153話 鼠
屋敷と言うても清須や岐阜の屋敷程の広さは無く、音羽の部屋を出て廊下を進むとすぐに玄蔵の部屋に到着した。
室内には玄蔵以外誰もおらず、部屋の中心には膳二つが凡そ三尺(約1m)ぐらい間を空けて向かい合うように置かれとった。
玄蔵は既に膳の前に腰を下ろし、じっとしとる。
服装は正午前に会った時と同じ白い小袖の寝巻きやけど今回は上半身にもそれを羽織っている。しかし白い生地やから小袖の内側が透けて見えて傷から滲み出た赤い血の染みがいくつか確認出来た。
二つある窓の障子は開け放たれており心地よい風が何度か室内を通り抜けていくが、まだ彼に一言程度しか声を掛けておらず食事にも手をつけていなかったが為に少々居心地の悪さを感じた。
「二郎、まずはご無事で何よりやな」
やや重たい空気に包まれかけた静寂の部屋の中、玄蔵が先に本題へと入るであろう言葉を口にした。
「あぁ、それはお互い様やで、むしろ俺が言わなあかん言葉や」
俺がそう言うも玄蔵は何も言わん。そやけど正午前に感じた殺気などはもう無かった。
「そんな傷見させられたらな」
血の染みを見てそう言ったが玄蔵は黙ったまま膳に乗せられた徳利を手にすると自分の猪口に酒を注ぎ始めた。
俺はいただきますと一声発してから山芋の入った吸い物を口に運んだ。残念ながら豆腐の入った味噌汁ではなかったが腹が減っていたのでうまく感じる。
「二郎も飲まれよ、まずはお互いの無事を」
無事を祝して酒を飲むと言う事か。俺も自分で猪口に酒を注いだ。
では、と玄蔵が短く言うと猪口を口に運び出した。俺も猪口に満たされた酒を喉に流し込んだ。
「玄蔵さん……早速なんやけどな、どういう事なんや?傷だらけになった理由教えてくれや、音羽にも黙っとるらしいな」
「まぁ急くな二郎、俺は何者や?」
「何者?」
「そうや、俺は何者や?ふふふ」
玄蔵は静かに笑みを浮かべながら酒を口にした。彼は一体何を言うとるんやろうか。
俺も再び酒を口に運んだ。強い清酒の風味が口の中に広がっていく。
「何者言うて……何の話や、伊賀の忍び言うもんやろ?」
「そうや、俺は忍びの者や。元忍びやも知れんがなぁ。そやけどのう、抜け忍ではない。俺はまだ忍びの者として生きとるつもりや」
「あぁ……」
「雇い主であられる音羽様の御前では……少々言い難き事があってな」
「言いがたき事……」
なんやろう。
「俺は雇い主のご命令を優先せずに自身の意思を優先して動いてもうたんや」
「自身の?なんのこっちゃ」
「本来なら清須を発った後にさっさと小栗栖へ戻る事こそが忍びの仕事、雇い主のご命令を第一に考えてな」
「あぁ……音羽の言い付けより自分の用事を優先したって言う事か」
「早い話がそうや」
そう言うと玄蔵は再び徳利を手にし猪口に酒を注いどる。もしかして酒好きなんやろうか。
「そんでそれが何でそんな傷負う事になったんや」
大根の煮物を箸でほぐし口に運んだ後に俺は玄蔵にそう尋ねた。
彼はグビリと酒を一気に飲み干すと小さく息を吐いた。
「不届き者を討とうと思うたからや」
「不届き者って……音羽もそう聞いたって言うてたけど何者や」
「伊賀の敵、織田の鼠どもの事や」
そう言う彼の瞳の奥に静かに怒気と殺気が宿り出す。
「織田の鼠……」
「お前らと別れ、俺も清須を去ってから当初は真っ直ぐに山城のここ、小栗栖に戻るつもりでおった」
「…………」
俺は無言で彼の話を聞いた。
「お前らに叱られたからのう、ふふふ、俺が明智の残党どもの討伐を手伝わせろと無理を言うたあれや、清須でな」
「あぁ……あったな」
めっちゃ取り乱してたあれか、俺とお香で説得して何とか止めたんや。
「俺は冷静になり、早よう音羽様の元へ戻ろうと思ったんや。そやけど行きとは違い帰りはさほど急ぐ事も無かろうと桑名で寝泊まりする事にした。予想よりも早く清須に辿り着き用事を済ます事が出来たからや」
「…………」
「して、伊勢国の桑名は伊賀からはさほど遠くもない街、そこでのう……」
「あぁ」
「昔の知り合い二人に会うた、同郷の連中にな」
「伊賀の?」
「そうや、そいつらも俺と同じ忍びの者やった。港で船の荷物の積み下ろしの仕事をやっとったなぁ」
そう言う玄蔵の表情はやや穏やかに変化していった。
「晩にそいつらと飯を共にした時にな、先程言うた織田の鼠どもの事を耳にした」
「…………」
鼠どもってなんやろう。明智の残党みたいなもんなんやろうか。俺には全く分からんかった。
「信長が倒れ、織田に支配されとった伊賀は混乱しとるらしい。織田に飼われとった鼠どもも今は野放し、奴等を討つならば今こそ好機とな」
「あぁ……」
「各地に散った同志達にも呼び掛けとったらしいわ、伊賀に戻り奴等を討つべしと」
