166話 心底
三雲新左衛門尉成持と名乗った新左は頭を軽く下げた後に、茫然とする俺をチラリと見てきた。
その目は凛とした、どこか気品を漂わせる眼差しをしている。
ハッと我に返った俺はあぐらをかくのを止め、直ぐに座り直し、床に両手を付いて深く頭を下げ平伏した。隣のお香も床に両手を付いて丁寧に深く頭を下げている。
「どうぞ、お顔お上げくださりませ、そないに固苦しゅうならはらんでも宜しいで」
「そ、そうですか」
俺は床に手をついたままそっと顔を上げた。
新左、いや新左衛門様は今までとは違った眼差しで俺を見詰めていたが、直ぐに元の愛想のある笑顔を浮かべた。
「そやけど……御殿様とは知らず随分と御無礼を」
「いやいや気にせんとっとくれやす、今はほんまに信楽で陶器こしらえとるだけの職人どすわ」
「ほやけど叔父貴はいずれ再び三雲家の家柄を取り戻すつもりなんや、それが口癖や」
佐助が誇らしげにそう言うとる。
「当てはまだあらしまへんけどな、いずれはな」
そう言いながら新左衛門様が笑みを浮かべる。
「そうですか、新左衛門様なら人望もお有りのようやし、御家の……」
「今まで通り新左でよろしおます」
「あ、あぁ……新左さんなら人望もありそうやし御家の復興など容易いと思いますよ」
俺がそう言うと新左は「ほうでっか、ほうでっか」と嬉しそうな表情を浮かべとった。
ほんまに人柄は良さそうやなぁ。
そう思いながら何気にチラリと右隣のお香を見るも彼女は口数少なく食もあんまり進んどらんかった。
「…………お香、しんどいか?」
「ううん……そんなんじゃあないよ……」
とは言うものの相変わらず覇気がない。
「どうした?」
「申し訳ございません……少々お席外します……」
お香は俺の声には答えず新左を見ず、呟くようにそう言うと、
「お庭にでも出とくよ……」
フラフラと立ち上がるなり広間を出ていった。
「…………」
お香……元気無いなぁ……大丈夫やろうか、心配になってくる。
「あ、そや、新左さんちょっとお伺いしたい事があるんですが」
「へぇ」
「あの……伊作でしたか」
「へぇ」
「あいつ仕留めた後に俺にや無うて、なぜお香のみに、あの……」
「…………」
「鬼畜やと言わはられたんですか?俺も山賊……木こり連中を数人討ったと言うのに」
「…………あのおなごさんは尼さんでっか?」
「あぁ、元です。もう仏門は抜けさせました」
「あのおなごさんは危ういどすなぁ、仏様やのうて阿修羅様にでもお仕えしとるように見受けられましたわ」
「阿修羅……」
「心の奥底に修羅がおりますなぁ」
「…………」
「木こり達を斬る様は阿修羅の如くでしたわ、人を斬る事になんら躊躇いをも感じとらん。言うたら悪いが鬼畜外道のそれそのものどすわ」
「…………」
俺は何も言えずうつ向いた。確かに人を斬る様は鬼神の如しと思っとったが…………鬼畜外道か……
「ほやけど俺!あないな刀の使い方今まで見た事あらへんわ!ごっつう速うて見えへんかったわて!」
佐助が目を輝かせてそう言うとる。部屋は薄暗いが何となく分かる。
少年特有の好奇心が湧いとるんやろう。
「鹿島新當流と言う剣術や、塚原卜伝言う剣術家の曾孫やねんお香は」
俺は佐助にそう言うた。
「ほうかえなぁ……それはそれは……」
新左が驚いとる。やっぱり塚原卜伝と言うお方は相当に名の知れた剣術家のようやったんやな、知らんかったの俺ぐらいちゃうんか……
「武蔵国から苦労して京に上って尼さんとして仏に仕えとったんですけどね」
「…………危うい、としかわしからはよう言えまへんわ」
危うい……か。
「そやけど俺も今日の木こりどもや、それに以前での戦や争い事でも何の躊躇いもなく人を討ってきました。そやから俺も鬼畜外道なのかもしれません」
「葛原さんはなんかちゃうなぁ」
「…………」
