浴びすんぞー!並んでこっち来いやぁー!!」
何やら陣内の奥でそんな叫び声が聞こえた。
……水浴び?戦前のこんな時に?
周りの連中が立ち上がっとる。
「行こうや」
徳二もそう言い立ち上がる。
どういう事か分からんが俺も立ち上がるとその声のする方に歩みより列に並んで待つ事にした。
前の方では足軽一人一人が裸になり桶で頭から水を掛けられとる。
なんやあれは……家畜か俺らは……
そやけど掛けられた奴らは涼しそうにし、満面の笑みを浮かべとる。
「しっかり身ぃ清めえよ!!」
男が俺にそう告げると水の入った桶を担ぎバシャッと俺の頭から冷や水を掛けてきた。
「うわっ!」
かなり冷たい水やけど……気持ちよかった。
なんて事はない、陣内にある井戸から組み上げた水を掛けているのである。
それでも気持ちは晴れやかになった。
次の徳二も水を掛けられ声をあげているが笑っている。
足軽兵の中に漂っていた重苦しく硬直したかのような空気はもうほぐされていた。
今は夜中、狭い陣内には足軽達の寝息が響いていた。
空には月の影が雲に隠れて見えた。
『今日は戦はあらへんかった……今日は死なんかった……』
はよ……戦終えて家に帰りたい。
いつまでもずっと兵でおるんはかなり負担がかかるのである。
それよりも、自分の体云々よりも家族に顔を会わせたい。
兄貴の無事を確認したい。
そして久に無事を伝えたかった。
いよいよ戦は始まるやろう……多分やけど……
そやけど俺は死なん。
明智光秀様よ、あんたの為に命は捧げられん。
俺は……危のうなったら引くからな。
逃げるからな。
それが、意味合いはちょっとちゃうやろうけど伊賀のお結さんの教えであるし、何より俺の本心がそれやった。
明智光秀さん……死ぬんなら一人で死んでくれ。
俺らを巻き込まんでくれ。