「奴等って鼠とか言うもんの事か?もしかして……伊賀を滅ぼした織田家の大名達を討てって事か?それはさすがに無謀やろ」
「ふっ、酒が回りおったか二郎、さすがにそんな連中を相手には出来ん。それに伊賀は滅ぶまでは行っておらんわ」
そう言い玄蔵が大根の煮物を口にしとる。
「ほんならなんや織田の鼠って」
「裏切り者どもの事や、織田に餌付けされた鼠ぞ、伊賀の仇の者ぞ」
玄蔵の目は若干見開かれ俺をじっと見詰めとる。ちょっと怖いな……
「そ、そうなんか」
「福地伊予守宗隆と耳須弥次郎と言う名の鼠どもや」
「…………」
「両者ともに伊賀の者や、それやのに奴等は織田に餌付けされ裏切りを起こした鼠畜生や……」
玄蔵は静かに話すが相当強い怒りに包まれとる。話し掛けるのが恐ろしい程に。
「耳須は既に死んだらしいが福地はまだのうのうと伊賀の地で生きておる。俺は小栗栖へ戻るよりも伊賀へ帰る事を選んだんや」
「そうか」
「音羽様には面目無いが俺は無性に伊賀に帰りたくなった。福地を殺す機会があるのならばこの命捨てても構わんと覚悟すらしたわ」
「…………」
「伊賀には俺のような各地に散った者達が集まっとった、と言うて百人もおらずせいぜい五十人がおるかおらんか程度やったがな」
そう言うと玄蔵は再び猪口に酒を注ぎだした。怪我人がそないに飲んで大丈夫なんかいな。
「そやけど俺らは夜な夜な策を練り、月が出ておらんある日の夜更けに福地の住まう館を襲ったんや」
「あぁ……」
「そやけど福地方は俺らの存在に気付いとったようで武装した兵を幾人も備えとった」
「…………」
「相手の方が多勢やったが俺は福地の……福地宗隆の首を獲らんが為に!懸命になり相手を斬り続けたわ!」
当時を思い出したのか玄蔵はかなり興奮をしとる。心なしか小袖の下の血の色がやや濃くなっとる気がした。
「しかしのう、奴は城に逃げ込みそのまま何処かの地へと去っていってしもうたんや」
残念そうにそう言うと玄蔵は酒を一気に飲み干した。
「……そうか、その傷はその時に出来たもんか」
「そうや、仇の鼠を逃し傷だけを負うてもうた。不名誉な傷やのう、ふふふ」
「…………」
俺には何も言えん。口出しする立場ではないと思い酒を口に運ぶと深い一息を吐いた。
「俺から話せるのはここまでや、こんな話を音羽様にはとても伝えられん。そやからお前と二人で夕飯を頂きたいとお頼みした訳や」
「そうか、分かった。そやけど何でお香もあかんかったん?」
「あいつも呼ぶと俺が相当妙な隠し事でもしておるんちゃうかと音羽様も気になさられるやろう。それに音羽様にすぐに話しそうやしのう、あの娘ならばな」
そう言うと玄蔵は微笑んだ。確かにそうかもしれんな、俺もふっと吹き出して笑みを浮かべた。
「飲み過ぎたようやな、酒が切れたわ」
玄蔵は徳利を手にし猪口に酒を注ごうとするも酒は殆んど出てこないでいる。
「怪我人の癖に飲み過ぎやろ、まぁええわ俺の分全部やるわ」
そう言うと俺は徳利を手に取って立ち上がり玄蔵の持つ猪口に酌をした。そして彼の膳に俺の徳利を置くと元の席に戻った。
「すまんな、そやけど今宵はよう眠れそうや」
彼は満足げにそう言い酒を口に運んどる。俺はそんな玄蔵を見ながらふと思った。
伊賀での事、彼にとっては口惜しい出来事やったかもしれん。そやけど俺には彼の心の内に広がっとった深い闇の一部分が掻き消され、むしろどこか吹っ切れたんちゃうかと、そう言う風に見て取れた。
「それは玄蔵さんが伊賀で仇を追放したからなんか俺に詳しく胸の内を明かしたからなんかは分からんけどな」
「へぇ……」
今は俺とお香に割り当てられた部屋にいた。室内は既に暗くなっており俺らは敷かれた布団に横たわっていた。
「と言う訳で音羽には話さんように」
「話さないよ、それよりあんたの方が口軽いでねぇの、私にベラベラと話してさ」
「ふっ、お前がしつこく聞いてくるからや。それに玄蔵さんも分かっての事やろう、俺がお香になら話すやろうとな。まぁいずれ本人の口から音羽に伝えるやろう、傷の事と伊賀での出来事を」
「どうなんだろうね」
「さて夜も更けてきたしもう寝るか、明日は亀山の実家や」
「そうだね、明日には着くの?」
「朝早ように出れば日が暮れる前には着くと思う」
俺はそう言うと暗い天井を見詰めた。
亀山の家族心配しとるやろうな。京の外れの小栗栖に槍を返しに行くだけやと言って出ていったのにまさか尾張や美濃まで行く事になったんやから。かなりの日数が経ってるから皆かなり心配しとるはずや。
「ふぅぅ……」
俺はしばらく家族の事をあれこれと考えた後に一息吐くと目を閉ざした。
そしてそのまま深い眠りに就いていった……