「仕方なしに、と言う風に見受けられましたで?決して自ら進んで人命奪っとるようには見えなんだ」
確かに俺は絶対死なんと言う気持ちのみで戦ってるからな。三法師様を御守りする時はちょっと違ったけど基本はそう言う心構えで戦ってきた。
「まぁわしも偉そうな事言える立場やおまへんさけえ、気にせんとっとくれやす」
「いえ……」
「佐助!!お前も気ぃつけえ!!」
新左が佐助を叱っとる。伊作を生け捕りにせず、あっさりと殺してしもうた事に対してか、或いはまだ十一の童っぱが人を殺めた事に対して激怒したのかどちらかやろう。
佐助はばつが悪そうにうつ向いてしもうた。
多分新左は両方に対して激怒したんやろう、そんな気がした。
「いや、佐助には助けられました。あん時あのまま佐助が鉄砲撃たんかったらお香も俺も伊作に殺されてました」
「……随分と変わり果ててましたなぁ……伊作は」
「…………」
「ほんまに羅刹、大嶽丸が伊作に宿ったかのように見受けられましたわ」
「大嶽丸……」
「ほれ、鈴鹿山来る途中で社に寄りましたやろ?あそこで祀られたはる大将軍坂上田村麻呂公が遥か昔に鈴鹿山で討った鬼神の事ですわ」
「……あぁ……」
「社詣でしとりまして宜しかったなぁ、大将軍様の御加護があったんや思いますわ」
そう言い新左がニコニコと微笑む。
確かにそうかもしれんが……それならその坂上田村麻呂と言う将軍様の御加護を一番に受けたんは、俺らやなくてまだほんの童っぱのこの佐助やろうなぁ。
なんせその大嶽丸の化身を討ったんは佐助なんやから……
その佐助は相変わらず右頬を腫らしながら、ぼーっと新左の横顔を見詰めとったが箸を手にすると再び白米やら焼き鯉をガツガツと食い始めた。
「ふぅ……」
と一息吐いた俺は、ふとチラリと隣の膳に視線を移した。
食事が半分程残っとる。
床にはいつも肌身離さず持っていたお香の正宗もある。
お香……
『……お前がしっかり面倒見たらんかい。お香さん、面倒事はみんなこいつに任せたらええからな……』
ふと旅立つ前日の兄貴の言葉が思い出された。
……しっかり面倒見たらんかい……か……
「…………ちょっと俺も庭にでも出ときますわ、どうぞ先に休んどってください」
俺は新左と佐助にそう言うと広間を出ていった。
旅籠の玄関を出ると既に周囲は薄暗くなり、やや冷えたそよ風が吹いている。
旅籠は通りに面しているが背の高い垣根に囲まれとって外の様子は見えんかった。旅籠の脇にある狭い庭へ出るとお香が一人縁側に腰掛けてぼーっとしとった。
お香の足元には藁のムシロが敷かれ、その上にジロがいる。
側には器もあり、何か食い散らかしたような跡が残ってるからジロの晩飯でも入ってたんやろう。
「…………」
「…………」
俺は無言でお香の左隣に腰を下ろした。お香はチラリと俺を確認しただけで何も言わん。
「今日は色々あったなぁ、そやけどもうここは伊勢国や、また新しい国や」
「…………」
「伊勢の次は尾張か、そん次は……なんやったっけ」
「……三河だよ」
「あぁ三河か、どんな国なんや?」
「特には何も……普通の国……」
「ふっ……」
「……はぁ……」
お香が小さな溜め息を吐いた。足元のジロは伏せたままじっとしとる。
「冷えへんか?ちょっとひんやりするなぁ」
「大丈夫……」
「指は何もせんかったらさほど痛くないわ、右手に力は入らんけどな」
「そう……」
「そやから今宵は太刀の鍛練は休まさせてくれ」
「うん……」
「ふっ、どうした?元気あらへんのう」
「…………」
「お前はようやったわ、殺しに掛かってきたんはあっちからや、まぁ挑発したんは俺やけどな」
「…………」
「あの伊作言う奴……強かったな、そやけどお前もめっちゃ強かったで」
「…………」
「あれは途中から人外になっとったからな、普通のもんなら討つのは困難やで、そやからあいつに追い詰められた事そないに気にせんでも……」
「気にしてないよ……」
「…………ああ、そうか」
「……ねぇ二郎」
「ん?」
「おら……二郎が怪我した後にどう見えた?」
「…………怪我した後?お前が賊相手に一人で正宗構えてた時か?」
「うん……」
「そうやなぁ、あぁまた鬼神と化したお香が出るんかなって思うたわ、米俵奪った盗賊どもやら小栗栖で徳二が連れてきよった連中相手に斬っとった時のようなな」
「……鬼畜かね……」
「ええ?」
「おら鬼畜かね」
新左の言葉気にしてんのかな……
「いや……鬼畜と言うかなんと言うか……」
「おら……なんも、なぁんも変わってないんだ、なぁんもさぁ、河越にいた頃からなぁんも」
「…………」
「父上の屋敷で人斬っちまった時もさぁ、姉はおらん顔見て悲鳴あげてたんだ」
「…………」
「そんで家に帰ってからも……母さんに言われちまったんだ」
「…………」
「鬼畜だっ……てさ」
「お香……」
「うちに鬼畜はいらねえ、塚原の名は汚せねえって言われてさ、坊主んなって仏様にお仕えしろって、二度と帰ってくんなって言われて勘当されちまったんだ」
「……ふぅぅ……」
「おら……改心しようと尼になって京で仏様にお仕えしてたんだけど……なぁんも変わってなかったんだ」
「…………」
「二郎、おらおめえさんと共にいる資格もないかもしんねぇね」
「何を言うとんねん」
「おらみたいな鬼畜道に生きる者が偉そうに太刀なんか教えちゃあ駄目なのかもしんねぇね」
「お香」
「自分で分かっちまったよ、あの山でまだまだ人を斬ってやると思った時におらやっぱり母さんの言うような鬼畜なんだってさぁ」
「…………」
「新左さんにも言われちまって……あぁ、おら昔っからなぁんも変わってない鬼畜なんだなって気付いちまったよ」
「そないな事は……」
「もういいんだ……二郎には迷惑掛けたくないし……どうしよかなって」
「何をやねん、何の迷惑や、阿呆な事抜かすな」
「…………」
「童が鬼畜になつくか?与介が鬼畜になつくか?あの三法師様が鬼畜になつくかよ」
「…………」
「俺が鬼畜になんか惚れるかい、阿呆な事抜かしとったらあかんぞ」
「…………」
「お前は…………なんやろ、自身の太刀の力を過信し過ぎとるんちゃうか?」
「…………」
「強くならなあかん強くならなあかんって心ん中でずっと自分を急かしながら太刀の鍛練してきたんちゃうか?」
「だっておら……」
「曾祖父の名を汚さんが為にな、塚原卜伝と言うお方がお前の中で大き過ぎたんちゃうか?」
「…………」
「新左さんですら知っとったわ、いや亀山の兄貴ですら知っとる程の偉大なお方や言うのは分かる。俺は知らんかったけど……」
「…………」
「その人の背中追い掛け過ぎて自分を追い込み過ぎてたんちゃうか?そやから心に余裕持てんようなっとんねん」
「…………」
「そやから人を斬って自身の強さを感じる事に満足してしまっとるんちゃうか?」
「……かも……しんねぇね……」
「そやから……俺が怪我した時、塚原卜伝の名に懸けて俺を守り抜くって気負いし過ぎたんやと思う」
「…………」
「元気出せや、とか、俺が守ったるからとかそんな簡単な言葉は俺は言わんぞ」
「うん……」
「そやけどお前が暴走した時にそれを止めるのは俺や、それが俺の役目や」
「ふふ……」
「今日は怪我してもうてお前を止められんかった。伊作にも全く太刀打ち出来んかったし、俺にも落ち度はあった」
「そんな事ないよ」
「そやけど鬼畜云々なんか個性の内のほんのほんの一部分や、俺でもブチ切れたら相手八つ裂きにしたるわって思うもん、それも鬼畜や言うたら鬼畜やん」
「そうだね」
「なぁジロ、お前もそう思うやろ」
俺は地面に伏せるジロの背中を擦った。するとジロはのそのそと身を起こし、俺に向かって座り直すと俺を見詰めながら尻尾を振りだした。
「ちゃんと飯食って精付けて、湯でも浴びてからしっかり寝るぞ、明日からは伊勢国の旅が始まるんやからな」
そう言い俺は縁側から庭に降りた。
「そうだね、分かった」
お香も俺に続いて縁側から庭に降りる。
「面倒事は全部俺に任せとったらええ、それだけや。あんま気負うなや?」
「ふふ、うん」
「まぁそう言う事で今宵はゆっくり休もうか、とりあえず太刀の鍛練は御休みと言う事で」
「今宵はね?明日の朝からは普通にやるよ?」
「ええ?朝からもう?」
「当たり前だよ、そう決めたんだからさ」
「ふんっ!まぁええわ、じゃあ又明日な?ジロ」
俺はそう言うとジロの頭を軽く撫でてから旅籠の玄関口へと向かいだした。ジロがワンッ!と一声上げている。
そやけど、お香の覇気が少し戻っただけでも良かったわ……
「二郎」
「ん?」
「おおきにね」
お香が京言葉でそう言う。
「ふんっ、ええよ」
俺らはそのまま旅籠の中へと戻っていった。
広間に戻ると新左と佐助の姿は無く、まだ少し食事の残る俺の膳と半分程が残るお香の膳が置かれていて使用人の女二人がちょうど新左と佐助の膳を片付けとった。
女が言うには二人は湯浴びの為に浴室へ行っているそうやった。
俺とお香は食事の続きをとりながら、ほんの少しの他愛もない会話をしていった。
時は夜更け、何の刻なんかは分からん。
俺ら四人はムシロでは無く綿の敷き布団にそれぞれ横たわっていた。
広間には既に眠りに落ちたであろう新左と佐助のイビキがグゥグゥと響き渡っている。
そんな中、俺は仰向けで暗い天井をじっと見詰めていた。
……色々とあった近江国の旅はこれにてようやく終わった。
しかし、これで安堵など出来る筈もない。
格好つけてお香に出来うる限りの声を掛けてやったつもりではいるが、それで彼女の心が完全に晴れたなどとは微塵も思っとらん。
彼女は確かに多くの人命を奪ったんや。それは塚原卜伝の背中を追い掛け過ぎたからやとか、鬼畜なんか個性の一部やから仕方のない事では済まされへん程の大罪や。勿論それは俺にも当てはまる事ではあるが。
しかしお香の場合は俺とは少しちゃう。
新左の言うように彼女の心の奥底には阿修羅のような邪なるものが存在する。それは彼女を間近で見続けた俺ならば尚更に分かる。
その豹変した姿のお香を止められずにただ傍観しとった自分の無力さが痛感される。
兄貴の言うようにお香をしっかりと面倒見る事など言葉では容易く言えるが、実際にそれを実現させるのはかなりの至難の業や。
しかし、それを実現させるのはこの世で俺しかおらん。俺以外の男にはそんな事出来んし俺がさせるつもりもない。
何故ならお香は俺の嫁となる女やからや。俺がお香に惚れ、嫁になってくれと頼み込んだからや。
そのお香を止めるのは俺しかおらん、それを実現させるにはやはり……より一層の心身の強さを求める事なのかもしれん。
それこそが俺に与えられた道なんかもしれん。宿命なんかもしれん。
ただ、今はまだその答えがはっきりとは分からん。
お香の中に眠る阿修羅をどう封じ込めるか、それを消し去る事など出来るんやろうか……
「ふぅぅぅ…………」
……伏せよ……
深く一息吐いた時、ふと鈴鹿峠で聞こえたあの時の心の内なる言葉が思い出された。
俺は胸にぶら下げた信長様の御守りの入った巾着袋をギュッと握り締めた。
……信長様よ……俺にはまだ何をどうすべきかなんて分からへん……どうぞ俺とお香を良き道へと御導き下さいませ……
新左と佐助のイビキが響き渡る暗い旅籠の天井を見詰め、心の中でそう祈ると、俺はしばらく眠りに就かずただ強く織田信長様の御守りを握り締め続けていた。
しかし、明日より伊勢国の新しい旅が始まるんや。
それに備え、そっと目を閉ざし、やがて俺は深い眠りに就いていった。